6、屋敷
屋敷の中はそれほど広くなかった。とは言っても、多少歩き回れるくらいの広さはあり、ヘーゼルに支えてもらいながらメイベルは窓べりを歩いた。
この屋敷の表は通りに面しているが、裏側には小さな庭が広がっている。寝たきりの間、さんざん顔を出すなと言われていたので、太陽の光を見れたのはうれしかった。なにより嵐の吹き荒れる丘で育ったメイベルにとって、青い空は新鮮だった。嵐の激しい美しさとはちがう。どこか胸の底がつき抜けるような、目を見張るような、経験したことのないうつくしさがあった。
「私は嵐が好きだったけど、太陽の光もいいわね」
窓から青い空を見上げ、メイベルはつぶやいた。ヘーゼルはかすかに目を見張ってから答えた。
「……そうでしたね。メイベルさまは年中嵐が吹く丘で育ったとか」
「ええ。〈嵐が丘〉はそういうところだもの」
メイベルは〈嵐が丘〉の家と祖母を思い出し、悲しくなった。祖母ならきっと、大丈夫だ。丘を降りるか何かしているだろう。
「想像がつきませんね。晴れた日がないというのは」
「年に1回や2回はあったわ。風だけの日もあったけれど、そういうときは必ず祖母に外に連れ出されたの」
「散歩ですか」
「いいえ、あれは“叩き込み”と言ったほうがいいでしょうね」
メイベルは遠い目をした。
〈嵐が丘〉での風の日は、暴風の日だ。体が飛ばされそうになりながら、何度も外に連れ出されては、丘の隅から隅を歩かされた。そのたびにこれの花の名前はなんだとか、草の名前はなんだとか、天気の読み方だとかを教え込まれた。覚えるまで厳しくしつけられた。
祖母にしつけられたのは草や花木の名前だけではない。読み書きや外の知識、作法から何から、将来のためだと言われて詰め込まれてきた。
エイマン家という、国で最も大きな商家の名を知っていたのもそのためだ。丘と、そのふもとの小さな町しか知らなかったメイベルが外に出てあまり驚かないのも、事前に仕込まれた知識があってこそだった。それでもやはり、知識だけあるのと実際に見るのとでは大違いだ。
「ヘーゼル、あなたはなぜエイマン家で働いてるの?」
淡い髪と目をしたヘーゼルは目を見開いた。
「わたくしですか?」
「ええ」
最初、無表情で何を考えているかわからない侍女だったが、しだいに静かさを秘めた心根のやさしい人であることがわかってきた。敵でありながら、メイベルはこの侍女をとても好きになりかけていた。
「父が、医者でして。ルーカスさまのお父さまとご縁があったのです」
「だから手当てができたのね」
はい、と恥ずかしそうに、ヘーゼルはうなずいた。
「……メイベルさま」
ヘーゼルが前を見たまま言った。
「わたくしは逃走のお手伝いはできませんが、できるだけあなたのためにできることはするつもりです」
(いい人だわ)
メイベルは悲しくなった。自由を奪った負い目だろうか。
「あなたは悪くないわ。悪いのはあの男でしょう」
「ルーカスさまですか?」
ヘーゼルは少し可笑しそうに口角をあげた。そしてまた悲しそうな顔をした。
「あれはけっこう頑張ってらっしゃるのです」
メイベルは首をかしげたが、ヘーゼルはそれ以上なにも言わなかった。
*
屋敷で過ごしはじめてから、1ヶ月が過ぎようとしていた。あまり広くない屋敷でできることなどほとんどなく、当然ながら外に出ることもできない。ヘーゼルとおしゃべりでもできればよかったのだが、彼女は家主とともに頻繁に屋敷を空けていたので叶わなかった。
唯一の救いは、屋敷に本があったことだ。屋敷を案内された際、小さな書庫のような部屋があった。どの本も埃っぽく、古い本ばかりだったが、知識が足りていない自覚があるメイベルにとっては宝の山だった。
杖さえつけば1人でも歩けるようになっていたので、メイベルはこっそりルーカスが使っている部屋にも入った。と言っても、見張りがついているのたが。見張りの男は、メイベルが本を物色しているのを見ておろおろしていた。
(たいした情報はないわね)
いつものように部屋の真ん中に置いてある物書き机と椅子に腰かけ、パラパラと資料をめくってみる。ほとんどが数十年前の取り引きの記録や、売れ行きの推移を表したものだ。
(さすが国最大手の商家ね)
次の本を探そうと本を閉じたとき、コンコン、と柱を叩く音が聞こえた。メイベルが顔を上げると、部屋の入り口で、不機嫌そうに腕を組んだ黒髪の青年が立っていた。
「何をしているんでしょうか」
ルーカスだった。
ヘーゼル:22歳