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公書士アンリエッタ 〜いつかペンと制度の力で〜  作者: ke
第3話「子どもたちについて」
11/33

3-1

 ――別に、お前のやりたいことに反対するつもりは毛頭ない。

 少し前に、聞いた言葉だ。

 マティルドまで来る途中、帝都に立ち寄った時のこと。

 ――だがね。いくら法律や役所仕事のことを良く知ってるからって、それでお袋のことを体良くあしらうってのは少なくとも、お前が目指しているらしい公正さとか誠実さからは外れるやり方なんじゃないのか?

 実家を出て来た折、久々に対面した兄が寄越したのはそんな批判だった。ひと月近く経った今でも、気付けばそれはアンリエッタの脳裏にちらついている。



 二つ並びのなだらかな山に跨り、糸を作る。それがアンリエッタの生家である、ベルジェ家の昔からの生業だ。

 めん羊の牧畜と綿花の栽培、紡績、服飾に加えて細々とした農業に勤しんできた。数代以前、しがない羊飼いの家の次男が交易で一旗上げ領主から現在の土地を購入したことが、その始まりであるという。アンリエッタもまたその一族の娘として御多分に漏れず、丘にばらばらと広がる羊毛の群れや、噴き出す安全弁と綿を巻き取るスピンドルの擦過音と、草っぽい染料の臭いに囲まれて育った。

 生まれた土地を離れたのは、公書士試験に合格した翌年――春が訪れ、二十一歳の誕生日が目前に迫った頃のことである。

 資格を取得した後は見習いとして、熟練者の下で修練を積む。それが公書士が通る一般的な道筋で、だから試験を受けて合格をしたアンリエッタが実家を出て、恐らくは帝都で働く予定だということは、元々家族にも通知してあることだった。その事実を改めて耳にした彼女の母は始め眉をひそめたが、と言って何か口うるさく文句を付けてくるわけでもなかった。アンリエッタは家の手伝いをする傍ら、就職のために公書士協会に相談したり、方々の公書士宛ての手紙を作成する日々を送って、けれどもそんな中、一悶着がある。

 その日、アンリエッタが家の敷地の川沿いを上って母屋に戻ってきた時、母が見せた表情には戸惑いと憤りがあった。

「ねえちょっと、何故そんなにくたびれているんですか。まだ日も高くない内から……」

 朝っぱらに理由も言わず戻れというので牧場から帰ってみれば、寄越されたのはそのような文句である。アンリエッタは寝不足になった眉根をじろりと寄せ、小言を続けるマルタ()の顔を眺める。

「書き物をしてくるという話だったじゃないですか、大体、どうしてわざわざあちらの小屋で」

「してたよ、ちゃんと、書類作り。羊の赤ちゃんを待ちわびつつね」

 正確には就活用の書類の他に翻訳のアルバイトの作業も進めていたわけだが、わざわざ解説はしない。

 マルタは繰り返し瞬きをして、「赤ちゃん?」と言葉を復唱する。

「産気付いているのが一頭いるの。今日か、明日か――」

「じゃ寝てないって言うの!」

 母の声が、きりきりと甲高い。

「何故? ブラン達に任せれば良いでしょうに」

「おじさんおばさんも昔みたいに元気じゃないし、若い人たちだって普段の仕事があるんだよ。私なら昼間寝られるから、代わりにやらせてもらったの」

 そして夜が明け、めん羊達のエサの仕度を手伝い終えた所で、呼び出しがある旨を聞いたのである。用事を終えた後はとっぷりとその身をベッドへ捧げようと目論んでいたアンリエッタが渋々と出向いてみれば、母から寄越されたのはいかにも癇に障る絶句の表情だった。

 こんなの、今に始まったことじゃないのに。

 嘆く調子で漏らした言葉には一切取り合わず、マルタは深くため息をついてみせた。

「だから、そんなに羊臭いのね」

 敷地一帯を漂う匂いにさしたる差はなかろうに、そんなことを言う。

「ねえ。新しい人はまだ来ないの? 私ももうすぐ出て行くんだから、早めに仕事がわかる人を増やさないと」

 こちらへの文句ばかり寄越す母を前に、アンリエッタは胸に渦巻いた不満の一端を口にする。口答えを生意気にでも思っているのか、マルタは呆れた様子で息を吸った。

「また、一人前に仕事ができるような文句を言うんだから。頭でっかちでいつまでも手の遅いあなたがいなくなって、それがどれだけの事件になるって言うんですか」

「その手の遅い私が! 毎度右も左もわからない新人さんの世話をしてるの、知ってるよね?」

「そんなことはここに数年も暮らしている人なら誰にでもできることです。いちいちあなたが偉そうに案じることではありません」

 偉そうにとはまた、一体どちらがと問い質したくなる言葉である。大体、「そんなこと」と軽んじる母自体、人に教えることが不得手であることをアンリエッタはよく知っていた。これまで幾度、彼女のした説明を自分が解説し直して来たことかと喉から出かかったが、「そんなことより」と、続く言葉はあちらの方が早かった。

「お風呂を用意してありますから、さっさと洗ってきなさい」

「……お風呂?」

 今度はアンリエッタが復唱する番だった。母屋には確かに手作りの浴槽があり、紡績場から蒸気管を引いてあるので湯を作ることも容易いが、それでも朝っぱらから入浴を勧められるのはあまりないことだ。

 怪訝に眉を寄せたアンリエッタに、母が理由を告げる。

「お客様が来るのよ。そんな恰好では前に出せません」

「別に私が出て行く必要なんて」

「いいから。早く。着替えは私が準備します」

 有無を言わせぬ口調で急かされて、アンリエッタは湯浴みへ向かう。

 せっかくなのでじっくりと浴槽へ浸ってみれば眠気も引いた。上がって体を拭き、干したばかりらしい他所行きのアフタヌーンドレスに袖を通した所で、またも首を捻った。

「ねえ、これ、誰が来るの」

 化粧を拒否したアンリエッタを無視して白粉を叩くマルタに、訊ねる。

「ルグランさんよ」

 なあんだ。

 と思うアンリエッタである。不相応なおめかしに身構えていたが、ルグランと言えば十年近く前から懇意にしている商人だ。歳の頃は三十五、一代で成り上がった織物商で、中産階級以上の富裕層向けにベルジェ家の製品を卸している。大方、生産管理の傍ら一点物の衣服を作る母の新作を見に来た、といったところだろう。わざわざアンリエッタに同席をさせるのはつまり、公書士見習いとして実家を出るに当たって、顔馴染みの上客へ不義理がないよう挨拶を、という考えか。

 面会の趣旨に合点のいったアンリエッタは結わえた髪にレースのリボンまで添えた格好で、意気揚々と母屋の応接室へと踏み入った。

 ……そしてそれから、短い内に出て行く。

「待ちなさい! エッタ!」

 がちゃりと、勢いよく応接室の扉を開いたのとマルタの声が重なった。どうも母の目論見に巻き込まれたらしいルグラン氏に申し訳なく一瞥と目礼を送ると、アンリエッタは苛立ちのままに床を踏み締め、その場を辞去する。

 結婚についての話し合い。それが、此度の面会の主題であった。事前の通達もなく他の親族の同席もない辺り、まず間違いなくマルタの独断専行だ。

 話の顛末は次のようになる――

「あなたが帝都に行くに当たって、こちらのルグランさんの所であればどうかと思ったんです」

 それが、三人顔を合わせてからの挨拶もそこそこに、マルタが切り出した言葉だった。「どうか」という言葉の意味合いが最初アンリエッタには飲み込めなかったが、「嫁ぎ先としてどうか」というのが母の意図だ。根回しを疎かにする前のめりさを見せる母と比べるとルグランは冷静で、アンリエッタの意思について聞いた。一切関知していない話のわけで、当然、承服できない。知人を余計なことに巻き込んだマルタを責めて、言い合いになる。

 そうしてしまいに、部屋を出て来てしまったというわけだった。

 荒々しく自室へ押し入ったアンリエッタは耳の後ろで揺れて鬱陶しいリボンを横に放って、ベッドへ倒れ込む。ドレスの方も脱ぎ去ってしまいたかったが、それも落ち着いて出来ないくらい面倒な気分だった。ぐだぐだと布団の上で身じろぎをして、徹夜だったのもあってその内に寝入ってしまう。

「また、そんな格好で寝て」

 呆れるような叱るような声が聞こえて、目を覚ました。寝起きで据わった視線を向ければそこには今し方部屋に入って来たらしいマルタがいて、彼女はベッドの縁に引っかかっていたリボンを取り上げ、丁寧に畳んでいる。

 時間が経っていた。戸棚の上、座ったくまのぬいぐるみと並ぶ置き時計の針は二時を指して、三時間ほど眠っていたらしいと知る。

「ルグランさんは、お帰りになられましたよ」

 こちらが起きたことに気が付いたマルタが、やや冷たい声で告げる。母は部屋の椅子に座った体をこちらへ向けて、まっすぐに視線を注いだ。

「何が気に入らなかったんです?」

 訊かれて、わっと言葉の断片が頭を駆け巡ったが、それらを上手く組み上げることはできなかった。アンリエッタは母から目を逸らして、言う。

「だって、歳が離れ過ぎて」

「つまりルグランさんに不満が?」

「えっと……」

 そう言われたもののそういうわけでもなかったので、言葉を詰まらせる。年齢差にしたってあり得ないという程ではあるまいと、アンリエッタも自分で思う。

「ルグランさんは何も、怒るということはしなかったんですよ」

 嗜める口調でそう知らせてくる。

「知った関係で、寛大で、仕事ができて、家の助けにもなりそうで。きっとあなたがしたい仕事だって尊重する方のはずでしょう。他に何が必要なんです? あなたは、結婚のことなんて深くこだわってはいないと思っていたのに」

「……」

 母の分析に間違いはない。アンリエッタの気持ちにしたって、彼女は正しく言い当てている。こちらがじっと黙って眺めたのを抗議を含んだものと思ったのか、「だって」とマルタは言葉を続けた。

「色恋に関わることに、あなたはずっと前から興味を持たないじゃないですか。それこそ結婚なんて私から働きかけない限りは」

「わかったから」

 言い募るマルタを遮って、アンリエッタは今度こそ布団に包まる。

「わかったから、ちゃんと、将来のことも考えるから。今日の話はもうよして」

 分厚い布の下で、自身の声はいつもよりも跳ね返って聴こえた。隔てた所からマルタが、「考える」と復唱する。

「また、妙なところに飛んでいかないといいけど」

 妙なところ。自分が公書士になることだって、この母からしてみれば妙なことなのだ。嫌な感情が胸に迫り来るのを感じながら、マルタの退室する気配を読み取る。キイィ、と扉から音が響く。

「服はちゃんと着替えて。それと食事、あなたの分は取り置いてあります。気が向いた時にでも食べなさい」

 放っておくとすぐ粗末なもので済ませるんだから。

 嘆く調子で独りごちつつ、床を踏む音が去っていく。アンリエッタは布団を強く握り締めると、それから深くため息をついた。どっと、背中には脱力感があった。

 ルグランは、帝都に腰を据えて商いをする商人だ。帝都で働けば公書士として文句のない経験と実績を積むことができるというのは、今さら言うまでもない。彼自身、おそらくは有力な公書士への口も利くだろうし、一緒になれば少なくとも生活は安定する。つまり縁談は、アンリエッタにとって確実なメリットのあることだった。今までそういう対象として見たことがないにせよ、ルグラン個人に悪い感情を抱いているというわけでもない。己の領域が保証されるのであれば、アンリエッタは別に、結婚してしまったって構わなかった。だけどもそれは同時に、自分が母の影響下に入ってしまう、ということでもある。

 家族に対する情は当然あるし、実家を出たいがばかりに公書士を目指したということも、無論なかったが。そうは言ってもアンリエッタの意向や希望に何かと対立しがちなマルタと暮らすのには、窮屈な思いがあった。だから、急に身辺を囲い込むようなやり方でアンリエッタを管理下に置こうとした母の手口に、強い拒否感を覚えてしまった。

 その相入れなさは感情の波の和らいだ今も、続いている。否応なしに、アンリエッタにその考えを呼び起こさせる。

 二十代の最初の歳の終わり、誕生日を目前に控えた時のことだった。あらゆる手続きを母に内密に済ませたアンリエッタは、親しく思う人たちに何通かの手紙だけ残し、実家を飛び出た。

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