70 ミーシャの過去 その8
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弟はすぐに医者に診てもらったが、酷い熱があった。風邪気味なのに屋敷中を歩き回り、森に入った所で動けなくなった弟の小さな体を、突然の大雪が隠した。森を見に行った使用人もいたらしいが、雪に埋もれた弟に誰も気付けなかったのだろう。
「キーラ! キーラ!」
母上は、真っ赤な顔で苦しそうに呼吸をしている弟の手を握り、必死に名前を呼んでいた。
「母……さま」
弟が、うつろな目で母上を呼んだ。
「キーラ!」
オレも身を乗り出し、キーラの顔を見た。
「母さま……ごめんなさい……ブローチ、ぼく……無くしちゃって……」
(え? ブローチ?)
オレは、キーラの言葉に動きを止めた。
「一生懸命……探したのに……見つからなくて……」
オレの心臓が、ドクンと音を立てた。まさか弟は、オレが持ち出したブローチを、自分が無くしたと思ってずっと探していたのか? それで、いつも遊んでいた森に入ったのか?
「キーラ! ブローチはここだ! ちゃんとここにある!」
オレは、弟にブローチを見せた。
「兄さま……兄さまが見つけてくれたの……? 一緒に……探してくれてたんだね……」
「えっ……」
違う、そうじゃない、オレが勝手に持ち出したんだ。
そう言おうとした時、部屋の扉が開いて、父上が入って来た。
「キーラ! ……レイラ、一体何があったんだ?」
父上が心配そうに弟を見て、母上に事情を尋ねた。
「それが……、キーラが私たちがあげたブローチを無くしたって、熱があるのに屋敷中を探し回っていたらしいの。でも、ブローチはミーシャが見つけてくれたわ」
「……! ちが……」
「そうか、キーラ、大丈夫、ミーシャがお前のブローチをちゃんと見つけてくれたぞ。だから安心しろ」
父上はオレの言葉を遮り、熱い弟のおでこに手を置いた。
「兄さま……ありがとう……」
熱で潤んだ瞳を向けられ、オレは何も言えなくなった。
もしオレがここで、本当はオレが勝手にブローチを持ち出したと言ったらどうなるだろう。弟が高熱を出したのはオレのせいだ。オレのせいで、大事な息子が傷つけられたと知ったら、父上と母上は、オレの事をどう思うだろう。役立たずどころか、被害をもたらす他人を、果たしてそばに置いておくだろうか。
オレは結局、本当の事を言えなかった。
弟はその後昏睡状態に陥って、医師はありとあらゆる手を尽くしていたが、明け方、オレたち家族が見守る中、静かに一生の眠りについた。
母上は泣き崩れ、父上も背中を震わせていた。オレはただ呆然と立ち尽くした。父さんが死んだと聞かされた時の様に、どこか現実ではない様な感覚に陥っていた。
弟は……本当に死んだのか? だって、昨日まで笑って、元気に走り回ってたじゃないか。
父上がオレの手にブローチを握らせ、静かに言った。
「これはキーラの形見だ。お前が持っている方が、キーラも喜ぶだろう」
掌にすっぽりと収まるブローチが、ずっしりと重く感じられた。まるで弟の命そのものだ。オレが奪ってしまった、小さな弟の命。
オレは……オレは自分が生きる為に弟を犠牲にしたのか? 生きる為に森の中にあるこの屋敷に入り、弟にとどめを刺したのか?
「うっ……」
オレは猛烈な吐き気に襲われた。その日からしばらく、オレは体調を崩し寝込んでしまった。
でも、そんなオレよりも母上の方が深刻だった。
弟が死んでから、母上は気力を失い、日に日に痩せていった。ベッドから起き上がるのも困難になり、笑顔を見せる事もなくなった。
何とか元気づけようと、オレは毎日母上の部屋に通って色々な話をした。母上は優しい目をしてくれたが、いつもどこか上の空だった。母上はオレじゃなくて、オレの胸にある、弟の形見のブローチを見つめては涙ぐんでいた。
そしてキーラの死から半年ほど経ったある夜、母上の悲痛な叫び声が聞こえ、オレは目を覚ました。
父上と母上の寝室を覗くと、母上は泣きながら叫んでいた。
「私のせいだわ! 私がもっとキーラを丈夫に生んであげられればよかったのよ! 私が病弱だから、キーラは、キーラは……!」
「レイラ、落ち着くんだ! 君のせいじゃない!」
父上は、何とか母上を宥めようとしていた。
「キーラが死んだのは私のせいよ! 私のせいなのよ!!」
泣き崩れる母上を見て、オレはたまらずその場から逃げ出した。
違う、違う、違う違う違う! 母上のせいじゃない! オレなんだ! オレが弟を殺したんだ!!
オレは弟の部屋に入り、がらんとした広い空間を見つめた。弟の部屋は、主がいなくなった今も定期的に使用人が掃除をしていて、生活感のないその綺麗な部屋が、逆に弟はもういないと物語っている様だった。
窓からは、白い月明かりが誰もいない弟のベッドを照らしていた。
オレはフラフラと月明かりに照らされたベッドの前まで行くと、膝をつき、窓から見える綺麗な満月に祈った。
「神様……月の女神様……。どうか、どうかオレの代わりに、弟を生き返らせて下さい……」
オレには信仰心なんてなかった。正直、月の女神に願いをぶつけたのは、これが初めてだった。母上が苦しんでいる。今、母上を救えるのは、オレじゃない。弟なんだ。
「母上にはキーラが必要なんです! オレじゃない! だから、だからキーラを、オレの命と引き換えに、キーラを母上の元に返してあげて下さい!! お願いします!!」
こんな願いは、科学的に考えて叶う訳がない。そんな事はわかっていた。でも、それでも、願わずにはいられなかった。
「母上に……笑顔を戻して下さい……!!」
オレは強く願った。その瞬間、金色の光がオレを包み、体中が沸騰するかの様に熱を帯びた。
「くっ……!? な、何……だ!?」
全身が軋む様に痛み、急激に口が渇き声も出せなくなった。
「あ……、うぁ……」
オレはベッドカバーを掴み、そのままずるりと床にひれ伏した。体中の痛みと熱は徐々に引いていき、やがて金色の光も消えた。
(今のは……何だったんだ? くそっ、頭が痛ぇ……)
オレは、軽い頭痛に頭を押さえながら立ち上がった。だが、何かがおかしい。立ち上がったはずなのに、目線が低いままだった。
(何だ? オレ……立ってる……よな?)
確認の為に自分の足元を見ると、ぶかぶかのねまきと小さい足が見えた。
「え……」
(何だ? これ……オレの足か?)
オレは慌てて、自分の全身を見回した。
(何だ!? 何で服がぶかぶかになってんだ!? それに、手も足も小さくなってる!? 何で……)
オレは、窓ガラスに向かった。ぶかぶかの裾を踏んずけて、途中で転びそうになりそのまま窓ガラスに手をついた。そして、ガラスに映った自分の姿を見て驚愕した。
オレは、子供の姿に変身していた。
当時オレは14歳だったが、ガラスに映っている姿は、5、6歳の子供だった。
その時、物音に気付いた父上と母上が、部屋の扉を開けた。
「ミーシャか?」
きっと匂いでわかったのだろう。父上は扉を開けてオレの名を呼んだが、子供姿のオレを見て、驚いて足を止めた。
「ち、父上……」
オレは訳がわからず、父上に今起こった事を説明しようとした。だがその時、父上の後ろから母上が素早く駆け寄り、オレを抱きしめた。
「キーラ……!!」
(えっ……)
母上にキーラと呼ばれ、強く抱きしめられたオレは、その場から動けなくなった。
「ああ、キーラ! 良かった! 貴方がいなくなる夢を見ていたのよ! 恐ろしい夢だったわ……でも良かった! 貴方はちゃんとここにいたのね!」
「は、母上、オレは……」
母上は抱きしめる手を緩め、オレを見つめて涙目で笑った。
「大好きよ、私の可愛いキーラ……」
オレは、息をのみ何も言えなくなった。弟が死んでから、久しぶりに見た母上の笑顔。この笑顔は、オレに向けられたものじゃない。それでもオレはホッとした。母上がまた笑ってくれた事が、とてつもなく嬉しかった。
再びオレを抱きしめた母上に気付かれない様に、そっと父上に目を向けた。父上は軽く首を振り、今は何も言うなというような合図をオレに送った。オレも、静かに頷いた。
奇しくも、オレの願いは叶った。オレの、獣人としての変身能力がこんな形で現れたのは、月の女神様の加護が働いたのだろうか?
真相はわからない。けれどオレは、母上の笑顔を守る為なら、このままキーラとして生きていこう。この時は、純粋にそう思った。
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