第一章 第十五話
第一章 第十五話
チハルは王宮での講義前の数日を利用して、もう一つ大型の装置の作成に取り掛かった。サクシードに用意してもらった木枠に薄い鉄板を張り、表面に柿渋を塗って乾かすのを数度繰り返した。それとは別に貝殻を焼いて粉にしたものに粘土を混ぜて練り、直径2cmほどの円筒を作り乾燥させたものを大量に用意した。
簡易版ではあるが≪黒板≫と≪チョーク≫の完成である。講義で話す予定のいくつかの概念は図を用いて行った方が楽なので、仮王宮に設営し、活躍してもらう予定だ。講義の後は軍議などに活用してもらえばよい。黒板消しはひとまず軽く湿らせた布で代用する予定である。黒板とチョークの開発もサクシードを喜ばせ、交易に乗ることになった。
黒板は鉄板で作っているので、磁石をくっつけて鉛筆でメモをした紙を挟めることを教えるとサクシードは飛び上がって喜んだ。
「これはよい、これはよいぞチハル殿。」
サクシードはチハルの肩を抱いて喜びを表現した。今までの発明で一番金になりそうな臭いがしたらしい。
講義に使うとはいえ、仮王宮に持ち込むものであるので、黒板、チョーク、鉛筆、消しゴム、そしてその付属品は事前に危険がないか念入りに調査された。チョークに至っては調査官の目の前でチハルが一かけら食べてみせたほどである。
そして講義初日。
講義のために特別に準備された部屋には、前に黒板が備え付けられ、演台も完備されている。中間には木製の机と椅子が並び、まさに教室と言った趣である。一足先に教室に入ったチハルは、準備を手伝う文官らとともに、それぞれの座席に紙と鉛筆、乾かしたパンで作った消しゴムと木で作った簡易なペンケースを並べていった。
教室の最奥にはおそらく王が座るのであろう、大理石で作られた豪華な椅子が備え付けられている。机になるものがないので、メモを取るのはやりにくそうだ。チハルは自分のために用意しておいたペーパークリップの予備を王に指し出すことにし、豪華な椅子の側に置いておいた。後で侍従官に使い方を説明すればよいだろう。王が直接それを使う場面は来ないかもしれないが。
講義開始予定時間よりずいぶん早く、イ神官が教室にやってきた。目の下には深いクマが刻まれている。講義の内容は昨晩何度も打ち合わせ済みである。打ち合わせ後チハルは早々に寝てしまったが、王を前に通訳とはいえ面と向かって講義をするというのは、イ神官の身分からすれば相当なプレッシャーであるらしい。まだ始まってもいないので体の動きが目に見えて硬い。講義の内容はチハルの手元のメモに要点だけを記しているが、イ神官の手製のメモにはびっしりとメルイーウ語が書き込まれている。
「イ神官、イ神官、緊張しすぎです。」
「イヤ、キンチョウシマスヨ。デモ、ダイジョウブデス。コノクライノ、キンチョウハ、ナレテイマス。」
「いや、楽にいきましょうよ。顔とか真っ青ですよ。えっと、はい、イッチニー、イッチニー、僕と同じように体を動かしてください。」
「コウデスカ?」
「そうそう、次は屈伸です。軽く汗かくくらいやっときましょう。手を前に出して、こう。そうです、そうそう。」
「こう?」
講義開始前に教室の隅で体を動かす男二人。講義の準備をする文官たちはそれを怪訝な表情で見ていた。チハルがイ神官の緊張をほぐすために運動を指せたのにはちゃんと理由がある。緊張して無意識に交感神経が働きすぎている場合、意識的に運動してそれ以上の交感神経優位状態を作り出すと、運動を止めたときに正常に副交感神経が働き、動機や手足の震えが止まる。ある程度準備時間が必要であるが、緊張をほぐすには非常に良い方法だ。
そのままイ神官が汗だくになるまで10分ほど運動を続けた。チハルは黒板消しとして用意しておいた湿らせた布を指し出した。
「ふー、いい汗かきましたね。どうです?」
「ヒサシブリニ、カラダヲ、ウゴカシマシタ。」
「文官ですものね。でもどうです?一息つけたでしょう?」
「ソウイエバ、フシギデスネ。アシノフルエガ、トマリマシタ。」
「どうせこの後も何度も講義するんですから、楽にいきましょう。」
「オウノカオヲミテハナスノハ、ハジメテデス。」
「ああ、そういえばそうでしたね。うまくやれば官位上がるかもしれませんよ。いい仕事しましょう。」
「アア、ダメデス。マタ……。」
運藤直後で上気していたイ神官の顔色が、また真っ青に戻っていった。チハルは「やばい、変なこと言わなきゃよかった」とつぶやき、もう一度先ほどと同じ運動を繰り返した。運動の最中チハルは、「そういえばしばらく運動してないなあぁ、久しぶりに≪ブレンディ教官のインサニティシリーズ≫をやり直してみるか」などと考えていた。
イ神官の緊張がいい感じでほぐれたところで、教室に数人の受講者が入ってきた。
イ神官が一人ずつチハルに紹介していく。
宰相 クダレム・ワーン
軍参謀 タクト・マウ
南方軍統括 チャンモ・リュー
神官長 クライ・ミド
書記官統括 シバルワ・オッテ
都察管理官 オレイン・イウ
海事統括 フーロー・イ
農事統括 キサール・ワーン
……。
王都からタライバン島に渡った(旧)メルイーウの国政の中心と言える面々である。ほとんどがチハルと初対面で、官位でいえばだれもチハルより上である。チハルは事前に出席者のリストを得ていたが、官職と名前を覚えるまで行かなかったので、それぞれに同じように慇懃に礼をとった。
ある程度席が埋まると、隣同士の席の者同士雑談が始まった。机に備えられている鉛筆と消しゴム(パン)を手に取り、興味深そうに眺めているものもいる。着席しているのは男性ばかりである。メルイーウ国は男尊女卑の国であった。
ふと室外から女性の声が聞こえた。どうやらある女性が、見張りの兵と揉めているらしい。
声を聴いてその女性が誰か分かったのか、一部の高官らが「あーあ」という顔をした。首を横に振ったり、手のひらを目元に充てて首をうなだれているものもいる。チハルは側のイ神官に肘を付き尋ねた。
「なんか、外の女の人の声、誰?」
「ワタシモシラナイデス。」
「あの人たち知ってそうだけど?聞いてきてよ。」
「エー、イヤデス。」
そうこうしていると教室の扉がばたんと開いた。中央には門を押し開けるために両手を広げた一人の女性が立っている。身なりもきちんとしており、チハルがここに来てからは見かけたことのない薄化粧もしているようだ。チハルに下賜された侍女たちとは全く別の、女性としての魅力にあふれた女性がそこにいた。
「私も参加します。」
チハルがかろうじて聞き取れるメルイーウ語で、女はそう言った。オンナはつかつかとチハルの面前まで歩み寄り、チハルに正対して腰に手を当ててふんぞり返った。チハルには何が何だか分からないが、着席している高官らの表情を見る限り、相当に困った状況で有るらしい。チハルは現世で読んだことのある小説や漫画の知識を総動員し、ある予想を口にした。
「んー、僕の予想が正しければ、このシチュエーション、この展開、あの身なり、顔つき……。イ神官、"王妃"ってメルイーウ語でなんていいますか?」
「オウヒ?!xxxxxです。」
「ワカリマシタ。オウヒ……様ですか?」
チハルのみぞおちに王妃と呼ばれた女性の膝蹴りが入る……、かと思われた瞬間、チハルは後ろに飛びのいてそれを避けた。教室にいた軍人らの目が少し見開かれた。
「まさに、テンプレ展開。ここまでは予想通りです。」
最近は運動不足だとはいえ、チハルの運動神経は元より人並み以上である。女は舌打ちしてチハルを見据えた。
「王妃?誰に向かって言っておる!わらわはXXXXである。」
「イ神官!XXXXって何です?」
「ヒメデス。」
「ひ、姫?!姫様?!」




