118 涙
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「ユーリ、箱をかしてくれ」
シュリの言葉に、優里はシュリとは反対側に置いた箱に目をやり、少しためらった。
「大……丈夫ですか?」
「これは……きちんと向き合わないといけない事だ。それに今は、お前が隣にいてくれる」
シュリはそう言って、優里の額に自分の額を合わせた。
「隣に……いてくれるか?」
「……はい」
優里がシュリに箱を渡すと、シュリは箱の表面を一度撫で、ゆっくりと開けた。白く、ずっしりとした重量感があるその角は、近くで見るとキラキラと輝くラメがちりばめられている様に見えて、光によって輝きが増し、とても美しかった。
シュリはしばらく無言でそれを見つめていた。優里は、少しでも自分がそばにいるという事を伝えたくて、箱に添えてあるシュリの手にそっと自分の手を重ねた。
「わたしは……ずっと認めたくなかったんだ」
ぼそりとシュリが話し始め、優里は黙って耳を傾けた。
「あの日……リアから兄のたてがみを渡された時も、わたしは、兄の死を認めたくなかった。新しい森で生活をする様になってからも、きっと兄は逃げ延びていて、笑いながらひょっこり帰って来るんじゃないかと思っていた。……いや、思っていたんじゃないな、願っていたんだ、ずっと……兄が生きている事を」
優里は唇を噛み締め、涙が出そうになるのをグッとこらえた。
「ニーノの過去の夢を視た時はさすがに堪えたが……それでも、あれはあくまでも夢だ。ニーノの思い違いが反映されてるかもしれない。そう自分に言い聞かせて、希望を……捨てたくなかった」
シュリはそこまで言うと、何かに耐える様に短く息を吸い、箱の中の美しい角をそっと撫でた。
「兄さんは……もう、この世にいないんだな」
(ああ……ダメだ……)
優里の瞳から、耐えていた涙がボロボロと零れ落ちた。諦めを孕んだシュリの声色や伏せられた瞳に、大切な人を亡くしたシュリの辛い気持と、やっと真実を受け止められたという安堵した気持ちが入り混じっている様で、優里は心がえぐられた。
シュリは、大粒の涙を流し嗚咽を耐えている優里に気付くと、その涙を拭おうと手を伸ばした。
「ダ、ダメですシュリさんっ……! 私の涙、触ったらケガをするんです!」
優里は慌ててシュリと距離を取ろうとしたが、シュリの手は躊躇する事なく、優里の頬に触れた。
「大丈夫だ。デクの腕を傷付けた時、お前の涙は紫色に変色していた。今は透明だ。何ともない」
そう言って、シュリは優しく優里の涙を指で拭った。
(あの時……シュリさんは酷い攻撃を受けて死の危険に晒されていたのに、ちゃんと状況を把握してたんだな……)
優里は、どんな状況下でも冷静に周りを見ていたシュリに、頼もしさを感じる反面、自分の感情を抑える術を、きっと小さい頃から強いられてきた事に心を痛めた。
「……シュリさん、もっと……私の前では、もっと感情を吐き出して下さい……」
「ユーリ……」
「もっと、泣いたり怒ったりして下さい! 私、頼りないかもしれないですけど、シュリさんひとりぐらい支えられます!」
大粒の涙を流しながらも、優里の紫色の瞳は強い光を宿していた。シュリはその瞳に射抜かれ、困った様に小さく笑い、優里の肩に自分の額を預けた。
「まいったな……」
「シュリさ……」
その時優里は、自分の肩が熱い何かで濡れていくのを感じた。少し震えているシュリの体を優しく抱きしめ、そして広い背中を黙ってさすった。
しばらく頭を預けていたシュリは、ゆっくりと顔を上げると、再び優里の額に自分の額をくっつけた。
「兄さんを……アリシャの元へ連れて帰る……。一緒に……来てくれるか……?」
「はい……」
シュリは優里の返事に安心した様にフッと息をつき、そのままゆっくりと顔を傾け、優里の唇に自身の唇を近付けた。
(あっ……)
優里はシュリのその動作に、瞬時に体を硬直させた。
(キス……されるっ……!)
優里はギュッと目を瞑ったが、シュリは寸での所で動きを止め、優里から離れた。
(あ、あれ……?)
優里がゆっくりと目を開けると、シュリは真剣な表情で口元に手を添え、何やら考え込んでいた。
「シュリ……さん?」
優里が声をかけると、シュリは口元に手を添えたまま優里を見つめた。
「今、お前を抱いてしまいそうになり、気付いた事がある」
「え!?」
(抱いてしまいそうにって……あ、そっか、シュリさんの場合、キス=最後までだから)
優里は赤くなったが、シュリは眉間にしわを寄せ、続けた。
「ハヤセは童貞だろうか? アリシャに近付けなければ、治療どころではない」
「え……」
(気付いた事ってそれ!?)
「ユーリは知らないか? ハヤセが童貞かどうか」
「え!? いやいや、知ってる訳ないじゃないですか!」
優里の顔は、違う意味でまた赤くなった。
「ハヤセに直接確認するしかないな。明日、朝食の場で訊いてみるか」
「いやっ、シュリさん! それはこっそりと訊いた方がいいです! デリケートな問題なんで!」
「でりけーと?」
「あ、えっと、繊細な問題なんで! とにかく、朝食の場で訊くのはやめましょう!」
優里は、首を傾げるシュリを必死で説得するのだった。
次の日の朝、優里たちは北の国へ帰る為に、早めに朝食を済ませた。バルダーが西の国の王に最後の挨拶をしている間、皆は出発の準備を済ませ、城の談話室でお茶を飲みながらくつろいでいた。その時、シュリがハヤセに切り出した。
「ハヤセ、でりけーとな話なのだが、お前は童貞か?」
「ぶはっ!!」
突然シュリにそう言われ、ハヤセは飲んでいたお茶を吹き出した。
「シュリさん!!」
シュリの隣に座っていた優里も、思わず持っていたティーカップを落としそうになった。
「なんだ? 朝食の場ではないし、先にでりけーとな話だと前置きもした」
「いや、前置きから本題までが秒でした! それにこっそりと訊いた方がいいって言ったじゃないですか!」
「そんなに大きな声では訊いていないぞ」
(こっそりの意味がわかってない!)
「先生にここまでのダメージを瞬時に与えるとは……さすがシュリさんです」
どう説明したらいいのかと困惑する優里の前で、ハヤセの隣に座っていたリヒトがしれっと呟いた。
シュリは、咳込むハヤセに構わず話を続けた。
「ハヤセ、アリシャは童貞以外の男性が近付くと吐き気を催すんだ。もしお前が童貞じゃないのなら、治療に支障が出るかもしれない」
「と、とにかく私は席を外すね!」
優里が立ち上がろうとしたが、ハヤセはそれを制止するかの様に掌を優里に向けた。
「いや、いいよ優里ちゃん……。アリシャの前に行けばバレる事だし……」
ハヤセは呼吸を整える様にゆっくりと息を吸うと、シュリに向き合った。
「結論から言うと、僕は童貞じゃない」
少し顔を赤らめながらも、ハヤセはシュリにそう言った。
(そ、そうなんだ……。って、そりゃそうだよね! 優一郎君がこの世界に転生して3年は経ってるはずだから……きっとそれなりに、そういうシチュエーションがあったよね!)
「先生、ユーリさんの事を好きだと言いながら、しっかりやることはやってたんですね」
「うるさいよ、リヒト」
リヒトのつっこみに、ハヤセはばつが悪そうに言い返した。そんなハヤセの瞳の奥を、シュリはまじまじと確認した。
「……嘘ではない様だ」
「嘘だったら、それはそれで面白かったですけどね」
「黙れ」
野次をとばすリヒトを、ハヤセがじろりと睨みつけた。シュリはそんなリヒトにも目を向け、話を続けた。
「お前はどうなんだリヒト。ハヤセの助手なら、お前もアリシャのそばに寄るだろう」
「え」
(矛先がリヒト君にまで!!)
珍しく動揺したリヒトに、ハヤセが口角をあげた。
「そうだね。助手の君には色々と手伝って貰わなくちゃならないからね。君が童貞かどうかも、シュリは把握しておく必要があるよね」
「俺は……」
優里は、チラリと自分を見たリヒトの視線に気付いた。
(き、気まずい……!)
「ル、ルーファスさんの本は面白いなー! 夢中になり過ぎて、他の話が全然入って来ないなー!」
優里はその場にあったルーファスの本を顔の前に掲げ、棒読みでそう言った。しかし持っている本はさかさまで、リヒトはそんな優里を横目に軽く咳ばらいをすると、シュリに向き合った。
「俺も経験済みです」
しばらくの沈黙の後、シュリは呟いた。
「……嘘だな」
「ええ!?」
(リヒト君、なんて無駄な嘘を!?)
シュリの言葉に優里が思わず顔を上げると、シュリは淡々とした口調で続けた。
「冗談だ。お前も嘘はついていない」
「……人が悪いですよ、シュリさん。あと、ユーリさんも聞いてないフリが下手過ぎます」
「ご、ごめん……」
眉間にしわを寄せたリヒトは、ため息をつきながら優里とシュリを見た。
「お前はいつも人をからかってばかりだからな。たまにはこういうのもいいだろう」
シュリはそう言って少し笑ったが、すぐに口元に手を当てて考え始めた。
「しかし……そうなるとふたりともアリシャに近付けない。どうしたものか……」
「あの……」
考え込んでいるシュリに、ベルナエルがおずおずと声をかけた。
「あんたたちさっきから何の話してんの? 談話室の風紀を乱さないでよね」
ベルナエルの隣にいたアスタロトが、呆れたように息を吐いた。
「えっと、ごめんなさい、聞くつもりじゃなかったんですけど聞こえちゃって……。あの、でも、その問題、どうにか出来ると思います」
「どういうことだ?」
その言葉を聞いて、シュリたちはベルナエルに注目した。
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