夕日の音色
「僕はオルゴールの音が嫌いです。
小さい頃から、ずっと。どうしても耳を塞ぎたくなってしまいます。」
飄々とした佇まいの"異端者"は、自己紹介、と称してそんなことを口にした。
九月上旬。本格化してきた残暑。弱々しい蛙鳴蝉噪。世の中の全てが形骸化してしまいそうな、私が一番嫌いな季節に彼はやってきた。
埼玉県のくせして、周りは川や田んぼばかりのド田舎にあるこの学校では、転校生を"異端者"と呼ぶ習慣があった。
全くナンセンスだな、とぼやきながら、私は眠気で霞んだ目を凝らした。
細長い手足に広い肩幅。うっすらと笑みを含んだ唇。色素の薄い髪の毛から、幻影のように見え隠れする切れ長な目。
目…。私は奇妙な衝動が心を侵食していくのを感じた。何を映しているのか分からないその目は、瞳孔は、どんな色をしているのだろう。何を美として、何を酷とする?
知りたい、と思った。
私は色が好きだ。人間の色彩認識能力は個体によって異なる、という話はよく耳にするだろう。
文明が発達して機械の信頼度が日に日に高まっている現代でも、完全な「視覚の共有」はできない。どんなに性能が良いカメラでも、語彙が豊かな小説家でも、私たち人間の目に映る光景の秀麗さや残酷さは伝えきれない。
だから、いま私が見て、認識している色は、風景は、全て私だけのもので、私だけの世界なのだ。
「私は、私が見ている世界が好きで愛おしくて堪らないんだよ。ときに他者に共有してしまいたいと思うほどにね。でもね、私の場合、独占欲と顕示欲がぶつかり合ったときに、勝つのは必ず独占欲なんだ。どうしてだろうな。わかんないや。君はどう?」
"異端者"と話しているときの私はひどく雄弁だ。初めに彼と話をしたときは、自分が自分じゃないかのように思えた。けれど今ではわかる。きっとこれが、本来のわたし。
彼は躊躇いがちに口を開いた。
「僕はね。僕は、何かを好きになったことがないんだ。記憶を辿る限りね。思い出せないだけなのか、思い出したくない、防衛本能なのかは分からないけど。だからそういう、欲と欲が衝突するなんてことは想像もできないんだよね。」
私は拍子抜けしてしまった。笑い飛ばしてしまおうかとも、スルーしてしまおうかとも思った。でもそれらは全て不正解だった。なぜなら、彼と話しているときの私は、本当の"わたし"なのだから。
「だから」僅かに声が上擦る。「だから、オルゴール。」
「そう。」彼は笑った。空気が静かに揺れた。
「不思議だよね。何かを嫌うことは山ほどあるのに、好きになることがないなんてさ。つまらない人生だってよく言われる。でもね、」
挑発的な口振りで彼は言う。
「僕にとってはこれが普通なんだ。つまらないだなんて誰が定義付けられるんだ?」
乾いた教室。沈みゆく西日に、そこに在る全てのものが乱反射してしまいそうだった。
「そうだな」確かな重みと焦燥感を孕んだ沈黙を破り、私は言葉を紡いだ。
「私が好きなのはね、きっと"私自身"なんだと思う。色鮮やかな景色が好きだ、もの悲しさを包み込んだ木立が好きだ、春の日に佇む陽炎が好きだ。でもそれは、それらは全部私が見たものじゃないといけないんだよ。私の世界に、確かに存在する概念じゃないと駄目なんだ。」
不満そうに彼は顔を傾けた。
「じゃあ君はさ、自分にはなくて他人にはあるものを、好きにならないのかい?」
やるせなく笑って、私は首肯した。
「でもね」
微かな緊張を感じ取ったのか、彼は顔を上げて言葉を待った。
「私の目に映る君を、私は美しいと思うよ。」
数秒間の静止ののちに、彼ははにかんで
「そうだね。僕も僕自身のことが好きだな。」
と嘯いた。
ああ、と私は惚けた。この人の目は確かに、間違いなく、綺麗だ。
それから数ヶ月、私と彼は他愛のない日常を送っていた。彼は社交的な人だった。彼を"異端者"と呼ぶような人はいなくなった。ナンセンスだと蔑んでいたその言葉を、私は案外気に入っていたことに気付いて少々面食らった。
その日は寒かった。少し淋しい秋の香りが鼻を衝いて、乾いた目を潤した。私はふと、ほんとうに思いつきで、彼に質問を投げかけた。
「そういえばさ、君が転校してきた日、自己紹介で。オルゴールが嫌いって言ってたけど、それはどうして?」
強い風が吹いた。靡く髪の毛を掌で抑え、落ち行く枯葉を横目で追いながら返答を待った。
「オルゴールの音色は」彼は少し息苦しそうに続けた。
「確かに綺麗で美しいけど、どこか人を傷つける節がある。やさしくて切ないその音色を聞くと、そうだな、例えば自分が一番見せたくない弱さだとか、今まで精いっぱい虚勢を張って遠ざけてきた欠如感だとか、そういうものが赦されてしまう気がするんだ。僕はそれが許せないんだよ。一種の自分への戒めを解いて、露わにして、音に乗せて攫って行かれてしまうのが怖いのかな。わからないけれど。」
私は言葉が出なかった。正直、何を言っているのか解らなかった。ただ、彼の抱えている苦悩や絶望や自嘲が、鮮明に、それはもう痛いくらいに、想像できてしまった。
彼はどこか一点を平然と見つめて、淡々と口を滑らせた。
「君がさ、独占欲と顕示欲がぶつかったとき、必ず独占欲が勝つって言ったの。あれ、ほんとはちょっと解ってたんだ。僕も独占欲が負けることはないから。」
不意に視界に入った彼の横顔は、夕空を映して茜色に染まっていた。あのときも同じ色をしていたな、とぼんやり思った。
「僕等は少し似ているのかもしれないね。」
彼は笑った。
どうしていいか分からなくて、私は天を仰いだ。すっかり夕闇を手にした空は、今にも渾然一体となってしまいそうだった。