人物事典(津軽藩起始と併用)
”この人、誰だったっけ~”というときに参照してくださると嬉しいです。
まず最初に津軽藩以前の人物を載せています。下にいくと、津軽藩起始の人物をご覧になれます。
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津軽藩以前
〇主人公
津軽為信 天文十九年(1550)-慶長十二年(1608)
大浦姓で初出。久慈氏より婿として入る。義弟の鼎丸が元服するまでの代理として当主になる。
〇大浦家一門
戌姫
阿保良、お福とも言う。永禄十年(1567)に為信と婚姻。
鼎丸・保丸
大浦家のY遺伝子を受け継ぐ子供。為信にとっては義弟。特に鼎丸は大浦家本来の後継者である。
注:鼎丸・保丸と表記していますが、本当の名前は不明。
久子
家来の娘であったものを為信の養女とされ、石川政信へ側室として嫁ぐ。
注:南部側資料に記載あり。ただし為信の妹という設定。元亀二年(1571)決起説とは相反。すなわち石川高信を討ってしまえば、石川家に嫁がせてご機嫌をとる必要がないからである。
徳姫
千徳政氏の娘。人質として大浦家に入ったが、天正一年(1573)に為信と婚姻。二男一女もうける。
注:架空の人物です。ただし為信という婿殿が戌姫以外の女と結ばれたことは事実であり、為信個人の力が以前より強まったことを意味する。なお戌姫と為信の間に子はいない。
注:2017/9/22修正。名称の変更。
〇大浦家臣
兼平盛純
重臣の一人。兼平氏は大浦氏の庶流。寛容な人物で、政治力がある。
兼平綱則 ??-寛永二年(1625)
盛純の子。父の跡を継ぎ、大浦家に仕える。父の遺言を為信に伝えた。大浦三家老の一人。
森岡信治
重臣の一人。森岡氏も大浦氏の庶流という。義に堅い人柄だが、気が短い。
森岡信元 天文一五年(1546)-慶長五年(1600)
信治の子。父の跡を継ぎ、大浦家に仕える。後に裏切りを疑われ謀殺された。大浦三家老の一人。
小笠原信浄 ??-慶長四年(1599)
信州深志の出身。寡黙でぶっきらぼうだが、武にかけては優れた人物である。大浦三家老の一人。
科尻・鵠沼
ともに信州の出。小笠原とともに仕官するが、裏で企みを進める。
注:南部側資料に記載あり。為信決起を主導した人物とされている。出身は不明。
八木橋里負
通称、備中とも。知恵者で、特に外交面で活躍した。秀吉に拝謁し、津軽を安堵せしめた。
田中吉祥
通称、太郎五郎。他者のために自分を投げ捨てうる。六羽川合戦で、為信の命を救う。
板垣将兼 ??-慶長五年(1600)
大浦家が石川城を支配下に入れた際に、その城代となる。関ケ原では西軍に付き、堀越城を占拠する。
秋元
港町鯵ヶ沢の代官に任ぜられる。江戸時代を通じて鯵ヶ沢代官には、秋元家と斎藤家が名を残す。
千徳政康
千徳政氏の息子。大浦家に仕えたが、実際は人質である。後に千徳氏を継ぎ、為信に逆らう。
〇在野
沼田祐光 ??-慶長一七年(1612)
通称、面松斎。上州沼田の出身で、占い稼業にいそしむ。為信の兄的存在。
注:軍師として活躍したとされるが、資料面では不詳。
万次
高山稲荷を中心として、浮浪者や他国者を取り仕切る人物。科尻と鵠沼を裏から操る。
注:架空の人物です。ただし、科尻と鵠沼を中心とした何かしらの集団はあった模様。
長谷川理右衛門
鯵ヶ沢の大商人。為信に知識や鉄砲を与えたりするキーパーソン。
注:津軽側資料に登場。江戸時代以降も一商家として存続。新規開墾の手助けもしたという。
乳井建清 ??-天正一二年(1584)
岩木山に住んでいた修験僧。偽一揆以降、薬師として身を立てる。
注:史実は乳井福王寺の住職。僧兵を指揮し、各所で争ったという。滝本重行は父の仇。
豊前屋徳司
羽州秋田の大商人。大浦城下に新しく店を開く。茶道にも造詣がある。
注:津軽側資料に徳仁豊前の称で登場。弘前城建築の際に、多額の援助をしたという。
〇津軽地方の城主格
石川高信 明応四年(1495)-??
南部晴政の甥。相川西野の乱を平定後、郡代として津軽地方の統治を始める。
注;没年に多説あり、自害や病死とも。本編では没年を元亀一年(1570)とした。
石川政信
石川高信の次男で、南部信直の弟。父の死後、津軽郡代の地位を引き継ぐ。
注:存在自体が不詳。父と同様、津軽南部双方に相当な食い違いがある。
大光寺光愛
石川家随一の重臣で大光寺城主。高信亡き後、政信を補佐する。
滝本重行
大光寺光愛の家臣。主の急死に臆せず、敵軍を追い払うことに成功。武勇知略ともに優れる。
千徳政氏
千徳本家、浅瀬石城主。津軽東部に広がる穀倉地帯を治める。
千徳政武
千徳分家、田舎館城主。本家と対立し、滝本重行の力を頼る。
〇糠部地方(=現在の南部地方)の城主格
南部晴政 永正一四年(1517)-??
南部氏第24代当主。豪快な人物で、領土において最大版図を得た。後年は幼い息子のために耄碌する。
注:本編では元亀三年(1572)死亡説を採用。南部側の資料でも統一見解を見ない。
南部晴継 元亀元年(1570)-??
南部氏第25代当主で、幼名は鶴千代。南部晴政唯一の男子。生後三ヶ月で病没した。
注:史実では天正10年(1582)死没説が有力。他方では信直によって晴政と共に殺害された説もある。
南部信直 天文一五年(1546)-慶長四年(1599)
南部氏第26代当主で石川高信の長子。初めは田子の領地を名字として用いた。南部晴政の娘婿。
九戸政実 天文五年(1536)-天正一九年(1591)
弟に九戸実親がいる。南部氏の実権を握るため多くの策を弄し、南部信直らと争う。
九戸実親 天文一一年(1542)-天正十九年(1591)
九戸政実の弟で、南部晴政の娘婿。兄らの手助けで、次期当主の座を狙う。
北信愛 大永三年(1523)-慶長一八年(1613)
剣吉城主。主君の南部晴政に道理を説くが無視される。家督争いでは南部信直を推す。
八戸政栄 天文一二年(1543)-慶長一五年(1610)
南部分家八戸氏第18代当主。本家の内輪もめでは中立を保っていたが、否応なく巻き込まれていく。
久慈信義
津軽為信の実兄。九戸派に属し、為信に石川家を裏切るよう唆す。
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以下、後継作である津軽藩起始(浪岡編)の人物紹介です。
別題:浪岡北畠滅亡記。
〇主人公
津軽為信 天文十九年(1550)-慶長十二年(1608)
旧姓は大浦。先の戦い以降、津軽と姓を改めた。これは津軽統一の意志を示すためである。
〇津軽家一門
仙桃院
かつての正室であった戌姫の出家名。多くの戦災孤児を寺で育てる。
徳姫
現在の正室。為信との間に二男一女を設ける。平太郎信建、総五郎信堅、富子の母。
千徳政氏
千徳本家、浅瀬石城主。津軽東部に広がる穀倉地帯を治める。徳姫の父。
〇大浦家臣
沼田祐光 ??-慶長一七年(1612)
津軽為信の軍師。古い仲間からは面松斎と呼ばれる。裏で様々な手引きをする。
兼平綱則 ??-寛永二年(1625)
大浦三家老の一人。浪岡北畠氏へ使者として派遣されていたが……。
森岡信治
すでに隠居している。最後の望みをかけて仙桃院へ訴えかけてみるが……。
森岡信元 天文一五年(1546)-慶長五年(1600)
信治の子で森岡家当主。大浦三家老の一人。
小笠原信浄 ??-慶長四年(1599)
大浦三家老の一人。御所を裏手から崩す役割を担う。
板垣将兼 ??-慶長五年(1600)
森岡信元と共に浪岡戦に参陣。
乳井建清 ??-天正一二年(1584)
浪岡戦では水木館を包囲するも力攻めはせず、結果的に津軽家を救うことになる。
〇在野
ヤマノシタ
浮浪者を束ねる複数いるリーダーの一人。商家長谷川が浪岡へ進出する際について行った。
長谷川三郎兵衛
鯵ヶ沢より暖簾分けを果たし、浪岡へ進出した。御所が崩れるきっかけを作る。
蒔苗弥三郎
浪岡源常館に仕える使用人。
〇浪岡北畠氏一族
北畠顕村 弘治元年(1555年)-??
浪岡北畠氏当主で御所号と呼ばれる。だが実権はない。
北畠顕範 ??-天正六年(1578年)
浪岡源常館・滝井館の主。第一の長老であり、先の川原御所の乱を納めた人物でもある。
北畠顕忠 ??-天正六年(1578年)
長老である顕範の息子。浪岡の維持のために管領水谷と協力する。
北畠顕氏
顕忠の息子。のちに顕則と名を改めて、浪岡復帰を心に誓うことになる。
〇浪岡北畠氏家臣
多田秀綱
浪岡両管領の内の一つ、多田氏の当主。三々目内館館主。為信派であり、兼平と交渉を持つ。
多田玄蕃
秀綱の息子。のちに関ヶ原の戦いで謀反を起こすことになる。
水谷利実
浪岡両管領の内の一つ、水谷氏の当主。水木館館主。途中で南部派に転向する。
水谷利顕 ??-天正七年(1579年)
利実の養子。実はその血に隠された秘密がある。
補佐武時
本姓は葛西氏。御所警護の任にあずかる。
石堂頼久
増館館主。のちに一族は石動と名字を改め、為信にひれ伏す。
吉町弥右衛門
銀館館主。御所号の北畠顕村と親しく、それが大きな狂いを生み出す。
奥寺
大釈迦館館主。最後まで屈せずに抵抗した。
〇他勢力
滝本重行
為信永遠のライバル。浪岡北畠氏を南部氏側に付かせようと努力するが……
奥瀬善九郎
外ヶ浜の油川城城主。浪岡を見張る南部氏の代官である。
南部信直 天文一五年(1546)-慶長四年(1599)
南部氏第26代当主。為信が決起すると、大浦家と血縁のあった堤氏を処断した。
安東愛季 天文八年(1539年)-天正十五年(1587年)
隣国秋田の大名。南部と安東は敵対しているが、あろうことか北畠顕村の妻は愛季の娘である。
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以下、津軽藩起始(六羽川編)の人物紹介です。
〇主人公
津軽為信 天文十九年(1550)-慶長十二年(1608)
今作で最大の危機が訪れる。内外に憂いを感じ、古い傷も痛みだし眠れぬ日々。
〇津軽家一門
仙桃院
かつての正室であった戌姫の出家名。多くの戦災孤児を寺で育てる。
徳姫
現在の正室。為信との間に二男一女を設ける。平太郎信建、総五郎信堅、富子の母。
千徳政氏
千徳本家、浅瀬石城主。津軽東部に広がる穀倉地帯を治める。徳姫の父。
千徳政康
千徳政氏の息子で為信の義弟。
大浦為清
為信の弟で通称は五郎。名前自体は信勝の方が主流。
出自の久慈より呼び出され、非常の時を託される。
〇大浦家臣
沼田祐光 ??-慶長一七年(1612)
別名、面松斎。この度の戦には出陣せず、大浦為清の元で窮余の策を講じる。
兼平綱則 ??-寛永二年(1625)
大浦三家老の一人。浪岡にて駐屯し、対南部の防備を任される。
森岡信元 天文一五年(1546)-慶長五年(1600)
大浦三家老の一人。六羽川合戦に出陣し、城を落とす戦果を挙げる。
小笠原信浄 ??-慶長四年(1599)
大浦三家老の一人。家族を信州より呼び、娘の婚儀を執り行う。
板垣将兼 ??-慶長五年(1600)
石川城代で有能な武将。主に森岡とともに行動している。
乳井建清 ??-天正一二年(1584)
安東氏との一連の戦いで、居館を落とされる。
八木橋里負
津軽家随一の知将。沼田の代わりとして六羽川へ出陣するものの……。
田中吉祥
この人物がいなければ津軽藩自体が存在しない。子孫は参議院議長まで出世した。
水木利顕 ??-天正七年(1579年)
旧姓は水谷。北畠の御所号となるも、その姓を避けて土地を冠し”水木”を名乗る。
多田秀綱
水木御所の管領で三々目内館館主。ただし虚弱に陥り、床に臥せる。
多田玄蕃
秀綱の息子。父の代わりに六羽川合戦へ出陣し、水木の陣を守る。
尾崎喜蔵
旧北畠家臣で尾崎館館主。為信に従い、同じく水木の陣を守る。
〇在野
円明寺妙誓
奥瀬善九郎の妹で、元の名は”妙”。出戻り娘で尼となる。北の尼小僧、井伊直虎。
円明寺頼英
油川円明寺の住職。当時は明行寺という名であるが、便宜上”円明寺”とする。
小野善右衛門
油川在地の大商人。名前は奥瀬善九郎より一字戴き、善右衛門と名乗る。
長谷川理右衛門
鯵ヶ沢の大商人。海からの情報を為信にもたらす。
豊前屋徳司
羽州秋田の大商人で、大浦城下にも店を開いている。安東氏とも繋がりがある。
〇他勢力
滝本重行
為信永遠のライバル。その手を緩めない厳しいやり方は不評を買い、次第に追い詰められる。
奥瀬善九郎
南部家臣で外ヶ浜の油川城城主。津軽氏と安東氏を天秤にかけ、大胆なる策を講じる。
堤則景
かつて堤氏はその血縁によって誅殺されたはずだった。だが実は……。
南部信直 天文一五年(1546)-慶長四年(1599)
南部氏第26代当主。奥瀬の大胆なる策を受け入れる。
石堂頼久
亡き北畠顕村の赤子を保護し、秋田の安東氏へ逃げた。
北畠顕氏
顕忠の息子。のちに顕則と名を改めて、浪岡復帰を心に誓うことになる。
比山六郎
安東方の豪族。先頭に立って為信に戦を仕掛ける。
安東愛季 天文八年(1539年)-天正十五年(1587年)
隣国秋田の大名。北畠氏を利用し、津軽を再び安東のものにしようと夢見る。