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1、消えた嵐

 ガタガタと窓が鳴る音で、メイベルは目をさました。


 木の枠組みに布を敷いただけの、かたい寝台から身を起こしたメイベルは、眉をひそめて窓の外を見た。灰色の雲に覆われた空と、風にゆるくうねる草原が広がっている。


 メイベルは寝台から足を出すと、床に落ちていた古ぼけた毛布を拾いあげ、体に巻きつけた。もう夏も終わりに近い季節で、腕がむき出しの肌着ひとつでは肌寒かった。


 メイベルの暮らす〈嵐が丘〉は、いつでも嵐の吹く丘だった。青空が見られるのは一年のうち両手で数えられるほどしかなく、そのほかは叩きつけるような大雨が降っていた。夜には甲高いうなり声のような風が吹きつける騒がしい丘で、ふもとより上はだれも寄りつかない。


 しかし、今日の丘は薄気味悪かった。メイベルは赤ん坊のころから十六年間この丘で過ごしてきたが、ただの「曇り」は一度たりとも経験したことがなかったのだ。


 〈嵐が丘〉は、気性のはげしい性格をしていた。大地に生きるけものや草花に無慈悲で、荒れるままに荒れ、起こしたいままに嵐を呼び、崖を崩しては地に生きるものの命を奪った。嵐は大地のことなどかえりみはしない。嵐が愛するのは破壊のかぎりを尽くす自分自身であり、メイベルがどれだけ嵐の激しさを愛そうと、嵐は決してメイベルを見はしなかった。それでもこの丘や、この丘で育ったメイベル、この丘に生きるものたちは、自分たちの力の及ばない巨大な自然を畏れ、うやまった。


 嵐の気配が消えた丘は、あまりに静かで耳が痛くなりそうだった。昨日の使いさしのコップが置いてあるテーブルも、居間のはしにとりつけてある小さな水場も、はじめて来た場所のようにしらじらしく見えた。


(おばあちゃん……)


 いつもなら起きているはずの祖母がいない。自分がはやく起きすぎたことに気がついたメイベルは、早足に祖母の部屋の前へ向かうと、ほとんどノックと同時に扉をおしあけ、部屋にとびこんだ。


「なんだね」


 寝台の端に腰かけた祖母――アデイラは縫い物をしていた。顔を上げもせず単調にたずねた祖母に、メイベルは心臓が飛びだすかと思った。だが、言うべきことを思い出してすぐに口をひらいた。


「外がおかしくて、目が覚めたの。丘が静かだわ」


 アデイラは答えなかった。ただ、クリーム色の布をちくちくと器用な手つきで縫い続けている。今年で八十を数える彼女は、年のわりに肩幅がひろく、背筋がまっすぐに伸びた老女だった。


 祖母は、メイベルを見つめた。すべてを見透かす翡翠のような目だ。厳格さと威圧感には遠く及ばないが、これはメイベルも受け継いでいる特徴だった。飴色のバレッタで留めた髪は、高齢で白くなったのではなく、生まれつき白いのだそうだ。メイベルの髪もまた、白かった。祖母は重たそうに口を開いた。


「嵐が丘が静かなのは、やつらが来ているからさ」


 メイベルは戸惑った。


「やつらって?」

「おまえを襲うものだよ。今から逃げなさい」

「逃げるって、何から」

「国と言ったら大げさかねぇ」


 アデイラは苦い声で言った。


「何百年ものあいだわたしたちが逃げ続けてき恐ろしいものさ。もうすぐ側まで来ているから、嵐が丘は静かになった。嵐が丘は今朝、死んだ。そいつらのせいでね」


(嵐が丘が死んだ?)


 死んだという言葉は、メイベルが感じていた奇妙な感覚にしっくりくる言葉だった。それでも理解できない。

 何もないなりに平穏に暮らしてきたのに、突然家を出ろと言われている。わけのわからないものに襲われるから逃げろと言われている。


 メイベルはこの丘以外の世界を知らない。メイベルには父も母もいなかった。いるのはこの厳格な祖母だけだ。しかし、この小さな古びた小屋にある本はたくさん読んできたし、祖母に教えられてきたこともたくさんある。メイベルは自分の住んでいるのが数百年前にできた歴史の浅い国であることも、この丘がそのもっとも西側に位置することも知っていた。東の中央の王宮も、そこにいる女王陛下のことも知っている。彼女の先祖のおかげでいまメイベルたちが平和に暮らせる国ができたことも理解しているし、一般の庶民として素直に女王陛下を敬う気持ちもあった。それは普通の娘として普通に結婚し、生きていく身としてはじゅうぶんな知識だった。


「この丘を出なさい。じきにおまえを連れ去りにくるよ」

「そんな、突拍子もないことを言われても困るわよ」


 メイベルには冗談かそうでないか判断がつきかねた。


「よくわからない。説明して」


 国だとか、追われるだとか、聞いたことがない。メイベルは普通に暮らしてきた普通の娘だ。しいて違うところを言えば、こんな外れの丘に暮らしていたことだろうか。


「悪いが、そんな時間はないよ」

「おばあちゃんはどうするの」

「この家に残るよ」

「どうして」

「おまえの母親を死なせた負い目があるからね」


 メイベルが思わず黙ると、祖母は目を細めた。


「冗談だよ。私なら、()が守ってくれるだろう。それに、私はもう役目を終えた人間だから、やつらにとって用はないのさ」



 *



 メイベルは必死に祖母を連れ出そうとしたが、がんとして彼女は動かなかった。メイベルは、祖母を置いていくことに賛成できずにねばったが、とうとう折れてしまった。


「ほんとに大丈夫なの」

「何度言えばわかる。狙われているのはおまえなんだ。はやく行きなさい」

「でも、どこへ」

「丘をおりなさい。そしてまずは一人で生きなさい。追いつかれてはだめだよ」


 メイベルは問いつめたいのを我慢して小さく頷いた。メイベルの白い髪が、灰色の風にせわしくなびく。祖母は言い含めるように力を込めて言った。


「おまえはおまえの頭で考え、選び、行動しなければならない。おまえならできるね。来るべきときにやつらは来たし、消えるべきときに嵐は消えた」


 アデイラはメイベルの背中を押し出した。


「行きなさい。今すぐに」

 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 嵐が丘…これが何を意味するのか、今後の展開でどのようにかかわるのか気になります。 [気になる点] 全体の世界観の説明などで早いうちからもう少し拡充した方がいいとも思います。最初の方で初めて…
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