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蛇のひげ短編集

茶屋の女

作者: 蛇のひげ

「期待なんて、するだけ無駄だって」


茶屋の主人が女に言った。茶屋は峠にあり、その南北は深い山々に覆われている。


「誰を待っているんだか知らないけれど、もう今日で三日目だろう。無理はするもんじゃないよ。行くあてがないってんなら、ここで働いてもいいんだしさ」


 客は俯いたままだった。老婆が団子と茶を、女の座る長椅子の上に置いた。女は顔を上げると微笑みながら、有り難うと言った。耳元でささやくような声であった。老婆の耳に蝉の鳴き声がいやに大きく聞こえた。

 

 風が吹き、庭の桂の樹をかすかに揺らした。樹は茶屋がここに建てられる前から生えているもので、その幹は大人三人が腕を伸ばして囲おうとしても、囲いきれないほど太い。葉が二、三枚ほど散っていく。主人は首をちぢこませた。

 八月の半ばを過ぎたばかりというのに、ここ数日はまるで立冬を迎えたかのように冷え込んでいる。女が茶屋を訪れるようになってからというもの、ずっとこの調子だ。主人は重ね着をしていたが、それでも服を通し全身に冷気がしみこんできた。

 女はというとわずかに薄着を一枚身にまとっているだけである。


 ――雪国の生まれなのだろうか。透きとおるように白い肌を見つめ、主人はそう思った。


 『あの女は雪女なのですよ』

 老婆が先日、そんな言葉を漏らしていた。北国の奥深い所で育ったという彼女は、山の物の怪や神の話を祖父母からよく聞かされたのだという。

旦那様の命を狙っているのかもしれませんよ、老婆はそうも言っていたが、こんな年寄りを氷漬けにして何になるというのだ、白髪が目立ち始めてきた頭髪を撫でながら主人は笑った。


 女は、西へと続く下り坂に目をやり続けていた。時折、千鳥が可憐な鳴き声を発して飛び去ってゆくほかは、まるで動きのない静かな道である。

三日の間、茶屋を訪れた者の中でこの風変わりなひとり客を見かけなかった者はいないであろう。

長椅子に腰掛けていない姿を見ることすらなかったかもしれない。

女は茶屋をもう閉めるという頃になって、ようやく席を立つのである。飲み頃を逸した茶を大儀そうに飲み干し、団子を懐紙に包みこんで。


そもそもこの茶屋は、東西の街を結ぶ山道の休憩所として建てられた。

険しい道を行き来する旅人や商人が一息つこうと訪れることはあっても、女のように居座り続ける客は稀であった。

だから店の者は女を訳ありの人だと嘘し合ったし、客は客で、奥深い山中にもかかわらず、身一つで訪れている女を好奇の眼で捉えるのだった。

 

 その容姿も拍車をかけた。丸みを帯びた、ほんのりと垂れた眼。くっきりとした鼻。水が滴り落ちそうなほど瑞々しい唇。近寄りがたいほどに美しかった。左眼の目尻には泣きぼくろがあり、触れれば溶けてしまう氷細工のような儚さを女に醸し出させてもいたのである。

 




 ⁂





 西街道に三つの人影が見えた。女が立った。主人も気づき、仕事の手を休めると細目に街道を見やった。 

 二人の子を連れた男親のようだった。背が低い方の子供は歩調が合わないらしく、しばしば遅れるので、その子を待つたびに一行の歩みは止まるのだった。

 西街のお社に参詣した帰りなのだろう。魔よけの鈴の音が夕風と共に坂をかけ上がり、茶屋までとどいて来た。一行が下り坂にさしかかった辺りで女が座った。遠目では子連れの一人親のように見えた影だったが、近づくにつれて男二人に女一人の参拝客だったと分かった。

 男の内、一人は老いていた。杖をつきながら、しわだらけの顔をゆがめて坂を上ってくる。鈴は杖の持ち手にくくり付けられているようで、老人が杖をつくたびに音をたてた。残りの男女は夫婦であろう。気忙し気に振り向くと、老人が来るのをしばしば待つのだった。

 坂を上りきると男が一行に先立ち、老婆に声をかけに行く。男の妻はいたわるように、手を老人の肩にかけた。

 長椅子に座る女の姿が目に入るなり、男の足が止まった。呆けたように女の顔を見つめ続けている。伴侶は異変に気づいたらしく、夫に駆け寄ると袖をつかみ、引きずるようにして茶屋を去っていった。

 女の若さと美しさが妬ましくてならないというように。

 置き去りにされた老人は肩を落とし、鈴を鳴らしながら二人の後を追っていく。その音もやがて聞こえなくなった。

 




 ⁂




 

 日が暮れた。三人の参拝客の後も幾人かの旅人が通り過ぎていったが、女の待ち人はとうとう現れなかった。女は目を落とすと、震える手で湯呑をとった。

 その時だった。

 「お・・・・・さあぁん!」

 西の方から年端のいかぬ少年の声が聞こえてきた。女が頭を上げた。

 梢のざわめきにかき消され、主人にはその声はほとんど聞こえなかったが、女には十分伝わったらしかった。

 西の街道に人影が二つ見えたかと思うと、遅れてさらにもう一つ現れた。姿は不明瞭だったが、女には三つの影が誰であるのか手に取るように分かったらしい。

 女が席を立つ。主人も戸口に出た。能面のようだった女の顔に笑みが浮かんだ。

 「もう行くのかい?」

 「はい。お世話になりました」

 女が茶代を老婆に差し出す。風変わりな一人客は団子を包むと、足早に坂を下りて行った。

 「結局、何一つ分からずじまいだった」

 主人が独り言のようにつぶやいた。

 「あの女の正体は分かったかい?」

 「今、調べているところです」

 手のひらの小銭が雪に変わりやしないかと、老婆はしげしげと見つめるのだった。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 結局女の正体がわからないまま終わった点がとても好きです。心地よい余韻を感じました。あと、「小銭が~」最後の一文がおしゃれですね。
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