死
重低音が響く。繋ぎ目のない時間の中に僕はまた帰って来た。人形の入った箱を段ボール箱に詰める動作はいつもより遅く元気がなかった。来る日も来る日も、僕はここで同じ作業を繰り返している。影川と違って働いていても、退屈な生に身を切り売りしていることに違いはないのだ。それでは、労働とは何の意味があるのか。金を稼ぐ以外に目的なんかないんじゃないか。そんな思いが元々そんなになかった仕事への意欲をさらに減退させたのだ。
人形達は、そんな僕にはお構いなしに、次から次へと僕の元に歩み寄る。
気を紛らそうと、今後の殺人の計画を考えた。僕が殺人を通じて死になる試みも残すところ、多くて二回となった。この二人が実家暮らしの可能性がある以上、また、彼らの実家の前で見張りを続けなければならない。それを考えると、気が滅入る。しかし、やるしかない。もし死になることができたとしたら、僕はそれから先どうなるだろう。死になれるのは一瞬だ。思考の濁りも感情の汚れもない、その一瞬が過ぎれば、僕は感情に流され、思考に惑わされる弱い自分に戻るだろう。自分に何の変化も起きないに違いない。今の退屈な日常から離れられるのは一瞬だろう。何かを得られると虫のいいことは考えてはいけない。人を殺しているんだから。
家に帰り、自室に入ると、僕はパソコンを立ち上げ、インターネットで片山のフルネームを検索してみた。もちろん、そんなことで彼の居場所が分かると考えたわけじゃない。ただの気紛れだ。検索結果の適当なリンクをクリックしてみた。大して期待もせずに、画面をぼうっと眺める。会社のホームページが現れた。画面をよく見ると、現在の片山の顔写真が載せられている。僕は思わず、目を剥いた。その顔は誇らしげに笑っている。社内報か何かで、仕事に関してインタビューを受けていた。さらによく見ると、会社のどの支社にいて、どんな業務に従事しているのかまで記載されている。あまりの嬉しさに、しばらく画面を見たまま、微動だにできなかった。これで彼の居場所が分かった。今度は実家ではなく、会社から出るターゲットを待てばいい。彼のいる会社へのアクセス方法をメモした。彼の会社は隣県で、少し遠いが、行けないことはない。もし彼が姿を見せるまで、実家の前で張っていたら、彼を殺すことはできなかっただろう。殺人の機会が失われる危機から救ってくれた会社のホームページには感謝の念が絶えなかった。
ビルを見上げていた。いかにも街中のビルという感じで、無機質で非人間的な印象を灰色の外装とそこに列をなして整然と並んだ窓が生み出している。この中に片山がいる。今日は、仕事は休みだ。母にはさっき、帰りが遅くなると伝えた。
時刻は5時前だ。会社のホームページによると、彼は事務職に就いている。会社の定時が5時だとすると、そろそろ退社するはずだ。僕は車道を挟んで、ビルの向かいに立つ、ファミレスで見張りをすることにした。店内に客は少なく、窓際のテーブルはほとんど空いていた。席の案内に現れた店員に窓側の席に座りたいと頼み、そのテーブルに案内してもらった。備え付けのソファに座り、見るともなく窓の外を見た。道路では自動車がエンジン音と共に、せわしなく行き来している。春から夏にかけてのこの時期は日が長いため、外はまだ明るい。建物に一部遮られた西日が、正面のビルに差し、ビルの上に日向と日陰を分ける明瞭な境界を生んでいる。
片山はクラスで目立つ存在ではなかった。成績も運動神経も平凡。これといって取り上げる特徴がない。彼を殺したとしても、社会は何の苦もなく、彼とそっくり同じ特徴を持つ人間を再生できるに違いない。また、周囲に流され、容易に色を変える、自分のない人間だった。常に自分の属する組織の意向に沿うことで、組織の意思を自分が本来持っていたものと信じ込む人間に見えた。僕をいじめていた頃は、おそらく、いじめを指示する人間の意思に染まり、それが自分の意思でもあったはずだ。
街では消えゆく日の光を補うように、街灯が点り出した。ビルの正面玄関をずっと見ていたが、彼は出て来ない。注文したアイスコーヒーは飲み終え、カップの底にはインクの染みのような黒い円が残っていた。残業か、それとも休職しているのか。と、そのときだった。正面玄関の自動ドアを抜け、二人のスーツ姿の男が出て来た。ビジネスバッグを片手に、隣の男と真剣そうに会話している男は、見紛うはずもなく、片山だった。僕はレジまで駆け足で行き、急いで会計を済ませた。そして、自動ドアに衝突しそうになりながら、店外に出た。彼とその男は、まだ向こうの歩道にいた。二人は駅の方向へ歩みを進めている。僕も車道を挟んだ反対側の歩道を歩きながら、彼らを目で追った。しばらく歩くと、連れの男がバス停の前で足を止めた。片山は男に軽く会釈する。彼を殺すうえで邪魔者がいなくなった。彼への視線が切れないよう注意しながら、ぼやけた視野の片隅で信号が青なのを確認し、横断歩道を急いで渡った。彼のいる歩道に出る。通行人はまばらで、彼を追うには都合がいい。片山よりも自分の歩く速度の方が速く、すぐに、声が届くほどの距離にまで近づいた。片山を殺すには、彼を人気のない場所へ連れて行く必要がある。それには、彼と行動を共にしなければならない。いつ声を掛けようかと考える間もなく、すぐに名前を呼んだ。
「片山。」
緊張のためか、少し上擦った声になった。彼は自分を呼ぶ人間を探そうと、辺りをキョロキョロと見回し、前方に声の主がいないのを慎重に確認すると、後ろを振り返った。僕の知っている彼がそこにいた。高校を卒業して、10年は経つというのに、その姿に歳月が経過した形跡が見られない。誰の神経も逆撫でしないように、気遣って作られたような特徴のない顔も変わっていない。僕を見るなり、彼はぎこちなく笑った。
「藤堂か。久しぶりだな。」
これが平日の居酒屋か。テーブルはほぼ全て、仕事帰りの会社員で埋まっていた。彼らは酒を飲みながら、雑談し、上気した顔を綻ばせていた。後で彼を殺すことを考えると、彼の誘いを断るわけにはいかなかった。
高校の同級生と再会して、一緒に飲み屋に出かける。定番と言えば定番だが、会話は弾むどころか、二人の間では、一言も言葉が交わされない。テーブルを挟んで、向かいの席に座った片山は、注文したビールを一口飲んでは、宙を見据えて、何かを考えていた。その表情は固い。僕の方は、殺人に支障が出るため、酒を飲むわけにいかず、ウーロン茶をちびちびと飲んでいた。片山は一体何のために、飲みに誘ったのかわからない。他の人間には、相席になった他人同士に映っているに違いない。
同席する他人同士の振りがしばらく続いた後、片山がおもむろに口を開いた。
「お前、今何してんの?」
伏し目がちに言った。とりあえず尋ねたという感じがした。このまま沈黙を続けるのがまずいと思ったのだろう。僕もとりあえず、質問に答えた。
「工場でアルバイトをしてるよ。人形の入った小箱を段ボール箱に詰める仕事だ。」
彼は口をあんぐり開けて、僕を見た。席に着いてから、やっと彼と目が合った。擦れ違っていた二つの空気がやっと一つになった気がした。
「アルバイトって、正社員になろうとか考えなかったのか?」
「高校の時、お前らにいじめられてから、人と関わるような仕事に就きたくないと思ったんだ。今の仕事も自分一人でできる作業だ。」
努めて、冷静に答えた。答えるときに心に鈍い痛みがあった。それは過去の出来事を情けない現状の原因に仕立てるのを人に見せる気恥ずかしさから来ていた。
「あの時はすまなかった。」
片山は突如として、絞り出すような声で謝罪した。テーブルに両手をつき、突っ伏して頭を下げる姿を見て、わずかに残った蟠りが霧散していった。彼の罪は贖われた。そんな感想を僕は持った。
「謝った所で過去にお前が僕にした仕打ちは消えない。でも、謝罪しようというお前の気持ちは汲みたいと思う。僕はお前を許すよ。」
僕は本心を伝えた。
「ありがとう。いつかお前に会ったら、絶対に謝ろうって決めてたんだ。本当にありがとう。」
言いながら、片山は何度も繰り返し、頭を下げた。罪を許すことをこんなに喜んでくれるとは。僕は温かい気持ちになった。互いの存在で暖を取り合えるのが人間なんだ。かつて、その温もりは僕にもあり、人からも受けていたものだ。それを思い出させてくれた彼に密かに感謝した。
その後、しばらくは高校時代の思い出話や世間話に花を咲かせた。片山は過去の重荷から解放されたのか、表情はずっと明るかった。酒を片手に、冗舌になっていた。やがて、話題は彼の近況に関するものに移った。
「実は俺、結婚してるんだ。子供も一人いる。女の子だ。」
意外な事実に僕は驚いた。彼の左手薬指には確かに、指輪が嵌められていた。片山は、笑みをこぼしながら、携帯を差し出した。見ると、待ち受け画面には、3,4歳と見られる女の子が髪を三つ編みにして、はにかんだ表情を浮かべている。目がくりくりとして大きく、可愛らしい顔をしていた。明らかに彼に似ていない。
「お前の奥さん、浮気でもしてんじゃないのか。」
冗談を言ってみた。
「馬鹿言え。そんなわけあるか。正真正銘、俺の子だよ。ただ、俺から受け継がれた要素が少ないだけだよ。」
片山もまた、僕の言葉を冗談と受け取ったらしく、笑いながら答えてくれた。
外に出ると、既に真っ暗になっていた。昼間、天にあった照明が、地上に完全に移っている。ライトを点けた車は、前方にいる僕らに眩い光を引っ掛けては通り過ぎていく。僕はどうしても言わなければと思い、勘定を払ってくれた片山に礼を言った。勘定を払ってくれたこと以外の分も含めて。片山は快く受け止めてくれた。
片山と肩を並べてしばらく、街を歩いた。僕は右ポケットに手を突っ込んだ。ナイフの柄の感触は遠い誓いを思い出させる。彼を殺さなければならない。その決意は惜別の言葉のように響いた。
「安井が今、どこで何をしてるか知らないか?」
そう言うと、片山は、安井の今の職業と居場所を教えてくれた。いじめの首謀者だった頃の彼から考えると、その職業に就いているのは意外に思えた。いじめを反省しているのだろうか。
「今でも関係は続いているのか?」
「いや、高校を卒業してから切れた。あいつが今、何をしているのかも、風の噂で聞いたんだよ。お前、あいつに会いに行くつもりか?」
不審に思われる心配はないだろう。そう思い、僕は答えた。
「ああ、どうしても話したいことがあってな。」
「ふうん、そうか。瀬谷と山北が殺されたよな。そのニュースを知った時はショックだったよ。」
片山はさっきまでの明るさが嘘のように、沈んだ表情になった。
「二人の葬式には…行かないよな。あれだけ酷い目に遭わされたんだし。」
「お前は行ったのか?」
「いや、行かなかった。山北とは高校時代、仲が良かった。でも、昔の悪事の生き証人みたいな俺が葬式に顔を出すと、成仏なんてできないんじゃないかって思ったんだ。ただでさえ、殺されてこの世に未練があるっていうのにさ。」
片山は表情に苦渋を含めた。
「お前へのいじめが終わった後で、山北と二人で話したことがあるんだ。そしたらあいつもお前に悪いことをしたって言ってたよ。機会があったら、お前に謝りたいって言ってた。あいつのことも許してくれないか。」
家の玄関の前で僕を見た時の山北の驚いた表情を思い出した。あの後、僕がナイフを彼に突きつけなければ、彼は謝罪の言葉を口にしていたのではないか。僕はその機会を奪ってしまった。さらに、命までも。その感情は、僕が山北の謝罪の思いを汲み取った分だけ、鋭く尖り、僕を突き刺した。
「もちろん許すよ。」
溢れる感情に流されまいと、僕はその言葉にすがった。
「よかった。あいつもお前に感謝してると思うよ。ありがとう。」
片山は最後の責務から解放されたかのように、表情を緩めた。片山が感謝してくれたのが僕の心の救いになった。
しばらく僕ら二人は無言で歩いた。ズボンのポケットに手を入れ、ナイフの柄を掴んだ。固い感触は、安穏との決別を催促してくる。
僕は幹線道路から脇道へ入り、彼がそれとは気付かないように公園へ行く道に入った。
公園にある遊具は、闇夜の中、ひっそりと佇んでいた。海底に横たわる沈没船のように見え、寂しい印象を受けた。入り口から数歩の所に、ベンチがあり、僕ら二人はそこに腰掛けた。彼を殺すか否か。僕はずっと迷っていた。
「なあ、二人を殺したのはお前なのか?」
片山が僕の表情を窺い、恐る恐る尋ねた。僕の殺意を読み取ったかのような問いだった。
「まさか、僕が殺すわけないだろ。」
僕の声は平板で、どこに向けられたともつかないように、ただ宙に放り出された。
「そうだよな。」
片山は尋ねた自分を恥じるように言った。
僕は、決意を確かめるかのように、ポケットの中のナイフを握る。手の中のナイフはどちらを断つか静かに僕に問い掛ける。彼の命か、それとも殺意か。僕はナイフを握り続ける。片山の謝罪、久々に感じた人の温もり、山北が僕に謝罪できずに死んだこと。すべての回想が脳裏に浮かんでは、立ち止まることなく、通り過ぎていく。
唐突に脈絡のない考えが、頭に迷い込んだ。今、彼を殺せば、綺麗に彼と別れられる。贖罪を受け入れた人間として。
その瞬間、迷いは消えた。同時に堰き止めていた暴力的な意思が全身に迸り、右腕が目的を果たすべく、素早く動いた。ナイフはポケットから出されると、片山の首筋に一直線に向かい、刃を食い込ませる。勢いよく横へ薙ぐ。血が噴出する。暗闇の中、熱を持った液体が冷やされて、地面に落ちて行く。僕はこれらの情景をただ感じ取っていた。
片山はビルが倒壊するように、ベンチから地面に崩れ落ちた。それを見送ると、僕は慌てて周囲を見渡した。通行人は一人もいない。ナイフを鞘にしまった。顔がぬるい血で濡れているのに、気付いた。顔を洗わなければ。トイレに駆け込む。水道の蛇口をひねり、両手に水を溜め、何度も顔を洗った。照明の点った洗面台の鏡に映った顔は、水に濡れていたが、血は完全に洗い落とされたようだった。長袖のズボンやシャツには、見た所、血の跡はない。僕は少し落ち着きを取り戻した。リュックからタオルを取り出し、水に濡れた顔を拭くと、トイレの入り口から顔を出して、辺りの様子を窺った。誰もいない。服には見た所、返り血が付いてはいなかったが、念のため、リュックから薄手のコートを取り出して、羽織った。トイレから出て、道の左右を確認する。相変わらず、人はいない。公園を出て、来た道を急いで引き返した。片山の死体のある方へは一切振り返らなかった。大通りを外れ、人通りの少ない道に入る。そして、駅の方向へただ無心に走った。
駅の構内は、帰宅途中の会社員や学生で混雑していた。殺人の痕跡は確実に洗い落としたつもりでいるが、衣服に返り血が付いていないとも限らない。駅の個室トイレに入り、再度、全身を隈なくチェックした。やはり、どこにも赤黒い色の染みは付着していなかった。
家に帰り、自室にリュックを置いて、ダイニングに入った。誰もいない。自分一人の空間だ。テーブルには、ポテトサラダや唐揚げなんかが盛られた皿が一枚、ラップにくるまれて、ポツンと置かれていたが、食欲が全く湧かない。僕は本当に人を殺したんだ。仕方がないので、皿を冷蔵庫にしまった。
自室に入り、ベッドに仰向けに寝転がる。目から涙がこぼれ、激しく嗚咽した。自分は本当に人を殺してしまった。罪を許された後の晴れやかな片山の表情を僕は思い返した。僕は奪う必要のない人間の命を奪ってしまった。
許してくれ。受け取る相手のいない、その思いは、むなしく心中で反響した。
翌朝、いつものように出勤し、朝から晩まで一人で過ごした。誰も挨拶以外では、僕に話し掛けない。僕がここにいるのが、僕自身の錯覚と思わせる程、僕を無視し続けていた。工場に来て初めての孤独だった。
抱くことで少しでも罪の償いができるのなら、ずっと抱いていなければならない感情を時は無情にも、押し流していった。数日も経つと、感情は和らいだ。
昼休み中、食事を終えた僕は、片山を殺した瞬間を回想した。
あの時、僕には、思考も感情も存在しなかった。五感が世界を伝えるだけだった。時間は静止し、且つ流れていた。あの瞬間の僕は間違いなく死だった。死は静穏そのものだった。
死を体験したと思っていたのに、よくよく考えてみれば、これは混じりけのない生そのものではないのか。日常で、思考と感情の影にうずくまっている生だ。殺人などする必要はなかったんだ。日常を凝視しさえすれば、そこに死を見ることができたんだ。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。
片山が携帯の待ち受けにしていた彼の娘の顔を思い出した。彼は生きていたんだ。僕とは違って、まっとうに。悔恨の陰圧が胸を引き絞り、息が苦しくなった。肩が小刻みに震える。
助けを求めるように、城内さんを探した。彼女は部屋の隅で、今日も仲間と楽しそうに、談笑している。離れていても、言葉は共にあったんだ。それさえ忘れていなければ、こんなことにはならなかったのに。気付いても、もう手遅れだ。
僕は深い絶望に沈んだ。光など差しそうにないほどの底へ。沈み切った後、何故か気分が楽になった。浮遊するような心地に浸った後、ふと思った。
悪もまた生だ。
突然、最後の一人に会って、このことを伝えなければという思いが生まれた。この衝動がどこから来るかは分からない。殺人の贖罪に、そうしなければならないと感じたのかもしれない。このまま何もしなければ、死んだ人間の命が無駄になると感じたのかもしれない。ただ自分はこのまま終われないと思った。