彼と彼女の出会い
「あ!お母さん忘れ物しちゃった。千代、ここでちょっと待ってて」
「わかった」
「すぐ戻るから動いちゃだめよ」
「わかった」
迎えに来ることは一生ないということはすぐにわかった。母の嘘を言うときの癖、鼻を触りながらしっかりと目を見てくる癖。あの男が来てから一度も見なかった双眸は、千代の目をしっかりと見つめていた。
さて、このままでは齢5歳にして死んでしまうだろう。深い山の中、飢えるのが先か獣に食われるのが先か。
この山には龍が住んでいるという。姿を見たものは誰もいないが、人々は龍がいることを疑っていない。それは山に棲む獣や植物の大きさのせいだ。
龍から発せられる気は、動植物の成長を促すらしい。それゆえ通常の何倍もの大きさに育っていくのだ。人はその恩恵を受けられないのだが。
空が見えないほど高く伸びた木々、大人でも隠れてしまうほど長い草。お陰で食べ物には困らないのが利点ではあるものの、それ以上の危険がある。
背丈が人の倍以上もある熊、やたら好戦的な兎、人とみれば否応なしに襲ってくる烏は少女よりも大きい。
そんな魔の山で生き残るにはどうするか。
「よし、りゅうをさがそう」
千代は賢い子であった。誰に習うでもなく自ら本を読み漁り、知識を貯めることが何よりも好きだった。そのせいで養父のみならず村の中でも気味悪がられ、疎まれ、味方であったはずの母は捨てられることを恐れて養父の言いなりだ。結果、「魔女」などと呼ばれるようになった幼子を母は捨てた。
ともかく龍を探すことが先決だ。世話を焼いてもらいたいわけではない。彼らの近くには巨大な気を恐れて動物が寄ってこないからだ。更にそんな濃い気の身近で育つ植物ならば、千代がその実を食べ尽くしたとてなんら問題はないだろう。
しばらく考え込んだ後にすくっと立ち、山の頂上、更に森の奥へ歩を進める。推測が正しければ一番植物が育っている所が龍の棲家だろう。しかし問題がある。5歳児頭でも思いつくようなことが政府のお偉い方がわからないわけもなく、そんな力ある大人でも見つからないものを見つけなければならない。
途中染み出す水を飲み、熟れて落ちた実を食べ、獣の足跡がないか慎重に歩く。鬱蒼と生い茂る草をかき分けて進むと突然、眼前が開けた。
「…おんせん?」
実物を見たことはないが書物に記してあった。『温泉』とは様々な成分が溶け、身体に良いお湯のことらしい。日も落ちかけているし、全身擦り切れた身体を休めよう。そう決めて千代は服を脱いだ。
「ほぅ…」
思わずため息が出る。草で切れた皮膚にしみるがそれ以上に疲れた身体に気持ちがいい。
「なぜ、なぜすてられたんだろう」
ふと口から出た言葉とため息。眠くて思考がふわふわする。
「ただやくにたちたかっただけなのに」
褒められたかった。頑張ったねと頭を撫でて欲しかった。知識欲を満たしたいのと同時に優しさが欲しかっただけなのだ。
「こんなところで何をしているの」
不意に声が響いた。柔らかな陽だまりのような声。ぼんやりとした頭で確認すれば、青年が立っていた。
腰まで届く長い白い髪に村では見たこともないほど美しい顔。そこだけを見れば女性に見えるが、服で隠れていない上半身が確実に男性であると告げている。
「りゅう…」
無意識に出た自分の言葉に、この人は龍だ。と認識させられる。
青年の目が見開かれた。
「なんでそう思ったの?僕はどう見ても人間でしょう」
「くうきが。くうきがやさしいから」
ますます見開かれた瞳が細まる。笑うとまるで花が咲いたようで、何故か千代の心も嬉しくなった。
「そっか、優しいか。ふふふ。面白いね」
名前は?そう問われて千代だと答えたまでは記憶にあるが、心身の限界だったようでそのままかっくりと眠りについた。