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実存の兵法  作者: 智康
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変化

 ベルトコンベアの上を等間隔に並んだ小箱がこちらに向かって、滑るように流れてくる。その様子は上から見ればドットの羅列で、それを表現したかのように、作業場は沈黙に覆われていた。室内に僕以外の作業員は、三人しかおらず、作業中に話をすることはない。小箱の中では、戦隊ヒーローの人形が右手を挙げるポーズを取って、誇らしげにしている。ベルトコンベアの終点にいる僕は、人形の入った小箱を成形した段ボール箱に入れ、6箱入れた所で、右隣にある別のベルトコンベアの始点に置く。この作業を延々と繰り返す。人形たちはテレビの中でこそヒーローかもしれないが、工場内のベルトコンベア上では、一つ一つが鉤となって、退屈な空気を運んでくる。

 チャイムが鳴った。午前の作業はこれで終わりだ。ベルトコンベアが停止し、人形たちはせわしない行進を止める。僕は作業室を出た。外は控室に向かう多くの人でごった返していた。人波を押し分けて、控え室に辿り着くと、ロッカーの中のリュックから弁当と水筒を取り出し、それらを持って食堂へ向かう。

食堂には、作業室にいた沈黙の目を盗むかのように、声が溢れていた。大小、高低、様々な声のるつぼだ。十個ほどある長テーブルの前に置かれたイスは、そのほとんどが人で占められ、空席を見つけるのは困難だった。僕は座る席を求めて、しばらく窮屈なテーブル間の通路をさまよった。途中、僕に作業手順を教えてくれたおばさんと目が合ったような気がした。僕はすぐに目を反らし、彼女の視線に気付かなかった振りをした。やがて、テーブルの一角にある誰も座っていない空席の前に来た。僕にはこれまで誰も腰掛けたことのない、真っさらなイスに見えた。腰を下ろし、テーブルに弁当と水筒を置いた。何気に周囲に目を配る。僕の方に視線を寄越す人間は一人もいない。安心して、弁当に箸をつけた。

 黙々と食べ進んでいると、ふと、視野の片隅に、黒い人影が入り込んだ。きっと僕の前を素通りするだろうと思っていると、僕の向かいの席で足を止めた。まさかと思った。その予想と少しの食い違いも見せずに、その影はイスにストンと落ちた。一瞬だけ顔を上げて、顔を確認してみると、それは細身の女性だった。僕は目を伏せて、そのまま食事を続けた。向かいの席に座ったからといって、僕に話し掛けてくるとは限らない。しかし、その予想は見事に外れた。

「藤堂君だっけ。ここの席、座っていいかな。」

こちらの返事を待たずに席に着いた。無礼な人だなと思っていると名を名乗った。

「初めまして、城内と言います。」

見ると、三十代半ばと見られる女性が柔和な笑みを浮かべていた。

「いつも一人で食事をしてるよね。寂しくないの?」

城内さんは黒縁眼鏡の奥から心配そうな目で僕を見た。

「ええ、寂しくないですよ。自分で人との間に壁を作ってるんで、今の状態には納得がいってるんです。」

久々に人と会話が成立している。その事実に驚きながらも、彼女が僕に話し掛けるのを止めることを僕は切に願った。

「どうして人と関わるのをやめたの?過去に何かあったの?」

この質問には答えたくない。押し黙っていれば、やり過ごせるか、もう僕に話し掛けるのをやめてくれるのではないか。城内さんの僕を真剣に見る眼差しは、僕にそんな期待を抱く余地を与えなかった。彼女は僕の目をじっと見つめている。話すしかないのか。でも、この人にだったらという思いもなくはない。

「話してもいいですけど、その代わり、誰にも言わないと約束してくれますか?」

「分かった。約束する。」

秘密にしてくれという僕の懇願で、彼女の目に、より真剣みが増したように感じられた。

「僕は高校時代にいじめを受けていたんです。」

過去の傷跡を抉る痛みで喉が押し潰されそうになりながらも、声を絞り出した。言い終わった後、顔が熱くなったのを感じた。

 高校二年の時から始まったいじめは半年続いた。最初は、上靴をゴミ箱に捨てられたり、カラーボールをぶつけられたりしたのが、エスカレートし、校舎の裏や屋上で暴行を受けるまでになった。数少ない友人達は、僕がいじめられているのが分かると、僕から離れていった。心配を掛けたくなくて、両親にはいじめの事実を言わなかった。いじめを受けていた期間は、孤独と苦痛と明日も確実に今日が繰り返されるという憂鬱しかなかった。いつまでも本当の明日は来なかった。

「いじめを受けてからは、人を信じられなくなったんです。それまで自分とは無関係な人間が急にいじめ始めたんですから。あれから10年は経ちますけど、まだ人が恐いんです。」

城内さんの目には同情や憐れみは映っていない。僕がどこにいても、僕を見つける。そんな純粋で真っ直ぐな意思が感じられた。

「じゃあ、会社勤めもしたくないのね。大勢の人と関わらなきゃならないし、人間関係も複雑だから。」

「はい。」

僕は三十路間近にもなって、実家で暮らしている。両親に対して特別悪いとは思っていない。自立して一人暮らしをしようにも、アルバイトの給料では足りない。それに僕が人とまともに付き合えなくなったのは僕のせいではないのだから。

「今のこの職場は結構人がいるけど、それは平気なのね?」

城内さんは僕の視線を探すように、顔を傾けて尋ねた。

「ええ、作業中は人と関わることもないので、大丈夫です。」

「そう、じゃあ、私は話し掛けるべきじゃなかったかな。ごめんなさい、変な気を遣わせちゃって。最後に一つだけ聞いていい?いじめは辛かったの?」

いじめを受けていた人間に今更そんなことを聞くのか。僕は半ば呆れながら、質問に答えた。

「最後まで辛くないときはなかったですよ。」

「そう、最後まで辛かったんだね。その痛みは、あなたが自分を否定しなかったからこその痛みよ。あなたは、どんなに自分を否定されても、痛みを感じられる自分でいられた、最後まで自分を捨てなかった。だから、傷ついていた自分をもっと認めていい。」

目の覚めるような思いがした。

 いじめを受け、傷ついていた自分を肯定されたのは初めてだった。僕自身さえできなかったのに。

自分の存在を否定される痛みがあった。傷つけられた自分を受け入れるには、ただその事実を受け入れるだけでいいんだ。こんな見方があったとは。

 城内さんが弁当の蓋を開けた。その時初めて会話をしている間、箸が進んでいない事に気付いた。僕らはその後、黙々と昼食を食べ続けた。

チャイムが鳴る。

城内さんは「じゃあ、わたしはこれで。」と短く言葉を切ると、控室へ向かった。

 

 家に帰り、ダイニングに入ると、テーブルに僕の分の夕食がラップにくるまれて置かれていた。僕は夕食を一人で食べた後、自室に直行した。漫画や本を読んだりしていると、あっという間に就寝時間になっていた。目の前のデジタル時計は今が時に運ばれる事実を無視して、細切れになった時間の断面を告示し続けている。

 アナログ時計の時の進みは残酷だ。時計の針が、時を一滴残らず捕まえる。いじめを受けていた当時、この時計を見ると、苦しい時間がいつまでも続くと言われているような気がした。だから、時計をアナログからデジタルに買い換えたのだ。僕はどこにもいない。この時計に拾われなかった無数の時のように、僕は世界からはぐれたかった。

 しかし、今日、忘却された時の中から僕を拾い上げてくれる人が現れた。明日からは新しい世界が始まるかもしれない。


 翌朝、職場に着くと、控え室に入った。控え室で、いつも見かける顔の作業員たちに挨拶をした。その際、僕に対して何か言ってくることはなかった。彼らはただ一瞬、僕に目を留めた後、仲間との会話にすぐ戻った。城内さんは僕との約束を守り、僕がいじめを受けていた事実を言っていないようだった。

 午前の作業を終え、食堂に入った。すぐに空席を見つけ出し、腰掛けた。

城内さんはどこにいるんだろうと、周囲を見渡してみた。彼女は仲間の主婦たちと楽しそうに、昼食を食べながらの会話を楽しんでいた。

 しばらく一人で昼食を食べ続けたが、彼女は僕の元へ来ることはなかった。それどころか、こちらが視線を送っているにもかかわらず、見向きもしない。まあ、それも仕方がないだろう。僕との会話など楽しいはずもない。昨日はずっと一人でいる僕を見て、気がかりだったから声をかけて励まし、いい人をしてみたんだろう。彼女の役目は昨日終わったのだ。

昼食を一人で食べ終えると、またいつものように作業室へ向かった。


 どんな出来事も時に乗れば、背後へ流れ、遠景になってしまう。

城内さんが僕に声を掛けてくれた、あの日以降、日常には何も変化が起きなかった。毎日一人で職場へやって来て、一人で作業をし、一人で休憩・昼食時間を過ごし、一人で家へ帰っていく。城内さんはおそらく世界の総意を僕に伝えに来たんだろう。僕一人の視点で、過去の出来事は決まらない。そう言いたかったんだ。世界からのメッセージを伝えた彼女は、用が済んだから、僕に関わらなくなった。きっとそういうことだろう。


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