アンティーク
「だ、大丈夫?」
呆然と立ち尽くす俺の顔を覗き込むようにして雨宮は問いかけてきた。
「あ、あぁ、ごめん」
未だに自身がどのような状況に置かれているのか理解出来ず、生返事しか出来なかった。
「あ、いや、ごめんはこっちのセリフだよ。流石にいきなり人生棒に振れだなんておかしいよね」
彼女は困り眉のまま分かりやすい作り笑いをした。
人生棒に振れ。
その言葉は彼女が俺に向けた言葉だ。
俺はあの時も「ごめん」と言って――
「じゃあ、ばいばい」
背を向ける彼女を、追いかけなかった。
あの時は後悔した。
今、ここで、声を出せずに。
「雨宮!」
しかし、俺は払拭できる。
あの時の後悔を、臆病な自分自身を。
「……手伝ってやるよ。お前の人生」
彼女は、面食らったように立ち止まっていた。
「生憎だが、学校でやることなんかないからな」
そう言いつつ浮かべた俺の笑みは、きっととんでもなく気持ち悪かったのだろう。
「あり、がとう」
彼女は、輝かしく笑うと共に、一筋の涙を零した。
その涙を見て俺は視線を落とした。
こんな俺の、ちっぽけな言葉一つで涙を流す程に、彼女はもう限界だったのだろうか。
……だとしたら、俺は彼女に一度絶望を与えたことになる。
たとえそれが今や現実に残っていないことだとしても、俺の記憶からは消えることは無い。
彼女を、助けたい。
その時――
カチッ と、聞き慣れない音がポケットから響いた。
思わず手を突っ込み、音の出処となっているそれを取り出した。
やたらとデカい高級感のある腕時計。
秒針の後ろには〈2018 0511 Fri 16:31〉と表示されている。
間違いなく、時が戻る時に俺が持っていた時計だ。
教室の時計と時刻を確認してもズレはない。
なんとなく、自分の頬をつねった。
痛い。間違いなく夢ではない。
本当に、俺は過去に戻ったのだろうか。
「何それ?」
考え込んでいると、未だに少し目元が潤んでいる雨宮が時計を見つめてきた。
「あぁ、まぁ、最近買ったんだ」
さすがに拾ったというのも気が引けたため、適当な嘘をついた。
「へぇー、なんか意外。アンティークな感じ好きなの?」
「まぁな」
そうは答えたものの「アンティーク」という単語自体聞き慣れていなかった。確か古風みたいな意味だったか。
「ねね、ちょっと付けさせてよ!」
このごつい腕時計をはめろという意味か、彼女は右腕を突き出してきた。
「ん、まぁいいけど」
そういえば自分にはめたことすらなかったな。
そんなことを考えつつ、彼女の華奢な手首に不似合いな大きな腕時計を着けた。
「うわぁーなんだかいいね。お金持ちになった気分!」
自分の腕をまじまじと見ながら朗らかに言葉を紡ぐ様子に、俺自身も癒され、つられて微笑んでいた。
――しかし、彼女の笑顔はすぐに消えた。
「……雨宮?」
突然笑顔を消し動きを止めた彼女に声をかける。
「おい、どうした?」
続けて呼びかけるも、変化はない。
「おい、雨宮!」
「待って」
不安になって彼女の肩を掴んだ途端、口を開いた。
「だ、大丈夫……か?」
瞬き一つしない彼女の目は正面の俺を見据えていたが、どこか虚ろだった。
「何、これ」
「雨宮? どうしたんだよ」
彼女はポツリとつぶやくと、瞳をぎゅっと閉じ、
「何これ、ねぇ、やだ、やだ、やだ」
頭を抱え膝から地面に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か!」
そうは聞いたものの明らかに大丈夫ではない。
彼女はボタボタと涙を零し、やだ、やだと呟き続け――
突如、涙を止めた。
そして、ゆっくりと俺へ目を向け、呟いた。
「私、死んだ……?」
彼女の問いかけに、俺は硬直した。
「ねぇ、どういうこと? 怖い、怖いよ」
「……ごめん、俺にも、わからない」
再び涙を流し始めた彼女の問いかけに、そう答えることしか出来なかった。
だが、すでにどうするべきかは分かっていた。
異変が起き始めたのは腕時計をつけてから、ならば――
「きゃっ!?」
強引に彼女の右手首を掴み、それを外そうと手にかけた時、異変に気づいた。
背景の文字が日付ではなくなっている。そこには、〈comp 〉と、書かれていた。
そして、長針と短針は完全に重なっており、一本の針となって動いていた。その針は、ちょうど下半分を通り過ぎた。
細かい理論などなく、ただ焦って時計を外した。とにかく急がないといけない。本能的にそう感じた。
そして、時計を外したその瞬間、バタンっという音と共に彼女は床に倒れ込んだ。
「あ、雨宮!」
思わず上から彼女の顔を覗き込んだ。しかし、先程までの辛い様子は無く、眠っているかのようだった。
いや、間違いなく眠っている。すーすーと寝息を立てているのだ。
「お、おい、起きろよ……」
ハリのいい頬を軽くペちペちと叩くと、彼女は僅かに唸った。
「ん、んぅ……私、は、あれ……?」
まだ何かあるのか。一瞬そう思わされた。
「寝ちゃってたの? 私」
だが、パニックになるような事はなさそうだ。少なくともなにか大きな変化は起きていない。
「急に倒れたからどうしたかと思ったぞ。貧血か?」
「うぅ、ごめん。最近寝不足だったから……」
体を起こしつつ、彼女は目を擦った。
「そうか。まぁちゃんと寝ろよ」
焦りから急に早くなっている鼓動を隠すように、落ち着いている自分を装った。
そして、掌に握った時計を確認した。
全て、普通の表示に戻っていた。背景の文字は〈0511 Fri 16:33〉と表示されており、針もその時刻通りの位置を指している。
「なぁに? それ」
床にぺたっと座り込んだ彼女が問いかけてきた。
同時に、完全に先程のパニック状態の時の記憶が無いことを確信した。
「あぁ、最近買ったんだ。アンティークだけど新品だから付けさせねーぞ」
先程聞いた言葉を使い回し、それを再びポケットに突っ込んだ。
「えー、ちょうど付けさせてって言おうとしたのー」
「だめだよ。お前には似合わねぇ」
「むぅ」
ムスッと膨れる彼女にどことなく愛らしさを感じつつ、
「じゃあ、帰るぞ」
へたり込んでいる彼女に手を差し伸べた。
「あ、はーい」
彼女は俺の手を無視して自分で立ち上がり、スカートを軽く払って何事も無かったかのように歩き出した。
善意を無下にされた不服感と妙な気恥しさをポケットに突っ込んで彼女の背を追った。
あの時背を向けた無駄な刺激を背負い、教室を後にした。