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実存の兵法  作者: 智康
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 校庭の土を踏みつつ、前方に見える建物を目指して、歩みを進めた。午後の日差しを受け、白っぽい土が照り返してくる。安井のいる中学校に電話を掛けたのは昨日だった。彼の高校時代の同級生で会って話がしたいと告げると、受付の人はあっさりと面会を許してくれた。今日の午後4時なら面会は構わないということだった。職場には既に休むと伝えてある。

 校舎の玄関を通り抜けると、左側に事務室があった。受付の窓口から中を覗くと、4人の事務員が机に向かって、仕事をしていた。受付のガラス窓を二回叩く。一番手前の机にいた事務員が驚いたように、こちらを振り向いた。窓ガラスを開け、僕の顔をまじまじと睨めつける。頭が禿げ上がり、鋭い目が眼鏡の奥からのぞいていた。

「あの、安井さんとの面会を希望した者なんですが。」

威圧的な風貌に圧倒されそうになりながらも、要件を言った。

 事務員に先導され、廊下を歩く。授業が終わり、生徒たちはクラブ活動にいそしんでいるのか、時折、どこからか、賑やかな声が聞こえる。

いよいよ彼に会う。そう思うと、興奮と緊張が高まってきた。しかし、彼に対する恐れはもうない。事務員と僕は、どんどん歩いて行き、部屋をいくつも通り過ぎていく。やがて、校舎一階の最も奥に辿り着いた。部屋の前に来ると、事務員はドアをノックし、開けて、中にいる安井に僕の来訪を告げた。彼は役目から解放されたとばかりに、さっさとその場を立ち去った。

 部屋に入ると、対面に備えた男が、頑丈そうな木の机を前に、イスに座っていた。ドアを閉めて、正面に向き直ると、あの当時と少しも違わない、彼の顔があった。酷薄な印象を与える、切れ長で吊り上がった目。今にも皮肉を言いそうな、左だけ口角の上がった口。僕がまじまじと姿を見ていると、彼は机の前のソファに座るよう、促した。

「今日は何の用で来たんだ。僕がスクールカウンセラーだといっても、過去のいじめは解決できないぞ」

安井は人を小馬鹿にするような嫌な笑みを浮かべた。いじめを受けていた時に、僕を見下ろしていたあの顔だ。

「それとも、僕を三人みたいに殺しに来たのか?」

やはり、気付かないわけはない。警察に通報するならすればいい。ただし、言いたいことを言ってからだ。

「ああ、お前の言う通り、三人を殺したのは僕だ。今日はお前に言いたいことがあって来たんだ。殺しに来たわけじゃない。」

「言いたいこと?」

「あの当時、君らは、いつも、人目の付かない場所で僕をいじめていた。それは、自分たちのやっていることが悪と分かっていたからだよな。」

「ああ、そうだよ。」

安井はそれがどうしたとでも言いたげな表情で僕を見た。

「悪人でいるということは、悪人の存在を肯定し、人が悪に手を染めるのを許すと言明するのに等しい。お前らは、僕をいじめていた間は、いじめ加害者の存在を許していた。それは、世間が許さない人間を許す優しさだ。」

途端に怪訝な顔つきになって、安井は尋ねた。

「もしかして、お前が俺に伝えたかったことはそれか?」

「そうだ。」

「嘘だろ。本当は俺に当時のことを謝罪して欲しいんだろ。」

「いや、本当に今言ったことを伝えに来ただけだ。謝罪なんて別に望んでいない。」

「俺に変わってほしいと望んでいるわけでもないのか。」

「今のお前がどんな人間だろうが、変わってほしいとは別に思っていない。他者の制止がなければ、人間の在り方は全て許される。変わろうと変わるまいと、お前はお前だ。言いたいことは全部言ったから、もう帰る。じゃあな。」

最後まで疑念を含んだ顔の安井に背を向けると、ドアを開けて室外へ出た。


 作業室では人形達が今日も、列を崩さず、一定の速度で歩んで来る。僕の「これまで」と「これから」の風景だ。今までどのくらいの「これから」を詰め込んできたか。どのくらいの「これまで」を送っていったか。

 安井には伝えるべきことは伝えた。僕にはもうやり残したことはない。後はただ自分の上に堆積していく時を見続けるだけだ。逮捕される日まで、じっと待つだけだ。その日が来ても、僕はきっと後悔することはないだろう。


 部屋が夕闇に埋もれる中、テレビ画面だけが光っている。画面の中では男子生徒が苦痛に顔を歪めていた。二人の生徒に羽交い締めにされ、一人に腹部を殴られ続けていた。殴られる度に、上体を折り曲げ、うめき声を上げる。その繰り返しが延々と続く。マンションの一室で、僕は一人、この見世物を楽しんでいた。

校舎の屋上で、いじめを見咎めたのは、一月ほど前だった。加害生徒達に事実を学校に公表されたくなかったら、僕の指示通りにいじめを行い、その様子を録画したビデオカメラを手渡すよう命令した。

 加害生徒達は僕の指示通りに、動いている。被害生徒は僕の目論見通りに、心身に苦痛を蓄積させていく。画面の中の出来事を支配しているのは、僕だ。

 自分を傷つける他者を肯定する。画面の中で暴力に晒され続ける少年が藤堂と同じ境地にいると仮想してみた。この場合、僕は少年の許しの下で、彼をいじめていることになる。許しの下で何かを行うということは、許しを与える人間に支配されるということだ。僕は少年に支配されているということになる。さらに、自分を傷つけるのを許すとは、慈愛のある、緩い支配だ。大人が子供の悪さを大目に見たり、親がわざと子供にゲームで負けてあげるといった類の。自分が弱者と見下ろしている人間にそんな風に支配されている。しかも、僕は少年を傷つけることで、自ら彼の支配に飛び込んだ。

 そこまで冷静に考えると、猛烈な吐き気が込み上げてきた。僕は急いでトイレに駆け込み、便器に盛大に吐瀉した。変なことを考えるんじゃなかった。単なる仮想じゃないか。本気で考える馬鹿がどこにいる。

 戻ってテレビを見ると、画面の中では、執拗にいじめが続けられていた。少年は顔面蒼白で、虚ろな目は焦点が定まっていない。彼は何を思っているのだろうか。無表情だが、それがあきらめか、それとも、藤堂と同じ達観から来るのかは分からない。

テレビの電源を切った。一つの世界が瞳を閉じる。

ため息を吐いた。

悪は、自身の存在を認められるのが我慢ならないのだ。そんな世界は息苦しくてしょうがない。明日来る世界も、悪を否定する世界であって欲しい。

深い闇を湛える窓の外を見て、そう思った。


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