第一章 第十七話
第一章 第十七話
タライバン島では幸いにしてサトウキビの栽培が大規模に行われており、主要な交易品として黒糖が生産されていた。天然の果物も豊富であり、この時期はパイナップルや野生のマンゴー(のようなもの)も食べられる。養鶏も行われており、小麦粉の生産もあった。
チハルはそれらサクシードに依頼して集め、レセプション会場の隣室に一足先に向かった。向かうは熱湯をたぎらせたサイフォンがおかれたテーブルの側、≪タンポポコーヒー≫が用意されたエリアである。
タンポポの根はタライバン島でも催乳の薬として広く民間薬として使われていたが、それを焙煎して飲む習慣はなかった。タンポポの根を焙煎して作るタンポポコーヒーは19世紀のアメリカで考案され、キャンピング雑誌で紹介されたことから広まった。戦争などによりコーヒー豆の供給が破たんした地域で大量に飲まれるようになり、世界中に広がることとなった。現在でも簡単に作れるノンカフェインコーヒーとして日本でも人気のある飲料である。
もともとコーヒー党であったチハルは、外出を許されるようになってから早い時期にタンポポの根を集め始め、大量に作り置きしておいたものを今回放出したのだ。これに黒糖を溶かして飲むのがチハルの日課である。すでに長いこと講義の準備で一緒にいるイ神官もこれにハマり、今では自身でタンポポの根を集めるまでになっている。
ぽつぽつと講義参加者が隣室に集まり始めた。最初に入室した者たちはテーブルに並べられたクッキーを手に取り、まじまじと眺めていた。チハルが目配せしてジェスチャーで「食べてみて」とやると、恐る恐る口に運んだ。あるものは口からかけらをこぼしながら、あるものは上品に手皿を顎にかざして、またあるものは丸ごと一枚をそのまま口に入れて、思い思いに黒糖クッキーの味を楽しんでいるようだ。
数人がチハルの側に集まってきて、挨拶をした。
「いやぁ、チハル殿、先ほどの講義はドキドキしましたぞ。いろんな意味で。ところで私は農業関係の仕事をしているのですが、何か未来の役立つ知恵というものはありますか?」
「いやいやチハル殿、この丸い菓子は美味であるな。疲れた体に甘味が染み渡る。ところで私もぜひ知恵をお借りしたい。実はチハル殿の開発した弓の安定期であるが、あれを石弓にも使えるかどうか試していてな。どうだろう?一度うちの部署に参ってはくれぬか?」
農事主幹と武具管理の男たちである。官位的にはチハルとそれほど変わらないので気軽に話しかけやすいのだろう。その他のチハルより身分が高い者たちは、クッキーを天にかざしたり割って中を観察したり、部屋の隅に用意した椅子に座って談笑したりと優雅に過ごしている。
「はいはい。いいですよ。一度皆さんの仕事の様子を見せてもらえれば、もしかするとお役に立てることがあるかもしれません。えーっとお名前は?」
「農事主幹のメンボー・イだ。」
「武器管理官のスーバイ・ジャーティンである。」
「通門者、チハル・マツオカです。これからもよろしくお願いします。あ、そうそう、これ、飲んでみます?」
チハルは二人にタンポポコーヒーを勧めた。
「なんだこれは?不思議な香りがするな。」
「ちょっと苦いかもしれませんが、フーコン草の根を炒って煎じたものです。そのままでもいいですが、この砂糖を加えて、はい、どうぞ。毒見いります?」
「いや、結構結構、いただくとしよう。」
農業主幹のメンボーには興味をそそる飲料だったようだ。まず軽く口をつけて舌の上で転がしながら味わい、その後納得したようにススッと適量を口に運んだ。
「むう、これは……、うまいな。フーコン草がこのような飲料になるとは。」
「どれ、私も。」
武具管理のスーバイがメンボーに倣ってタンポポコーヒーを飲んだ。
「ほう、これは良いな。なんとも不思議な苦みがあるが、どこか疲れが取れるような滋味がある。軍にもよいかもしれぬ。」
「二人とも大袈裟ですよ。」
イ神官の入れた四人でタンポポコーヒーを飲んでいると、遠巻きに観察していた者たちが近寄ってきた。どうやらタンポポコーヒーに興味があったが、何を飲んでいるのか分からなかったので、見守っていたらしい。安全であると確認されると我も我もとチハルに寄ってきて、軽い挨拶をした後タンポポコーヒーに群がった。
一部の者らが部屋の隅で談笑している宰相や神官長にタンポポコーヒーをサービングしている。どうやら直接の部下か何かなのだろう。そんな時、開け放していた扉から先ほどの女がしゃなりと入ってきた。
「チハルー!わらわにもそれを飲ませてたもー。」
おそらくとても高級なメルイーウ語を話しているのだろう、チハルには自分の名前しか聞き取れなかったが、女の目線とジェスチャーから発言の意図をなんとなく理解し、タンポポコーヒーを入れやった。
「砂糖は?一杯?二杯?このくらいか?」
「それは黒糖か?そう、そのくらいで良い。おお、良い香りじゃな。なんじゃこれは?」
「その前に、名前を教えろよ。」
「おお、そうじゃったな。わらわはメルイーウ国第十六公女ショーピン・リーベルである。」
「ショーピン?俺のことはチハルでいい、が、講義中は静かにしててくれ。」
「ほう、これは不思議な風味じゃのう。どうにも鼻の奥がこそばゆい香りがする。む?苦いな。しかし、黒糖の甘みがその後から口に広がる。ほほう、これは美味いな。うむ、あっぱれよ。」
「何を言ってるのかよくわからんが、うまいだろう?未来の飲み物だ。フーコン草の根を炒ったものだ。」
「フーコン草?はっはっは、乳を出す薬じゃな、王宮の女はみな知っておるわ。わらわに飲ませて何とするよ。わらわの乳でも飲みたいか?」
ショーピンがことさら胸を強調してチハルに突き出した。どうにも豪快というか大胆な性格であるようだ。チハル以外のものは少しずつあとずさり、二人の会話を遠巻きに注視している。
「炒ってあるからそういう効果はないぞ。なんだ?子供を作らないと乳は出ないと思うが、この世界では違うのか?」
「この世界?そうか、通門者であったな。もちろんここでもそうであるぞ。からかっただけじゃ、ほっほっほ。」
「おう、そういえば、さっきの講義、意味が分かったか?もしかすると難しすぎたかもしれんが。どうだ?」
「あれか?命の重さを比べる話じゃな?分かるぞ。他のものは考えないようにしていたようじゃがな、結局あれじゃろう。王と一緒に死ねるか?という話ではないか?」
チハルがピクリとした。
命の重さを考える功利主義の講義で同室に王がいたのだ。あれほど優秀な高官たちである、誰もが内心では王の命の重さがどれくらいになるのか考えたはずだ。そして王の命こそ絶対、無限大の価値があると考える思考こそ、チハルが次に講義する話の要点でもある。しかし仮に国王の命一つで国一つ、数百万人が救えるとなったら、あの教室内の誰もが同じ選択を取るのかどうかわからない。その対立こそが功利主義を否定することにつながっていくのだ。
「それをここで言うか?」
「なんじゃ?わらわが言わずして誰が言うのだ?父様も気づいておろうよ。」
「なら面白い。次の講義だ。さっきの功利主義が成り立たない場合があることを教えてやろう。」
「ほう、それは面白い。楽しみにしておる。それと、このクッキーというのもうまいな。これは隣で食べても良いのか?」
「講義中は飲食禁止だ。」
「ふむ、残念じゃ。」
ショーピンの性格は豪放磊落、天衣無縫、しかししっかりと躾けられた礼法や仕草が彼女の人間としての大きさを際立たせている。そしてその美貌である。女にはある程度免疫のあるチハルであるが、現代日本の第一線級の女優と並べても劣らないショーピンが、気軽にチハルのパーソナルスペースを侵してくるのだ。多少ドギマギしてしまうのも仕方ない。それでも気丈にふるまえているのは今のところ教師と生徒という関係が成り立っているからだけである。
ふと誰かがチハルの肩を叩いた。チハルが振り返ると、すこし涙目になった宰相が立っていた。その後ろには神官長である。
宰相の目は「分かるだろう……、我々の苦労が……」と切実に訴えていた。
チハルは肩をすくめ、「ご苦労様です」とメルイーウ語で答えるしかなかった。神官長が宰相の肩をポンポンと慰めるように叩いていた。
「さぁ、では次の講義です。今日は早めに切り上げて、またこの部屋に戻ってきましょう。夕食を用意しています。」
チハルは全員にそう告げ、イ神官と共に教室に向かった。




