3ー5
脳の部分的変質を起因とした特殊な魔法能力の発現。
それが、兄妹の育った機関の研究テーマなのだという。
「つまり頭の中を弄くる。当てずっぽうにな」
自身のこめかみにぐりぐりと指を押し当てながら、フランツが言う。アンリエッタが絶句して隣のルウィヒとレームを見やると、少女は皿に残ったクリームを丹念にスプーンで拭っていたのから顔を上げ、首を傾げた。
家から程近く、カストル地区に位置する居酒屋の、その軒先。昼をとっくに過ぎた中途半端な時間なせいか、オーニングを広げて通りのきわまで設置された屋外席は閑散としていた。客入りはせいぜい、務め人らしき男性が一人、離れた卓でワインと軽食を楽しむ程度のものだ。兄妹についての話をするべくその一角に着席する四人は、フランツを向かいにレーム、ルウィヒ、アンリエッタと並んで座る。
「まあ弄くるって言っても実際に頭を切り開くわけじゃない。俺もよく知らんが、魔法的手法で施術するとあったな」
傷などどこかにあっただろうかと二人の頭を眺めていたアンリエッタに、フランツから補足が入る。向かいの男のエスプレッソにちらちらと興味を惹かれていたレームがこちらを見返し、口を開いた。
「この人が言ってることは、たぶん本当だよ。アンリエッタにはもう話したけど、頭にヌルヌルしたのを塗って、何か棒みたいなものを当てる」
実験と称した活動について話された中には、確かにそんな話があった。膏薬や器具と思しきものを用いているのは、たぶん珪石粉や鉛インクの場合と同じで、霊素を効率良く人体に影響させるためだ。
「頭は剃らないのか? 邪魔になると思うんだが」
フランツが訊ねると、レームは首を振る。
「ずっと前にはそうしてた。でも途中からはしなくなった」
おそらく症状が発現した段階で、施術が別のものに変わるのだろう。
――症状。
「レームの場合は痛みを感じなくなった時から。ルウィヒの方は、喋ることができなくなった時から、か」
レームが頷く。ふとスプーンの手が止まったルウィヒの長い髪を、アンリエッタは撫でてやる。
痛覚と発話。それが、実験により兄妹の身体から失われた機能だった。あの肩の怪我にも関わらずレームがしばらく行動できていたのは、痛みの喪失によるところが大きかったらしい。
「だが、そういう被験体が出たというのは元々報告にあった。問題なのは……」
言いながら、フランツはルウィヒの方を見る。
「四年分の報告の中で、新たに魔法が発現した事例はなかったことだ。少なくとも、この嬢ちゃんみたいにはっきりとした能力は一切、な」
ルウィヒは言葉を話すことができない。発声はできるし、文字は書ける。場合によっては歌うことすらできる。けれども意味の伴った言葉を発しようとした時だと、駄目だ。まるで舌の上ですげ変わったみたいに、声は意図とは違う言葉を鳴らす。
その欠落を埋め合わせるように、ルウィヒには触れ合った者と意思を交信する力がある。おそらくは霊素を媒介に思考のやり取りを可能にする、れっきとした魔法だ。おとぎ話の中でならいざ知らず、弱い光源を作ったり、ほのかな熱源となったり、(逆におびき寄せてしまう場合もあるが)虫や獣を散らしたり、とかいった現象が魔法のもたらせる精々のところである一方で、ルウィヒのそれには一線を画する性能があると言って良い。
「隠していた、ということでしょうか」
「ああ。あるいは報告する必要がなかった」
「?」
意味を飲み込めず眉をひそめたアンリエッタに、フランツは答える。
「マティルド霊素研究所は帝国軍の出資で活動していたんだが、今から二年前、生産性なしとして支援を打ち切られている。だから奴らがその後に成功例を出していたとしても、軍に報告する義理はない」
「つまり、独自に研究を続けていた?」
「そうだとしたら殊勝なんだが、まあ無理筋だ。資金的には国にべったりな機関だったし、そうでなくとも組織的な研究を二年も続けるなんざ簡単なことじゃない。どこかの物好きが金を出してやらんことにはな」
「それは」
誰かと問おうとしたアンリエッタに、フランツが言う。
「ハーヴェル――要は、仮想敵国だ」
現在隣国ヴィエルンと交戦中の、あの東国ハーヴェルだ。軍事に疎いアンリエッタだが、すぐ隣で戦火を広げているあの侵略国と此国との緊張が高まっていることは、言われずともわかる。もともと放棄したものだったとはいえ、かつての研究がそちらに売り渡されているのだとすれば、軍の心中も穏やかではないだろう。
「まあ今のところ、確証はないがね。しかしあんたの話によると、坊主はイスタ語よりもヴィエルン語の方が得意だっていうじゃないか。意図して教育しないとそうはならんだろ」
ヴィエルン語はハーヴェルにおいても公用語として使われている。こと読み書きにあっては、レームの場合イスタ語よりも習熟度が高い。特別に数カ国の言語を学習させられていたらしいルウィヒについては例外になるが、機関の子供たちにはヴィエルン語の習得が優先されていたようだ。ハーヴェルへ引き渡されることを前提にしていたのだとすれば、その教育の偏りは、むしろ自然なものと言える。
機関と東国の協力関係。
「その真偽を確かめることがあなたの仕事、ということですか?」
問えば、頷きが返る。
「そうだった場合に機関を解体することも含めて、な」
フランツの答えに、アンリエッタは深く息を吸う。解体。それは、その言葉は、一体どんな始末の付け方を意図しているのだろう?
「この子たちは、どうなりますか。それに研究所には他にも子どもがいるんでしょう。その子たちは」
「全部なかったことにしたいところだが、ウチはまあまあ人道的でね。保護すべきと見なす対象がいれば、何らか対応はする予定だ」
そう言って、フランツは立てた人差し指をこちらの方へ傾ける。
「で、だ。その時は、あんたの力を借りたい」
「……私の?」
「公書士だって言ってたよな。関係者の身分証明をしたい。こいつらもそうだが、たぶんろくに身許を辿れないようなのばかりだからな」
曰く、上司の伝手を頼れないでもないらしいが、現地手配で済むのが一番なのだという。アンリエッタのように既に事態の関係者で、かつ同情的でもある人物がいるならばそちらを頼りたいと、フランツは話す。
「わかりました。私で良ければお引き受け致します」
彼の説明に耳を傾けた末、アンリエッタはそのように答えた。自分にできることなどはなさそうに感じていた所だったので、申し出にはむしろ、「渡りに船」という感触すら持つ。
「……」
だというのに、である。当のフランツは頭を掻いて、返されたのは晴れ晴れとしない、何とも形容しがたい表情だった。
「えらく簡単に答えるがね、ほとんど捏造みたいな仕事だぞ」
「構いません」
「なりたてなんだろ。経歴にも傷が付きかねない」
「助けになるのなら、それが一番ですから」
まっすぐ視線を返して答えると、目を細めてこちらを見返していたフランツが、どこか途方に暮れる様子で天を仰ぐ。
「こっちにとっちゃそりゃ、その方が都合は良いんだが……」
煮え切らなく呟いて、再びフランツはこちらへ目をやった。机に肘を突き、潜り込むように半身を乗り出す。
「なあ、あんたは、危機感が足りないんじゃないのか。今の話を聞けばのっぴきならない事情に立ち合っちまったんだってことはわかるはずだろ。可愛らしい偽証を企む程度じゃ済まなくなってる、ってよ」
フランツの指摘は、正しいように思われた。……が、それが彼の口から出る不可解な状況に、アンリエッタは少々戸惑う。思えば先ほどから、目の前の男は承諾を撤回されかねない事実ばかり話して聞かせていた。
「子どものことを助けたい。ご立派だ。だがな、どこの誰もあんたに聖人であることを強いてるわけじゃない。前の時にも思ったことだが、あんたはもっと、自分の身の安全について考えるべきだろ」
「それは……確かに、そうかもしれませんが」
応じたものの、心に響いていないと見なされたのかフランツの顔はわずかに憮然とした。椅子の背にもたれかかって通りを眺め、言葉を続ける。
「今はだいぶ少なくしたがね、ほんの少し前はコイツらを追ってる奴らがうじゃうじゃいた。所詮ただのごろつきだが、あんたのことくらい、抵抗なく始末できる連中だ……」
批判が続く。
アンリエッタは、ふと隣からの視線を感じ取る。
横目に見やればルウィヒがこちらを向いて、小さな手はおっかなびっくりと、アンリエッタの膝の上でさまよう。何か話したいのかと手を握ると、びっくりした様子の瞳がこちらを見上げた。
視線を合わせ、ルウィヒの言葉を待つ。
――――。
そんなふうに、声は聴かれない。アンリエッタの頭の中では何か膜に包まれたみたいな空白が感触を増していて、そうかこれが遠慮の形なのかもと一人納得する。奥のレームを見やった。彼もまた妹と同じように所在なさげに目を伏せ、ルウィヒの方を見下ろしている。
……分厚い空気を隔てたように感じるその表情が、どうも、アンリエッタには看過し難い。
――ガキ共を抱えてるだけで襲われかねなかったってのに。あんたは。
フランツの言葉が途切れる。
続きが聞こえなかったのは、既に耳を傾けていないことを悟られたからだろう。
ルウィヒの両耳に手を添えて塞ぐ、アンリエッタを見たから。
「聞かなくって、大丈夫」
そう告げる。アンリエッタは、じっと少女の瞳を見つめる。レームの方にも視線を配り、目を細めて笑いかけた。
「ね。あなたたちが、そんなことを気にする必要なんてないの」
ルウィヒがこちらを見上げる。
どこか、縋りつかれるような眼差しがある。
細い指がアンリエッタの手に重なって、
ほんとに?
と、おぼろげな響きの問い掛けを届けてくる。頷いてみせると握ってくる指の力が、ぎゅっと強くなった。呆けたふうに口を半開きにしたレームにもう一度微笑みかけて、それからアンリエッタは卓の向かいへ目を戻した。
「フランツさん、――ごめんなさい、私のために仰って頂いたんですよね」
どこかやきもきするようにも聞こえた彼の言葉は、きっとそういうことなのだろう。
「でもそれは……私のことは、本当にいいんです」
瞳を伏せて言った答えには、やがて深いため息が返される。
「いや――俺だな、つい魔が差した。持ちかけた立場で何を言ってんだって話だ」
フランツは気を取り直す様子で頭をかくと、また軽く身を乗り出した。
「もう一つ、頼みたいことがある」
兄妹とアンリエッタのことを順に見つつ、言う。
「二人の身柄だが、今しばらく任せたい。あんたのとこでもう懐いてるみたいだし、その方が手間が省ける」
「それは」
弾かれたように声を返したアンリエッタは隣へ向き直り、同様にこちらに向く二人のことを見た。
「それこそ、この子達が私で良ければ――」
言って、反応を見る間もなく、どんとルウィヒの頭がこちらにぶつかる。胸を襲ったいきなりの衝撃にアンリエッタは軽く咳き込むと、しがみついてくる少女の髪に触れた。
「アンリエッタじゃないと、イヤだって」
いたずらっぽい笑みでレームが言って、面白くなさそうにルウィヒが呻く。
「まずいくるぶし」
勝手なこと言わないで。
これくらい密着すると筒抜けになるのか、不満げな呟きにはそんな声が重なる。
「今レームに、勝手に言わないでって」
教えるの、だめ。
ルウィヒの文句をレームへ伝えようとして、拒否される。アンリエッタの腕の中で身じろぎをした少女はこちらを見上げ、他にやりようがなさそうにじっと見つめた。唇を引き結び、かと思えば面白くなさそうにへの字に曲げ、やがて俯いて百面相を隠す。ほつれた毛糸玉みたいにあやふやな感触が頭に浮かぶ。
アンリエッタじゃないと、だめ。
……さっき怒られたので、内容を口には出さないが。
絞り出したらしい表現はレームの指摘と大差なく、直前に目にした葛藤も相まってアンリエッタは軽く笑ってしまう。その反応でわかったのだろう、レームがにやりと唇を歪めた。
「図星だ」
放たれたそのからかいで、ルウィヒは今度こそ後ろへ振り返る。兄に向かって腕を伸ばし、実力行使を開始した。