031 臨死戦線
立ち上がる巨大な怪物。
ヴァイオラは呆然と、その影を見上げていた。
「……は、はは」
しかしやがて、彼女の体は小刻みに震えはじめる。
「ははははっ、あははははははっ!」
「ヴァイオラさん……?」
キャミィはヴァイオラを見ながら怯えた。
今のキャミィには、なぜ彼女が笑っているのか全く理解できないだろう。
けれど――僕にはその気持ちがわかった。
今までは“可能性”だったものが、たった今、この瞬間に“証明”されてしまったのだから。
「見てよクリス。あれ、ミーシャよ! やっぱりそうだった! 私が思った通りだった! あははははっ、だいせいかーいっ!」
「……っ」
「クリスさん、どういうことなんですか?」
「ミーシャはおそらく……二年前からすでに、薬を摂取していたんだ」
確証はないけれど、それはおそらく、継続的なものだったと考えられる。
あの怪物は、グラードとは明らかに違う。
体の大きさだけではない。
肌で感じられる、その圧倒的な魔力――それはミーシャ自身の才能はもちろんのこと、一度や二度、魔薬を摂取したからといって身につくものではないだろう。
「旦那様や奥様が私たちが出ていくのを見逃したのは、こういうことだったのよ! 実験? 見捨てた? あははっ、もうどっちでもいいわ! 終わりよ! 何もかも! あはははははははははっ!」
「そんな……じゃあ本当に、あれはミーシャなんですか……?」
僕らが見たって、そこに彼女の面影を探すことは難しかった。
人の形をしているとは言っても、肌の色も、顔つきも、体型も、何もかもがミーシャとは違っていたからだ。
そいつは立ったまま、首を左右に振って視線をさまよわせる。
そして、うつろな笑い声を響かせるヴァイオラを見て、止まった。
「オォォォォオ……」
低く重い呻き声は、胃袋の中身をかき混ぜるように震わせる。
「もしかしてミーシャさん、ヴァイオラさんを探してるんじゃないですか?」
「そうだね、探してはいるだろうけど――」
何のために、探すのか。
その答えは、ミーシャが示すことでしか明らかにはならない。
巨人の瞳は赤く光り、じっとヴァイオラを凝視する。
一方でヴァイオラは、相手を見ているのかどうかもわからない有様だった。
騒ぎを聞きつけ、民家の窓が開き、外に住民たちが出てくる。
彼らは巨大な影を指差しながら、「あれは何だ」、「魔物だ」、「冒険者を呼んでこないと」などとざわめきはじめる。
その声に反応して襲いやしないかと心配だったが、ミーシャは良くも悪くもヴァイオラ以外の人間など眼中にない様子だった。
「クリスさん、ミーシャをどう……するんです?」
「……殺すしかない。ああ、なってしまった以上は」
「ほら見なさいよ、結局、私が正しかったんじゃない」
ヴァイオラはふらりと立ち上がると、僕の胸ぐらを掴んだ。
「殺しておけばよかった……クリスがあんたが止めなければ、あれで終わってたのッ! こんなことにならずに終わらせられてたのよぉっ!」
「それは……」
「やめてくださいヴァイオラさんっ! そんなのただの結果論じゃないですか!」
「結果論だとしてもッ! どうすんのよ、あれ。ははは、殺せる? 殺せるのぉ? あれたぶん、とんでもない化物よ? 今のボロボロの私たちがどうやって戦うっていうのよ」
「……」
「クリスさん……方法は無いんですか? 今は無理でも、動きを止めて、元に戻す手段を探すとかっ!」
「できるなら、それが一番だろうね」
でも、できるのか?
グラード相手にも、キルリスと手を組んでどうにか勝てたっていうのに。
ひょっとすると、あのミーシャが見掛け倒しで、弱い可能性だってあるけれど――そんなのは、ただの都合のいい妄想に過ぎない。
僕が選べずにいると、ミーシャの体はガクガクと震えはじめた。
なおも変形する。
腰回りから尖った骨が何本も突き出し、スカートのように広がる。
両腕が裂け、触手のように筋繊維が飛び出し、フリルのようにうごめく。
胸が開き、肋骨が裂け、脈打つ心臓がまるでブローチのように晒される。
「オォォォォオオオオオオッ!」
ミーシャは自らの体を見ると、ひときわ高い声で叫んだ。
ヴァイオラはつぶやく。
「ふふ……ミーシャってば、そんなになっても女の子なのね……」
ドレスで着飾った、とでも言うつもりなのか。
あのおぞましい姿が。
しかし、僕が口を挟んでも意味などないだろう。
きっとそれは、ミーシャとヴァイオラの間でしか理解できない価値観なのだろうから。
それより問題は――おそらくあれが完成してしまったことだ。
あれが魔物だというのなら、変異が終わったあと、やることは一つしかない。
“破壊”である。
「オォォォ……」
ミーシャは右手に力を込めるような仕草を見せる。
すると手のひらがボコボコと泡立ち、そこから肉の塊が現れた。
肉塊の内側では筋繊維が蠢いており、それが皮膚を突き破ると、血が噴き出し、異形の花が咲く。
咲いて、咲いて、咲いて――ミーシャはその花を、愛でるように左手で撫でた。
そして、天高く放り投げる。
それはまるで――新婦が行うブーケトスのようであった。
僕らはそれを目で追った。
表に出てきたティンマリスの住民たちも同様に。
誰一人として――何が起きるのか、想像できたものなんていなかったから。
ブーケは放物線を描き、その頂きで、爆ぜた。
光が放たれる。
それはさながら太陽のように、街をまばゆく照らす。
一瞬の出来事だった。
猛烈な熱波が街全体を覆い、外に出ていた普通の人間は――全員、例外なく灼かれた。
無論、街そのものも、無事では済まない。
少し前までは眠り、静まり返っていたティンマリスは、その瞬間を境に、全体が炎に包まれる地獄と化した。
「あ……ああぁっ……ああ、ティンマリス、が……」
「キュゥ……」
僕の背後でキャミィが絶望し、リザードがそれを慰める。
「ははっ、あはははははははっ!」
ヴァイオラは炎上する街を見て笑う。
堕ちるところまで堕ちた今、彼女にはもはやそうすることしかできなかった。
「はぁ……はぁ……」
――危なかった。
とっさに、あれが魔法であることに気づき、引き裂けていなければ、僕もキャミィも死んでいただろう。
よく反応した。
よく反射してくれた。
今ばかりは、自分を褒めてやりたい。
しかし――足を止めてはならない。
ミーシャ、否、“敵”は動き出したのだから。
「キャミィ、動ける?」
「そんな……そんな、みんな……っ」
「キャミィッ!」
僕は彼女の肩を掴み、語気を強めて呼びかけた。
その瞳には涙が浮かんでいる。
故郷が一瞬にして焼けてしまったのだ。
犠牲になった人々には、おそらくキャミィの知り合いも多かっただろう。
落ち込む気持ちはよくわかる。
いいや、それが普通の反応だ。
しかし僕らは生き延びなければならない。
そのためには、ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。
「木造の家は焼けてるけど、石造りの建物は無事だ。ニール先生の診療所は石造りだった。つまり、少なくともご両親は無事だ」
「でも……街の、みんなが……」
「今はそう思うしか無いんだッ! お願いだから立ってくれ、僕は生き延びたいし、キャミィにも死んでほしくないッ!」
「クリス……さん」
キャミィは袖で涙を拭うと、歯を食いしばって頷く。
「行きましょう。私も……死にたくありません!」
「クエエェェェエッ!」
「リーくんもそうですよねっ!」
「よし、なら早くリザードに乗って。ヴァイオラは立てる?」
「ふふ……あはは……」
立てはするだろうけど、立つ意思が感じられない。
僕は「チッ」と思わず舌打ちをしてしまった。
「キャミィ、リザードに二人乗れる?」
「多少、速度は落ちますが、可能です」
「じゃあヴァイオラをお願い。僕が護衛しながら、まずは街の外を目指す!」
「わかりました!」
己を奮い立たせるように、大きな声で答えるキャミィ。
そして僕はヴァイオラを彼女の後ろに座らせると、街の外へ向かって走りだした。
通りには、いたるところに、焼けただれ、苦しむ人々の姿が見えた。
燃える建物からは怒号が聞こえ、必死に逃げ惑う。
中には、僕らに助けを求める人もいたけれど、今は何もできない。
自分たちが生き残ることすら、満足にできそうにないのだから。
「……またあれが来たら、今度こそおしまいです」
僕はリザードと並走しながら答える。
「けど連発してはこない。あんな大規模魔法、さすがに魔物にでも連続しては使えないんだ」
「じゃあ、外に逃げるまでの時間は……」
「あれば、嬉しいけど――」
ミーシャの瞳は、こちらを追っている。
おそらくはヴァイオラを追尾しているのだろう。
だが、そこにある感情は、おそらく愛情などではない。
いや、仮にミーシャ自身が愛情を抱いていたとしても、あの体を動かしているのは彼女の意思ではなく“魔物”の意思だ。
以前のミーシャの記憶が残っている。
そこにヴァイオラの姿がある。
だから彼女を追うが、そこから先は――魔物が決めること。
「クリスさん、ミーシャが動きましたっ!」
今度は自らの手で、腰から生えた骨を掴む。
それをブチッと引き抜くと、大きく振りかぶって――投げた。
ゴオオォオッ! と風を切りながら迫るそれは、しかし僕らに真っ直ぐ飛んでくるわけではない。
「きゃああぁぁぁっ!」
頭上を通り過ぎ、キャミィが悲鳴をあげる。
そして燃え盛る家屋に突き刺さると、盛大に爆発した。
橙色の炎があがり、爆風がこちらに迫る。
「くううぅぅぅっ!」
「キャミィ、大丈夫!?」
どうにか踏ん張るキャミィ。
僕はずり落ちそうになるヴァイオラを手で支えた。
「平気です。でも、あれもしかして爆弾なんですか!?」
中身がどうなってるかなんて僕にもわからない。
着弾した瞬間に魔法が炸裂した――ってことなんだろうけど、それ以上のことは何も。
爆風が収まると、再び逃走を再開。
一歩でミーシャは少し不機嫌そうに、骨を投げた右手を眺めていた。
狙いが定まらなかったのが不満だったのか。
そして、まるで新しいスカートを身につけた女の子のように、体を左右にひねると、今度は腰回りの骨が全てぼとりと落ちる。
「抜けた……?」
「いや、あれは――」
骨の端が炎を噴き出し、ふわりと空に浮かび上がる。
手で投げるのではなく、それそのものに推進力を与えて、こちらを狙おうとしているのだ。
しかも放たれた骨は一本ではない。
数十本。
全てが触れた瞬間に爆発する、“兵器”がそんな数、一斉に雨のように降り注ぐのだ。
しかもたちの悪いことに、骨そのものは魔法じゃない。
あの圧倒的な質量を、今の僕の腕で弾き返すのは不可能だ。
「まずい。キャミィ、急いで!」
「そうは言われましても、リーくんの限界が!」
「クエェェエエェッ!」
「とにかく前に進もう! あんなものに巻き込まれたら絶対に防ぎきれない!」
ただただ必死だった。
それ以外にやれることが僕らにはなかった。
空に浮かぶ骨は、ひときわ大きく炎を噴き出すと、こちらに向かって一斉に加速する。
ヒュオォォオオオッ――巨大な爆弾が、風を切って、まるで押しつぶすように近づいてくる。
逃げ切れない。
こんなもの、避けることも、防ぐことも、耐えることも、ただの人間にできるはずがない!
「クリスさんっ、もうダメですっ!」
「くっ――こんのぉぉおおおおおッ!」
どうせ死ぬなら悪あがきだ。
僕は両手に無数のナイフを握り、それを骨に向かって投擲した。
しかし無情にもカンッ――と弾かれる。
それはそうだろう。
あの骨はミーシャの一部。
グラードよりもさらに硬い魔力障壁が、それを守っているのだから。
成すすべもなく、ただただ無力。
僕は足元がぐらりと揺らぐのとを感じた。
同時に、目の前が真っ暗になって、何も見えなくなった。
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