退屈
無表情の人形たちは、今日も律儀に僕を参拝する。自分達を段ボール箱に詰めるその手が血塗られていたとも知らずに。時の隔たりに覆われた手からは血の匂いなど感じられるはずもない。僕の手は人を殺したのが嘘のように優しくなっていた。
結論から言えば、今回の殺人を通して死になる試みは失敗だった。これが死だといえる明確な実感がなかった。今回の殺人は、感情を焚き付けて為された。本物の死は相手が誰であれ、何の感情もなく、その命を奪う。僕にはそれができなかった。ためらいを振り切り、人を殺すには、強い勇気が必要だった。しかし、一線は越えたという感覚がある。もう、一人殺すのも二人殺すのも同じだ。人を殺すのに躊躇はしない。次はきっと上手くいくだろう。
家に帰って、テレビのニュースを見ると、僕の犯した殺人が早速、報道されていた。現場周辺で慌ただしく捜査を行う刑事たち。二人の刑事が家の戸口に立って、住人に聞き込みを行う様子が映っていた。住人の話を一言も聞き漏らしがないよう、神妙な面持ちで注意深く聞いている。僕はその様子をいささか冷めた目で見ていた。殺害現場には何一つ証拠を残していない。すぐに僕を捕まえられるわけがない。殺人を通して死になる試みを行うのに、時間は十分ある。やがて、目撃された不審人物の特徴が字幕で画面に表示された。上下黒のジャージ、身長170〜175センチのやせ形で、年齢は30歳ぐらい。まるっきり、僕のことを指していた。やはり、人に姿を見られていた。次回からは、人目の付かない場所でターゲットが現れるのを待つことにしよう。
再び休日が巡ってきた。僕をいじめていた同級生の中に、実家暮らしが何人いるかは分からない。今日行く家に、そいつがいることを祈りつつ、電車に乗り込んだ。今日は家とその周辺の下見をし、適当な監視場所を探すだけで、殺人はしない。今回のターゲットの家は、地元の駅から6つ離れた駅を降り、10分程歩いた所にある。
高校時代の彼は、成績優秀で,大人しかった。しかし、他の連中に暴力を振るわれ、床に這いつくばって、苦痛に顔を歪める僕を見て、冷淡な笑みを浮かべていた。実に酷薄な笑みだった。彼が直接、手を下しもせず、いじめの指示もしなかったのに、いじめグループに溶け込めたのは、この笑みがあったからだろう。改めて振り返ると、彼を殺す対象に入れるのはおかしいかもしれない。彼は、僕がいじめられているのを眺めていただけだ。いや、僕をいじめていた連中の友人で、其の傍らで僕を侮蔑するような目で見下ろし続けていた。これはいじめに加わっていたと考えてもいいだろう。
程なくして、電車は駅に着いた。電車を降りる人間は、僕以外には誰もいなかった。電車は僕一人をホームに残して、走り去った。僕は一人で駅の存在意義を繋ぎ止めていた。地図で確認した時から気付いていたが、ここは歓楽施設に乏しい。休日に人が好き好んでいく場所ではない。
駅の屋根をくぐると、眩しい春の陽光が降り注ぎ、遠くの山では、木々が新緑を輝かせていた。駅から彼の家までの道筋は単純だ。ただひたすら、住宅街を直進すればいい。家に向かう途中、車とバイクが二、三台ほど通り過ぎたが、歩行者は一人も見かけなかった。たった一人、散歩を続けていると、目的地に着いた。
彼の家の外装は白一色だ。屋根も壁もドアも、何もかも、潔癖なほど白を被っている。その家は、殺風景な住宅街の中でも、異様に目立っていた。家の表札を見ると、名字以外にも、家族構成が表記されていた。彼の名前のほかに、二人、彼の両親の名前があった。僕の家と同じ家族構成だ。だからといって、殺人を止める理由にはならない。相手と共通項が一つでもあれば相手を許せるという世界なら、人々はとうの昔に平和を実現している。
今度は、ターゲットが姿を現すまでの間に身を隠せる場所を探した。家から坂道を上った所に、コンクリートのブロックでできた崖があった。その崖の上には林があり、木々の緑が泡のように芽吹いていた。崖の脇には、林へと続く、細い階段が設えてある。階段を上り、林の入り口に立った。木々の葉が屋根のように日差しを遮り、その下であらゆる物が色濃く染まっている。左右へ伸びた林道を右へ曲がり、少し歩くと、木の葉の隙間から、真っ白な家が見えた。ここは家が見張れる絶好の場所だ。ただ、監視に適した場所へ行くのに、灌木の枝が邪魔になるので、殺害当日にはナイフのほかには鉈が必要になると思った。
翌朝、早速、見張りの場所で監視に就いた。その場所は木の根元で、灌木の茂みに身を隠して家を眺めることができた。ここまで来るのは大変だった。電車に乗り、林の中に来るまではよかったが、灌木の枝を切りながら見張り場所に来るのは疲れた。こうして骨を折ってやって来たわけだが、彼が既に出勤している可能性もなくはない。しかし、ここに来てしまった以上は、やらなければならない。双眼鏡で家の戸口を眺め続けていると、監視に就いて15分ほどで、彼の父親が戸口から出てきて、門を抜けた。鞄を持っている手と逆の手に何かを持っている。それは、ビニールの紐でくくられた雑誌の束だった。僕は双眼鏡を覗いてそれを慎重に見た。彼の父親が手にしているのは、漫画の少年誌だった。この人が読むのか。見た目は五十代後半に見える。そんな中高年の人間が少年漫画を読むことはなくはないが、少ないのではないか。読むとしたら、影川だろう。彼は実家に住んでいるのではないか。このまま待っていれば、彼は出て来る。そう思い、じっと待ち続けた。
結局、見張りの残り時間一杯まで、彼が出て来ることはなかった。おそらく、彼は、引きこもりだ。もしそうだとしたら、家の前で彼が出て来るのを待ち続けても意味がない。家の中には彼以外に母親がいる。家に出向いて、彼との面会が許されたとしても、彼を殺せば、真っ先に僕が疑われる。それに会社を休むわけにはいかない。今日のところは打つ手がない。僕はひとまず家に帰ることにした。
今回の殺人は実行するのが難しい。家から彼以外の人間が出てから彼と会わなければならない。インターホンを鳴らしたら、彼は出てくれるだろうか。彼が人との接触を拒む人間に変貌していたとしたら、その可能性は低い。インターホンを鳴らして、彼が出なければ、殺人は諦めるしかない。いっそのこと、今回の殺人は諦めるか。いや、残りの殺人の機会の数を考えると、一つでも無駄にすることはできない。何とかして彼を殺そう。
休日に、早朝から影川の家の監視を間断なく、続けていた。十一時半を過ぎた頃、父親がゴルフのキャディーバッグを抱えて、車に乗ったのと母親が買い物袋を提げて、出かけたのを見た。今、家にいるのは彼だけだ。彼に会うなら、今しかない。でも、僕は家のインターホンを鳴らすかどうかで迷っていた。彼はかつていじめには加わっていなかったが、いじめを受けていた僕を冷たく見下ろしていた人間だ。そんな人間にこちらから接触しようというのは気が引ける。泥でからめ取られたかのように、心身が重くなった。十二時前になって、ようやく決心がついた。林の茂みから立ち上がり、林道を走り抜ける。コンクリートの崖の脇にある階段を軽快に降りて行った。舗道を歩いて行き、影川の家の門の前に立った。後はこの勢いのまま、インターホンを鳴らすだけでいい。その瞬間、全身が強張った。インターホンのボタンを押す指が震える。押そうとして、一旦止め、周囲を見渡した。周りには人影はない。心身の硬直から解放されたいと思い、深呼吸をした。大きく吸って、ゆっくり吐く。四回程繰り返した所で、勇気を振り絞って、ボタンを押した。ピンポーンという音が二回、スピーカーを通して聞こえる。しかし、彼は出ない。殺人を諦めようと思うと、胸を撫で下ろす自分がいた。今のままで、到底、人を殺せるとは思えない。でも、殺さなければならない。殺人により死になる機会は数が限られている。自分に課した義務を果たそうという気持ちが、僕にもう一度、ボタンを押させた。チャイムが鳴り終わる前に、スピーカーが通話の意思を示す雑音を流した。少しの間を置いて、インターホン特有のくぐもった声が流れた。
「はい、どちら様ですか?」
平板なトーンで、声の主は尋ねた。影川だ。高校に在学していた頃は、あまり聞くことはなかったが、彼の声だ。一瞬の窮余の末、かつての同級生に言うであろう、定番の言葉を口にした。
「藤堂だけど、僕のこと覚えてるか?」
「ああ、藤堂か、久しぶり。丁度、僕もお前に聞きたいことがあったんだよ。」
最後の一文に不穏な気配を感じた。しかし、後戻りはしない。
「じゃあ、家に上げてもらってもいいかな?」
少しの間を置いて、玄関のドアが静かに開いた。中から出て来たのは、長髪で無精髭を伸ばした、だらしのない男だった。目つきは虚ろで、生気は感じられない。以前の怜悧さはなく、顔立ちの印象から辛うじて、それが影川だと分かった。影川は懐かしむ様子もなく、手招きして、家に入るよう促した後、家の中に引っ込んだ。
玄関に入ると、部屋の案内にと影川が床に上がって、待っていた。
「俺の部屋は二階なんだ。」
一言残すと、すぐに背を向けて、そそくさと奥の階段に向かって、歩き始めた。どうして客間ではなく、自室へ案内するのかという疑問を差し挟む間も与えなかった。僕は靴を脱いで、玄関を上がり、すぐに彼の後を追った。二階の彼の部屋は突き当りにあった。彼は部屋の前に来ると、ドアを開けて、中へ入るよう顎で促した。
白い壁、白い天井、黒と白の家具。案内された部屋は、色彩の冬とでも呼ぶべき部屋だった。そんな殺風景な部屋の中で、唯一、色が落葉を免れたスペースが自然と目に付いた。本棚だ。漫画の週刊誌が几帳面にも、番号順に並べられている。やはり、彼の父がゴミに出した漫画は、彼が読んでいた物だったのだ。ベッドの掛布団は盛り上がり、彼が這い出た穴ができていた。どうやら彼は起き抜けに、高校の同級生と再会するはめになったようだ。影川は布団を平らにし、部屋の片隅に置いてあった座布団をテーブルの前に敷いて、僕にそこへ座るように言った。彼の言った、聞きたいことから逃れられない状況に自分が追い込まれているように感じた。ピンの上に置かれたゴルフボールはクラブで叩かれると決まっている。その運命を受け入れるしかない。彼に二人を殺したと素直に告白すれば、逃げられたり、反撃にあう可能性がある。だから、二人を殺したと白状することは絶対にできない。
影川はベッドに腰掛けると、口を開いた。
「久しぶりだな。思えば、お前とこうして話をするのは初めてだな。今、どうしているんだ?」
予想とは違う質問に拍子抜けした。単刀直入にあのことを聞かれると思っていた。
「今は工場でフルタイムのアルバイトをしてるんだ。」
僕は影川と違って、働いている。その自覚のおかげで、今の職業を言うのに、恥ずかしさは感じなかった。
「お前は今何してる?」
強気に聞き返した。
「今は何もしていない。見ての通りずっと家に引きこもっているんだ。」
その口振りには現状をかつての同級生に告白する気恥ずかしさは、少しも滲んでいなかった。
「仕事はどうしたんだよ。」
「仕事は人間関係が煩わしくなって辞めた。」
「働く気はもうないのか?」
「もう、ないね。働かなくたって、生きていけるし。」
平然と言い放った。
「いい年して、親を困らせんなって。真面目に働けよ。」
これから殺す相手に働けもないもんだ。余計な一言を密かに反省した。
「お前も世間から離れられないんだな。見方をほんの少しだけ変えれば、悪いと言われてることにもいい面があるっていうのに。」
影川は蔑むように、僕を見下ろした。僕は彼の言葉の真意を計り兼ね、呆然とした。彼はそれに構わず、再び話し始めた。
「無職の人間は働かないから、家に金を入れない。同居している家族にとっては、生活の負担になる。でも、働いて、給料が預金口座に振り込まれたら、その金は世間に出回らない。振り込まれた額だけ、世間から金を奪っているってことだ。無職の人間は働いて、金を稼がないから、世間から金を奪うってことはない。働く人間にある短所がない。」
言っていることは間違ってはいないかもしれない。しかしと、口に溜まった反論を吐き出した。
「話は分かる。でも、それだけで何もしてない上に、親の負担になっている人間を認めようとは思わないな。」
「俺は自分の意志じゃなく、親の意志でこの世に生を受けたんだ。だったら、親が子供の生存に責任を持つのは当たり前じゃないか。」
その言葉にほっとする自分がいるのは否定できなかった。親のすねを齧って生きている人間には温かく響く言葉だ。
「お前も世間も、人間の一面だけを見て、その価値を判断している。家族の負担になっているからって、無職の人間を端から否定するのは、浅薄だとは思わないか。どうやら、お前らには、存在しない短所よりも、存在する長所が目に付く傾向があるみたいだな。俺はこの二つには同等の価値があると思うけどね。」
彼の話は、理屈は正しいかもしれない。しかし、無職でいる自分の存在価値を正当化することで、今の自分の生き方に安住している。僕にはそれが逃げに思える。
影川がぼそりと呟いた。
「あ、そうだ。お前に聞きたいことがあるんだった。」
ついに来たか。影川が予期しない脱線をしてくれたおかげで、聞かれないと高を括っていたが、やはり、逃れられないらしい。僕はゆっくりと唾を飲み、その問いが発せられるのを待った。心臓の鼓動が狂ったように、内側から胸を叩く。
「お前、瀬谷と山北が殺されたの知ってるよな。あれってもしかして、お前がやったのか?」
影川は平然と尋ねた。目の前にいる人間が殺人者かもしれないのに、表情は全く平静のままだ。表情に出そうになる動揺を必死になって、心中に沈めた。
「まさか、僕が殺せるわけがないだろう。僕をいじめてた連中だぞ。未だに彼らが恐いんだ。」
問いに対する答えとしては、それが精一杯だった。何とか納得して、これ以上追求しないでくれと願った。しかし、影川は通り過ぎようとする違和感を見逃したりはしなかった。
「でも、お前は俺を訪ねてやって来た。お前からみれば、俺はいじめに加わっていた人間のはずだ。」
影川は腑に落ちないといった顔で、小首を傾げた。まずい。
「お前は僕をいじめていない。その指示もしていない。ただ、連中に一番近いところで、その様子を見ていただけだ。今日、お前を訪ねたのは、瀬谷と山北の死がきっかけだよ。ニュースで二人の死を知った時はびっくりしたよ。僕をいじめていた人間が二人も死んだんだからな。それがきっかけで、僕がいじめを受けていた当時のことを考えるようになったんだ。どうして僕がいじめられなければならなかったのか。それを知るには、一番近くで見ていたお前に聞くのがいいと思ったんだ。」
言い終わった後、彼の疑いの目を跳ね返すつもりで、彼を見上げた。ベッドの上から僕を見下ろす彼の顔はまだ険しかった。眉間に皺を寄せ、視線を左に向けている。僕の言ったことの真偽を判定しているのが、見て取れた。やがて、疑いを解いたのか、表情を緩めた。
「そうだよな。お前が人を、それも自分をいじめてた人間を殺せるほど、度胸のある人間には見えない。」
言葉には僕に対する侮蔑が含まれていたが、それよりも彼の疑いの目から逃れられたのに、安心した。肺の中で固形になっていた空気をゆっくり吐き出す。これで危機は脱した。
「でも、お前の疑問には答えられない。どうしてお前がいじめの標的にされたのか。それは指示してた安井に聞いてみないとな。」
「安井は今どこで何してるか知らないか?」
「知らないな。」
「そうか。」
今の安井の居場所が聞けるのではないかという期待は裏切られた。
不意に気掛かりなことに思い至り、尋ねた。
「お前、僕のことを瀬谷と山北を殺したんじゃないかって疑ってたんだよな。なら、どうして僕を家に入れたんだよ?殺されるかもとは思わなかったのか?」
「僕はお前に殺されるのを待っていたんだよ。」
モノトーンの部屋で、その声はか細く、虚ろに響いた。
「毎日、ゲームをしたり、漫画を読むかしかしていない。そんな毎日に飽き飽きしてたんだよ。だったらこの世は俺にとっては用済みだ。自分で死ぬことはできないから、他人に殺してもらおうと思ってたんだよ。そしたら丁度いい所にお前が来た。お前なら俺を終わらせてくれると思ってたんだけどな。残念だよ。お前が俺を殺しに来たんじゃなくて。」
自分の絶望を、表情を変えずに淡々と話す彼に憐れみを抱いた。無職の自分を肯定していたのが嘘のように、今の自分の生を否定している。自分から生を投げ出す人間を殺しても、命を奪ったことにはならない。元から死んでいるからだ。彼を殺すのを止めることにした。
彼を殺そうと家の中まで入れたのに、結局は殺せない。徒労感が湧いて全身から力が抜けそうになった。
「じゃあ、もう帰るわ。」
短い言葉を放り投げて、彼と目を合わせず、部屋を出た。家を出て門を抜けると、僕は急ぎ足で道を歩き出した。彼の言葉から感じるはずの何かを感じずに済ませようと、少しでも家から離れたかった。しかし、その何かはじわじわと心に染み出してきた。
毎日同じことの繰り返し。僕も彼と同じだ。彼のように死を意識するほどではないにしても、救い難い退屈にいるのは確かだ。改めて、自分のいる日常の空虚さを痛感させられ、打ちのめされた気分になった。しかし、同時に自分だけではなく、彼も日常に倦んでいたという事実に慰められてもいた。その安っぽい共感の温もりは、駅へ歩を進めるうちに、徐々に薄れて消えていった。