第96話 クラリントンの酒場にて(3)
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「皆さん、今日もまた神の奇跡によって朝を迎えることができました。神に感謝し、祈りを捧げましょう」
司祭のそんな言葉からクラリントン大聖堂での朝の礼拝が始まった。信徒たちは一斉に両ひざをつき、手を組んで祈りを捧げる。その中にはもちろん、場末の酒場で飲んでいた男たちも含まれている。
それからしばらくの沈黙が流れると、再び司祭が信徒たちに呼びかける。
「皆さん、私たちの罪を思い、感謝の祈りを捧げる前に心を改めましょう」
司祭は頭を垂れ、少しの間沈黙する。
「神よ。憐れみを私たちに」
「「「私たちはあなたに罪を犯しました」」」
「神よ。慈しみを私たちに」
「「「どうか私たちに救いをお与えください」」」
「全知全能なる神よ。慈しみ深きその御心で私たちの罪を赦し、永遠なる安寧に導いてくださいますように」
信徒たちは再び一斉に祈りを捧げる。
それから信徒たちは祈り続けていたが、やがて司祭が再び語りかける。
「皆さん、今日は多くの皆さんから聞かれていることについてお話したいと思います」
すると信徒たちの視線は司祭に集中する。
「それは、棺を運ぶ動く黒い骨のことです」
司祭ははっきりとよく通る声でそう言った。信徒たちの一部はやや動揺しているような表情を浮かべているが、それでも声を出すような者は一人もいない。次の言葉を今か今かと待ちわびている。
「棺を運ぶ、動く黒い骨、あれこそまさしく神の奇跡に他なりません」
それを聞いた信徒たちはどよめいた。だがすぐに静かになり、信徒たちの視線も司祭に注がれたままだ。
「神は仰ったのです。聖なる大義のために勇敢に戦い、神の御許へと旅立った騎士たちを正しく弔うように、と。騎士たちの魂は今、神の御許で永遠の安らぎを得ていることでしょう」
それからも司祭の説法は続く。
「それでは、今日は聖書にある大切な教えをお伝えします。人を赦しなさい。さすればあなたもまた、赦されるのです。人は皆、間違い、罪を犯します。ですが皆さん、人を赦しなさい。人を赦し、赦し続けることで神もまた、いずれあなたをお赦しになることでしょう」
司祭はそう言うと、手に持った聖書を閉じた。
「それでは皆さん、今日という一日を正しく生きることを神に誓い、祈りを捧げましょう」
再び信徒たちは一斉に祈りを捧げるのだった。
◆◇◆
朝の礼拝会が終わり、司祭たちが退出していくと信徒たちは一斉に大聖堂の奥にあるカウンターのような場所に並び始めた。いつも酒場で噂をしている男たちは不思議そうにその様子を見つめている。
「なんだありゃ?」
「さぁ……」
男たちが首をひねっていると、一人の中年女性が声を掛けてくる。
「おや? あんたらは見ない顔だね」
「ああ。教会に来るのは久しぶりだからな」
「はーん。そうかい。でも運が良かったね。今日は司祭様があたしらの疑問に答えてくださったからねぇ」
「……神の奇跡、か。ま、言われてみりゃ、それしかねぇわな」
「だろう? 司祭様はなんでもご存じなのさ」
女性はまるで自分のことのように自慢気な表情を浮かべている。
「司祭様はさすがだよなぁ」
「だなぁ」
男たちも女性の言葉に異存はないようだ。
「そういえば、あんたらは貰いに行かないのか?」
「貰う? 何をだ?」
「聖水だよ」
「聖水? なんだそりゃ?」
「まあっ! 知らないのかい? 聖水はね。体に振りかけると罪が軽くなるっていうね。とっっってもありがたいものなんだよ」
「マジで?」
「そりゃあすげぇな」
「だろう? 聖水を毎日ずっと浴び続けてたら、もしかしたらあんたらにも奇跡が起きるかもしれないよ」
「っ! お、俺、ちょっと貰ってくる!」
「俺も!」
「あ! ちょっと! 聖水を貰うときはちゃんと寄付もするんだよ!」
「ああ! 分かってるって」
こうして男たちも聖水購入の行列に並ぶのだった。
◆◇◆
それから五日後、男たちは再び場末の酒場に集まっていた。
「よう。調子はどうだ?」
「毎日振りかけてるけどよ。あんまり変わった気はしねぇな」
「俺もだ」
「俺なんて腹壊したぞ?」
「腹? もしかして飲んだのか?」
「ああ。掛けるだけで罪が軽くなるなら、飲めばなくなるんじゃないかと思ったんだが……」
「いや、掛けて使えって言われただろうが」
「そうだけどよぉ。ひと月分の稼ぎ、払ったんだぜ?」
「まあ……」
「俺らもそうだしな……」
と、そこへウェイトレスの女性がやってきた。
「はい。エールのグラス、人数分だよ」
「お! 来た来た」
男たちは料金を支払ってエールを受け取ると、すぐに口をつける。だが普段のようにぐびぐびとは飲まず、一口飲むとすぐにグラスを置いた。
「……はぁ」
いつも目撃情報を話している男が思わずといった様子でため息をついた。すると別の男が話を切り出す。
「なあ、なんか情報はないのか?」
「情報? うーん……そうだなぁ。最近は特に何もねぇな。まあ、精々黒い骨が来なくなったらしいってくらいか?」
「そうなのか?」
「ああ。最近は棺も運び込まれてないらしいぜ」
「そうなのか。まあ、神の奇跡って話だしな。そう何度も見れるもんでもないってことか」
「そういうこった」
「他には何かねえか?」
「……うーん、そうだなぁ。こいつはちょっと眉唾なんだがな」
「ん?」
「なんか、スカーレットフォードの男爵様って、こんなちっこい女の子らしいんだよ」
いつも目撃情報を話している男はそう言ってテーブルより少し下の高さを右手で示す。
「は?」
「そんなちっこいのか? 男爵って子供でもなれるのか?」
「だから、眉唾だって言っただろ? パン職人組合の倉庫の修理に行ったときに、職員の奴らがそんな話をしてたのを聞いたってだけだ。その職員も会ったことあるって感じの話し方じゃなかったしな」
「はぁ。そうなのか? お前にしちゃ珍しいじゃねぇか。そんな分かんねぇ話を持ってくるなんて」
「だから言ったろ? あんまり大した話はねぇって」
「まぁなぁ」
「ま、でも噂話なんてそんなもんだろ?」
「違ぇねぇな」
そうして男たちがガハハと笑うと、グラスに注がれたエールを一舐めした。
「まあ、でもよ。もし男爵様がちっこい女の子だっつうんなら、神様が奇跡を起こしてくれるのも分かる気がしねぇか?」
「ん? どういうことだ?」
「ほら、つまり騎士たちはちっこい貴族のお姫様を助けに行ったってことだろ?」
「ああ、そういうことか」
「たしかになぁ」
「あれ? だとすると、お前が見た騎士さまたちの中にそのお姫様がいたんだよな?」
「ん? あ!」
いつも目撃情報を話している男は虚を突かれた様子で固まった。
「……いなかったな。つーことは」
「お姫様は……」
「なんてこった……」
男たちは沈痛な表情になり、エールのグラスをじっと眺める。すると一人の男がいつも目撃情報を話している男に話を促す。
「な、なあ。他にはなんかねぇのか?」
「他? 他には特に何も……」
「そうかぁ」
「あ、いや、あったわ」
「あんのかよ!」
「いや、そんな大した話じゃねぇんだがな。何か最近、いくつかの組合の職人たちがよ。組合の口利きで家族ごと他の町に移住してるらしいんだよ。特に若い子持ちの奴優先で」
「そうなのか。どの辺の組合だ?」
「パン職人組合とかだな」
「え? あ、もしかして来年の小麦がヤバいって話か?」
「そうそう。だからパン職人がたくさんいても仕事が余るかもって」
「はぁ。そうかぁ。やっぱ俺らも移住したほうがいいのかなぁ?」
「どうやって? 金もねぇし、この町を出たって俺らにできることなんて盗賊くらいしかねえぜ?」
「だよなぁ」
「ま、仕方ねえよ。俺らはもう逃げられねえんだ。腹くくって生きるしかねぇだろ?」
「だな」
「どっかで移民でも募集してくれねぇかなぁ」
「そんな都合のいい話、あるわけねぇだろ? あったとしても職人だろ?」
「だよなぁ。俺ら、底辺だもんなぁ」
「はぁ。だよなぁ」
男たちは大きなため息をつくと、グラスのエールを一気に呷るのだった。