第一章 第十八話
第一章 第十八話
チハルたちは簡易の休憩をはさんで教室に戻った。聴衆らは席について講義の始まりを待っている。王は部屋から出ず、この教室内で毒見を済ませた軽食をとったようだ
「さて、先ほどの講義で≪功利主義≫というものがどのようなものであるか、お分かりいただいたと思います。そしてほとんどの人が無意識のうちに命に価格?価値?をつけてそれを比較し、何が正しいか選択したということも。」
チハルは再び聴衆の反応を見ながら講義を勧めていく。
「あ、黒板のコレ、消しちゃいますね。」
チハルは濡れ布巾で前回の講義で黒板に書いた図や言葉をふき取ると、白い文字がさっと消えていった。聴衆らがここでも驚いたのは言うまでもない。
「これ、≪黒板≫と言います。書いたこれは貝殻の粉と粘土を混ぜて固めたもの、≪チョーク≫です。軍議や連絡などに役立つと思うので、購入はサクシード商会までお問い合わせください。」
黒板の原型である石板(石膏などで文字や図形を記録した)は、少なくとも11世紀の初期にはインドで仏教の教育に用いられていたという。学校の教室で石を加工した巨大な黒板が登場するのは16世紀のヨーロッパである。当初は五線を刻んでおり、神学校の音楽の授業で使われていたとされる。これが鉄板を加工したものに変わり、チョークで文字を書くようになったのは1739年であると言われており、当初はチョークボードなどと呼ばれていた。鉄板に柿渋や木酢液などを塗った色が黒い黒板が登場すると、ブラックボートと呼ばれるようになった。アメリカ陸軍の士官学校での教育用に1801年にヨーロッパから伝わり、最初はその黒板を使って数学の講義が行われたという記録が残っている。日本には明治維新後にアメリカから伝わり、英語のブラックボードを直訳して黒板と呼ばれるようになった。
チハルのように鉄板に柿渋を塗って削り出した黒板は日本では戦前に発明されたもので、表面の滑らかさなどに差はあるがこの時代より300年以上先の技術である。
「さて、みなさん、頭のいい方ばかりなので、もしかするとこの功利主義に対する反論というものもすでにお気づきかもしれません。どうでしょう?」
チハルは教室内をざっと見渡した。誰もが先ほどまでの自分の意見が功利主義であると、正義の一つの形であると言われているのだ。それに対する矛盾を自分で探せと言われてすぐに気づくものは少ない。
「あらら、いないですか?それでは、先ほど軍人として厳しい意見をお答えなったタクトさん。メルイーウ国には軍人さんが死亡した場合家族に保証が支払われていたと聞いていますが、間違いないですか?」
「うむ、ある。」
「それは軍の階級によって違いますね?」
「うむ。」
「はい、僕の時代では……、軍人さんが死亡した後に家族に支払われる手当て、ですか?それで、軍人さん一人当たりの命の値段が計算できます。」
「は!?な!何を言っておる!馬鹿にするな!下級軍人では数人の家族がただ数か月生きていけるだけの食料だぞ?それで人間の命の値段が計算できるというのか?」
「そうです。少なくともメルイーウの国内では下級の軍人の命はそのくらいの価値であると見積もっているということです。」
教室内がにわかにざわついた。
「僕の世界では、≪保険≫というものがありまして……、聞いた話によるとタライバン島では漁に出る船乗りたちは出航前に皆でお金を出し合って、陸に残る人に預けておくそうです。もし誰かが落水したりして死亡するとそのお金が遺族に渡されます。この制度は実によくできていて、船乗りさんたちの命の値段はコレで計算できます。」
チハルは黒板に一つの式を書いた。
P = ωZ
「このP、ピーと読みます。こちらが遺族年金や船乗りさんの預けるお金。これとこの右側が等しくて、ω、オメガと読みます。これが死亡の確率。そしてそれにかけ合わせることのZ、ゼットと読みます。保険金の額、ですが、まあ今は命の価格としておきましょう。」
チハルは聴衆たちのあっけにとられた顔を横目に、講義を続ける。
「そしてイ神官にこのタライバン島に王と共に渡って来た文官、武官のリストをいただき、僕の持ってる秘宝、イアイパッドですね、あれに数字を入力しました。簡単のために武官と同じ官位の文官は同じ命の値段として計算します。そして武官の官位ごとの遺族年金、これを表にして、そして、これが大事なんですが、来るべき追跡軍との戦闘。」
聴衆の一部がピクリと反応した。多くが軍人たちである。
「メルイーウ王国からこのタライバン島に約7000人の兵と官僚が渡ってきています。仮にですよ、あくまで仮の話ですが、勝利するにせよ、敗北するにせよ、次の戦闘でこの四分の一が死亡したとします。するとこのωが1/4、Pには7000人分の遺族年金を積分した値を入れます。」
Z = xxxxxx
「これが次回の戦闘での損害です。ここまでは分かりましたか?本来は失った労働力やその分支払わなくていい給与なども含めて計算するのですが、こうやって計算できるというのが分かってもらえたと思います。」
教室内はシーンと静まり返っている。
「さて、タクトさん、同じ方法で、あなたの命の値段を計算することができます。」
「いや、しかし私がいつ死ぬか……、知らねばならないのではないか?」
「その通り、実はそれも計算できます。」
「バカな!」
チハルは返答せず、黒板の空いたスペースに一つのグラフを書いた。チハルの生きていた現代における発展途上国、しかも内戦状態にある国の年齢と死亡率のグラフである。
「タクトさん、年齢は?」
「え、……、あ、あぁ、今年で42である。」
「数え年ですね。では……。」
チハルは黒板にメルイーウ語で数字を書いた。
「これがタクトさんの平均余命です。軍人さんなので、おそらくこれよりも低いでしょう。」
「な、なんなのだこれは?」
「タクトさんがあと何年生きられるか、その平均です。もちろん、この数字より前に死ぬことも、後に死ぬこともありますが、同じ年齢で同じ状況に置かれた人が多数いた場合、ほとんどの人がこの数字の近くで死亡するという意味です。今から生活を改めれば、もしくは職を変えればこの数字は伸びるでしょう。」
「ば、ばかな、あり得……、いや、うむ、そんなことが、計算できるのか……。」
タクトにとって非常に現実的な数字であったのだろう。反論しようにも現実を目の当たりにしたショックで口が動かせないようだ。
「この数字と、今の給与、そして遺族年金の値などを使って、タクトさんの命の値段を決めることができます。ここでは公開しませんし、聞かれても答えません。ただし。」
チハルは最後の部分に力を込めて聴衆に向き直った。
「これが先ほど皆さんが納得した≪功利主義≫の結果です。どうですか?こうやって命の値段を計算して、これが正しいことだと言えますか?これを知れば幸せになれますか?」
チハルは静まり返った教室内を静かに見渡した。おそらく無理解から沈黙しているのではない、驚きと畏怖によって恐縮しているであろう聴衆に向かって。
チハルの視線の陰に一人だけ奇妙な動きをしている人が見えた。教室内の異質な存在、ショーピン姫である。チハルに目を向けず、しきりに首をかしげて目の前の紙に何かを書きだしているらしい。どこかわざとらし気にも見えるその動きに、チハルはしばし目を奪われた。
「チハル殿。」
ショーピンが軽く手を挙げて発言を求めた。こういう時には形式のようなものを重んじるらしい。
「なんでしょう?」
「先ほど軍の損害と言ったな。」
「はい。」
「全滅した場合、そのまま四倍すればよいのか?ただその場合、誰がその金を払うのじゃ?」
会場全体がショーピン姫を振り返った。あるものは真っ青な顔で、あるものは口を開けたまま、神官長と宰相などは今にも先ほどのクッキーとタンポポコーヒーを吐き戻しそうな顔つきで有った。
チハルは目をつぶった。実はショーピン姫が思い至った疑問はチハルの予想通りである。講義が終わってから各人で疑問を持ち帰り、思案の末にたどり着いてほしかった課題の一つであったが、まさかこの場で思い至ってしかもチハルに直接質問してくるとは思わなかった。
「その場合はもちろん国が亡びるので誰にも何も支払いは行われません。破綻と言われる状態です。通常はこのZが国庫、国の貯金ですね、これと釣り合う位の値になると国は統治権を失います。外国から干渉されるんですね。自治を失います。その後数十年、下手すると数百年は外国の傀儡です。」
チハルは遠い未来の自国の隣国が、一度経済破綻した後、数十年にわたって延々と諸外国に国益を吸い取られ続ける構造を思い出した。そうなるとメディアや教育までもが統制され、画一的な民意が形成されて国民は何が正義か気づかない、考える余裕を与えられないまま死ぬまで利益を外国のために吸い取られ続ける。
「どの程度が崩壊のラインなのか、国庫の事情を知らない僕には計算できません。それとこの功利主義、こうは言いましたが実はとてもよくできていて、僕の世界でもいたるところで正義の指針の一つとして通用します。命にお金が絡む場面では特に。では、それを無意識のうちに嫌だ、正しくないと思ってしまうのはなぜでしょう?」
チハルは一つ咳ばらいをした。
「皆さんにお聞きします。仮に、僕が持つ未来の知識の中に、次の戦闘で必ず勝利できる武器や戦闘の知識があったとします。仮にですよ。」
一部の聴衆の目に少しだけ灯がともった。「仮に」と前置きされていても、チハルの今までの発明品を見れば、そういうものがあってもよいのではないかと期待してしまうらしい。
「僕がそれを頑なに明かさないとしますね。そこで僕を拷問にかけるのは、正しいことですか?仮に僕が口を開いたとしたら、戦争に勝利"できるかもしれない"。僕の命一つは、一国の重さに匹敵するでしょうか?匹敵するという方?いますか?手を挙げてください。」
チハルは我ながら意地悪な質問であると思った。目の前のチハルを対象に拷問が可能かどうかを問うているのだ、可能であると手を挙げられる方がおかしい。もちろんチハル自身の保身もかねて意図的にそうしているのだが、この質問では空気を読まないショーピン姫もおいそれと手はあげられまい。
「あ、質問が悪かったですね。僕じゃなくてもいいです。例えば別の天才がある武器を開発しましたが、その技術を明かしません。拷問しますか?拷問したとして、それは正しい行為ですか?功利主義者なら"正しい"というのが、答えですよ?しかしどうです?」
チハルは誰も手を挙げない会場を見渡して、ひとりを指さした。
「では、あなた、お名前は?」
「エディ・マールである。ろ、郎中だ。」
「エディさん、どうしてこれが正しくないと?」
「こ、心の問題ではないのか?」
「いえ、郎中って……、警察みたいな仕事だっけ?違ったっけ?実際に拷問したことがあるかどうかは関係ないですよ。それを攻めているわけでもありません。」
「うむ、しかし、何かが引っかかる。そうだな、罪人でもないものを拷問するのは気持ち悪い。」
「なるほど、気持ち悪い。良い表現です。エディさん以外の意見は?」
数人が手を挙げた。
「では……、そこの方。」
「上級書記官のメデト・サンである。チハル殿とは数度あったことがあるな。」
「おお、いつもの。ども、その節は!それで、ご意見は?」
「これは、あれだろう。すべてが不確実なのが問題なのだ。まずそのものが本当に武器を開発したかどうかが分からぬ、そしてその、戦闘が起きるかどうかも分からぬ。もうひとつ、拷問したとして本当に口を割るのか、話したことが正しいのか、そういうものがすべて不確実である。それが問題であるように思える。」
「おお、素晴らしい、そうです。まさにそれが功利主義の問題点でもあります。未来の不確実さで価値を正確に見積もることができない。いや、まぁ、もちろんそのために統計という手法があるのですが、今はおいておきましょう。実は僕の世界では、ある脅威から国を守るため、実際に王の指示で拷問が行われたことがあります。ところが容疑者は口を割らなかった。そもそもその人間が犯人かどうかも怪しかった。それでその王は、国民から追及されて王位を失ってしまいます。」
メデトがドヤ顔で同僚たちを眺めながら着席した。王に対するアピールになったということだろう。かくいう王は着席してから一言も発していないのだが。
「というわけで、そろそろいい時間ですね。お腹もすいたことでしょう。次回はより一層踏み込んだ正しさについての講義を行いたいと思います。それと、もう一度断っておきますが、僕は他意があって講義を行っているのではありません、皆様が講義を受けて何を思うかは自由です。ただし王や国にくれぐれも失礼がないようにしてください。僕は国のために働いている皆さんを尊敬しています。僕も……、そうありたいと思います。それでは、今日はここまでです。時間のある方は再び隣室へどうぞ。未来の料理をふるまいましょう。」
教室内が再びざわついた。集められた聴衆らが講義の予定時間として聞いていたのより少し早く講義が終わったのだが、それにはレセプション時間も含まれていたのだ。チハルが講義の準備と同じくらいの情熱と時間をかけてセッティングした渾身のレセプションが幕を開ける。
未来の講義編はひとまずこれまで!残りの講義は端折ります。




