衝動
僕は瀬谷の死が報じられてからずっと、来る日も来る日も、新聞で警察の捜査状況を調べていた。しかし、新聞に僕の起こした事件のその後の詳細が載ることはなかった。もう、自殺や事故として処理されたんじゃないか。僕はそのことにすっかり安心しきっていた。
しかし、ある日、事態は急変した。その日の朝、ダイニングのテーブルに新聞を広げ、事件のその後の捜査状況を伝える記事を探していた。母はキッチンに立ち、朝食の仕度をしていた。まな板の上で野菜をリズムよく刻む音が響いていた。事件・事故の欄は新聞の表紙の裏に記載されている。僕は毎日そのページの隅々にまで目を通し、事件の記述を探していたが、無関係な事柄ばかりが記載されていた。この日、ページを見ていると、「転落」、「殺人」の二つの言葉が視野に引っ掛かった。その記事はページの隅に存在感なく、小さな見出しで載っていた。頭で理解するよりも先に、全身が鼓動で震えた。まず心を落ち着けようと思い、ゆっくり深呼吸した。緊張を胸から吐き出してから、字面を目で追った。内容は視野に映り込んだ断片から推理されるものと全く同じだった。警察がついに、殺人の線で僕の起こした事件の捜査を始めたと書かれてあった。僕の人生は終わったと再び宣告された気がした。まだ捕まったわけではない。しかし、時間の問題だろう。ゆっくりと絶望が心を締め上げる。やはり、刑務所で罪を償うよりも、罪を隠して生きていく方がいい。自由の無い刑務所内で人生を送るのは苦痛だ。それに両親に殺人犯の家族という汚名を着せてしまう。さらに、罪を償った後の未来の展望を考えると、もっと暗い気分になった。刑務所を出た後、僕はどこで働けるだろう。殺人の前科を持つ人間を雇う職場などあると思えない。僕が逮捕されれば、僕と両親には以前と変わらずに、生きていける場所はないのだ。
新聞を読んでそんなことを考えていると、母が傍らにやって来て、心配そうに声を掛けた。
「どうしたの?顔色悪いけど、体調わるいの?」
「いや、何でもない。」
僕は背筋を伸ばし、新聞を元の形に手早く折り畳んだ。この重い気分の中、食事は進まなかったが、何とか食べ終えた。洗面台の前に立ち、歯を磨く自分の顔は、鏡の中では、確かに青ざめていたが、決まりきった手順に従って、歯ブラシを動かしている。その姿は懸命になって、今の平和な日常にしがみつこうと無駄な足掻きをしているように見え、事実そうだった。まだ捕まると決まったわけじゃない。心に安心の立つ足場を確保しようと、無理にそう思い込んだ。
家に帰ると、自室に入り、大きく息を吐いた。結局、今日一日は何も起きなかった。警察が職場を訪れることはなく、平穏そのものだった。逮捕されるまでの間に、将来の身の破滅に対して、再び、覚悟を決めなければならない。今の僕にできるのはそれしかない。
その後、僕の犯した殺人が報道されることはなかった。メディアは日々、節操なく新しい事件を追い続ける。新聞で事件の捜査状況の記事を読んでから、時間が積み重ねられるにつれて、自分が殺人犯になった事実の衝撃は日ごとに、薄まっていった。重石でもされたかのように、身動きが取れなかった心も軽快さを取り戻し、気持ちの切り替えができるまでになった。自分が受ける罰に対する心の準備も整った。
ある日の夜、自室でベッドに寝転がって、天井を見ていると、以前抱いた問いが再び頭に思い浮かんだ。僕は殺人を通して、死になれるのか。思考や感情に振り回される弱い存在である人の身を超えることはできるのか。目の前を一匹の小さな羽虫が、春の陽気に酔ったかのように、ふらふらと飛んできた。何も人を殺す必要はない。この虫を殺すだけでも死になることはできるだろう。僕は羽虫の飛ぶコースを予測し、そこに手の平をかざした。羽虫が僕の読み通りに、手の平をくぐろうとした瞬間、握り潰した。手をゆっくり開くと、無惨に潰された羽虫が、透明な体液を流して、手の平にへばりついていた。殺すというより壊したという感覚だ。命を奪った実感がない。大切な人や物を奪うから、人間にとっての死は、重く、厳粛なのだ。感情や思考に乏しい動物には、死によって何かを奪われるということが分からない。おそらく、命を奪われるとも感じていない。人間と動物では、死の意味が違う。動物相手では、僕のイメージする死にはなれない。やはり、殺人を通して死になろう。両親に対しては、何の遠慮もいらない。一人殺した時点で、警察に捕まり、両親を悲しませる結末は確定したのだ。今更、何人殺しても、あるいは殺さなくても、それは変えようがない。
誰を殺そうか。僕と無関係の人間を殺すのは理不尽だ。殺すとすれば、やはり、僕をいじめた連中だろう。彼らがその生涯で最も傷つけたのが僕であると同時に、僕をこの生涯で最も傷つけたのは彼らだ。彼らを殺すのに最もふさわしい人間がいるとしたら、僕をおいて他にいない。自分に彼らを殺す理由があってよかった。
殺人方法は何がいいだろうか。僕が考える死とは、何の思念も感情もなく、一瞬で人の命を奪い、それに巻き込まれた人間の意思とは無関係で、独立して存在するものだ。このイメージに合う殺人方法は一瞬で事が成されるものが適切だろう。銃殺。直観的に頭に浮かんだ。しかし、銃を手に入れる手段がない。もし入手できたとしても、上手に扱えるとも限らない。一瞬で命を奪うとなると、急所を的確に狙撃しなければならない。もっと確実に一瞬で命を奪える手段は何か。首筋を刃物で切る方法はどうだろう。この方法であれば、一瞬で確実に相手を絶命させることができる。相手の首筋、すなわち頸動脈を切断する瞬間だけ、何も考えず、何も感じなければいい。その瞬間だけ、一個の人間の器を離れ、周囲の状況に惑わされる弱い存在から揺るぎない存在に変化するのだ。
僕をいじめた連中は今どこにいるのだろうか。僕には高校時代の友人など一人もいないから、そいつらが今どこにいるのかは調べようがない。ふと意識の視野に光るものがあった。確か、高校を卒業する時に、卒業証書と共に、住所録をもらったはずだ。机の引き出しの中を探すと、それはあった。中を開くと、生徒氏名の横に住所、電話番号が一行にまとめて記載されていた。僕をいじめた連中は、瀬谷を除くと、残り4人。この中の何人が実家に住んでいるか分からない。しかし、この中の4人のうち誰か一人が実家住まいである可能性は0ではないだろう。彼らに会う方法を考えた。電話を掛けて、家族に現住所か携帯番号を尋ねるのはどうだろう。しかし、名前も聞いたことのない人間に、彼らの住所や携帯番号を教えてくれたり、本人に電話を取り次いでくれたりするだろうか。僕にはそうは思えない。学校の同級生と説明した所で、結果は変わらないだろう。どうやら彼らの家を一軒ずつあたって、実家住まいの奴を殺すしかなさそうだ。効率が悪いし、賭けでしかない方法だがこれしかない。
休日の朝、凶器となるナイフを買いに、近所の百貨店へ行った。それは鞘と一緒に、厚紙に張り付けられた状態で、透明なビニールの袋に入っていた。形状に用途が表れている。まさに切るためだけに作られたものだ。ナイフは使用者の手に委ねられていないためか、無垢な輝きを放っていた。僕はナイフ一本だけを持って、レジの前に並んだ。二人の客が会計を済ませた所で、僕に順番が回って来た。レジの店員にナイフを渡す。店員の手でナイフがバコードリーダーでスキャンされる。これから行う殺人もスキャンされるような気がした。もちろん、実際にはそんなことはなかった。店員は殺人が目的でナイフを買う人間がいるなど、夢にも思っていないのだろう。ナイフを手に取ってから、買い物籠に入れるまでの手際に淀みがなかった。
会計を済ませると、寄り道することなく、直ちに家に帰った。自室に入ると、ドアを閉め、鍵を掛けた。早速、袋の封を開けて、ナイフを取り出してみる。鋭い。元々、果物を切るためのナイフだ。人間の首筋など簡単に切断できるだろう。首筋を切る時の感触はどんなものだろうか。そう思い、ナイフを自分の首筋に当ててみた。首筋に線状の圧迫を、手には、ナイフの刀身を押し返す肌の弾力を感じた。後はナイフを横にスライドさせるだけで、命が消える。たったそれだけのことで人間は死んでしまう。自分も他者も。殺す瞬間にためらったり、葛藤をすれば、それは死ではない。殺人だ。首筋からナイフを離して、鞘に納めた。カチッと軽い音がした。使用者が自分を使って何を切ったかにまるで関心がない。そんな素振りの音だ。切ったのが人間じゃなく、果物だったとしても同じ音を立てるだろう。
数日後、僕は午前4時に起床した。上下を黒ジャージに着替える。必要なものを入れたリュックを背負い、ゆっくりと自室のドアを開けた。早朝の家の中は暗く、しんと静まり、二階の部屋の小さな物音さえ聞こえそうだった。一階に人のいる気配はない。僕は廊下を、音を立てないように歩き、玄関へ向かった。かかとを踏んで靴を履き、外に出た。金具同士の摩擦音をできるだけ小さくするため、ゆっくりとドアを閉める。そして、久し振りに腕時計をした。時計の針は、時を余すことなく表現し、僕を逃がそうとはしない。どこまでも付いてくればいい。時間と並走するのはもう嫌じゃない。
外は暗く、朝日が顔を出すのは当分、先に思えた。街は静かで、犬の鳴き声すらしない。ガレージへ行った。紫色の透明なパネルを張り付けた屋根の下には、軽自動車が止められ、それに寄り添って、自転車が存在感なく、立っていた。免許さえあれば、自動車に乗れるのに。そんな思いを脇に追いやり、自転車に跨る。地面を蹴って、勢いよく車体を前進させた。車輪はカチカチと音を立て、加えられた力に逆らうことなく、回りだした。ガレージを出て、左折し、少しの間、坂道を慣性で下った。慣性がなくなると、ペダルに乗せた足に力を込める。自転車のライトは前方の道路を照らし、ライトが通った跡を自転車は忠実に辿って進んだ。夜明け前の冷たい風が頬をかすめる。少し身震いしながら、自転車をこぎ続けた。これから人を殺す。そう思うと、ペダルを踏む足に自然と力が籠った。途中、何回か自動車と擦れ違ったが、通勤時間程、交通量は多くない。街は起きたばかりのようだった。
やがて、幹線道路を外れ、住宅街に入った。道路から聞こえる、わずかばかりの騒音は薄まり、街には澄んだ静寂が湛えられていた。急な坂道を上ると、大きな獲物のかかった釣竿のリールのように、ペダルが重くなった。サドルから腰を浮かせて、右左と交互にペダルを踏みしめる。それでも、遂には重力の抵抗に屈服して、自転車から降りた。坂道を、自転車を押しながら上る。地図で住所を確認すると、そろそろ、目当ての家に着くはずだった。各々の家の壁に貼り付けてある表札の○丁目○番○号地を慎重に確認しながら、ゆっくり進んだ。3丁目3番7号地。ついに目の前にその家が現れた。表札の名前も一致している。家はこれまでの通りにあった家とは違い、壁の色が黄色と派手だった。その周囲の青銅の柵は、玄関のドアの前で途切れ、そこから8段の階段が柵に平行に道路に下りている。家の前の道路を挟んだ向かい側には公園があった。地図で確認した通りだ。4本の黒い鉄柱で支えられた正四角錐の屋根の下に、ベンチがある。公園に入り、屋根の下に自転車を留め、家の正面を向いて、ベンチに座った。ここなら、家の玄関から出てくる人間を長時間に渡って見張れる。ただ、家から出てきた人間に見られやすい。間違いなく不審に思われるが、仕方がない。
しばらく、見張っていると、公園の周囲の家から、続々と人が出てきた。案の定、ベンチに座る黒ジャージの男をチラ見する。僕は気にせず、家のドアを凝視し続けた。いよいよ人を殺す。そう思うと、緊張と高揚が入り混じり、体が熱を帯びた。何の不安も恐れもない。今、彼が現れてもすぐに殺せるぐらいに。気分の高ぶりに反して、時間は中々進まない。たまに見る腕時計の時刻は、針が水中を移動しているのかと思えるほど、進みがゆっくりだった。
7時前のことだった。家の中から、コートを羽織った黒いスーツ姿の男がビジネスバッグを片手に家から出てきた。白髪交じりの髪をオールバッグにまとめ、程よい恰幅に貫録を載せ、堂々としている。言うまでもなく、山北の父だろう。この人が家を出たとなると、彼もまもなく家を出てくるだろう。彼の父親は階段を下りると、僕の家にあるのと同じ、屋根だけのガレージに行き、留めてある黒い車に乗り込んだ。エンジン音が鳴り、車はガレージを出て、右折し、疾駆音を残して、街を後にした。彼の登場から退出まで目が合わなかったことを幸いに思った。監視には気づかれてはいない。
家に戻り、朝食を取って、会社に行くとすると、8時までに戻らなければ、会社に遅刻してしまう。家からここまで片道10分だが、殺人を行い、返り血などの痕跡をどこかで消すのに、10分程かかるとすると、7時40分までに山北が現れなければ、殺人を諦めて、家に帰らなければならない。ここまで来て時間切れでは、全くの無駄足だ。彼が現れなかった場合に備えて、仕事帰りの彼を殺すことを考えた。しかし、彼が仕事を終えて、帰宅するのはいつになるか分からない。また、僕が仕事を終えてから彼の家に来るまでの間に、彼が帰宅する可能性もある。だから、もし次の機会に彼を殺すとしたら、平日にせよ休日にせよ、一日中、家の前で彼が現れるのを待ち続けるしかない。そんな手間は掛けたくない。早く出て来い。一心に願うばかりだった。
焦燥の中、監視を続けていると、公園の周囲の家から、人間が出て来なくなったのに気付いた。時折、僕を異物のように見る、とげとげしい視線はもはや感じない。この街の出勤時間は終わったのか。山北は実家とは別住まいなのではないか。そう思った瞬間だった。山北の父親が出て以来、閉じたままの家の扉が開いた。出て来たのは、僕が待ちかねた人物だった。
山北は昔とほとんど変わっていなかった。銀縁の眼鏡の奥に潜む、細い眼、尖った鼻先と顎。神経質を絵にしてくれと頼まれたら、百人が百人とも描くような顔だ。彼はいじめグループのリーダーに指図されるがまま、僕に暴力を加えてきた。そして、時々、自分のやることに不満を抱いていないかリーダーの顔色を不安そうに窺っていた。その顔には、恐れの交じった愛想笑いが浮かんでいた。僕がいじめられなくなれば、今度は自分の番と考え、自分がいじめに加わることで、いじめられるのを避けたかったのかもしれない。だとしたら、嫌々、いじめに加わっていたことになる。しかし、同情はしない。いじめの被害者と加害者。今となっては、そのつながりが重要なのであって、それ以外の事情はどうでもいい。
山北が階段を下りてくる。突如として、やるなら今だ、と本能的な直感が心で瞬いた。公園のフェンスを片手で掴むと、飛び越えて道路へ降りた。走り来る車の有無も確かめずに、一直線に家の門の前に走り寄った。山北は門を出た所で目の前の僕を見るなり、唖然とした表情になった。
「藤堂、お前。」
彼が驚きに満ちた表情で言葉を絞り出す途中で、僕は素早く、ジャージのポケットに手を入れ、無機質の手触りを探り当てた。ポケットの中で鞘からナイフを抜き、眼前の相手の鼻先にその切っ先を据える。
「止め…。」
彼の口から、恐怖の奏でる声が漏れそうになった。僕は最後まで言わせまいと、彼の口を片手で塞ぎ、背後に回り込んだ。そして、彼の首筋に刃を当てた。この位置で首を切れば、相当な返り血を浴びる。一瞬で判断し、山北を突き飛ばした。山北はよろめきながら、前へ2,3歩進み出た。ナイフを持つ手が震える。殺すしかない。強引な決意で恐怖を抑え込みながら、ナイフを強く握る。焚き付けられた激しい感情が僕を駆り立てた。僕は勢いよく彼の脇を走り抜け、同時に思い切り、ナイフで首を薙いだ。首を切る確かな感触があった。2メートル程、走り抜けた後、立ち止まり、ゆっくりと背後を振り返った。山北は口をパクパク動かし、声を必死に絞り出そうとしていた。首筋を押さえた手の隙間から、堤防が決壊したかのように、赤い血が次々と流れ出てくる。あまりにも非現実的すぎて、自分が起こしたこととは思えなかった。
はっと我に返った。今の行為を誰かに見られてはいないか。僕はすぐに周囲の様子を見回した。僕ら二人以外で外にいる人間は一人もいない。鞘に納めたナイフをズボンのポケットに入れてから、急いで公園に戻り、自転車に乗る。地面を蹴って、車体を前進させ、入り口から出ると、後ろを振り返ることなく、全力でペダルをこいだ。下り坂だったため、途中から乗り手の逃走の意志を汲み取ったかのように、ペダルが独りでに回転し、自転車は猛スピードで坂道を下った。
殺人の痕跡を消さなければと思い、公園に立ち寄った。公園とその周囲には、人は見当たらない。それを確認すると、トイレの入り口に自転車を留めた。トイレの入り口に入り、鏡の前に立つ。電灯は点いていなかったが、自分の姿を確認できるほど、明るかった。顔、手、首に返り血が付いていないか入念に調べた。ナイフを握っていた右手を見ると、人差し指と手の甲に少し、付着し、既に赤黒く変色していた。他の部分には付いていない。返り血を浴びてもそれが目立たないように、黒のジャージを着てきたがこれにも付いていない。手に石鹸液をかけ、水で洗うと、血は簡単に落ちた。トイレの入り口から顔を出して、公園に人がいないか見てみる。誰もいない。洗面台の前に戻ると、ポケットに入れたナイフを取り出した。鞘からナイフを抜くと、刀身は血で赤く染まっていた。蛇口をひねり、血を水で洗い落そうとしたが、こびり付いていて中々落ちない。早くしなければ。リュックからティッシュ箱を取り出す。ティッシュでナイフに付いた血を急いで、拭き取った。しかし、血がべとつき、落ちない。ナイフに石鹸液を付けて何度も拭く。すると、ティッシュはみるみる真っ赤に染まっていった。
ふと、手を止めた。僕はどうしてこんなことをしているんだろう。そうだ。人を殺し、その痕跡を消しているんだった。腑に落ちた僕は作業を再開した。ナイフからは完全に血が落ちたのを確認して、水洗いする。今度は外に出て、自転車の右ハンドルを見てみた。やはり、ほんの少し、血が付いていた。それを石鹸液を染み込ませたティシュで拭き取る。最後に、血を拭き取ったティッシュを全て、個室トイレに流した。殺人の痕跡は、これで完全に消し去った。しかし、いずれは捜査線上に黒ジャージの男が浮かび上がってくるだろう。多くの人間に姿を晒した。家族に人を殺した黒ジャージの男が自分ではないかと疑われるのはまずいと思って、予めリュックの中に、今日の着替えを入れてきていた。僕はトイレの個室に入り、鍵を掛けた。上下の黒ジャージを脱いで、服を着替える。黒ジャージをリュックにしまい、外に出る。相変わらず人はいない。リュックを背負い、自転車に乗って、平然と公園を後にすることができた。
家に帰ると、玄関を上がり、自室に直行した。リュックから黒ジャージを取り出し、丁寧に畳む。殺人に参加したとは思えないほど織り目が正された黒ジャージを箪笥の引き出しにしまうと、ふっと息が漏れた。これで問題ない。そう確信すると、部屋を出て、ダイニングへ行った。
何食わぬ顔でダイニングに入る。ダイニングには、焼けたトーストの香ばしい匂いが漂っていた。窓からの陽光がその匂いに色付けするかのように、仄かに明るく、室内に差している。ありあわせの材料でできた、ささやかな朝がそこにはあった。既に朝食を食べ始めていた母に普段通りの挨拶をした。母は僕を見上げると、不思議そうな顔をして尋ねた。
「こんな朝早くから、どこへ行ってたの?」
「少し遠くの公園までサイクリングに行ってたんだ。最近、運動不足で体がなまってたから。」
少し言いよどみながらも、隠蔽を交えて、事実を話した。
「へえー、珍しいわね。ん…。」
母は何かに気付いたらしく、怪訝な表情を浮かべた。
「あれ、顔に血がついてるけど、怪我でもしたの?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「ああ、これ。何か虫に刺されたみたいで、掻いていたら、血が出ちゃったんだ。」
「そうなんだ。」
母は僕の言葉に違和感を覚えなかったらしく、そのまま、黙々と朝食を食べ続けた。
洗面所に行って鏡に映った自分の顔を見た。確かに、右の頬に血が付着していた。指でこすると、簡単に剥がれ落ちた。公園のトイレであれほど確認したのに、見落とすとは。初めての殺人というだけあって、手抜かりがある。多くの人間に姿を見られたというのにしてもそうだ。事前に土地の下調べをしていれば、ターゲットの外出を観察でき、且つ、誰にも見つからない場所で監視できたかもしれない。それに、血の付いたナイフを公園で洗う必要はなかった。家で両親が寝た後に洗えば、誰の目にも触れる不安もなかったはずだ。
ダイニングに戻り、席に着く。テーブルにはバターが塗られたトーストが載った皿のほかに、スクランブルエッグとサラダが盛られた皿が置かれている。それらを見ても、瀬谷を殺した後と同様、食欲がなくなることはない。僕は、スムーズに朝食を完食した。