91 アスタロトの過去 その1
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ぼくは天界が好きだった。綺麗な花畑に澄んだ空気。地上では常日頃からくだらない争い事が起こっていたけど、天界は平和そのもの。好きな時に好きな所へ行って、昼寝したり歌を歌ったり、ぼくは気ままに過ごしていた。
そんなぼくも、たまに地上に遊びに行く事があった。たまたま降り立ったその地では、何やら月に向かって祈ってるヤツらがいて、ぼくは興味を抱いてそっと近付いた。
すると、ボクを見つけたひとりの男が感嘆の声を上げた。
「め……女神様!! 月の女神様!!」
(女神様?)
普通のヒトにぼくは見えない。確かにぼくはそこにいるのだけど、天使のぼくを認識出来ないのだ。けれどたまに、ぼくの事を見えるヤツらがいる。神に祈る事を生業にしてる様なヤツらだ。信仰心が厚すぎるヒトは、ぼくがここにいると認識できるらしい。
「なんて美しい……!」
「女神様、どうかこの国をお導き下さい……!」
(女神って……ぼく、男だし)
天使は基本、地上には干渉しない。けれど、熱心に神に祈るヤツらを無下にもしない。ぼくはため息をついて、それらしい事を言った。
『罪は絶えずお前たちのそばにある。だが心を騒がせるな。あらゆる苦労の内に幸せを見出す事にこそ意味がある。わたしは常にお前たちを見守っている』
つまりは、ぼくは何にもしないから、自分たちで考え、自分たちで行動しろよという事なのだが、そこにいたヤツらは涙を流し、崇高なものを見る様な瞳をぼくに向けた。
「ああ……女神様……ありがとうございます……ありがとうございます……」
どう解釈したのかは知らないが、ぼくはやたら感謝され、その後その地の城に、ぼくによく似た銅像が建った。
ぼくはその地……北の国で、月の女神として崇拝された。ぼくを称える祭りが催され、祭壇には綺麗な花や美味しい食べ物がまつられ、人々は歌や踊りでぼくに感謝の意を表した。
北の国は活気に満ちていて、繁栄している平和な国だった。けれどある時、つまはじきにされている人々がいる事に気が付いた。どうやら、ぼくを崇拝するあまり、月が隠れる月食の日に生まれたヤツは、ぼくの加護を得られない……むしろ呪われた子だと言って差別されているらしかった。
まったく……ヒトは本当にくだらない。一体誰がそんな事を言い出したんだ。
「アスタロト様、きっと悪魔の仕業です。悪魔がヒトをそそのかしているんです。見つけ出して退治しましょう! それが、私たち天使の使命です!」
正義感の強いミカエルという天使が、ぼくに言った。
「別にどうでもいいよ。めんどくさいし、ほっとく」
普通の天使は、ミカエルの様に、ヒトを惑わす悪魔を許さなかった。地上のヒトには干渉しないが、悪さをしようとしている悪魔を退治するのが、言わば天使の役割……使命だった。そうして、ヒトが過ちを犯さぬ様に見守っているのだ。だけど、ヒトの方から悪魔に歩み寄り、契約を結んだヤツらは絶対に助けたりしなかった。例え途中で過ちに気付き手を伸ばしても、そのヒトが地獄に堕ちる様を、黙って見届ける残酷さも持ち合わせていた。
ぼくはそんな天使たちも、自分勝手な地上のヒトたちもあまり好きではなかった。天使の中で、ぼくは異端者だった。
そんなワケで、ぼくはいつもひとりだった。別に寂しくもなかったし、何にも気を使わなくていいからラクだった。
そしてぼくはいつものように、ひとりで地上の森をブラついていた。誰も近付かない様な深い森の中に、お気に入りの大きな木があって、その枝に腰を掛けて、空や森を見渡すのが好きだった。
だけどその日、ぼくが枝に座ろうと翼を広げ飛び上がると、先客がいた。
枝に腰掛けていた女の子は、金色のクリクリとした短い髪に、美しく大きな白い翼を背に持つ、よくヒトが描く絵画に出てきそうな、見るからに天使だった。
ぼくは、その美しい羽を目にし息をのんだ。視線に気付いたその天使と目が合い、ボクは動けなくなった。綺麗な、宝石のエメラルドの様な瞳……。ぼくの胸がドキンと高鳴った。
その天使は黙ってぼくを見つめ、そしてハッとした様に謝った。
「あっ、あの! ごごごごめんなさい! キ、キミがいつもここから見ていた景色が見てみたくて……!」
すごくかわいい声だった。ぼくはドキドキする胸を押さえ、ごくりと喉を鳴らした。
(いつも、見ていた? この天使は、ぼくがいつもここに座っているのを、どこからか見ていたのか?)
慌てて飛び去ろうとしたその天使を、ぼくは思わず引き留めた。
「待ってよ! じゃあ一緒に……見たらいいじゃないか」
「い……いいの……?」
ぼくは彼女の隣に座り、名前を言った。
「ぼくはアスタロト。あんたは?」
「ボ……ボクはベルナエル……」
“ボク”と言っていたが、ベルナエルは女の子だった。
「……」
「……」
まずい。会話が終わってしまった。ぼくから誘っておいて、この沈黙はまずい。
ぼくは必死で会話の引き出しをまさぐった。だけど、普段ひとりでいるぼくに、これといったオモシロイ話はなかった。
ぼくが平常心を装いながら会話の糸口を探していると、ベルナエルの方が先に口火を切った。
「い、いつも……ここから何を見てるの……?」
「え? 別に……空とか……森とか……」
「ふうん……」
「……」
また会話が終わってしまった。せっかく彼女の方から話を振ってくれたのに、何をやってるんだぼくは。
その時、パンという音が鳴り、空に小さい煙が立ち上っていた。
「な、何?」
彼女はビクリとして、音が鳴った空を見た。
「ああ、お祭りの開催を知らせる花火だよ。今日から月の女神……ぼくをを称えるお祭りが始まるんだ」
「アスタロト、月の女神だったの? ご、ごめんボク……アスタロトは、てっきり男の子だと思ってた……」
「え? あ、ああ、ぼくは男だよ。ヒトが、勝手にぼくを女だとカンチガイしたんだ」
「そうなの? ボクもよく……男に間違われるよ」
「え!? 声も顔もこんなにカワイイのに!?」
「えっ……」
ぼくの台詞に、ベルナエルの頬が赤く染まった。
「あっ! いや、その! 違う! ……って違わないけどっ!」
ぼくは自分の言った事に動揺し、顔が熱くなるのを感じた。
「あの、えーっと……よかったら……一緒にお祭りを見に行ってみない?」
気まずい空気を何とかする為、ぼくは話を逸らした。
「う……うん」
ベルナエルが小さく頷いたから、ぼくは手を差し出した。
「じゃ、じゃあ行こう……。案内するよ」
ベルナエルは、白くて小さな手をボクの手に乗せた。ぼくはその手を握って、ふわりと空に飛び立った。
お祭りが開催されている街の手前に降り立ち、ぼくはベルナエルに確認した。
「この街はさ、信仰心の厚いヒトが多いから、ぼくらは認識されやすいんだ。お祭りを楽しむタメには、周りに天使だってバレない様にしなくちゃならない。“種族隠蔽”のスキルは使える?」
「う、うん。使えるよ」
そう言ってベルナエルは種族隠蔽のスキルを発動した。ぼくも同じ様にスキルを発動し、ぼくらはお祭り会場へ歩き出した。
「わぁ……!」
会場は綺麗な花で飾られ、美味しそうな食べ物や土産物が売っている出店が立ち並んでいた。
「すごいね、アスタロト!」
ベルナエルは綺麗な瞳をより一層輝かせて、ぼくの手を引っ張った。ぼくが案内すると言ったのに、ベルナエルの好奇心はぼくのそれを上回った。
一通り会場を見て回った時、ベルナエルのお腹がぐうと鳴った。ベルナエルは赤くなって、お腹を押さえてぼくを見た。
ぼくは聞こえなかったフリをして、少し大きな声を出した。
「あー! なんかぼくお腹が空いたなー! ベルナエル、ちょっと待ってて!」
ぼくはそう言って、出店でりんごのパイを買ってベルナエルに渡した。
「はい! 一緒に食べよう」
「えっ……アスタロト、地上のお金持ってるの……?」
「あー、うん。ほら、焼き立てのうちに食べよう!」
「あ、う、うん、ありがとう……」
お金は、祭壇から拝借したものだった。
(“月の女神”である“ぼく”に捧げられたお金だ)
ぼくは自分をそう正当化した。
「あ、でも……りんごだね、これ……」
天界では、りんごを食べる事は禁忌とされていた。
「ここは地上だよベルナエル。天界の掟は関係ないさ。りんごは北の国の名産品なんだ。北の国に来たら、絶対に食べないと」
ぼくはそう言って、りんごのパイを頬張った。
「うん! 美味しー!」
ぼくの顔を見て、ためらっていたベルナエルもパイをかじった。
「美味しい……!」
「でしょ? ……デモ、これで共犯だね、ベルナエル」
「えっ!?」
したり顔をしたぼくを見て焦ったベルナエルは、大口を開けてパイを一気に食べた。
「証拠隠滅……!」
もぐもぐと口を動かしながらそう言ったベルナエルが可愛くて、ぼくは愛おしさが込み上げた。
初めて知るこの気持ちは何だろう?
ぼくとベルナエルが口にした禁断の果実は、甘くて少し酸っぱくて、ぼくがこの時ベルナエルに抱いた気持ちによく似ていた。
月・水・金曜日に更新予定です。




