表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
実存の兵法  作者: 智康
2/6

 図書館を出ると、冷たい風に吹きつけられ、僕は思わず身震いした。

昼間、青を叫んでいた空もその声音が尽きたと見え、西では弛んで朱くなっている。

 今日は丸一日読書に時間を割いた。別に読書が好きというわけではない。友人のいない僕にとっては、それ以外の過ごし方がないのだ。

もう何もすることがない。従って、風に吹かれながら、駅の方角へ歩き出した。

車の排気ガスと騒音に身を炙られながら歩く。しばらく歩くと、脇道にそれた。先程までの騒々しさが、壁一枚隔てられたように、和らいだ。住宅街には通行人がほとんどおらず、街灯がちらほら点り始めた。

 高台から降りて来る階段の前に来た時だった。突然名前を呼ばれた。高所から鷹が獲物を狙うように、声が僕目がけて飛んできた。聞き覚えのある声だ。心身が意に反して硬直していく。振り返るのが恐い。

「おい、藤堂、俺だよ。瀬谷だよ。」

見ると、望んでもいないのに記憶に留めているままの姿をした彼がいた。

階段を下りてくる。一段ずつ階段を下りるごとに、彼の影が蛇のように揺らめく。夕日で頬を黄橙色に染め、笑った口元には白い歯がのぞいている。瞬間、戦慄が走った。僕をいじめていた当時のままだ。

 彼はいつも、いじめの首謀者の指示の下、嬉々とした表情で僕に暴行を加えてきた。指示されたから仕方なくといった様子は感じられなかった。彼は僕を傷つけたいと望んで、自分からいじめに加わっていた。また、自分の感情に素直な奴で、授業が退屈だと、二回の教室の窓から飛び降りて、授業をさぼったりもしていた。

僕は咄嗟に走り出した。何をされるか分からない。全速力で逃げた。

「おい、どこへ行くんだよ。」と瀬谷の咎める声が僕の肩を掴もうとする。僕はそれを振り切って、駅の方向へ急いだ。

瀬谷は追い掛けてきた。走りながら振り返ると、僕と彼の間の距離がどんどん縮まるのが分かった。もう逃げられない。観念して、木造の橋の上で足を止めた。

瀬谷は、バタバタと橋の上を走って来て、僕の前で止まった。

「何で逃げるんだよ。」

息を荒げながら、瀬谷が尋ねる。

「お前が僕に何をしたのか覚えてないのかよ。」

退路を断った覚悟からか、強い言葉を浴びせることができた。

「何のことだよ。俺らはお前をからかってただけじゃないか。」

あそこまで僕を苦しめたことがただのからかいだっただと。僕は右手を固く握りしめる。。心中には彼に対する様々な感情が渦巻き、それらは一方向に、一対象にぶつけられるのを望んでいる。ためらわなかった。感情で練り固められた拳を瀬谷の顔面に力の限り、叩き込んだ。ゴキッという鈍い音が響き、固い骨を叩いた痛みが拳に走った。瀬谷の体は橋の欄干を支点に回り、彼は呆気にとられた表情のまま、頭から橋の下の闇に吸い込まれていった。僕は慌てて、橋の下を見下ろした。彼の姿が暗くて確認しにくい中、ドサッという音が明解に響いた。すぐに周囲を見渡した。川の両岸にある遊歩道から橋に至る一本道まで、人っ子一人いない。大丈夫だ。誰にも見られていない。とにかくこの場から離れよう。僕は夕闇の中、急いで来た道を引き返し、速足で歩いた。街灯の下を通るとき、自分の影が歪んで見えた。

 しばらく歩くと、内面のざわつきは少し収まった。彼は死んでしまったのか。彼の死は暗闇の中でよく確認できなかった。生きている可能性はある。しかし、冷静に考えても、あの高さから人が落ちて生きているとは思えない。やはり、彼は死んだ。僕は人を殺した犯罪者になってしまった。人生が終わった。絶望が全身を塗りつぶした。

 彼が言ったことを何気なく思い出した。僕へのいじめがただのからかいだったと彼は言った。怒りがこみ上げる。いじめを受けていた僕の痛みを子供が転んで擦りむいた程度の痛みとしか思っていない。心が煮え立つとともに、後悔が胸を圧迫した。一発殴っただけで、終わりにすべきではなかった。何発でも殴ればよかった。何回でも殺せばよかった。

 駅が見えた。ロータリーには、赤いバックライトを灯したバスが停車している。その奥に明かりの灯った駅の正面が見えた。人の存在を示す暖かい灯を見ると、気が緩みそうになった。殺人犯という重く、逃れ難い現実を脱ぎ捨ててしまいたくなる。いや、日常の安らぎにいる資格があるのは、何の罪も犯していない人間だけだ。僕は殺人犯と悟られずに、これから生きていかなければならない。僕が向かうのは昼間いた世界とは別の世界だ。

 券売機で切符を買う。周囲の人に怪しまれていると感じるのは気のせいなのは十分にわかっていたが、それでも券売機の操作の一連の手順を心なしか慎重に行っていた。改札機の投入口に切符を入れると、ガシャンという音がして、切符が排出口から吐き出された。穴の開いた切符を見た時、別世界への入場券を切られたのを意識した。

 駅のホームには、休日を無事に終えた人たちが、生簀の中の鯉のように、平和に佇んでいる。ベンチに腰掛けて携帯をいじる人もいれば、本を読んでいる人もいる。その光景は、昼間と変わらない。変わってしまったのは僕だけだ。構内を見回すと、ただぼうっと風景を眺めているだけの人がいる。彼らの視線に捕捉されないように、僕は彼らと視線を合わせないようにした。自分はあなた方と変わらない普通の無害な人間ですよとアピールするように、僕も遠くの風景をぼうっと眺めた。平静を装うということは、それだけで平穏からの断絶になるようだ。

5分ほど経って、電車が来た。乗降口の扉が開き、乗客の入れ替えが起こる。殺人犯の自分が乗り込む時も、扉は開いたままだった。一般人への擬態はうまくいっていると思った。扉付近のイスに座る。車窓からの風景では、街を覆う街灯の光が、結界を張ったように、闇の街への侵入を防いでいる。

瀬谷を殴った手が痛み出した。取り返しのつかない過ちの付箋だ。きっとこの先、手の痛みが消えたとしても、罪の事実は僕を追い回すだろう。もう何も考えたくない。僕は瞳を閉じ、目の裏の闇に没入した。

 電車がゆっくりと停車するのを感じた。それは、背後に近づき、大声で脅かす時の忍び足に似て、いやらしいものだったが、僕は気づくことができた。はっとして、駅の構内に立てられた看板を見る。出発駅の名がそこにあった。曲がった針金を真っ直ぐに伸ばすように、イスからゆっくり立ち上がり、ぼんやりとした頭のまま、車外に出た。

 駅を出ると、目の前には僕の街が避けがたく広がっていた。僕にとってはもう以前の街ではない。それでも家に帰らなければならない。僕のかけがえのない居場所だ。重い足取りのまま、自宅へ向かった。

 人を殺してしまった。改めてその事実を振り返ると、僕の良心は麻酔が切れたように、疼き出した。何てことをしてしまったんだろう。僕の両親は何も悪くないのに、息子を犯罪者にしてしまった。いずれ、僕は警察に捕まる。そうなれば、犯罪者の家族という望んでもいないレッテルが両親に貼られる。あんな奴、殴らなければよかった。僕が我慢すれば済むことだったんだ。殺した瀬谷に対しても思うことがあるだろうと、考えてみた。しかし、おもちゃを散らかした子供が命じられた片付けのように、仕方なくといった印象しかない。いくら考えても、彼に対する謝罪の気持ちなど微塵も湧いてこなかった。やはり、彼は殺されて当然の人間だ。彼は殺されても文句のいえないことを過去と現在の二度に渡って、僕に行ったんだから。

 家の前に来ていた。窓から電灯の光が洩れ、安らぎの在宅を表していた。これまでは僕がどんな悩みを抱えていても暖かく迎え入れてくれる、最後の憩いの場だった。しかし、今は殺人者の自分にも帰る家があるという残酷な現実を否応なく呈示してくる。いつかばれると分かっていても、両親に秘密を隠し続けなければならない。家族の輪に何の負い目もなく加われる日はもう来ない。門扉を開けて中に入るのをためらった。この家に入ってしまえば、望んでいない生活が始まってしまう。それでも、僕が帰る家はここしかない。その決意でためらいを押し切って、僕は門扉を開けた。玄関のドアを開けると、靴が二足、正面を向いて仲良く並んでいる。その隣に僕が靴を並べるのは、気が引け、二足の靴から離れたところで靴を脱いで、玄関を上がった。何の罪もない家庭に帰って来た。その事実が自分の犯した過ちの重大さを改めて実感させた。

「ただいま。」

声のトーンは高くも低くもない、平常の僕のままでいてくれた。

挨拶は返ってこない。廊下を通る途中で、居間のドア窓から中をのぞくと、母はこたつに入り、テレビを見ていたその横顔には、平穏の翳りが何一つ映っていない。僕は居間に入って声を掛けるのが辛くなって、自室へ直行した。自室でダウンをハンガーにかけて、ダイニングへ行った。

 ドアを開けると、ソースの香ばしい匂いが鼻腔を突いた。ダイニングのテーブルには、夕食を載せた一枚の皿が置かれている。今日に限って夕食が好物のとんかつだ。皿の上にのったとんかつをじっと眺めてみる。見るからにサクサクしていそうな狐色の衣を纏い、ソースを被って、僕に食べられるのを待っている。どうやら、食欲は通常運行のようだ。先程までの罪悪感が今はしぼんでいる。イスに座って、とんかつを一切れ箸でつまみ、口に運ぶ。ゆっくりと噛み砕くと、見立て通りの食感にソースの味と肉の弾力が絡んだ。うまい。味覚も正常なままだ。飲み込む時も気持ち悪くならなかった。人を殺すと食欲が湧かず、食べ物も喉を通らないと聞いたことがあるが、それは単なるデマなんだろう。僕の体は食べるという幼少時からの動作の流れを滞りなく再現した。結局、夕食はいつも通り、完食してしまった。食後の満足感からか、僕は家の雰囲気に慣れ、自分は自分の家にいるという当たり前の確信が持てるようになった。居間の前に行くと、ドア窓からは母がこたつでくつろぐ様子が見えた。ドアを開けて、挨拶をやり直す。「ただいま。」と言うと、母は僕の方を一瞥してから、テレビへ視線を戻し、「お帰り。」と言った。普段なら当たり前に思える挨拶の返しに、僕はとても安堵した。母の視線は常時テレビへ向けられ、僕の様子に異変があったとしても、勘付かれる恐れはほとんどない。

「こんな時間まで何してたの?」

母の何気ない言葉が重く響いた。

「図書館で本を読んでいたんだ。」

不審に思われる程の間も空けずに答えた。事実ではあるが、完全ではない。そう言うしかなかった。いずれ警察に捕まれば、母も全ての真実を知ることになる。その時に、今、話してくれればよかったのにとは思わないだろう。これでいいんだ。僕はこたつに入って、すっかり疲れ切った体を横たえた。

 もし、瀬谷が生きていたとしたら、どうなるだろう。あの高さから落ちれば、重傷で動けないはずだ。通りすがりの人に運よく見つけられ、助けられたとすると、病院に収容されるだろう。意識が無く、植物状態にでもなれば、僕が橋から突き落とした事実は露呈することはない。意識がある状態なら、警察に洗いざらい話してしまうだろう。そうなれば、彼が死んだ場合よりも早く、警察に捕まることになる。それだけ両親には早く真実が明らかになってしまう。でも、殺人よりも刑罰は軽く済むだろうし、両親に与える心の傷も浅くて済むかもしれない。いや、望みの薄い可能性を想像して、現実逃避をしても何の意味もない。彼は死んだ。僕は、冷たい不安の中に無防備なまま、放り込まれた。これからどうする。警察に自首する勇気は持てない。自分の手でいつもの日常の幕引きを図るのは、ためらわれる。退屈な日常でも、まだそれに留まっていたい。警察が僕を捕まえるまで待とう。そして、捕まったら、潔く罪を認めよう。逮捕されることで被る災厄も甘んじて受けよう。そう決意した。

 時計を見ると、針は十一時を指していた。母は既にこたつから出て、寝室で眠っている。テレビのチャンネルを変え、ニュース番組を見た。しばらく見ていたが、地元のニュースでは、僕の殺人は報じられていなかった。あの殺人の事実を知るのは、世界で僕一人だけだ。束の間に過ぎないと分かっていたが、僕は仮初めの平穏を噛みしめた。洗面所に行き、鏡で自分の顔を見てみる。さっきまで苦悩の濁りが浮かんでいたとは思えないほど、平素の顔だ。歯を磨き、風呂に入った。いい日でも悪い日でも変わらずに行ってきた習慣は、今日という日もただの一日にすぎないと思わせてくれて、僕はさらに気が楽になった。

 朝、目覚めると、いつもの時刻だった。眠りの質もいつもと同じで、起きた時のだるさにも変化はない。体は昨日を喉に詰まらせることなく、飲み込んだようだった。服を着替え、朝食を済ませ、歯を磨く。いつもの朝の仕度を終えて、家を出た。外では、朝日が柔らかに家々を照らしている。反面、その背後では、夜の名残のような影が、色濃く、へばりついていた。僕はこれからしばらくの間、人を欺いて生きていかなければならない。

 白い建物が見えてきた。工場は僕の歩みにどんどん引き寄せられてくる。そして、とうとう、入り口に着いた。他の作業員たちが工場に入っていく。彼らは何の気兼ねなく、日常を送ることができる。僕とは違う。

 何食わぬ顔で職場に入ればいい。見た所、僕の秘密を見透かす超能力者もいないし、僕自身普段と何一つ違うところがない。人跡未踏の地に分け入る探検家のように、細心の注意を払う必要はない。そう思って、敷地内に入った。

 控室に行くまでに、すれ違った人に朝の挨拶をする。僕とは住む世界が違ってしまった人たちに以前と同じように接することができている。これでいい。控室のロッカーにリュックを入れて、作業帽を被り、作業室に入った。

今日もベルトコンベア上に列を作った人形たちが流れてくる。彼らは作業者が殺人者と分かっても、表情を一変させることはないだろう。彼らはあくまで中立なのだ。小箱を段ボール箱に詰め込むという反復作業は、昨日の悪夢のような出来事さえ、過去へ押し流してくれるような気がする。退屈なはずの仕事が今は心の拠り所となっていた。

 休憩時間が来たので、食堂に行った。いつもと同じく、数人の人間達が長テーブルの席に、集団で座り、話し込んでいる。それを横目で見つつ、彼らから離れた席に着いた。食堂で時間が過ぎるのをただじっと待つ。歓談する一団を見て、ふと思った。殺人を犯す前後で、工場内での僕の何が変化したのか。隠すべき新たな秘密ができたが、人との接触を拒む姿勢は変わっていない。この工場にいる限り、犯した罪を人に気取られずに、生きていくことができてしまう。この孤独は僕以外の人間にとっては寂しいのだろうが、僕にはそれが感じられない。きっとこれは悲しいことなんだろう。

 昼休みの食堂はいつも通り、空間の許容量を超えるかと思えるほど、声で一杯だった。夥しい量の声が空間に書き込まれ、それが見えたとしたら、前方が見透せないだろう。僕はいつものように、自分一人が収まるべき場所を探し歩いた。声が僕に無関心に通り過ぎる中、ようやく空席を見つけた。その席の周りには僕のために取り繕ったかのように、誰も座っていない。席に着いてすぐ、城内さんの姿を探した。彼女は入り口に最も近いテーブルに、いつもの主婦の仲間たちと昼食時間をのどかに過ごしていた。今日も一人で昼休みを過ごすことになりそうだ。一度慣性に乗って動き出した日常は方向転換するのが難しい。そんなことをしみじみと感じつつ、弁当を食べ始めた。

 食事を終えると、昼休みの残り時間は二十分程になっていた。食堂の時計を凝視しながら、時が過ぎるのを待った。時計は、針に止まった蝶を気遣うかのように、ゆっくりと時を進める。食事を終え、会話に弾みがついたのか、人々はより盛んに言葉を交わすようになった。城内さんのグループを見ると、余程、会話が楽しいらしく、彼女らは度々笑顔を咲かせる。城内さんは、概ね聞き役に回っているらしく、うなずきの頻度が多い。

しばらく、その様子を見ていると、彼女は二度、三度と僕に視線を寄越した。それは、色が変わる前の信号の点滅と同じで、日常の流れの変化を予期させた。案の定、彼女は、主婦連中に断りを入れると、席を立ち、真っ直ぐに僕の方へ歩いてきた。そして、僕の向かいの席に来ると、イスを引いて、着席した。

「今日は何の用ですか?」

城内さんが話す前から、挑みかかるような口調になってしまった。これはまずい。

「何ていうか、食堂に入った時のあなたを見て、普段より浮いているような気がしてね。何があったのか聞こうと思ったの。」

さすがと思うと同時に寒気がした。秘密に気が付くとしたら、この人かもしれない。

「で、何かあったの?」

途端に、先程まで落ち着いていた殺人者としての自分が、心臓の鼓動を早めた。少し息を吸い込み、呼吸を整え、昨日の出来事の不完全な要約を話した。

「昨日、僕をいじめてた連中の一人に会ったんです。そいつ、僕へのいじめを単なるからかいだったって言ったんです。僕への謝罪なんて一切なかった。」

城内さんは、真剣な表情で話を聞いてくれた。彼女は語り始めの言葉を探しているかのように、ゆっくり瞬きすると、落ち着いた様子で尋ねた。

「その人は、いじめの罪悪感から逃れるために、いじめをなかったことにしようとそんなことを言ったんじゃないの?」

「いえ、違うと思います。出会った時に、気まずそうな様子を見せなかったし、そいつは元々嘘を吐くような人間でもない。」

「じゃあ、本人は本当にからかっていただけで、君をいじめてはいなかったって本気で言ったのね。」

「そうです。」

「もし、その人が君が受けたのと同じ仕打ちを受けても、平気でいられるってこと?」

「ええ、そうだと思います。」

あいつは二度に渡って、僕の存在を否定した。それに殴ることでしか答えられなかった自分を振り返ると、惨めに思えて仕方がない。

「本当にいるのね、生まれながらに強い人って。あなたはそんな人の考えに合わせて、自分を卑下する必要はない。私たちは強くない代わりに、人の痛みが分かるじゃない。その人はきっと強くなる過程を踏んでないから、人の痛みが分からないのよ。弱いからこそ、持っているものだってあるのよ。」

城内さんは必要な時に必要な言葉を掛けてくれる人だと思っていた。でも、今回は違った。僕は前回話してくれたみたいに、ただ自分の存在を肯定してくれる言葉が欲しかった。自分と対極にいる人間との比較で、自分の価値を認めよというアドバイスはいらない。それは、自分の価値を認めたいのなら、瀬谷のような人間の価値も認めよと言ってるのと同じだ。それは絶対に容認できない。

「確かにそうですね。そういう考え方もありますね。」

賛同の意を示して、落胆をカムフラージュした。

「弱さは恥じるものではないし、強さは誇るものではない。きっとそういうことなのよ。」

城内さんは自分なりの結論をつけたことに悦に入った様子だった。僕が何を思ったか持ち前の勘では見抜けなかったらしい。言いたいことを言い終わったようで、城内さんは、「じゃあ、私はこれで。」と言って、立ち去り、元いたグループの輪に戻っていった。

 仕事を終え、家に帰ると、真っ先に居間に入った。殺人者である僕には、確かめなければならないことがテレビの中にあった。テレビをつけ、チャンネルをローカル局に変えた。テレビのニュースはしばらく、どうでもいい情報を伝えた。無関係なニュースが一つ終わるごとに、緊張が高まった。やがて、ニュースは字幕と共に、橋の下で死体が見つかった事件を伝え始めた。アナウンサーが概説を話し終えると、映像はVTRに切り替わる。やはり、あの橋が映っていた。ヘリの羽根が宙を叩く音がする。空撮された映像には、テレビドラマでよく見かける遺体の形に引かれた白線が見えた。彼は岩だらけの河原に落ちて死んだようだ。その映像と共に、字幕と音声で亡くなった人間の名前が告げられた。予想通り、瀬谷の名前だった。その報道にやっぱりなという程度の感想しか抱けなかった。もしかしたら生きているかもしれないという、か細い可能性は想定通り、可能性にすぎず、現実からはじき出されたのだ。殺人が露呈した後の人生に責任を持つという決意がいよいよ本物になったのだ。さらに、ニュースでは、警察の捜査状況が説明された。警察は事故または自殺と見て、調べを進めているとのことだった。耳を疑った。殺人として扱っていない。警察に逮捕されずに済むのではないか。もちろん、殺人が露呈されないからといって、罪が消えるわけではない。しかし、彼を殺した罪悪感など、この先も湧いてくるとは思えない。だったら、罪を気に病む必要はない。僕はまた、いつもの日常の世界に戻るだけでいい。胸を満たすのをためらいがちだった、喜びと安堵が胸いっぱいに広がった。でも、周囲に殺人の事実がばれない保証はあるのか。浮かんだ不安に対して、問題がないとする根拠を頭の中で並べ立てた。まず、両親に人を殺したことをいう状況はあり得ない。職場では僕は孤立している。唯一口を利くのが城内さん一人だけで、その人に対しても今日言わずに済んでいる。この先も言うことはないだろう。何も問題はない。安心を取り戻すのは、風で飛んだ帽子を被り直すように簡単だった。

 翌日、出社して、食堂のイスに座り仕事開始までの時間をぼうっと過ごしていると、城内さんが目の前を通りかかった。彼女は「おはよう」と事務的な挨拶をして、昨日の態度が嘘のように、よそよそしく通り過ぎて行った。彼女はきっと悩みを抱えた僕にしか興味がないのだ。彼女の勘が鋭いといっても、僕が殺人を犯したことを見抜くほどではない。それに彼女は、僕の身に起きた出来事を聞き、それについて自分なりの意見を述べて、片が付いたと思っている。だから、再び昨日の話題をあれこれ聞いてくることはないだろう。

 始業開始十分前になって、僕は慌てずに席を立ち、一人、作業室へ向かった。作業する所定の場所に立ち、ビニールひもで束ねられた段ボールの板がたっぷりあるのを確認した。やがて、始業ベルが鳴り、重低音を鳴り響かせて、止まっていたベルトコンベアが動き出した。最初の一箱が、壁に空いた穴から、のれんをくぐって姿を見せた。こちらへ向かってくる人形の入った箱を拾い上げ、成形した段ボール箱に入れる。段ボール箱に6箱入れた所で、それを隣のベルトコンベアへ流す。毎日反復している作業だ。それなのに、僕には元の場所に戻ってきたという実感があった。しばらく作業を続けると、また、退屈の中にいた。それは、僕の心のコンパスが正常であることを意味していた。僕は日常を取り戻したのだ。

 終業を迎え、帰路に着いた。工場を出て、少し歩くと、工場の敷地内のフェンスが終わり、住宅街が歩道の片側の風景を担うようになった。歩道の車道側には、数十メートルに渡って、灌木の植え込みがあり、その中には新緑がこれから芽吹こうかという高い木々が等間隔に突っ立っている。灌木の植え込みには、人一人が通り抜けられる切れ目が一つあった。僕はちょうどそこへ通りかかった。その時、視野の下を素早く、右から左へ動く影があった。見ると、それは紺色の野球帽を被った男の子だった。男の子は植え込みの切れ目を抜け、迷いなく車道に出た。向かい側の歩道を見つめていて、道路を渡ろうとしているのは明らかだった。彼が道路の左右の確認もせず、飛び出した瞬間だった。バンッという大きく鈍い音と共に、少年は目の前から姿を消し、代わりに銀色の車体が僕の視界を横切った。一瞬の後、そのトラックは悲鳴のような音を立てて、急停止した。少年はどうなった。僕はすぐさま、トラックの前方に回り込んで、恐ろしいながらも、少年の様子を窺った。彼はトラックの前方2メートル程のところに、うつ伏せで倒れていた。頭から血を流している。流れ出る血は見る間に多くなり、道路を不吉な色で染め上げていった。トラックの運転手は茫然自失といった体で、少年の傍らに立ち、彼を見下ろしていた。自分のしでかした過ちの重大さが彼から何かをする意志を奪っているようだった。車道の両側の歩道は、すぐに、足を止めた通行人で塞がった。好奇と心配の目が一カ所に集中して向けられた。通行人達は、媚薬でも盛られたかのように、日常に突如として嵌め込まれた非日常に見入っていた。目の前の状況についてあれこれ話す無意味な声があちこちで上がった。そんな中、一人のサラリーマンの男性が、少年の下へ駆け寄り、容態を確認すると、心臓マッサージを始めた。ただ見ているだけで何もしない僕ら野次馬の中にあって、その男性の行動はとても勇気があるように思えた。それから少し経って、少年の下へ一人の女性が走り寄った。その女性は必死になって、少年の名前を呼び続けた。彼の母親なんだろう。少年は母親の呼びかける声に全く反応しない。母親の息子の名を呼ぶ声は、本当に届けるべき相手には届かず、周囲にただ悲痛を伝えた。彼の命は何からも自由になろうとしていると、僕は思った。もう帰ろう。見るべきものはもう何もない。僕は騒然とした空気を後に残して、帰宅の途についた。

 家のドアを開けて中に入ると、甘く芳醇な香りが漂っていた。デミグラスソースの匂いだ。今日の夕食はハンバーグだ。自室に荷物を置き、ダウンを脱ぎ捨てて、ダイニングに入った。母はテーブルの自分の席に着き、これから夕食を食べようという所だった。母は僕を見るなりおかえりと、声を掛けた。テーブルには、僕の読み通りに、二枚の皿の上に、デミグラスソースがかかったハンバーグが載せられている。茶碗には、ご飯がいつもの量だけ盛られ、テーブルの中央には、レタスやブロッコリーなどの野菜がたくさん盛られた大皿が置かれている。人がトラックに撥ねられた様子を見てきたというのに、僕の食欲はたっぷりとある夕食を前にして、まるでひるんでいなかった。僕は席に着き、いつもと同じように、いただきますを言った。切り分けようと、箸でハンバーグに触れた時、自分の血に浸る少年の姿が思い出された。しかし、その想起はこれから食事を取ろうとする人間に対して、何の害悪ももたらさなかった。僕は、箸で切り分けた小片を口に運び、味を十分に堪能した後、普通に飲み込むことができた。しばらく、僕ら二人の間で言葉の交わされない、静かな夕食が続いた。沈黙を開封しようと、僕は思い切って、さっき起きたことを母に話してみた。

「さっきさ、交通事故で男の子がトラックに撥ねられたのを見たんだ。さすがにびっくりしたよ。」

「そう、救急車がこの辺を走っていたから、事故でも起きたんじゃないかって思ってたんだけど、本当に起きたのね。男の子はどうなったの?」

母は心配そうな顔で、赤の他人の身を案じた。自分の身内が事故に巻き込まれたわけじゃないから、話しても大丈夫だろうと思って、事実を単刀直入に話した。

「頭から血を流して、ぴくりとも動かなかったから、多分、駄目だと思う。」

「そう、可哀想に。」

母は悲しんでいる素振りを一瞬みせたが、何かに思い至ったのか、驚いた表情になった。

「血を流した人を見たわけよね。よく普通にご飯が食べれるわね。」

「ああ、案外平気なもんだよ。思ったほど気持ち悪くならないし。」

言って、またハンバーグの小片を口に運んだ。結局、夕食は無事に食べ終えた。それは母もまた同じだった。まあ、人から聞いた話でしかもあれだけ簡潔な説明だと気持ち悪くはならないだろう。

 居間に行くと、早速、テレビを点けて、ローカルテレビにチャンネルを変えた。自分が目にした事態の結末が知りたいと思った。テレビではちょうど地元で起きたニュースが放送されていた。こたつで横になりながら、交通事故のニュースが伝えられるのを待つ。生か死か。他人の生死にこれほど関心を持ったことはない。少年の死が報じられるのを心待ちにしている自分がいた。あの事故で自分が目撃したのが、死の瞬間であって欲しいという暗い願望が生じていた。不思議にもそんな自分に気味の悪さを感じない。やがて、僕の期待通りに、ニュースは僕の見た交通事故の件を伝え始めた。アナウンサーの声と共に、字幕でも伝えられる少年の死という事実に胸が小躍りした。やはり、死は起きたんだ。

 なぜ死が起きたんだろう。少年はただ車道を渡ろうとしただけで、トラックに撥ねられようと道路に飛び出したわけではない。運転手はトラックを走らせていただけで、少年を轢こうとしたわけではない。トラックが道路を走ることと少年が道路を渡ることの二つがタイミングで結び付けられただけだ。その結果として、あの場にいた誰もが予想も期待もしていない死が起きた。死は少年がこれまで歩んできた人生や残された家族の悲しみを慮ることもなく、無慈悲かつ冷酷に命を奪った。いや、そう見えるのは僕が人間だからだろう。死はただ満たされた条件で成立した通路をやって来ただけだ。そこに元々、人間的感情はない。一瞬という厚みのない時間で、人の命を奪うという大業を人間の意思とは関係なく、成し遂げる。そこにはただ存在するという美しさがあり、それはまた、他者の存在と独立して存在する強さでもある。瀬谷を殺した時の自分を思い出した。あの時の僕は、彼に抱いていた感情の全てをぶつけたくて、彼に拳を振るった。結果として、彼は転落死した。人間の感情をはらんだ殺人は、死と違い醜い。殺人を死へと昇華させることは可能だろうか。もし、これを実現しようと思えば、殺人の瞬間に人間の意思を捨てなければならない。その一瞬だけ、何も考えず、何も感じない、ただ存在するという状態になる。何となくできそうな気がする。そこまで考えて、我に返った。一般常識や道徳観念が僕から遠ざかり、小さな一点になっている。すぐに意識を現実に引き戻した。僕は一体何を考えているんだろう。せっかく平和な日常を取り戻したというのに、殺人を死に昇華させたいだと。馬鹿なことを考えるな。

 ドアの開閉の音がした。振り返ると、夕食の後片付けを終えた母が居間の入り口に立っていた。母はテレビを一目見ると、視線を素早く僕の方へ転じて尋ねた。

「男の子の交通事故のニュースはもうしてたの?男の子はどうなったの?」

少し、興奮気味だった。少年の命が助かっているのではないかという期待が目に宿っていた。

「やっぱり死んでたよ。」

率直に言うと、母は、可哀想にと、さっきと同じ言葉を返した。しかし、言葉には、憐れみと同時に自分と無関係な事柄と割り切る冷たさがあった。その後、母は9時になると、風呂に入り、二階の寝室へ行った。10時半頃に父が帰宅し、居間のドアを開けて、中に僕がいるのを確認すると、一言も話さずに、ドアを閉めて、風呂場へ向かった。僕は12時ごろまで、だらだらと、テレビ番組を見続けた後、風呂に入った。

 自室のベッドの布団に入り、目を閉じると、今日の刺激的な出来事が思い出された。その回想はしばらく、頭に纏わりついて離れなかったが、眠気が徐々に暗闇に溶かして消して行った。僕は、そのまま、睡魔に身を委ね、意識が落ちるのに任せた。朝起きると、体に少しだるさが残っていた。これはいつものことだ。目の前で人の死を見ても、夜にぐっすり眠れるのが自分という人間のようだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ