80 リヒトの過去 その3
80
煉獄とは、天国と地獄の間に位置し、生前の罪を償う為の場所……らしい。
殺意や悪意を持って人を殺した者……俺の義父の様な場合は地獄に行き、永遠に業火に焼かれ苦しむ事になるのだが、煉獄は炎に焼かれる事で罪を浄化し、悔い改めさせるのを目的としている。苦しみを味わわせ、罪が浄化されると、晴れて天国へ行けるという訳だ。
例えば運転ミスによる車の事故などで誰かを殺してしまった運転手は、地獄ではなく煉獄で炎に焼かれる事になる。殺意はなくても、人を殺めた報いは受けなければならないのだ。
サルガタナスという悪魔に転生した俺は、見た目も前世とは変わっていた。身長は前世よりも少し高いくらいだったが、青みを帯びた髪の毛に、特徴的だったのは何と言っても両の目の色が違っていた事だ。片方は黄色、片方は黒という危険を表す配色が、いかにも“悪魔”っぽかった。
煉獄は、日々超絶に忙しかった。何らかの罪を犯した者達がひっきりなしに煉獄へ送られ、炎に焼かれていた。まさに地獄絵図、阿鼻叫喚の光景だった。
「あっは! 見て見てあの顔! 恐怖に歪んだヒトの顔って、本当にサイコーだね」
そう言って、愉悦に浸った様な表情をするアスタロト様の気が知れなかった。
非道で容赦ないこの方は、本当に天使だったのだろうか?
「あー、もっとオモシロイコトないかなぁ? ちょっと地上を散歩して来るから、あとよろしくねぇ」
アスタロト様は、俺の様な下っ端とは違って、煉獄と地上を自由に行き来できた。俺に仕事を押し付け、自分は地上へと遊びに行くのは日常茶飯事だった。その為、俺は煉獄の管理や雑用に至るまで、休みなく働く事を余儀なくされた。
(酷いブラック企業だ。人間の為じゃなく、煉獄の為……アスタロト様の為に働いてる様なもんじゃないか)
俺は不満でいっぱいだったが、アスタロト様に逆らう事は許されない。以前、アスタロト様に歯向かった悪魔が、半殺しの目に遭わされていた。むしろ殺された方がラクなんじゃないかと思える程の惨劇を、俺は傍観するしかなかった。圧倒的な力を目にすると、人は大概動けなくなる。
耐える事と諦める事に長けていた俺は、煉獄でもそれなりに上手くやっていた。
そんなある日、遂に俺が召喚されるチャンスがまわってきた。
「サルガタナス、悪魔を召喚したいって人間が現れたよ。あんた、行ってみる?」
アスタロト様は俺を召喚部屋へ呼び出すと、口の端を上げながらそう言った。
召喚部屋とは、人間が悪魔を呼び出した時に、唯一煉獄と地上が繋がる道が出来る部屋だった。部屋には水を張った大きな壺があり、そこには、魔法陣の真ん中で今まさに悪魔を呼び出そうとしている人間の姿が映っていた。
しかし、その人間の姿を見て俺は驚いた。
「子供じゃないか! こんな小さな子が召喚を!?」
悪魔召喚がどの様な手順で行われるのか、俺は詳しく知らなかったが、まさかこの子は悪魔を呼び出す為の生贄なのではないかと疑った。
「悪魔を召喚するのに、トシなんて関係ないよ。まぁ、こんな子供が召喚するのは珍しいけど」
アスタロトは壺を覗き、俺の方に目を向けた。
「で、どうする? 行ってみる?」
「俺が断ったらどうなるんですか?」
「そしたら違う悪魔に行ってもらうさ。ぼくの配下はあんただけじゃない」
俺は、魔法陣の真ん中で、何やら呪文の様なものをブツブツと唱えているその子供を見た。まだ5、6歳くらいだろうか……。
こんな子供が悪魔を召喚したいだなんて……何か、親や周りの大人が解決できない問題が発生したのだろうか? この子が、悪魔にすらすがりたいと思う様な。
「行きます」
俺はそう言って、以前アスタロト様に教わった召喚の手順を思い出していた。
掌を壺の中の水につけ、俺は男の子に話しかけた。
「俺を呼び出したのはお前か」
男の子はビクリとし、キョロキョロと辺りを見回していた。
そして、水に手をつけた事により、男の子の寿命を知る事が出来た俺は愕然とした。
(5年……!? たったの……!?)
言葉が出なくなった俺の横から、アスタロト様がぺろりと唇を舐めながら男の子を見つめた。
「へぇ~、やっぱりあんたは運がいいね。たった5年でこの子の魂が食べられるなんてさ。子供は長生きするから人気ないんだけど、これはアタリだ。ぼくが行きたいくらいだよ」
「食べる……? 魂を奪うというのは、食べるという事なんですか?」
俺はアスタロト様に訊き返した。
「あれ? 言ってなかったっけ? そうだよ。召喚者は寿命が尽きる時、黒い靄に変わるんだ。それをぼくたちが食べる事で、召喚者は恐怖と痛みを延々と味わう。今までのツケを払ってもらうのさ」
「食べないとどうなるんですか?」
「すぐに食べないと、魂は煉獄に還る。悪魔と契約した時点で、魂はその悪魔のモノだけど、その悪魔が魂の受領を拒否すれば、魂は煉獄のモノになる。そしたら魂は煉獄に戻され、他の悪魔たちの餌食になるんだ。沢山の悪魔にかじられて、ねじられて、引きちぎられて……その魂は、さぞかし痛くて苦しくて恐ろしい思いをするだろうね」
アスタロト様は楽しそうにそう言うと、俺の気持ちを察したのか、笑いをこらえる様に俺を見た。
「あんたが舐める様に、優し~く、ゆ~っくり食べてあげた方が、この子も喜ぶんじゃないかなぁ?」
悪魔は、本当に人の気持ちを弄ぶ。ここで俺が断れば、この子は他の悪魔と契約してしまうかもしれない。人を騙し、陥れ、不幸になる事を喜ぶ様な悪魔と……。
俺は目を伏せ息を吸うと、もう一度男の子に話しかけた。
「お前の寿命はあと5年だ。それでも俺を召喚するのか?」
(頼む、断ってくれ。そうすれば二度と悪魔を呼び出せない)
この世界での悪魔召喚のチャンスは、人生で一度きりだと教えられた。一度呼び出し断ってしまえば、もう二度と呼び出す事は出来ない。そのかわり一度でも頷けば、それを撤回する事は不可能で、必ず契約が成立する。
例え俺を召喚して願いが叶ったとしても、5年しか生きられないんだ。たった5年の為に、苦痛にまみれて死ぬなんて馬鹿げてる。どうか冷静に考えて、断って欲しい。俺はそう願った。しかしその男の子は、嬉しそうに叫んだ。
「ここへ来て! おれの所に来て!」
次の瞬間、俺は首に火傷の様な痛みを感じた。召喚の印が刻まれたのだろう。そしてそれから俺の体は壺の中へ吸い込まれ、気が付くと、驚いた表情で俺を見つめる男の子の前に立っていた。
(地上に……この子に召喚されたのか……)
俺は深く息を吐いて、男の子に言った。
「契約は成立した。俺はサルガタナス。貴方の召喚獣だ」
男の子は腰を抜かしたように座り込んでしまったが、悪魔を呼び出せたという興奮は抑えきれない様だった。
「すごい……本当に呼び出せた……! すごい! すごい!」
赤茶色の髪の毛に赤茶色の目。興奮して叫ぶその子は、咳込みながらもしきりにガッツポーズをしていた。
俺は呼び出されたその小さな部屋を見回した。古いベッドに古い机、わけのわからないガラクタが散乱したその部屋に、他の人間の気配はなかった。
「なぜ俺を呼び出した? 何が望みだ?」
「望み……?」
男の子は不思議そうな顔をした。
「俺に叶えて欲しい望みがあるから、呼び出したんじゃないのか?」
「ねえ、そんなことよりさぁ、腹へらねぇ? とりあえず悪魔! 何かメシ作ってよ!」
「……それがお前の望みか?」
「うん! 何か食べたい!」
にぃと笑ったその子の前歯は欠けていた。
(この子はもしかして……ただの好奇心で悪魔を召喚したのか?)
俺は頭が痛くなってきた。人間を助け、天国に行くという事が、とても遠い目標に思えた。
月・水・金曜日に更新予定です。




