002 彼女が嫌いな僕
僕は眠るのが嫌いだった。
昔の夢を見るからだ。
これが夢でなくて現実だったら、どれほどいいだろう――そんなことを考えてしまうから。
今の僕の状況は、さながら悪夢のようなもので。
いつか覚めてくれればいいと願うほど、今の現実が辛くなるから、眠らずに作業ができる今日みたいな日も、そんなに悪くないと――本気で思っている。
◇◇◇
翌朝、どうにか書類の処理を終えた僕は、それをリーゼロットの部屋に届けたあと、ありがたい罵倒のお言葉を頂いた。
そして今日の仕事を始めようと意気込んだ所で――意識を失った。
目を覚ますと、僕はベッドの上で横になっていて、額には濡れた布巾が置かれている。
「ああ……倒れたんだ、僕」
困ったな、こうならないように体力は付けてたつもりなんだけど。
僕が目を開くと、横に座っていたメイドの女の子がほっと胸をなでおろした。
「よかったです、クリスさん。もう二度と目を覚まさないんじゃないかって、みんな不安がってたんですよ?」
「ごめんね、情けないところを見せちゃったね」
「情けないなんてことありませんッ! 聞きましたよ、もう何日も眠ってないし、まともに食事だって摂ってなかったって!」
「落ち着いてよ、大したことないから」
「大したことありますッ!」
なぜか僕よりも感情を高ぶらせて、声を荒らげる彼女。
そんなに怒らなくても、もう起き上がれるし、本当に大したことないのに。
すると、そんなメイドの声に気づいたのか、リーゼロットが部屋に入ってくる。
彼女は冷めた表情でベッドに横たわる僕を見ると、一言、
「目を覚ましたのなら仕事に戻りなさい」
とだけ告げた。
そんな彼女を睨みつけ、今にも掴みかかりそうだったメイドを、僕は手で制する。
「クリスさん……おかしいですよこんなの。どうしてお嬢様はクリスさんにだけ、こんなにひどいことするんですかっ!」
「うーん、愛、かな」
「……じー」
場を和ませようとジョークを言ったつもりだったんだけど、逆に睨まれてしまった。
決して嘘を言ったわけじゃないんだけどな。
「“嫌い”って“好き”の裏返しだから。たぶん、昔の仲良かった頃の分だけ、その反動が来てるんだよ」
「だとしてもっ!」
「うん……だとしても、ちょっとひどいけどね」
「え……あ、クリスさんが、そんなこと言うの初めて聞きました」
「まあ、表には出さないようにしてたし。けど、そろそろ頃合いかもしれない」
「頃合い?」
「とりあえず仕事に戻ろっか。出遅れちゃったから、今日は忙しくなるね」
僕は顔に笑顔を貼り付けて、同僚を黙らせた。
彼女は納得してない様子だったけど、僕もこの場で、彼女に答える言葉は持ち合わせていなかった。
◇◇◇
その日の夕方、僕以外の給仕たちの仕事が一段落した頃。
僕は彼女たちが休憩する部屋の前を抜ける廊下を通りがかって、その直前の角で足を止めた。
遠くの部屋から――わずかだが少女たちの話し声が聞こえてくる。
「ほんっとありえないよね! クリスさん、あんなにがんばってるのに!」
「わかる。あたしらよりもずっと仕事してるし、手際だってすっごいいいのに、何でお嬢様はあんなことするんだろ」
「手際がいいなんてもんじゃないよ。あの人がいなかったら、お嬢様……ううん、あいつなんてまともに領主はやっていけないわ」
「昔、何があったのか知らないけど、お嬢様はもっとクリスさんのこと大事にするべきだよ」
「つかさ、あのお嬢様にクリスさんもったいなくない? うち以外でやったほうがいいって」
「調理長もそう言ってた。仕事先紹介するって言ったのに、断られたって」
「クリスさん、やっぱりお嬢様に弱みを握られてるのかな……」
「うわ最悪。そこまでする?」
「ちょっと魔力が強いからっておかしいよね。魔力があっても人間性が最悪じゃ意味ないって」
それは密閉された場所で、誰にも聞かれていなければ、職場でありがちなただの愚痴で済ますことができた。
でも、部屋の扉の前には、今まさに、その当事者であるリーゼロットが怒りに顔を真っ赤にして立っている。
まずいなあ……こんなの聞かされて、あのリーゼロットが許すとは思えない。
ただクビになるだけならいいけど、今の彼女は――
僕がどうするべきか悩んでいる間に、リーゼロットはドアノブに手をかけた。
ええい、もう悩んでる暇なんて無い!
そう決意した僕は、角から走り出して、一瞬で彼女に近づくと、その手を握りしめた。
「クリス、あなたどうして!?」
「今の話を聞いていたんだよね、リーゼロット」
できるだけ悪い顔を作って、リーゼロットを挑発する。
「リーゼロット、ですって? 私の下僕であるあなたが私の名前を呼ぶなんて失礼よ!」
「失礼したいからそう呼んでるんだよ、リーゼロット。さっきの部屋の中であってた話、聞いてたんだよね? 面白かったよお、まるで果物みたいに顔が真っ赤になってさ。あんなリーゼロット見たのは久しぶりだ!」
「まさか、今の話――」
「そうだよ、リーゼロットができるだけ気分を損ねてくれればいいなと思って、僕がやらせたんだ」
リーゼロットは視線に殺意すらこめて、僕を睨みつけた。
握った手を振り払い、手のひらをこちらにかざす。
魔法でお前を殺してやるぞ――そういわんばかりに。
すると、僕らのやり取りを聞いてか、ドアが内側から開かれ、三人のメイドたちが顔を出した。
「クリスさんに、お嬢様? どうしてここでっ!」
驚く彼女に、僕は悪い顔を崩さずに言い放つ。
「よくやったね、三人とも。僕の台本通りだ、素晴らしい演技だったよ!」
「え、えっ? どういうことです?」
「さっきのリーゼロットの悪口、本当に完璧だった! 彼女も顔を真っ赤にしててざまあみろって感じだったよ、ありがとう三人とも!」
我ながら、ちょっと演技が下手かな、なんて内心で思いつつも。
けれど三人の困惑がリーゼロットに気づかれないよう、畳み掛けるように言葉を重ねる。
でも一方で、当のリーゼロットは怒りのあまり冷静さを失っていて、三人の様子に気を配る余裕なんてないみたいだ。
「こんなことをして、どうなるかわかっているのクリス!」
「僕を殺すの?」
「殺すわ! 灰も残さずに焼き尽くしてあげる!」
「でも目撃者だっている。さすがに賢者リーゼロットといえど、こんな場所で殺人を犯したんじゃ誰もかばってくれないよ」
「あなたみたいなゴミが死んでも誰も気にしないわ!」
「確かに、その理屈は領内だったら通用するかもしれないけど……リーゼロット様ともあろうものが、そんなゴミのために、うかつに“弱み”を作っちゃっていいの?」
「う……」
たじろぐリーゼロット。
いいぞ、いい調子だ、このまま彼女を僕のペースに巻き込んでいく。
「理解できないわ……」
「何が?」
「こんなことをして、何が目的なの? あなたたち三人だってそうよ! 自分がクビになるかもしれないっていうのに、どうしてこんな三文芝居に乗っかるのよ!」
「え、いや、私たちは――」
「僕が弱みを握っていたからだよ」
リーゼロットの目が見開かれる。
三人も口を半開きにしてぽかんとしている。
今ここで思いついた言い訳だけど、筋は通ってる……よね。
いや、通ってなくても通すんだ。
始めたからには最後まで押し切らないと。
「僕は彼女たちの上司だ、いくらでもゆするネタはある。それを使って彼女たちを脅して、従わせたのさ」
「だから、そんなことをしてあなたに何のメリットがあるっていうの!」
「今、リーゼロットは僕をどうしたい?」
「殺したいわ。でもそれができないのなら、今すぐ目の前から消えなさい! この屋敷から出ていって二度と目の前に現れないでッ!」
「わかった、じゃあそうするよ」
「は……?」
「ええっ!?」
困惑するリーゼロットに、驚くメイドたち。
僕も、正直言って急すぎて、ちょっと心の準備ができていないけど――どうせ近いうちにそうするつもりだった。
僕がへらへらと笑いながらリーゼロットの隣を通り過ぎようとすると、彼女は僕の手を掴んだ。
「待ちなさいよ」
「何? まだ何か言うことでもあるの? 罵倒ならやめてほしいな、やっと解放されたのに」
「まさか……あなた、ここから出ていくために……!」
「だって、『辞めたい』って言ってもリーゼロットは僕を辞めさせてくれないよね? だから、君のほうから言わせるしかなかったんだ」
「そこまでして出ていきたかったの? 私から離れたかったの!?」
「当然じゃないか」
「っ……」
なぜか、リーゼロットはショックを受けているらしい。
息を呑み、目に涙がじわりと浮かぶ。
「毎日あれだけこきつかって、毎日あれだけ罵倒して、殴られることもあったし、蹴られることもあった。そういえば、以前は僕が太刀打ちできないのをいいことに、魔物と戦わされたこともあったっけ」
「そ、それは……」
「そんな人間にどうして仕えたいと思うのさ。僕は普通だよ。ごく普通に怒って、ごく普通に限界を迎えて、当たり前のようにここから出ていきたいと思った。今のリーゼロットの顔を見たくない、そう思ったから――」
「もうやめなさい! 聞きたくないっ!」
自分から掴んだくせに、リーゼロットは取り乱して、僕の手を振り払う。
僕はわざとらしく、触れられたことを嫌がるように、その手を自らはたいた。
「出ていきたいなら出ていけばいいわ。でもね、あなたはすぐに思い知ることになるわ。ここがどれだけ恵まれていて、私がどれだけ優しい主だったかを! 【暗殺者】であるあなたに、私のそば以外の生きる居場所なんてないんだからッ!」
激昂するリーゼロットの声を背に、僕は別れの挨拶ついでにひらひらと手を振って、廊下を離れる。
そして角を曲がり、姿が見えなくなったところで、大きく「ふぅ」と息を吐いた。
これでどうにか、屋敷から脱出できそうだ。
メイド三人も、怒られるだろうけど、たぶんそのまま仕事を続けられるだろう。
だって、リーゼロットの怒りの矛先は、完全に僕に向いているんだから。
あとは荷物を――なんて、悠長な真似はできないだろうな。
彼女の感情が落ち着くよりも先に、この屋敷を出る。
そして自由になる。
リーゼロットの言う【暗殺者】は外では生きていけないというのも、あながち間違いではない。
貴族に限らず、どこのお店だって、暗殺者なんて物騒で縁起の悪い職業の人間を雇いたがらないし、そうなると魔物狩りを生業にする“冒険者”ぐらいしか仕事は無いんだけど――ほとんど魔力を持たない僕に、それは難しいからだ。
そう、難しい。
でも――不可能とは、誰も言っていない。
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