127 忘却
127
優里はポケットから折りたたんだメモを取り出すと、それをリヒトに渡した。
「あと……これを優一郎君に渡して」
「シュリさんの中にある貴方の記憶を消し、このメモを先生に渡すんですね? わかりました」
リヒトはそう言うと、家の方へと歩いて行った。優里はその後ろ姿を見つめながら、ふうと大きく息をついた。
「ユーリ様……」
クロエが気遣う様に優里の背中に手を当てた。
「……大丈夫だよクロエ。じゃあ、行こう」
優里はそう言って笑うと、背の高い木々の間から見える空を見上げた。
(大丈夫。これでいいんだ。これで……)
優里の体は紫色に光り、サキュバス本来の姿になった。クロエ自身もメリュジーヌ本来の姿になり、ふたりは翼を広げ空に飛び立った。
森を抜けたリヒトは、増築作業をしていたシュリの元へ真っ直ぐ向かった。
「リヒト? どうした?」
自分の元に向かって来たリヒトに、シュリが話しかけた。リヒトはそんなシュリに向かい眼帯を外した。
「リヒ……」
シュリが目を見開いたと同時に、リヒトの右目から発生した黒い靄が瞬く間にシュリを包み込んだ。その様子を少し離れた場所から見ていたニーノが、慌ててシュリに駆け寄った。
「シュリ!? リヒト!! あんた何やってんだ!?」
ニーノはリヒトを突き飛ばし、シュリの方を見た。黒い靄は既に消え去っていて、シュリはその場にぼんやりと佇んでいた。
「今のは何だリヒト!? シュリも大丈夫なのか!?」
リヒトの能力を知らないニーノは、ふたりを交互に見た。
「うるさいぞニーノ。わたしは何ともない」
シュリは一瞬意識が飛んだように見えたが、すぐに我に返った。ニーノに突き飛ばされたリヒトは、起き上がると何も言わず家の中へと入って行った。
「な、何だったんだ……? まァ何ともないならいーけどよ……」
首を傾げるニーノを尻目に、シュリは何事もなかったかの様に、増築作業を再開した。
家に戻ったリヒトは、今度はハヤセの元へ向かった。
「先生」
「ああ、リヒト、おかえり……って、薬草は?」
どう見ても手ぶらのリヒトに、ハヤセは眉間にしわを寄せた。
「これを、ユーリさんからです」
「優里ちゃんから?」
そう言って手渡されたメモに目をやり、ハヤセは息をのんでリヒトを見た。覇気のないリヒトの目を見て、ハヤセは額に手を当てた。
「優里ちゃん……! なんて事を……!!」
“命令”を果たしたリヒトは、ハッとした様に我に返った。
「あ……れ? 俺は……いつの間に家に戻って来たんだ?」
混乱した様子のリヒトに、ハヤセは一度唇を引き結び向かい合った。
「リヒト……落ち着いて聞くんだ」
ハヤセは、言葉を選びながらリヒトの身に起こった事を話した。リヒトは血相を変え、口元を手で覆い後ずさりをした。
「ユーリさん……! なんて事を俺にさせたんだ……!!」
「リヒト、メモには、君が自分のせいだと思わない様、僕にフォローをお願いする旨が書いてある。そして……皆にも気にしない様に説明して欲しいと。僕は確かに、優里ちゃんが望む事なら協力すると言った。だけどこれは……こんな事、皆が納得する訳がない」
ハヤセはギュッとメモを握りしめた。そこへ、作業を切り上げたシュリとニーノが家に戻って来た。
「おかえり、ニーノ、シュリ! 何か飲む?」
そう話しかけたリアを押しのけ、リヒトはシュリに詰め寄った。
「シュリさん!! ユーリさんが!!」
シュリの両肩を掴み、リヒトは大声を出した。
「リヒト! あんたさっきから何なんだよ? ユーリがどうかしたのか?」
ニーノが呆れた様にそう言うと、シュリが首を傾けた。
「ユーリ? 誰の事だ?」
「え?」
ニーノとリアはポカンとした表情でシュリを見た。そこへ、執筆活動をしていたルーファスが、背伸びをしながら部屋から出てきた。
「疲れた~! なんか甘いものが食べたいなぁ~。ユーリが昨日焼いたクッキー、まだあるかい?」
その台詞を聞いて、シュリは眉間にしわを寄せた。
「さっきから誰の事を言っているんだ? ユーリとは誰だ?」
シュリの態度を見ていたリアが、腕を組んで大きなため息をついた。
「シュリ! その冗談は笑えないわよ! まぁ、シュリの冗談はいつも笑えないけど」
「リア」
ハヤセは、リアの言葉を遮るように名前を呼んだ。
「何よハヤセ、どうしたの?」
(この状況を……どうやって収拾しろっていうんだ……! 無茶ぶりが過ぎるよ、優里ちゃん!)
ハヤセが顔をしかめ額に手を当てた時、アンシュが部屋から出てきた。ひとりで部屋から出てきたアンシュを見て、リアが声をかけた。
「アンシュ、ひとり? ユーリは?」
「しらない。気付いたらいなかった」
素っ気なくそう答えたアンシュに、シュリが尋ねた。
「アンシュ、ユーリとは誰の事だ?」
「え?」
アンシュは、シュリの問いに首を傾けた。
「何言ってるの、父さま?」
「何故……わたしだけがわからない? ユーリとは……誰だ? わたしは……どこかでその名前を……」
シュリは何かを思い出そうとしたが、その瞬間頭に激痛が走った。
「ぐっ……!」
「父さま!?」
酷い耳鳴りに、頭を押さえ跪いたシュリに、アンシュが駆け寄った。
「頭が……痛い」
「父さま!」
「わたしは……何か……忘れている……!? 何か、大事な事を……ぐぅっ……」
頭を押さえ、必死で何かを思い出そうとしているシュリの鼻から、血が滴った。
「シュリ!! 無理に思い出そうとするな!! 脳が破壊される!!」
ハヤセが、慌ててシュリを支え叫んだ。
「なに!? 何なの!? 父さまどうしたの!? 先生!?」
アンシュが青い顔でシュリとハヤセを交互に見た。
「シュリ、とにかく横になろう。何も考えるな」
ハヤセはシュリを部屋に連れて行き、ベッドへ寝かせた。そして心配そうに見つめているアンシュに、優しく声をかけた。
「アンシュ、シュリに付いててくれる?」
「父さまだいじょうぶなの!? 先生!」
「うん、少し休めば大丈夫だよ。アンシュ、シュリのそばにいてあげて」
「うん……」
アンシュは横になっているシュリの手をギュッと握った。ハヤセはシュリとアンシュを部屋に残し、静かに皆の元へと戻った。
皆の所には、騒ぎを聞きつけたアリシャもいて、戻って来たハヤセに詰め寄った。
「一体何の騒ぎ!? シュリはどうしたの!?」
シュリのただ事ではない状態に、皆口を噤んでいたが、ニーノが何かを思い出したように声を上げた。
「シュリは……リヒトの瞳から出た黒い靄に襲われてた。それが何か関係してんじゃねェのか?」
「黒い靄だって? リヒト、まさかキミ……」
「ルーファス、リヒトに罪は無い。これは優里ちゃんが自分で決めた事だ。リヒトは利用されただけ」
ハヤセはルーファスの言葉を遮ると、ひとつ息をついて話し始めた。
「シュリは……記憶を消されてる」
「え……?」
皆が呆然とする中、ハヤセは話を続けた。
「優里ちゃんは“使役”のスキルでリヒトを操り、優里ちゃんの記憶だけを……シュリの中から消した。理由は僕にはわからない。だけど彼女の事だ……きっと、自分以外の誰かの為にやったんだと思う」
ハヤセとリヒト以外の4人が、同時に息をのんだ。
「……ルドラとの……約束……」
ニーノがぼそりとそう呟くと、アリシャは顔を手で覆いその場に崩れ落ちた。
「ユーリさん……!! なんて事を……!! シュリと話をしてわかって貰えたっていうのに……!!」
ルーファスはそんなアリシャのそばに寄り、肩を抱いた。
「アリシャ、例えシュリが納得していたとしても、ユーリの方はそうじゃなかった……。彼女の事だ、きっと、アンシュの事が気掛かりだったんだろう」
ここ数日、皆はアンシュがユーリに懐かず、邪険にしていたのを見ていた。
「ユーリは……自分が邪魔者だって思ったっていうの?」
リアがそう問いかけると、ハヤセはふうと息をついた。
「実は僕は……シュリからある相談をされた。家を出て共に旅をしたいと優里ちゃんに言ったら、彼女は考えさせて欲しいと言ったって……。優里ちゃんがアンシュの事を気にかけていたのなら、きっと、自分の記憶が無ければ、シュリがこの地を……アンシュのそばから離れる事はないと考えたのかもしれない」
「私が……私が、アンシュはユーリさんにシュリを取られるって思ってるなんて軽々しく口にしたから……!」
「アリシャ、落ち着いて、君のせいじゃない。きっと優里ちゃんが、アンシュの態度を見て自分で決めたんだ」
ハヤセはそう言って、アリシャを落ち着かせようとした。
「私がアンシュにちゃんと言い聞かせるわ! だから……シュリの記憶を戻して!」
「アリシャさん……俺は、記憶を消すことは出来でも、戻す事は出来ません……。無理に思い出させようとすれば、シュリさんの脳に障害が出てしまいます」
リヒトが、アリシャに向かってそう言った。
「それよりも……アンシュが事実を知って、自分を責めないかが心配だ。アンシュはまだ子供だ。きっとすぐには気持ちの整理なんて出来ないだろう。もしアンシュが心に傷を負う様なら……僕は、アンシュからも優里ちゃんの記憶を消すのを推奨する」
ハヤセの言葉に皆が息をのんだ時、小さな声が静かな部屋に響いた。
「ぼくの記憶は消さなくていい」
その声に皆が振り向くと、そこには、無表情で佇むアンシュの姿があった。
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