74 主(あるじ)
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「シュリさん、ユーリさん、夜分遅くに失礼します。少し話があるんですが……今いいですか?」
その日の夜、リヒトが優里たちの部屋を訪ねてきた。
「どうした? ひとりか?」
リヒトは助手として、いつもハヤセと一緒に行動していた為、ひとりで訪ねて来るのは珍しいとシュリは思った。
「はい、先生は今、お風呂に入ってます」
「……」
シュリはリヒトを部屋に通すと、黙って片方だけの黄色の瞳を見つめた。まるで、ハヤセがいない隙を見計らってシュリたちを訪ねて来た様に思えて、注意深くリヒトの動向を窺がった。
「用件を聞こう」
「はい……あの……」
珍しく言い淀んだリヒトだったが、意を決した様に息を吸うと、シュリと優里に向き合った。
「ユーリさんに、助けてもらいたい人がいるんです」
「え? 私に?」
優里は首を傾け、シュリの方を見た。シュリは一度優里と顔を見合わせると、再びリヒトの方を向いた。
「どういう事だ?」
「……ユーリさんに、過去の夢を見せてもらいたい人がいるんです。その人の記憶を……忘れてしまった記憶を、思い出させてもらいたいんです。レイラさんの様に……」
リヒトはそう言って優里を見つめた。いつもの自信に満ちた冷めた様な瞳ではなく、まるで懇願するかのように、その瞳は頼りなく揺れていた。
「前に……ハヤセが記憶の研究をしてると言っていたな。その事と何か関係があるのか?」
「はい……。先生は、言わば俺の為にその研究をしてくれている様なものです。でも今回、ユーリさんのスキルによって記憶が戻ったレイラさんを目の当たりにして、ユーリさんなら、今すぐリオを……俺の主を救えるんじゃないかと思ったんです」
「リヒト君の主って……」
優里は、バルダーを助ける時にうやむやになっていた話を思い出した。
「主? お前は煉獄の悪魔だったのか?」
「シュリさん、バルダーを助ける時に、リヒト君が煉獄から来た事を知ったんです。バタバタしてて、なかなか話をする機会がなかったんですけど……」
優里が説明すると、シュリは少し警戒を強めリヒトを見た。
「悪魔を召喚する様な人間を助けて欲しいというのは、どういう事だ? それに、何故お前は主と共に行動していない?」
シュリの疑問は最もだった。優里は、悪魔を召喚したハラルドと対峙して、人間の悪意は恐ろしいと痛感したばかりだったし、その様な人間を助けたいと思う事や、主と別行動をとっているリヒトの思惑がわからなかった。
「俺の主……リオは、9歳の子供です。ハラルドの様な悪意からではなく、単純に好奇心……いえ、おそらく、心の拠り所を求めて俺を召喚しました。一緒に行動していないのは……リオが、俺を召喚した事を忘れているからです」
「忘れている? ……妙な言い方をする。お前がやったのか?」
リヒトの右目の能力を使えば、記憶を消す……つまり、忘れさせることが出来る事を、スライの一件で知っていたシュリは、核心を突いた。リヒトは一瞬言い淀んだが、目を伏せて答えた。
「はい……。俺の能力が暴走して、本来傷つける事の出来ない主を襲いました」
リヒトはいつも自在にスキルを操っていたが、自分の様に暴走する事もあるのかと思い、優里はごくりと喉を鳴らした。
「その、リオ君の記憶を呼び戻したいの?」
優里が尋ねると、リヒトは首を振った。
「いえ、リオが俺を忘れてる事は別にいいんです。むしろ、悪魔を召喚したなんて記憶は、ない方がいい……。記憶を戻してもらいたいのは、リオの父親の方です」
「え……どういう事?」
優里の問いかけに、リヒトはギュッと拳を握りしめた。
「俺は……リオの父親から、“リオが自分の息子だ”という記憶を消しました」
「え……」
優里は言葉が出なかった。それは魔力が暴走しての事なのか、それとも故意だったのか、故意だとしたら、何故そんな事をしたのか……様々な疑問が優里の頭に一気に浮かび、すぐには言葉に出来なかったのだ。
「何故父親の記憶を呼び戻したい? それが、そのリオとかいうお前の主を救う事になるのか?」
言葉を無くした優里とは対照的に、シュリは冷静に疑問を投げかけた。
「リオには……母親がいません。リオが5歳ぐらいの時に死別したそうです。父親が、リオのたったひとりの家族でした。リオは父親の事を大事に思っていた。俺は、そんなリオの気持ちを踏みにじったんです」
俯き、少し震えた声でそう言ったリヒトを、シュリは注意深く見つめた。
「お前は無意味な行動をする奴じゃない。お前が父親の記憶を奪った理由があるはずだ。そして、その記憶を早く取り戻したいという理由も」
シュリの言葉に、リヒトは一瞬息をのんだ。
「父親の記憶を消した理由は……すみません、言えません。でも、リオは……! ……リオは、あと3年も生きられないんです」
「え……」
優里はシヨックを受け、思わず口元を手で覆った。
「元々患っていた肺の病気が悪化していて……先生の薬で症状を緩和させてはいますが、完治は望めません。俺を召喚した時から、リオの寿命は既に決まっていた……。だから死ぬ前に、父親にリオの事を思い出してもらって、リオと……家族の時間を過ごして欲しいんです」
「……」
シュリと優里は、黙ってリヒトを見つめた。リヒトの瞳には、微塵も嘘の色は無く、シュリは短く息をついて優里に言った。
「リヒトは嘘をついていない。ユーリ、これはお前のスキルに関する事だ。お前はどうしたい?」
シュリにそう言われ、優里はリヒトの方を見た。いつもの飄々とした態度ではなく、肩を落とし伏し目がちなリヒトを見て、優里は胸が痛んだ。
(まだ9歳なのに、あと3年も生きられないなんて……。リヒト君が父親の記憶を消した理由を、どうして言えないのかはわからないけど、私は……リヒト君を助けたい)
優里は胸の前でギュッと手を握った。
「私にできる事なら……記憶を呼び戻す手伝いがしたいです。でも、そうするとアリシャさんの治療が遅れてしまいます。私はシュリさんから生気をもらわないといけないから、離れられないし……」
優里は、浄化のスキルについてシュリには何も伝えていなかった。シュリは、前に優里が転生者だという事を言えなかった時、誰にでも秘密はあると言って追及はしなかった。だから悪魔族の優里が浄化を取得していたとしても、きっと掘り下げる事はしないだろうと思った。だが優里自身がシュリから離れたくなかった為、少しでも離れ得る可能性があるこのスキルの事を、優里はシュリに言いたくなかった。
「アリシャは……急を要する様な病気ではない。お前がリヒトの事を助けたいと言うなら、先に西の国に行こう」
シュリがそう言うと、リヒトは顔を上げシュリを見た。
「いいんですか? シュリさん」
「構わない。わたしとユーリは離れられないから、別行動は出来んしな」
(離れられない……)
シュリが改めてそう言った事を、優里は嬉しく思った。
「ありがとうございます」
リヒトはふたりに礼を言い、丁寧にお辞儀をした。夜遅かったので、今後の日程については後日改めて話し合う事にし、リヒトは部屋を後にした。
優里たちの部屋を出て少し歩いた所に、千里眼を発動していたハヤセが腕組みをして待ち構えていた。
「事後報告とはやってくれるね」
「……先生に相談したら、反対されると思ったんです」
ハヤセはふうと息をつくと、リヒトを見つめた。
「反対はしないよ。反対するくらいなら、元々研究はしない。僕が心配してるのは、優里ちゃんの事だ。父親の事を知れば、優里ちゃんは今回の件で悩む事になる。だから君は、あえて記憶を消した理由を伏せた。君自身の事も、優里ちゃんには言わないつもりなんだろう?」
「……本当は、すべてを話して納得してもらうのが一番いいと思います。でも……ユーリさんは優しい。きっと俺の事も、自分の事の様に感じてしまうでしょう。彼女を傷付けたくありません」
そう言って目を伏せたリヒトに、ハヤセは少しきつめの口調で言った。
「記憶を取り戻した父親が、リオと“家族の時間”とやらを過ごせるかなんて……。君だってわかっているはずだ」
リヒトはギュッと拳を握った。
「それでも……! 俺は、俺の主の望む様に行動する召喚獣です。リオが父親を望むのなら、俺は……!」
リヒトは色が変わる程強く拳を握りしめていたが、すぐに自分を落ち着ける様に深く息を吸った。
「ユーリさんの事は、後できちんとケアします」
そう言ってリヒトはその場から離れた。ハヤセは黙って彼の後ろ姿を見つめていた。
そして同じ時、そんなリヒトたちの様子を窺っていた者がいた。
「ふぅん……なぁんか、オモシロイコトが起こりそうな予感がするよ……」
気配を消し、楽しそうに笑うアスタロトの存在に、リヒトもハヤセも気付いてはいなかった。
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