俺にだけ見えるあの子と紡ぐ日々
「君、乗らないの?」
今日の講義は二限からだったのでいつもよりゆっくりと大学へ向かい、講義室に向かうためのエレベーターに乗り込んだところで……エレベーターの近くでぼんやりと佇む女性が目に入った。黒髪のストレートがとても綺麗で、夏なのに長袖の上着を着ているのが少し暑そうだ。
しかしその女性は俺の声に全く反応しない。耳が聞こえないとか……?
「あのー、乗らないんですか?」
開くボタンを押して扉が閉まらないように気をつけながら、女性に気付いてもらえるように手を振ってみた。するとその女性は、お化けでも見たような驚愕の表情を浮かべて俺の顔を凝視してくる。
『え、え、え!?』
なんでそんなに驚いてるんだろ。この人と知り合いだっけ? ここは地元の大学じゃないから知り合いはほとんどいないはずなんだけど……少なくとも大学で知り合った友達じゃないことは確かだ。
もしかして地元の後輩とか? 今は暑くなり始めた季節で俺は大学二年なので、今年の春に一年生が大勢入学してきている。
『私のことが、見えるんですか!?』
女性のその叫びを聞いて、頭の中でぐるぐると考えていた思考は全て停止した。見えるんですかってどういうことだろう……え、待って、幽霊とか言わないよな……ま、まさか、あり得ないよな。
は、はは、ははは……
俺は乾いた笑いを浮かべて、女性のその言葉には返答せず、エレベーターの閉じるボタンを押した。怖い、怖すぎる、絶対に関わらない方が良い。
ガシャンとエレベーターの扉が閉まった音が聞こえ、上昇していくのを確認したところで、俺はホッと息を吐いて思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
「マジで怖っ、さっきの何だったんだ。とにかく忘れよう、さっきの女性ともしこの先会ったとしても、絶対に声を掛けない!」
俺はそう決意して俯いていた顔を上げて……
「ぎゃゃぁぁあああ!!」
思いっきり叫んだ。だ、だって、目の前にさっきの女性がしゃがみ込んでたのだ。俺は怖すぎてパニックになって、持っていたトートバッグを振り回した。
――そして気づく。この女性、トートバッグをすり抜けてる。
「ま、待って、マジで幽霊とか!? ありえないんだけど! 絶対にあり得ない!」
俺はホラーとかとにかく苦手なんだ。怖い番組なんか見た時には、一人でトイレに行くのも大変なほどに苦手だ。デカい図体して怖がりなんて情けなくて克服しようと思ったけど、これだけは克服できなかった。
とにかくパニックでトートバッグを振り回していると、エレベーターが止まって扉が開いた。俺はもう無我夢中で飛び降りて講義室まで走る。そして勢いよく扉を開けて、中に学生がいることにホッとして息を吐いた。これで誰もいないとかだったら、マジで泣くところだった……
まだ講義開始まで時間があるのに焦っている俺の姿は異様に映ったのか、他の学生に変な目を向けられているけど気にならない。とにかく普通の日常に戻ってこられて良かった。
そうして安堵しつつ、俺は人が大勢いるところに着席した。この講義には仲の良い友達がいないからいつもは人が少ないところを選んでるけど、今日だけは別だ。少しでも安心できるところにいたい。
はぁ、これからどうしよう。取り憑かれたりしたら洒落にならない。実家に帰ろうかな……でも幽霊を見たから帰ってきたなんて言ったら、絶対に笑われる。友達にも信じてもらえるわけないよな……
『ねぇ、君はなんて名前なの? 私のこと見えてるんだよね?』
机に突っ伏して頭を抱えていたら、隣からそんな声が聞こえてきた。俺はその声を聞いたところでまた叫びそうになったけど、さすがに講義室内だからとなんとか耐えた。
『怖がらせてごめんね。見える人に会えたことが嬉しくて……顔を上げてくれない、かな?』
女性は落ち込んでるような、悲しそうな声音でそう言った。俺はその雰囲気に怖いという感情が少しだけ薄れ、恐る恐る顔を上げる。
するとその女性は、俺の真横の席に座って俺の顔を覗き込んでいた。その顔はすっきりと整っていて美人だ。
「君は、幽霊……なのか?」
周りの人に聞こえないよう小声でそう聞くと、女性は嬉しそうに破顔した。
『やっぱり見えて声も聞こえてるんだね! 嬉しい、もう何週間も誰とも話せなかったから……』
「何週間……?」
『そう。一ヶ月ぐらい前からこの状態。幽霊っていうのはちょっと違うのかな……でも似たようなものかも』
ちょっと違うってどういうことだろ……まあそこを追求しても仕方ないか。幽霊界のことなんて分からないし。というかなんで俺に幽霊が見えるのか。
「……あのさ、幽霊って他にもいたりする?」
『うーん、私には分からないかな。とりあえずこの辺で会ったことはないけど』
「そっか」
俺はその返答に心底ホッとした。他にも見えるなんてことになったら日常生活に支障が出る。あとはこの女性をどうにかすれば良いだけだ。できればあまり関わりたくない。
『私の名前は野本美月。できれば友達に……なってくれない、かな?』
うっ……もう関わらないようにって思ってたのに、こんなにしおらしく言われたら断るのに罪悪感が湧いてくる。
「……驚かせない、なら」
『うん! もちろん!』
はぁ、俺はなんてお人好しなんだ。この断れない性格もどうにかしたい。
『君の名前は?』
「木崎優也」
『優也くんね! 私のことは美月って呼んで。多分私が年下だから呼び捨てで良いよ』
「分かった。じゃあ美月って呼ぶよ」
俺は幽霊に歳下とかあるのかと思いつつ、頭が混乱してこれ以上何も考えたくなかったので、頷いて前を向いた。とりあえず講義に集中しよう……現実逃避とも言う。
美月は講義が終わるまでの間、ずっと隣におとなしく座ってる……なんてことはなかった。普通に足もあるのに空を飛べるようで、ふわふわと講義室中を飛び回っている。
本当に他の人には見えてないのか……そんな現実を目の当たりにして、思わずため息が漏れてしまう。講義の内容なんて全然頭に入ってこない。
『優也くん、お疲れ様!』
講義が終わって荷物を片付けていると美月が嬉しそうに近寄ってきたので、周りに不自然に思われない程度に頷いた。そして講義室から出て自宅へと向かう。
『もう今日は終わりなの?』
「違うけど、集中できないから帰る」
『私のせいだよね……ごめん』
ああ、もう! そんなに悲しそうにされたらこっちの調子が狂う!
「美月のことで集中できないのは確かだけど、美月が悪いんじゃないから。とにかく一緒にうちまで来て」
俺はこの後の講義を一緒に受ける予定だった友達に休む連絡をして、大学の最寄駅に向かった。そして電車で三駅進んで徒歩で家まで向かう。
『へぇ〜、ここが優也くんの家か』
「ただのアパートだけど入って。ちょっと汚れてるけどごめん」
幽霊とはいえ女性を招くことになるなんて思わなかったから、そこかしこに服が散乱してカップ麺のカップもそのままだ。
『男の子の家なんて初めて入ったな〜』
部屋の中を興味深そうにふわふわ飛び回っている美月を横目に、俺は数ヶ月前に奮発して買った一人用ソファーに腰掛けた。すると知らず知らずのうちにため息が漏れてしまう。
「……それで、美月のことは他のやつには見えないんだよな?」
『うん。私のことが見える人には初めて会ったよ』
「なんで俺は見えるのか分かる?」
『何でだろう。特別な力があるとか?』
幽霊が見えるなんて、そんな力は全くいらない……それに今までの人生でこんなことなかったのだ。ということは、突然目覚めた力ってことか?
はぁ、こんな訳分からない現状を真面目に考察しても意味ないか。とりあえず今の俺は美月のことが見える、それが事実だ。あとはこの後どうすれば良いのかを考えないと。
「美月はその、成仏? とかできないってこと?」
『うん、まだできないかな……』
「何かやりたいことがある、とか?」
大抵こういう場合は心残りがあるんだよなと思ってそう聞くと、美月は顔を輝かせて俺の目の前にずいっと近寄ってきた。
『大学生活を満喫したい!』
「……そんなことで良いのか?」
美月は大学に入学する頃の歳に見えるし、もしかしたら入学前に命を落とすようなことになって、それで大学に未練があって彷徨ってるとかなのかな。
『うん!!』
「じゃあ、明日は大学生として過ごしてみたらどうだ?」
『優也くんも一緒に過ごしてくれる? 一人だと味気なくて』
「まあ、良いけど」
一日ぐらい仕方がない。それで成仏できるならと思って頷くと、美月は嬉しそうに部屋中を飛び回った。
『明日が楽しみ! 優也くん、本当にありがとう!』
「ははっ、そんなに嬉しいのかよ」
美月の喜びようが凄くて面白くて、俺は思わず笑ってしまった。最初は幽霊だって怖がってたのに、今となっては当たり前のように受け入れている自分が不思議だ。
「じゃあ明日までも大学生らしいことするか? 例えば、徹夜で映画鑑賞とか」
映画鑑賞が大学生らしいかどうかは分からないけど、とにかくもっと喜ばせたいと思って思わずそんな提案をすると、美月は可愛い笑顔を見せてくれた。生きてた時は絶対にモテただろうな……清楚な見た目に反して好奇心旺盛で表情豊かで、凄く可愛い。
『する!!』
「よしっ、じゃあ何が見たいか選ぶか」
それから俺達はアクション映画やアニメ映画、そして俺が大の苦手なホラー映画など、さまざまな映画を楽しんだ。朝まで起きていようと思ってたけど、さすがに日付を跨いで映画一本分の時間が過ぎると眠気に抗えなくなり、俺はのんびりとしたハートフル映画を見ている途中で寝落ちしてしまった。
♢
『優也くん? 寝ちゃった?』
ソファーに座ったまま目を閉じてしまった優也くんの顔を覗き込むと、気持ちの良さそうな寝息を立てている。このままだと首を痛めちゃいそうだけど……私ではベッドまで運んであげることができないし、毛布をかけてあげることもできない。
『はぁ……』
この状態になってもう何度目か分からないため息が溢れる。私はここにいるのに誰にも気付いてもらえなくて、何にも触れることができないのは辛い。
優也くんがいてくれて良かった。最初は怖がられたけどすぐに私のことを受け入れてくれて、さらに私がやりたいことを実現しようとしてくれるなんて……本当に優しい人だ。一緒に映画を見て楽しんださっきまでの時間は、夢のようだった。
私は優也くんの寝顔を見ながら自分の顔が緩むのを感じた。背が高くてガタイが良くて一見怖そうなのに、寝顔は無防備で可愛いなんて反則だよね。
『優也くん、本当にありがとう。そのうちお迎えが来ると思うから……その時までは一緒にいさせてくれると嬉しいな』
それから数時間、日が昇って優也くんが目覚めるまで、私は飽きもせずにずっと優也くんの寝顔を見つめていた。
♢
窓から差し込む眩い光によって、朝が来たことを知らされた。
「ふわぁ……いたっ、や、やばい、首寝違えた」
ソファーで寝落ちしたのか……ミスったな。変な体勢で寝ていたことで固まった体を解そうと立ち上がると、目の前に女性が浮かんでいることに気づいた。一瞬誰か分からなくて叫びそうになったけど、すぐに美月だと気付く。
「……ああ、美月、おはよう」
昨日の出来事は夢じゃなかったのか。
『優也くんおはよう。昨日は映画鑑賞に付き合ってくれてありがとう。疲れてない?』
「うん。全然大丈夫」
美月が申し訳なさそうな表情を浮かべていたので、俺は腕をぐるぐると回して元気な様子をアピールした。すると美月も安心したのかほっとしたような笑みを浮かべてくれる。
「今日は一限からなんだ。一限がフランス語で二限が経営学、お昼休みを挟んで三限は休みで、四限がマーケティング論。そのあとはバスケのサークルに参加して、サークルの後は飲み屋でバイト。全部付いてくるか?」
『もちろん!』
「外では話したりもほとんどできないと思うけど、美月の言葉は聞いてるから好きなだけ話しかけてくれて良いから」
俺のその言葉に美月は晴れやかな笑顔で頷いた。それから朝食として食パンを牛乳で流し込み、トートバッグを持って大学へ向かう。
「おう! 優也、体調は良くなったのか?」
大学の構内に入ると、後ろから突然肩に腕を回された。大学に入ってから仲良くなった柏村拓哉だ。同じバスケサークルにも所属していることから、一番仲が良い。
「もう大丈夫だ。それにしてもお前が一限からいるって珍しくないか?」
「実はな、今日の一限の講義に可愛い子がいるんだよ!」
「ああ……そういうことね」
拓哉は良いやつなんだけど、この女好きなところだけは全く尊敬できない。まあ俺に悪影響がなければ良いんだけど。
「そうやって手当たり次第に手を出そうとするから、誰にも相手をされないんじゃないか?」
「手当たり次第って、俺はちゃんと全員好きになってアプローチしてるんだからね!?」
「はいはい。でもそれは全く伝わってないと思うけどな」
「……そういうお前はどうなんだよ。お前の好きな子とか聞いたことないんだけど。もう大学二年だぞ?」
俺の好きな子か……そう考えた時、俺の脳裏に浮かんだのは美月の可愛い笑顔だった。
――いやいや、ないない。美月は幽霊だし、昨日からずっと顔を見てるから思い浮かんだだけだ。
「なになになに、思い浮かぶ子がいるんだな! お兄さんに教えなさい!」
「お前は俺の兄貴じゃねぇ」
「なんだよ、友達だろ? 教えてくれても良いじゃんか」
「別にいないから」
「嘘だ〜、絶対さっき思い浮かんでた子がいただろ!」
俺はそれからもしつこく追求してくる拓哉をなんとか追い払って、美月を伴ってフランス語の講義室に入った。この講義は人数が少ないので小さな教室だ。まだ時間が早いからか誰も来ていない。
『さっきの人と仲良しなんだね』
「ああ……まあね。ちょっとうざいけど意外と良いやつなんだ」
『なんかそんな感じした。……優也くんは、好きな人がいるの?』
目の前に近づいて来て首を傾げながらそう問いかけてくる美月を見て、俺は思わず焦ってしまった。まさか美月のことを思い浮かべてたなんて言えるわけもない。
「そんな人いないって。今は色々と忙しいからそんな時間ないし」
『そっか……確かに今日も予定詰まってるもんね』
そこまで話したところで学生が数人入ってきたので、俺は美月と話をするのをやめた。そして教科書を開いて講義の準備をする。
『へぇ……フランス語なんて初めてちゃんと見たかも。なんだか難しそうだね』
眉間に皺を寄せて難しい顔をしている美月を見て、俺はさりげなく教科書をめくって、フランスの綺麗な風景が載ってるページにした。すると美月は途端に表情を明るくしてそのページに見入る。
『凄く綺麗……』
それから無言でたまにページをめくっていると、教室に講師が入ってきたので、俺は教科書のページを前回の続きに戻した。そしてそこからは真剣に講義を受ける。
美月も先生の言葉を聞きながら教科書を読み込んで、なんとか理解しようと頑張っていた。発音練習の時には美月も一緒になって声を出していたほどだ。
その頑張っている様子が微笑ましくて俺が思わず微笑んでしまうと、それに気付いたのか美月が俺に笑いかけてくれて、そうしていつもより何倍も楽しい時間が過ぎていった。
『あぁ〜、ほんっとうに楽しかった!』
今は居酒屋バイトからの帰り道だ。今日一日の予定を全て俺と一緒にこなした美月は、満足げな表情で俺の隣にいる。
「バイトの時は助かった。ありがとう」
美月は店員を呼んでるお客さんの特徴を教えてくれたり、下げても大丈夫な食器が溜まっている席を教えてくれたり、色々と手伝ってくれたのだ。そのおかげで今日はスムーズに仕事が進んだ。
『役に立てて良かったよ。大学生って楽しいね〜』
「講義は大変だけどな」
『確かに。フランス語は特に分からなかったよ。経営学もグループワークで話してる内容はあんまり理解できなかったかな』
「でも凄く真剣に聞いてたよな」
『まあね、優也と一緒に講義を受けるのは楽しかったし、新しい知識を得るのはなんだかんだ楽しいから』
そう言って微笑みを浮かべた美月が可愛くてどこか儚くて、俺は無意識に手を伸ばして美月の頭に触れようとして……すかっと手が空気を撫でた。
「あ……」
そうか、触れられないんだな。今までも理解していたはずだったのに、なぜだかその事実がとても悲しいことだと感じた。
『優也くん?』
「あ、ああ、ごめん。美月の髪が綺麗だったから、思わず触ろうとしちゃって」
『え、そうかな? 確かに私の髪って全く癖がないんだよね。皆に羨ましいって言われたけど、アレンジしてもすぐ取れちゃうから、少しウェーブがかかった髪の子が羨ましいと思ってたな〜』
「そんなものなんだ」
それからは変な空気も霧散して、俺と美月は楽しく会話をしながら夜道を歩いた。そして家に帰ると、俺は昨夜からの疲れでシャワーを浴びてすぐ眠りに落ちてしまった。
美月の願いを叶えた次の日の朝。タイマーの音で飛び起きた俺は、まだ美月が部屋にいたことに安堵して朝を迎えた。
「良かった……まだいたんだ」
『うん。まだここにいても良いみたい』
まだ成仏できないんじゃなくてここにいても良いってどういうことだろう、そう思ったけど悲しそうな表情の美月に何も聞くことはできず、俺は笑顔でわざと明るい声を出した。
「それなら気の済むまで俺のそばにいたら良い。誰とも話せないのはつまらないだろうし」
『良いのかな、迷惑じゃない……?』
「俺も楽しいから」
本心からそう告げると、それが美月にも伝わったのかさっきまでの悲しそうな表情はなりを潜め、晴れやかな笑顔を見せてくれた。
『じゃあ、これからもよろしくね!』
「おう」
──それから約一ヶ月間。俺と美月は毎日一緒に時を過ごした。大学には共に通ってサークルにもバイトにも、どこへでも美月は付いてきてくれた。
美月が一緒にいてくれることが本当に楽しくて、この一ヶ月は凄く幸せな日々だった。
休みの日には少し遠出して海を見に行ったり水族館に行ったり、側から見たら一人で観光に来てる可哀想なやつだっただろうけど、俺はそんな周りの視線なんて全く気にならなかった。それほどに美月と過ごす時間が楽しかったから。
しかしそんな時間もずっとは続かないみたいだ。最近の美月は最初の頃と比べて、かなり体が薄れている。いつ見えなくなってしまうのかと……毎日怖い。
『優也くん、まだ私のこと見える?』
「うん、見えるよ」
もう表情だって辛うじて分かる程度だ。しかし俺はその事実を認めたくなくて、頑なに見えると言い張った。美月はそんな俺に気づいていたようだけど、指摘せずに優しく微笑んでくれていた。
『ねぇ、優也くん。最後に一緒に行きたいところがあるんだけど、行ってくれない?』
「なっ……」
最後なんて言うなよ! とか、消えないでくれよ! とか、そう言いたかったけど、そんな言葉を口にしても困らせるだけだと思って口を噤んだ。
「分かった」
俺は涙を堪えて小さくそう返すことで精一杯だった。
その日は平日だったけど、全ての予定に休みの連絡をして美月と電車に乗った。美月が行きたいところは生まれ育った故郷らしい。ずっと帰りたかったけど、勇気が持てなかったんだそうだ。
美月の故郷は電車で三十分ほどの近場で、よくある住宅街だった。美月と知り合わなかったら来ることなんてなかっただろう。
『優也くん、こっちに来て』
「自宅に行くのか……?」
『ううん、私のお気に入りの場所があるの。よくある公園なんだけどね、凄く見晴らしが良くて昔からよく通ってたんだ』
キョロキョロと辺りを見渡しながら懐かしそうに、そして少しだけ寂しそうに街並みを眺めて美月は進んでいく。俺達の間にほとんど会話はなかった。
美月は感傷に浸りたかったのかもしれない。俺は……口を開いたら情けない言葉しか出てこない気がして、何も言えなかった。
公園を進んで曲がり角を左へと進むと、突然視界がひらけた。高台に位置しているこの公園からは、住宅街が一望できる。
『うわぁ、懐かしい。数ヶ月ぶりぐらいなのに、もう随分と来てなかった気がする……』
「綺麗、だな」
俺はなんとかそう口にした。もうほとんど見えなくなっている美月のことはあまり意識しないように、風景に意識を向けた。
『ここに来ると嫌なことを忘れられて、また明日から頑張ろうって思えるんだよね。――優也くん、今まで本当にありがとう。すっごく楽しかったよ』
そんな最後みたいなセリフを口にしないでくれ。そう言いたいけど、美月の別れを決意したような声音を聞いたら、そんなことは言えない。俺はせめて泣き顔で終わらせないようにと、唇をかみしめて涙を堪えた。
『私は何も持ってないからお礼もできないけど、せめてこの風景だけでもと思ったんだ。私の大切で大好きな景色、優也くんがこれからも知ってくれたら嬉しい』
そこまで話したところで、さっきまでぼんやりとしか見えていなかった美月の表情がはっきりと見えるようになる。美月の……潤んで今にも涙が溢れそうな瞳も。
『優也くん、フランス語の授業で居眠りしちゃダメだよ。あの先生寝てる人をチェックしてるからね。あと居酒屋のバイトでは奥の個室の片付けを忘れがちだから気をつけて。それからサークルではポニーテールの活発な女の子が優也くんのこと好きみたいだから、もし優也くんも好意があるならご飯にでも誘ってあげて』
そこまで話したところで美月の瞳から涙が溢れた。俺はその涙を拭ってあげたくて手を伸ばすも、手は何にも触れることはできない。
「分かった。ちゃんと講義を受けるしバイトも頑張る。女の子は……気持ちには答えられないかもしれないけど、ちゃんと誠実に対応する」
美月を少しでも安心させて送り出してあげることが俺の役目だと思って、俺は涙声でなんとかそう返した。すると美月は涙を流しながら綺麗な笑顔を浮かべて……
『優也くん、バイバイ』
そう優しい声を残して、俺の前から姿を消した。
〜〜〜〜〜
「おい優也、本当にどうしたんだよ?」
俺は美月がいなくなってからも、いつも通りの日常を過ごしていた。しかし心にポッカリと穴が空いたようで、何事にもやる気が起きない。
「最近ずっと楽しそうにしてたのにさ、彼女でもできたのかと思ってたんだけど……振られたのか?」
拓哉が俺を励まそうと声をかけてくれているのを分かっているけど、そんな気遣いにも上手く言葉を返せない。
「あっ……」
「何だよ。あの黒髪の子、知り合いか?」
「いや、人違いだ」
俺は美月がいなくなってからというもの、黒髪のストレートを見つけるたびに思わず目を奪われてしまう。もしかしたら美月かもと……そんなことはあり得ないのに思ってしまうのだ。
「なぁ拓哉……幽霊って、いると思うか?」
「はぁ? 本当にお前大丈夫か、頭でも打ったんじゃねぇの?」
「やっぱりそうなるよな……」
時間が経てば経つほどあの一ヶ月が夢だったんじゃないかと、そんなふうに思ってしまう。しかし美月と一緒に見た映画も交わした約束も、あの景色も全て覚えている。
「よしっ、優也。失恋には新しい出会いだ! 今日はバイトなかったよな? 俺が合コン開いてやるよ!」
「いや、だから失恋じゃないって」
――でも、失恋だったのかもしれないな。俺は美月のことが好きだった。今更だけど……そう思う。
「たまにはありかも、合コン」
いつまでも腑抜けてられないし、拓哉の言うことも一理ある。そう思った俺は、今まで頷いたことがなかった合コンの誘いに乗った。
「おおっ、本当かよ! お前が来るんなら可愛い子呼べるじゃん!」
「おい、俺をダシにして、自分が可愛い子とお近づきになりたいだけなんじゃないか?」
「そ、そんなことあるわけねぇよ。俺はお前のためを思ってだなぁ」
「はぁ……まあなんでも良いや。とりあえずよろしく」
「任せとけ!」
そうして俺はやる気十分な拓哉と別れ、元気な拓哉に影響されて、いつもより少しだけ足取り軽く講義室へと向かった。
その日の夜。学生御用達の居酒屋で、男女四人ずつの合コンが開かれていた。今まで何度誘われても断ってきた俺は、合コン独特の雰囲気に圧倒されて、さっきから何度も来なければ良かったと後悔してるところだ。
「はぁ……」
「あ、あの、こういう場所は苦手なんですか?」
端に座って思わずため息を漏らしていると、俺と同じようにこの場に馴染めていない様子の女性が声を掛けてきてくれた。
「あんまり得意じゃなくて。あなたもですか?」
「はい。友達に誘われて初めて来てみたんですけど、後悔してるところです」
そう言って困ったように微笑んだ女性に仲間意識を感じ、俺は女性の方に体を向けた。
「俺もです。あそこで一番騒いでるやつが友達で、何回もしつこく誘われるので頷いたんですけど、もう次は来ません」
「ふふっ、あの方は楽しい方ですね」
「そうなのかなぁ……まあ面白いやつではあると思います」
俺のその言葉にその女性は、羨ましそうな表情を浮かべた。
「仲の良い友達がいるのは羨ましいです……私は大学にあまり馴染めていなくて。実は中学からの親友が一緒に大学に通う予定だったんですけど、入学式の日に事故に遭ってまだ入院してて……あっ、ごめんなさいこんな重い話」
「いえ、全然話してください。お友達は大変でしたね。退院できそうなんですか?」
「はい! 実はずっと意識不明だったんですけど……この前目が覚めて、奇跡的に障害も残っていないって。本当に、本当に良かったです」
そんなに酷い怪我だったのか……元気に回復してくれて良かったな。全く知らない人だけど、女性の心からの笑顔を見ていると俺まで嬉しくなる。
「じゃあいつかは一緒に大学に通えますね」
「はい。でも美月痩せちゃってたしリハビリも必要みたいだから……まだ数ヶ月は難しいかもしれませんが」
え……みづき、美月って言った?
俺は女性の口から出て来た言葉に思わず固まってしまった。しかしすぐに別人だろうと我に返る。さすがにあり得ない、美月に会いたいがために都合の良いように物事を考えてしまうのは止めないと。
そう自分に言い聞かせても、どうしても気になってしまう。心臓はバクバクと早鐘を打ち、手は震えて来ている。
「あ、あの……その友達の名前って……?」
「美月、野本美月ですけど……」
「よ、容姿は!? 黒髪のロングストレート? 背丈は君と同じぐらい!?」
「そ、そうですけど……美月のこと知ってるんですか?」
「びょ、病院どこですか!!」
俺はそれからパニックになりながらもなんとか病院と病室を聞き出し、拓哉にお金だけは渡して居酒屋を飛び出した。そして病院までとにかく走る。
しかし途中で気づいた。今病院に行っても入れてもらえるわけがない、もう深夜に近い時間だ。そしてその事実に気づいたところで、人違いだったらって可能性にも思い至った。
「写真を見せて貰えば良かったな……慌てすぎだろ俺」
本当に美月が生きてるんだろうか。じゃあ幽霊じゃなかったのか? もし本当に美月だったら、何て声をかければ良いだろう。美月にとっては自分を認識できるのが俺だけだったから特別だっただけで、他の人とも話せる今となっては会いたくない可能性も……
俺は家に帰ってからそんなことをぐるぐると考えてしまい、その日は一睡もできなかった。そして次の日には朝早くから準備を始め、面会が開始される時間ぴったりに病院へと向かった。色々と不安はあるけど、会いに行かないという選択肢はない。
受付で美月の名前と部屋番号を告げて、病院内に入る。そして病室の前で扉をノックしようとして……怖くて手が震えていることに気づいた。俺は深呼吸して少しでも自分を落ち着かせ、扉をノックする。
「はい」
すると中から一ヶ月間毎日聞いていた、あの柔らかくて綺麗な声が聞こえて来た。俺はその声を聞いた瞬間、扉をガラッと開ける。
病室の中にいたのは……ベッドに横たわった美月だった。痩せてしまっているけれど、紛れもなく美月だ。俺は何を言えば良いのか分からなくて、その場に立ち尽くした。
「優也、くん?」
「美月……本当に美月なのか?」
「うん、また会えて、嬉しい」
そう言って涙を流しながら微笑んだ美月に釣られて、俺は今度こそ涙を堪えることができなかった。
「美月、何で……」
「ごめんね、幽霊じゃないって、本当のこと言えなくて。事故に遭って何故か体から切り離されて……お医者さんの話も全部聞いたの。それで私が助かる可能性はかなり低いって、助かっても障害が残るって言われてて……だから期待を持たせるようなことは言わないでおこうって」
「消えかかってたのは……目が覚める前だったから?」
「今思えばそうだったのかな。でもあの時はそんなの分からなくて、ついに私の体も保たないのかって思ってたんだ」
そうなのか……美月が助かって、目を覚ましてくれて、本当に本当に良かった。俺は何だかよく分からない感情に支配され、涙を止めることができなかった。
「ふふっ、優也くん、泣かないで」
「ごめん……」
俺は部屋の入り口に立ったまま動かなかった足を一歩前に出し、美月に近づいた。そしてベッド脇の椅子に座る。
「手、握っても良い?」
「うん、嬉しい」
笑顔を浮かべてくれた美月に勇気をもらい、俺は震える手を必死に動かした。またすり抜けないかとかなり怖かったけど、そんな心配とは裏腹にしっかりと美月に触れることができる。
「あったかいな」
「優也くんの手は、ちょっと冷たいね」
「緊張してたから」
冷たいどころか手汗までかいている。でも手を離そうとはどうしても思えなかった。
「美月、こうしてまた会えて本当に嬉しい」
「私もだよ。目が覚めた時にね、元気になって優也くんに会いに行こうって一番に思ったんだ。でも優也くんから会いに来てくれるなんて。……そういえば、何でここが分かったの?」
「美月の友達と偶然会って、聞いたんだ。それでとにかく夢中で会いに来なきゃって」
あの合コンのメンバーには変な人認定されただろうな……今更だけど、拓哉に会うのもちょっと憂鬱だ。
「会いたいって思ってくれて嬉しい」
でも美月の笑顔を見ていると、そんな些細なことはどうでも良くなる。
「ずっと思ってたよ。美月がいなくなってからは、毎日が楽しくなくて……」
「じゃあ優也くんのためにも、早く良くならないとだね」
「うん、でも無理はしないで」
そこまで話したところで俺達の間に沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは美月だ。
「優也くん、私もっと一緒にやりたいことがたくさんあるんだ。だから……これからも、一緒にいてくれない?」
「……うん、うん、もちろん。俺から言おうと思ってたのに」
「ふふっ、ごめんね」
「俺はこれからも美月といろんなところに行きたいし、こうして会いに来たいし、理由がなくても連絡を取り合いたい」
俺のその言葉を聞いた美月は、今までで一番の笑みを浮かべてくれた。俺もその笑顔に釣られて自然と笑顔になる。
「優也くん、これからもよろしくね」
「こちらこそよろしく」
笑みを浮かべた美月の瞳からぽろりと溢れた雫を、今度こそ俺は拭ってあげることができた。