139 シュリの過去 その8
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何故、こんな森の中にサキュバスがいるのだろうと不思議に思った。サキュバスと言えば、栄えた街にいるのが普通だ。しかも助けを求めている。見た限りでは、襲われている様には見えなかった。
(わたしの野営地はすぐ近くだ。こうも大声を出されて、余計な輩を引き寄せられてはたまらん。しかも相手はサキュバス……あまり関わりたくないのだが……)
わたしはしばし迷ったが、あまりにも必死に叫んでいるそのサキュバスを、無視する事が出来なかった。ため息をひとつついてから、わたしは叫ぶサキュバスの元へ向かった。
「どうした」
わたしが声をかけると、そのサキュバスはわたしを見上げ、一瞬目を見開いた。
「あっ、あの! この人が急に倒れて!」
「急に倒れた?」
このサキュバスは何を言っているのだろうと思った。倒れている人間を見る限り、この女が何らかのスキルを発動し、生気を吸おうとした事は明らかだった。
(しかもこの人間……毒にやられているな。かなりの猛毒だ。昆虫などで、毒で意識を奪ってから襲い掛かる種類もいる。このサキュバスはその類か?)
「お前がやったのであろう」
わたしがそう指摘すると、女は動きを止めた。
「え?」
「お前が、この人間の生気を奪うために、スキルを発動したのだろう。自覚がないのか?」
女は、訳がわからないという様な表情でわたしを見つめていた。紫色の瞳の奥に嘘は見当たらず、本当にわからない様だった。
それよりもわたしは、こんなに近付いているのに、吐き気が襲ってこない事に驚いていた。むしろ、この女のそばにいるだけで、心が落ち着き癒しを感じてる事に気が付いた。
「お前、処女だな」
「はいぃい!?」
女の顔は一瞬で赤くなった。
女の言動からして、生気を吸うという行為自体が初めての様だった。サキュバスは生気を吸わないと生きられない。それなのに、この女は今までどうやって生きてきたのだろうか。見た感じ、魔力の制御も出来ていない。その上この女は、自分がどれだけ飢餓状態なのかを把握していない。このままほおっておけば、確実に飢えて死ぬだろう。
わたしは一度、倒れている人間に目を向けた。
(毒で意識を失った……いや、眠らされたのだな。しかし毒が回れば本当に永遠の眠りにつくだろう。わたしなら眠っている間に浄化出来るが……。この女は、あまりの飢餓状態で魔力が制御出来ず、無意識のうちにこの人間を襲ってしまったんだな。事実を知ったとしても、この女には、人間を殺してまで自分が生き残る覚悟などないのだろう)
その時わたしは、何故か、毒蛇に咬まれたあの父親の事を思い出した。
(誰かを殺す覚悟など……持ち合わせていないのが普通だ)
この女とこの死にそうな人間を見捨てる事が出来るくらいなら、そもそもわたしはここにはいなかっただろう。あの父親を殺し、兄も生きていただろう。どうでもいいと本当に思えたなら、わたしは望む未来を歩めていたのだろうか?
「い、今そういうこと関係ないですよね!?」
動揺した女の態度に、わたしは意識を引き戻された。自分の迷いや葛藤を悟られたくないと思った。本当は見捨てる覚悟もなかった。助けるのに、何か理由が必要だと思った。
「関係あるな。お前が、今後わたしとともに来るというなら、この人間を助けてやろう。もし断るのなら、こいつはじきに死ぬだろう」
女はわたしについて来る事を選んだ。内心ホッとしていた。ニーノがあの父親を助けた時の様に。
わたしは人間に自分の角で作った解毒薬を飲ませ、女を自分の野営地まで連れて行った。そして生気を与えようとしたが、わたしがいやらしい事を求めていると勘違いされた。
(いくら処女とはいえ、サキュバスはやはり頭が沸いているものなのだな)
冷静に説明をしている途中で、女に限界が来た。
「あ……れ……?」
わたしがふらついた女の体を抱きかかえると、女の体から紫色の靄が発生し、瞬く間にわたしと女を包み込んだ。次の瞬間、わたしは猛烈な睡魔に襲われた。
(これが、夢魔と呼ばれるサキュバスの能力か……!)
「お前の……毒は、すごい……な」
そう呟いた時、女の唇が首筋に押し当てられ、わたしは意識が遠くなる感覚に心地よさを覚えた。温かく、柔らかい体を抱きしめ、わたしは久しぶりにぐっすりと眠った。
何も無い真っ白な空間で、わたしは何故か子供の頃の姿になっていた。訳も分からず涙が溢れてきた。
「どうしたの?」
声をかけられ見上げると、昨夜出会ったサキュバスがいた。
「父さんと母さんが死んだんだ……。兄さんも死んだ……。わたしは家族を……失ったんだ……」
そう言って涙を流すわたしを、そのサキュバスは優しく抱きしめた。
「大丈夫……私がそばにいるよ。泣かないで……大丈夫だよ」
とても温かかった。優しくて柔らかいその温もりを感じながら、わたしは目を覚ました。
(夢を……見ていたのか、わたしは……)
どうやら、サキュバスの女を抱きしめたまま眠っていたらしい。頬に濡れた感覚があって、夢の中の様に、自分が泣いている事に気が付いた。
「う……ん……」
身じろぎをした女に気付かれぬ様に、わたしは涙を拭いそっと寝床を出た。とても恥ずかしかった。今の夢は、あのサキュバスがわたしに見せたのだろうか? いや、彼女はまだ魔力の制御が出来ない。あんな夢を見たのは、わたしの中の弱さが原因なのかもしれない。
まともな顔で、彼女と話す自信がなかった。わたしは気持ちを入れ替える為、水浴びをする事にした。しばらくすると彼女が起きた気配がして、わたしは自分の動揺を悟られない様に声をかけた。
「目が覚めたのか」
彼女はビクリと体を揺らし、目を泳がせた。わたしの体を気遣い、恥ずかしがりながらも礼を言った彼女に、誠実さを感じた。真面目で正直な女だと思った。このお人好しのサキュバスは、これからどう生きて行くつもりなのだろうかと心配になった。ルーファスを家に連れて行った時の気持ちと似ていた。ほっておけなかった。
(わたしなら……死なずに彼女に生気を与え続けられる)
離れようとする彼女を、わたしは納得させるような事を言って引き留めた。最終的に、彼女はわたしとともに旅をする事を承諾した。
彼女はユーリと名乗った。東の方から来たと言っていたが、“伝説の薬師”の事はその話すらも知らなかった。
不思議な女だった。処女というだけで、わたしはその存在に癒されていたが、それだけではない様な気がしていた。わたしは毎晩ユーリのおかげで眠る事ができ、そして毎晩、わたしは夢の中で子供姿のままユーリに優しく抱かれていた。いやらしい夢ではなかったが、自分がユーリに甘えている事を自覚して、毎朝恥ずかしい気持ちになった。
その後獣人のミーシャも仲間に加わり、わたしは妙な気持ちを抱くようになった。ユーリを、他の男に触れさせたくないと思っている自分がいた。この気持ちが何なのか、答えを出すのはまだ早い気がした。
3人で街の宿屋に泊まった時に、サキュバスが見せる夢についてユーリが口を滑らせた。わたしは、自分が毎晩ユーリに抱きしめられ、優しい言葉をかけて貰っている夢を見ている事に気付いているのではないかと勘繰った。しかしユーリは、どうやらわたしが見る夢には干渉していない様でホッとした。わたしは、それらしい言い訳をして「夢は見ない」と嘘をついた。彼女に、わたしのような嘘を見抜く能力がなくて良かったと思った。
それと同時に、恥ずかしがる彼女をとても可愛く、愛おしく感じ、ずっと抱いていたいと思った。この気持ちの答えは、もう、とうに出ていた。きっと初めて出会った時から、わたしは彼女に惹かれていたのだろう。
ユーリが好きだ。とても愛しい。
だが、初心で恥ずかしがり屋で、同族ではない彼女に、早急に気持ちを伝えるつもりはなかった。わたしには守らなければならない“約束”がある。それは、ユーリの自由を奪う事になるかもしれない。アリシャたちとユーリ、もし同時に危険に晒されたとしたら、わたしはどちらを守るのだろうか。そんな事を考えている時、あの男がわたしを追いかけて来た。
月・水・金曜日に更新予定です。




