桐ヶ窪の住人
みなさん、隣からの騒音に悩まされたことはありませんか?
わたしは何年にもわたり、隣からの騒音に悩まされました。
誰に言っても分かってもらえませんでした。
神様にお祈りしたり、厄除けをしてみたり、色々しましたが一向に改善されませんでした。
ある日、ふとしたことがきっかけで、その騒音から解放されたのですが、それまでの数年間は、自分自身がほんとうにおかしくなっていたと思います。
そんな思いを書いてみました。
猫が膝へ乗ってきたので踏んでいたミシンを止めたら、また「ブーン」と聞こえてきた。この音を聞くと気分が萎える。
気を取り直してミシンを踏みかけたとき、とつぜん携帯電話が鳴った。麒麟堂の児玉さんだった。
「いま何枚できてる?」
「二百枚ぐらいですかね」
「それじゃあ持ってきてもらえる? 追加もあるし」
「そう、追加があるんですね。――今から伺います」
わたしは電話を切ってから胸をなで下ろした。なにしろ今月は生活費がピンチだったのだ。
おととしから、内職でお地蔵さんの前掛けを縫っている。児玉さんは神仏関係の小物や、縁起物を扱うお店を経営していて、他にも絵馬の紐付けやお札の印鑑押しの内職もどうかと聞かれたが、わたしはこの仕事を選んだ。裁断費込みだが生地はあちら持ちで、一枚百五十円の手間賃というのは滅多にない高額だったからだ。
気持ちよさそうに毛繕いしている猫をそうっと下ろすと、膝の上は毛だらけだった。貼り付いた毛をパンパンとはたいて、それからできあがった前掛けをしわくちゃのレジ袋へ入れて部屋をあとにした。
玄関を閉めてドアの前に立ったとき、また「ブーン」と聞こえてきた。なぜか一瞬、おばあさんの歌声のようなものも重なって聞こえた。
玄関ポーチから車のほうへ歩いて行くと、五~六歩で音は格段に小さくなった。おや、と思って引き返し、今度は洗濯物を干している南西の庭に回り込んでみると、ここは音が激しい。風もないのにうちのキンモクセイがゆらゆら揺れているようで、わたしは少しかがんで枝の隙間からのぞきこんだ。
隣の裏庭のちょうど鬼門にあたるところに南天の木が植えられている。南天が邪魔をしていて見えないが、あの向こうに浄化槽のブロアーがある。わたしの家は亡くなったカズゑばあさんの家をそのまま使っているので汲み取り式トイレだが、隣の家は浄化槽のある水洗トイレだ。さっきから「ブーン」と聞こえているのは、あの浄化槽のブロアーが出すモーター音なのだ。
少し向きを変えて、まつげに当たったキンモクセイの葉っぱに瞬きしながら目を凝らすと、ぽってりとした白い箱のようなブロアーが見えた。それが壁の脇に澄まして座って、二四時間うなり続けているのである。
すぐ脇の勝手口つたいに半透明のトタンの物置が造られていて、そこでいつも茶色のレトリバーが毛布にくるまって眠っている。これが毎朝五時半から鳴く。おかげでわたしは二度寝をしてしまい、起きなくてはいけない七時には眠くてたまらないのである。
飼い主である隣の夫婦は父親の遺産が入ったとかで今の家を建て、五十歳過たころにはもう仕事を辞めて、毎日犬と遊んで暮らしているのだ。いっぽうわたしはといえば、頼まれたときだけの古本屋のアルバイトと内職で生計をたてている。隣同士でどうしてこんなに格差があるのか、まったく世の中は不思議である。
敷地伝いにどくだみと貧乏草がびっしり生えていた。わたしは貧乏草を一本ひっこ抜いて花の部分をつまんで隣の家のほうへ投げた。真下に蟻の巣があったようで、貧乏草は卵を運ぶ蟻を根っこに付けたまま隣の庭へ飛んでいった。
内職をもらいに行くと、昼前だというのに児玉さんはすでに赤い顔をしていた。児玉さんの経営する「麒麟堂」は、自宅の玄関先を改装してお店にしている。児玉さんは上がり框に座って、ほらそれだよ、と右手の白い徳利でダンボール箱を指し示した。
「また呑んでるんですか」
わたしが言うと、「ちょっと、ちょっとね」と、空きッ歯を見せて笑った。児玉さんはよくその空きッ歯のところにたばこを差し込んでいるので、そこだけヤニで茶色くなっている。
「奥さんに怒られませんか」
「神棚のお下がりだからねえ、捨てるわけにもいかないでしょう。だからさ、こうしてありがたく頂戴してるんだよ」
児玉さんはそんな都合のいい言い訳をして、徳利のお酒をくいっと飲み干した。
「ところでまひるちゃんは結婚しないの」
児玉さんは飲み足りないのか、徳利を逆さに振ってのぞき込んだ。足下に三~四滴しずくが落ちて、土間の埃を吸いながらじわっと広がっていく。
「相手がいません」
「じゃあオレ、立候補しようかな」
「なに言ってるんですか。奥さんがいるくせに」
わたしが呆れて声を荒げると、児玉さんはシッと人差し指を唇に当て台所のほうに目配せした。
「私がなんだって?」
突き当たりの暖簾をくぐって、エプロンの裾で手を拭きながら奥さんが台所から出てきた。児玉さんはバツが悪そうにうつむいて頭を?いている。わたしは児玉さんを無視して奥さんに話かけた。
「こんにちは、できあがった分を置きにきました」
「さっそくありがとう。追加は百枚ね。それとこれは先月の分のお給料。よかったらここへ認め印をちょうだい」
奥さんからは筑前煮のようなにおいがした。手渡された茶封筒は端っこのほうが少し日焼けしていて、中身を確認すると六万円入っていた。これで一息つけるなと思いながら帳簿へ拇印を押して、それからお香のにおいのするダンボール箱を抱えて児玉さんの家を出た。
家に帰って車を停めポストを覗くと、黒いネコのマークが入った不在通知が入っていた。わたしは食品以外のものはほとんどインターネット通販で買い物をしていて、つい三日前にもある商品を注文したばかりなのだ。
配達時刻を見るとついさっきやって来たばかりのようだった。裏面に殴り書きされているミミズのような数字を解読し、携帯電話番号に電話をかけると、
「すぐそこにいるんで今から行きます」
と若い男の声が返ってきた。わたしは預かってきた前掛けを玄関に下ろして庭で宅配業者を待とうと思い、ダンボール箱を抱えて歩き出した。
玄関へ近づくと、「ブーン」とブロアーのモーター音が大きくなってきた。車を停めた辺りでは聞こえなかったが家に近づくつれ聞こえて来る。いったいあの音はどこで聞こえてどこから聞こえなくなるのだ? そう思うともう居ても立ってもいられなくなって、荷物を置いて家の周りをぐるぐると回り始めていた。
調べてみると、どうやら一番聞こえるのは南西の掃き出しから西の窓に向かっての一面らしい。皮肉なことにここはわたしの家の主要なスペースなのだ。一階はリビングを兼ねた内職場で、二階には寝室がある。
どうしたらいいものかと寝室の窓を見上げて思案しているとき、庭に宅配業者の車が停まった。車の後ろに掲げてある名札に「ドライバー、佐川」と書かれている。業者はヤマトなのだが、本人の名前が佐川というらしい。
佐川さんが降りて来て荷物を差し出した。佐川さんの手は日焼けして、二の腕には小さな力こぶができていた。小さいといってもごくたまにやってくるP運輸のおじさんの力こぶより大きい。佐川さんはいっとき騒がれたハンカチ王子のような好青年で、「さん」と呼ぶより「くん」と呼ぶほうがしっくりくる感じがする。見たところわたしより四~五歳若そうなのだ。
わたしはボールペンを借りて受領証にサインをしつつ、
「佐川さん、あの音どう思います?」
と、目配せした。
佐川さんはいったん隣を見たがすぐ向き直って、返答に困ったような笑い方をした。そしてわたしが受領証を差し出すと、「まいど」とだけ言って受け取り、慌ただしく車へ乗り込んでいった。いつも利用しているのだから、お愛想にでもわたしの味方をしてくれてもいいのに、と思った。
だいたい、うちへ来る人物は限られている。昼に来るのはヤマトの佐川さんか小川さんのどちらかだ。今日来たのは佐川さんだがふたりは名前も似ているが顔も似ていて、別々に来られるといったいどちらなのか名札を見ないと分からない。
夕方来るのは郵便配達のルミちゃんだ。ルミちゃんはわたしより三歳下だが見合い結婚で二年前にこの土地へ嫁に来た。人なつこい性格と話し好きで、今ではもうわたし以上にこの土地になじんでいる。それ以外は隣町で父と住んでいる母が、パチンコの行き帰りに前触れもなく現れるぐらいである。
わたしは誰か来るたび隣のブロアーの音のことを訴えたのだが、反応はだいたいみんな似たようなものだった。ルミちゃんは気の毒そうな顔をするものの聞き流すだけで、フラッと立ち寄る母はというと、パチンコ屋に入り浸るせいで耳が麻痺しているのかブロアーの音など音のうちに入らないようで、
「アンタ、ほかに考えることがあるだろう」
と歯牙にもかけない。
わたしは受け取った荷物を裁断台の上に置いた。それから背後の引き出しをガタガタと揺らしながら開けた。この引き出しはきしんでスムーズに開け閉めができない。たぶんこのチェストが傾いてひずんでいるせいなのだろう。いやよく見ると、チェストというより床が傾いている。以前ここには何が置かれていたんだろう。床が傾くほど重いもの……と考えて、そうだ、昔ここには確か仏壇があったんだ、と思い出した。
引き出しからカッターを出し、梱包してあるテープを切った。中から出てきたのは自然音のCD一枚だ。自然音のCDはいろいろあるが今回買ったのは「滝の音」で、途切れない耳障りのいいサーサー音なのだ。
このサーサーという音は、ピンクノイズと周波数が近いのだという。他にホワイトノイズというのもあって、これはFMラジオの局間のザーザー音に近いらしい。これらは「すべての周波数成分を均等に含む雑音」で、対象物に向けるとどんな騒音もほとんど打ち消してくれるという。だからわたしはあのブロアーに向け、一階にいるときは内職場にあるラジオでザーザーという音を鳴らし、夜寝室へ上がってからは滝の音のCDをかけようと考えているのだ。
窓を開けると目の前に、象牙色の壁をした隣の家がそびえていた。その壁をバックに、飛蚊症のわたしの視界に糸くずのようなものやぼんやりした灰色の綿毛のようなものが舞っていた。まだ十時だというのに南西の庭へはすでに隣の家が陰を落とし始めてきていて、朝干した洗濯物が重そうにハンガーにぶら下がっていた。ブロアーは相変わらず「ブーン」とうなっている。
わたしは「よし」と小さくかけ声をかけてラジオのスイッチを入れ、隣の家の方へ向けた。そしてFMに切り替えわざと選局を外してザーザーという音を流してやった。モーター音が打ち消されるまでボリュームを上げて試みたが、あのブロアーの音は生半可な音量では打ち消せない。ようやく打ち消すところまで音を大きくしたが、やってみるとこれはこれで耳障りなのだった。
翌朝、いつもなら二度寝をするところを、あまりのうるささに耐えきれず寝ぼけ眼でリビングに下りていった。
わたしはリビングのテーブルの横に大きなカレンダーを貼っている。毎年歳の暮れにガス屋さんが置いていくものだ。日付の下にちょっとしたメモ欄が設けられていて、わたしは今日の日付の六月十一日のところに、
【ブロアー音量「中の上」。相変わらず早朝から隣の犬の鳴き声に起こされた】
と、目を擦りながら隣の状況を書き込んだ。クロスワードパズルを文字で埋め尽くすように、今にカレンダーをこんな書き込みでいっぱいにしてやろう、と思ったのだ。まずは今日の欄は埋まった、と思った。少しそんなゲーム感覚でも持たないとやりきれないのである。
それにしてもいっこうに犬が鳴き止まない。掃き出しのガラスに頬を貼り付けて、目を斜にして隣を伺った。勝手口で隣の旦那が犬と散歩へ行く用意をしていた。
わたしは頬を貼り付けたままその様子を見続け、、目玉だけを動かして隣と旦那と犬を見送った。犬はちぎれそうなほどしっぽを振って前のめりになり、腹の出てきた隣の旦那は「チョコ待て、待て」と体を反らして、引きずられるように出かけていった。そのあとコーヒーを淹れてパンを焼き、猫にえさをやって、黄色いスポンジのような耳栓を耳の穴にねじ込んだ。
パソコンを立ち上げ検索画面に「そうおんなやみそうだん」と入力し、最近の日課になっている「騒音悩み相談」のサイトを開けた。
なぜか「ブーン」は、隣が家を建てたころよりひどくなってきている。窓をぴっちり閉めるといくぶん小さくなるが、今度はそれが地を這う低い音になってわたしの耳の中に入ってくる。まるで孫悟空の環のように、こめかみが締め付けられてくるのだ。
サイトを閲覧しているとまた隣の勝手口が騒がしくなった。隣の旦那と犬が散歩から帰ってきたのだ。テレビをつけると画面の左上に「5:47」と、今日の最高気温と降水確率が表示されていた。今の気温は二十三度で、まだこれから十度も暑くなるという。
隣の家で旦那がリードを外して犬を庭に放し、犬の寝所に掃除機をかけ始めたようだ。こうなるともうブロアーと掃除機の音の二重苦だ。これらの低周波音というものには、耳栓がまるで役に立たない。
とうとう我慢できなくなって台所へ走っていって塩を握り、掃き出しの戸を全開にして隣へ向かって投げてやった。「うるさい!」と大声で叫べたらさぞ気持ちいいだろうが、そんな勇気はなかった。今まで何の野心も持つことなく、ひっそりと生きてきたつもりだなのだが、これはいったい何の報いというのだろうか。
それでもそのあと十時ごろから二度寝して、昼過ぎに起きてお地蔵さんの前掛けを縫っていると庭に母の車が停まった。ちょうど手が離せないところだったので迎えに出ずにいると、母は合い鍵を使って玄関を入ってきた。ドアの開く音を聞きつけ、裁断台の上でうたた寝をしていた猫が飛び起きて走って行った。
隣町からは車で五分ぐらいなので、母はしょっちゅうやってくる。土建業に失敗して負債だらけになってからは叔母の畑を一枚借りて、生活費の足しに小松菜やらほうれん草やらを作っては売り歩いている父の顔を見ていると、息が詰まってくると言うのである。
母は使い古した焦げ茶の合皮のポシェットを肩から掛けていた。母はわたしと違いぽっちゃりとして胸も大きい。斜め掛けしているポシェットの肩紐が、母の二つの乳房を間仕切っている。みっともないないからその掛け方をやめて、とわたしが何度言っても、母はこうしないとひったくられやすいんだ、と聞き入れないのだ。母は食い込んだ肩紐を直しながらわたしの横へやってきた。
「ふふん、相変わらず縫ってるんだねえ」
「今日中に持って行かないといけないから」
言いながらわたしはまた一枚縫い上げ、肩を回した。そして窓辺に置いたラジオにスイッチを入れた。FMの局間のザーザーという雑音が大きく流れ始める。
「なあに、その音」
「ホワイトノイズっていってね、騒音を打ち消してくれるらしいのよ」
「へえ、何の騒音だい」
「ほら隣から聞こえてくるじゃない、ブーンって」
わたしは隣に向かってあごをしゃくった。母はわたしに「また変なことを言い出した」と言わんばかりに眉をひそめ、
「アンタ、きっと暇なんだねえ。それには結婚が一番だよ。忙しくて余計なこと考えてる暇なんてなくなるんだから」
と言った。母の「結婚」に対する尺度はそんなものなのだろうか。わたしはただ静かになってほしいだけで、考える間もないほど忙しくなりたいわけではないのだ。それにわたしが結婚する気になれないのは、子供のあの騒がしさが嫌いだからでもある。
「子供ができるとうるさくなるじゃないの」
「わたしはちっとも気にならないけどねえ」
母は大家族で育ったせいか騒がしいのには免疫があるようだが、そもそもわたしが子供嫌いになったのは、一回りも離れた弟の世話をこの母から押しつけられたせいなのだ。
弟ができたのは小学校六年のときだった。それまで静かに、気ままに生きてきていたのに、いきなりかんしゃく玉のようなものが投げ込まれ自由がきかなくなった。「どうして今頃弟ができたの?」とわたしが聞いたとき母は、「あんたが大きくなって寂しくなってきたから、もうひとり産んだんだよ」と答えたが、近所のおばさんたちは「失敗したんだね」とささやいていた。中学校に上がって保健体育で性について習うと、ようやくその意味がわかったものだ。要するにわたしを子供嫌いにした張本人は母と父である。
「それに結婚すると、自由がなくなるじゃない」
わたしが言うと母はできあがった前掛けを一枚広げ、裏返して縫い目を見、それから結び紐をひっぱって、言った。
「そんなこと言ってるとしまいにここでひとりでひなびちゃうよ。アンタ、ずっとこの家に住み続ける気?」
「小さい頃からこの家に預けられていたから、全然違和感ないわよ」
わたしは半ば投げやりに、当てつけのように言った。家が土建業を営んでいて忙しかったせいで、わたしは小さい頃からしょっちゅうカズゑばあさんに預けられたのだ。それがいやだった訳ではなかったが、子供のわたしにとっては老人との生活は何となく恐ろしげで、不可解なものだった。一人暮らしだったカズゑばあさんは、わたしがのぞくといつも真っ暗な洞窟のような仏壇の前に座って、しきりに歌のようなものを歌っていたものだ。
――げっきょーげっきょー、ほうれんほうれん。
たしかそんな内容だったと思う。
わたしは作りかけの前掛けをまた一枚押さえの下に据え、コントローラーを踏み込んだ。ダダダとミシンの音が内職場に響き渡る。母がわたしに向かってハアーと息を吐き、ロックミシンの前の木の丸椅子にドスンと腰掛けた。
「いたたた!」
突然母が叫んだ。
「どうしたの。いったい」
「痔になったみたいなんだよ。パチンコ屋に座りっぱなしだからきいてくるんだねえ。トラックの運ちゃんに多いんだってさ」
「それ違うよ」
「なにが違うの」
「痔っていう字はやまいだれに寺って書くじゃない。要するに信心のない人がわずらう病気なんだよ」
「まあた、アンタは若いのに年寄りじみたこと言って。そんなんじゃろくな生き方できないねえ」
母はやれやれと苦笑いしてお尻を浮かせるように立ち上がり、「そろそろパチンコのサービスタイムだ」とつぶやいて部屋を出て行った。
夕方になって、できあがった前掛けを五十枚ほど持って麒麟堂へ出かけた。
「まひるちゃんの前掛けの縫い方はいいね」
児玉さんは袋から前掛けを一枚取り出して言った。
「結び紐の幅も一定だし、外回りのステッチもきれいだよ。ほらここのところ、ほれぼれするよ」
児玉さんは手にした前掛けに今にも頬ずりしそうだった。そのときちょうど奥さんがお茶を持って出てきた。
「いやだねこの人は。また愚にもつかない講釈たれてるよ」
そう言いながら奥さんは、古びたレジスターが置いてある机のほこりをはらってお盆を置いた。児玉さんはおそらく自分用であるだろう、口のあたりが茶色になっている湯飲みをつかんで、少し胸を張り気味に奥さんのほうを向いた。
「大事なことだ」
「まあ、こういう商売だからねえ……」
奥さんはわたしに向かってフフと笑いながら、もういっぽうの湯飲みを手渡してくれた。
麒麟堂にはどこかの神社で見た短冊のようなものや、しめ縄や、かと思えば得体の知れないお札や置物が所狭しと並べられていた。売れているのかどうなのか、少なくとも内職の運搬でやってきたときには他の客に出くわしたことはない。それでもときに中国語で印字された段ボール箱が届いていたりして、そんな箱からは決まってお香のにおいがしていた。
「この箱の中身は何なんですか」
児玉さんの足下に最近入荷したらしい荷物が置かれていた。
「それは風水アイテム一式だね。注文品だよ」
麒麟堂は日本の縁起物だけでなく、神道、仏教、道教、風水、家相など、一応なんにでも対応しているのだと児玉さんは少し得意げに答えた。
「信心深いんですね」
わたしが言うと児玉さんはこちらをチラッと見て、飲みかけの湯飲みを机に置いた。そしてわたしが縫った前掛けを自分の首に着け、神棚を見上げてパンパンと柏手を打ち、歌のような何かをつぶやき始めた。
話しているときはあまり気にならなかったが、こうして聞く児玉さんの声はまるで下手なヨーデルのようだ。高く抜けるかと思えばいきなり低くなったりする。そのうちわたしは、どっちつかずのその声にだんだんフラストレーションがたまってきた。
「それ、何ですか?」
「祝詞だよ」
「のりと?」
わたしはとっさに聞き返した。昔かずゑばあさんがよく歌っていた、げっきょーほうれんほうれん、とは似ているような気もするが、全然違うような気もする。
「まいにち祝詞をあげて神棚にお願いしたからね」
「まいにちですか?」
「そうさあ、神頼みってのはにわかに願ってもだめなのさ。考えてもみなよ。ちょっとした顔見知りがいきなり金貸してって来たとして、どう、まひるちゃんお金貸す?」
同じように神様も、普段からお供え物をして毎日手を合わせていないことには、いざというときに願いを聞いてもらえないのだと児玉さんは言った。首に前掛けを着けたまま力説する児玉さんは滑稽だったが、言われると確かにそのとおりだと感心した。それにしても神様も、意外と人間くさいところがあるのだなと思った。
それから児玉さんはわたしを見て、酸っぱいときの顔になった。どう見ても「酸っぱい」にしか見えないこの顔は、どうやら児玉さんの精一杯の愛想笑いらしかった。
六月十二日
【音量「大」。ブロアーの音は相変わらずうるさかったが、いつも何かを見つけてはけたたましく鳴く犬が今日はまったく鳴いていない。いったいどうしたのか知らないが、それだけでも少し気が楽になった】
夕食の支度の時間になったので、わたしはカレンダーにそう書いてラジオを切った。今日も一日ホワイトノイズを鳴らして前掛けの裁断をしていたが、いっこうに打ち消されているように感じない。だんだんこれも気休めかと思えて、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。
ラジオを切るとブロアーの音が主役になって、これでもかと言わんばかりに聞こえてくる。わたしはその音に負けじと無意識に「うー」とうなり声を出していた。息が切れるまで声を絞り出しているといきなりむせた。咳が止まらなくなって、一緒に出てきた涙も止まらなくなった。キッチンへ行って換気扇のスイッチを押すとやっとブロアーの音は聞こえなくなって、わたしは涙をぬぐいながら鼻をすすった。
夕食を終えてテレビを見ているとき二階から猫の鳴き声が聞こえてきた。様子を見に二階に行くと猫が寝室のベッドの下でじゃれていただけだが、わたしはブロアーの音を確かめるため南西側の窓を十センチほど開けた。音はその隙間から、かえって凝縮されるように一塊になって入ってきた。わたしが今夜は夫婦の寝室に電気がついていないのに気づいたのはそのときだった。
そういえば一週間ほど前に洗濯物を干しているとき、隣の夫婦が旅行の話していた。たしかイタリア旅行がどうとか言っていたように思う。
――そうか、ついにでかけたのか。
急に心臓がばくばく打ち出した。実はわたしはこの前「騒音悩み相談」のサイトへ質問して、建築業者と名乗る人から、「その音はブロアーの足下の不安定さが原因で、ブロアーを安定させてやれば音は格段に小さくなる」と回答をもらっていたのだ。それ以来わたしは、何かの機会に棒のようなものでブロアーを隣の家の壁に押し当て、安定させてやろうと考えていたのだ。
隣の柵からブロアーまでの距離は長くて二,五メーター、伸縮する物干し竿を最大に伸ばせば届く、というところまでは計算済みである。だが問題はこれをいつ実践するかだった。なにしろ隣の家が留守になることは滅多になく、気づかれずに隣の敷地に竿を侵入させるには外出や食事の時間、それに入浴の間や寝付いてからを狙うしかないと思っていた。それからいくと今夜はまさに千載一遇のチャンスである。
わたしはさっそく庭におりた。隣は家じゅう真っ暗だった。わたしは物干し竿をおろし、その先を柵の一番下の隙間へそっと差し込んだ。竿先と南天の木の延長線上に、ぼんやりと白いブロアーが見えている。おそらくこの位置からのアプローチが最短距離だ。わたしはブロアーをめがけ、芝生の密集した辺りをねらって竿先を這わせていった。
しゅるしゅると芝をこする音のなかに、キン――となぜか金属音がしてヒヤリとした。竿が柵に接触しただけなのだが、今まで木製だと思っていた柵は実は木目模様のシートが施されたアルミ製のものだと気づいた。ヒヤリとしたが見かけ倒しだったのだとわかると、なんだか嬉しくなった。
竿を進ますといきなり手元が震えるほどの振動が伝わってきた。暗闇に目が慣れてきて、確かにブロアーをとらえている竿先が見えた。わたしはふいに小学校の夏休みの宿題で描いた写生が、市のコンクールで佳作に入賞したと聞いた瞬間を思い出した。
それにしてもすごい振動だ。これではあれほどの音が出るのも納得がいく。わたしは竿先でブロアーをぎゅ~と壁に押し当て、さらにもう一度力をこめて押し込んだ。そして十数えてから物干し竿をそうっと離してみた。
音が格段に静かになっているではないか。わたしは思わずガッツポーズをとっていた。
大仕事を終えた気になって二階に上がり、寝室の窓を開けた。聞こえてくるのはまばらな蛙の鳴き声だけで、ブロアーの音は聞こえてこなかった。なんでもやってみるもんだな、と思い、ベッドに仰向けに横たわった。
白い天井に飛蚊症の糸くずが飛んでいるのを追いかけて、「フフフ」とひとりで笑った。
六月十三日
【今朝も犬は鳴かなかった。まだ隣は留守のようだ。ブロアーの音もほんの少しで、これぐらいなら我慢できる。いつまでもこんな日が続くといいのに】
わたしは南西の掃き出しを大きく開けて伸びをした。すり寄ってきた猫にえさをやっていると洗面所で洗濯機がガタンとひと揺れした。タイマーにしていた洗濯機が止まったのだ。わたしは洗濯物をカゴに移して庭に出て、昨夜ブロアーを押すのに使った物干し竿に洗濯物を干し始めた。猫がえさを食べるカリカリという音が聞こえてくる。これが本当のわたしの日常だと思った。
ところが昼食を食べ終えてテレビを見ていると、またモーター音が聞こえてきたのである。わたしは下りていってキンモクセイの隙間から隣の敷地をのぞいた。音がもとに戻ったということは、壁に押し当てたブロアーが自らの振動で手前に移動してしまったとしか考えられない。まさかブロアーがひとりでに鳴り出すとは思ってもいなかったが、わたしは「また竿で押せばいい」とほくそ笑んだ。
竿を取ろうとして振り返ったとき庭にバイクが入ってきた。郵便配達のルミちゃんが手紙を届けにやってきたのだ。
ルミちゃんはわたしを見つけて郵便物で顔を仰ぎながら近寄ってきた。そして仰いでいた手紙の中から書留を取って差し出し、受け取りのサインをくれと言った。
わたしがフルネームでサインをして書留を受け取ると、ルミちゃんは住所にも間違いはないか聞いてきた。表面には「M市O町一一九一の一字桐ヶ窪」と書かれていた。番地のあとにわたしが聞いたことのない地名が書き添えられているのだ。
「なあに、この桐ヶ窪って」
「このあたりがまだO村っていったときの字名よ。町になってからは省略されるようになっただけなの。桐ヶ窪っていうのはあんたんちから、そらその向こうの道までよ」
「じゃあ、うちと隣の二軒だけってことじゃない」
「そうよ、あそこまでよ」
ルミちゃんはうなずいて、隣の敷地の向こう端を指さした。
「ここで生まれ育ったアンタより、よそから嫁いできた私のほうが詳しいって変な話よ」
彼女は配達であちこち走り回るせいで、とにかく町内の情勢に詳しい。ルミちゃんは、どこそこの家が今車検中で代車だとか、どこそこで爺さんが野菜の苗を植えているとか、よくもまあというほど世間の動向を知り尽くしている。
わたしがそれとなく隣が留守である話をもちかけてみるとルミちゃんは、旦那さんの持病の腰痛で二~三日湯治に行っているのだと言った。わたしが小耳に挟んでいたイタリア旅行はそのせいで取りやめになったそうだ。
あまりに天気がよかったので、ルミちゃんが帰ってから布団を干しにベランダに出た。ルミちゃんの話からいくと隣は今日明日にでも帰ってくる可能性がある。だとするとまたしばらくはあんなふうに竿でブロアーを押し込められるかどうか分からない。これからは隣の家の行動に注意して、少しのチャンスも見逃してはいけない。そんなことを考えながら布団を干し終えて、部屋に一歩足を踏み入れたときいきなり「ブーン」と耳に入ってきた。音がベランダのどこか低い位置から聞こえてきているのである。わたしが四つん這いになるとその音は鼻先で聞こえているように感じた。「ブーン」は、ベランダにはめ込まれた飾り格子のところから入ってきているのだ。
――なんとしてもあの格子のところを塞ぐ手段をみつけなくてはいけない。単に板をあてるとかでは駄目なような気がする。もっと何か、確実なものでなくてはいけない――。
わたしは急いで一階に駆け下りてパソコンを開けた。頭の中で何かがぐるぐる回るような感じがしていた。
無我夢中で検索していると、三十分ぐらいしたころ建材会社のホームページで「遮音シート」の文字がヒットした。本来は内装の際に壁の中に貼るものらしいが、わたしは迷わず注文欄に個数1を入力した。そして遮音シートは遮音テープで仕上げると書かれていたので、説明に習って遮音テープも一緒に注文した。
そのときコンコンと音がして南西の掃き出しに目を向けると、外に母が立っていた。母は「あ・め・が・ふっ・て・き・て・る」と口だけを大きく動かしていた。
さっきまであんなに天気が良かったのにと、慌てて二階に上がった。布団を入れ始めていると母は今度は鍵を開けてくれと、わたしを見上げて小松菜のおひたしの鉢を振り回していた。ほうっておくといつまでも叫んでいそうなので、また降りて行って掃き出しの鍵を開けてやった。母は「すまないね」と、体を縮こませてそこから上がり込んできた。しかし母はうちの鍵を持っているはずなのである。わたしが合い鍵は? と聞くと、ああ、あれね、としばらく間をおいたあと、
「パチンコ屋へ忘れてきちゃったわ」
と母は笑った。
「誰かに拾われたらぶっそうじゃない。いますぐ取りに行ってきてよ」
わたしがまくし立てて言うと母はうるさそうにおひたしのラップをめくって、ひとくち口に放り入れた。そして醤油が少なかったなどと独り言を言ったあと、こちらに向き直った。
「あたし、今日は違うお店に行くんだよね。だからアンタが取りに行きなよ。どうせ暇なんだろう」
そしてわたしにもおひたし食べてみなさい、と勧めてくる。わたしはその手を払いのけた。
「何言ってるの。忘れてきたのはおかあさんでしょ」
「でもアンタんちの鍵だよね」
母の言い分はときにおかしい。まともに相手をしていると無性にいらだってくる。こんなやりとりを長く続けた日の夜は気が立って、決まって寝付けないのである。
六月十四日。
【とても暑い日だ。午後からの音量は「ひいき目にみても大」。隣が帰ってきたようで、昼すぎに裏の道を通った乳母車に犬が吠えていた。用意していたキシリトールガムを投げ込んでやろうとしたが、ちょうど隣の旦那が出てきてとっさにその手を止めた。嫁の姿は今日は見当たらないが、いるかいないのかまでは不明である。いても普段からあまり家の外に出ない女だからだ】
そう書いたあとわたしは、「キシリトールガムを投げ込んで……とっさに手を止めた」の文言をマジックで消し始めた。もし母に読まれでもしたら、きっとまたわたしを異常者扱いするに違いないからだ。
その文言を黒く塗りつぶし終えたのと同時に、庭にヤマトさんの車が停まった。荷物を受け取りに玄関へ行って名札を確かめると、今日の配達は小川さんだった。
「二個口です」
庭から荷物を運んできた小川さんは真っ赤な顔で、額の汗を拭いつつ送り状を差し出した。
玄関に置かれた荷物はこの前わたしが建材屋さんに注文した遮音シートと遮音テープである。何重にもビニールラップされた巻物は、幅が約一メーター直径二十センチぐらいで、長さが十メーターもあると書かれてあった。
「重いですよ」
と小川さんが言い、荷物を抱えようとしたわたしは身を引いた。テープは持てるがシートはまったく動かないのである。小川さーん、部屋まで運んで下さい~、と口に出しかけたが、小川さんはもう玄関を出ていっていなかった。しかたないのでそのまま横に倒し、転がすようにして運びだした。
ただでさえ大変なのに、転がしているあいだじゅう猫がビニールラップの端にじゃれていた。これではとても階段を突破できそうにない。わたしは二階に運ぶのを断念して、内職場で飾り格子のサイズどおりにカットすることにした。
カッターで同じところを三度なぞってやっと切ることができた。カットをしたものをベランダの格子部分に据えて遮音テープで仕上げると、こころなしかブロアーの音は小さくなったように感じた。そうなると「遮音シート。D建材」と印字された文字がひときわ頼もしく見え、そのシートやテープがまだたくさん残っているのも心強かった。わたしはそれらを内職場の裁断台の下へ大切にしまった。
夕方、犬を連れて珍しく夫婦で車で出かけていったので、わたしはこの隙に竿でブロアーをつついた。要領もわかり度胸もついてきたせいか、少しの隙を縫ってブロアーを押し込めるようになった。
けれどもその日は、この前まで押しつけると静かになっていたブロアーの音がなぜか変わらない。何度も壁に向かって押し付けるが全く変化がないのだ。やはり竿でつつくだけでなく、じかにブロアーの状態を見る必要があるのだろうか。もし間近に行くことができたなら、ブロアーの脚の下に振動収材でも据えられるのに、と思った。
さっそくホームセンターへ出かけて振動吸収材を買った。ついでにペット売り場へ寄ったら猫用循環式給水器という代物があって、箱に猫がおいしそうに水を飲んでいる写真が載っていたので、ついそれを買ってしまった。
わたしは帰って来て、猫の水飲みスペースを作ってから振動吸収材の裏に両面テープを貼って下ごしらえした。夕飯を済ましてからはときどき夫婦の灯りを確認し、彼らが寝付くのを待った。結局夫婦の寝室の電気が消えたのは一時半だった。今夜はいつにも増して蛙が鳴いている。猫も手を耳の後ろから回して顔を洗っている。雨が降るのだろうか……。
庭に出て見上げるとやはり夜空は曇っているのか真っ暗で、侵入するにはかえって好都合に思えた。わたしはポケットの中をまさぐって、振動吸収材が四つあるのを確かめた。
いざ侵入しようと柵に両手を掛けると、手先からひんやりしたアルミの感触が伝わってきた。続いて足をかけてまたがると、ゴムのサンダルがきゅっきゅっと鳴った。わたしは柵にまたがったまましばらく様子を見た。もしこの音に感づいて勝手口の電灯が点いたなら、すぐに引き返さなくてはならないからだ。
念のため五分ぐらい窺って、どうやら大丈夫そうなのを見て一気に柵を乗り越えた。隣の家の敷地に着地したとき、ゴムのサンダルが草を踏む小さな音がした。
――ああ、つに乗り越えてしまったな。
生まれて初めて犯罪を犯している気分が襲ってきた。
けれど思いのほか落ち着いているのか、わたしの脚は躊躇することなくブロアーに近づいていく。ブロアーは「ブーン」を通り越して、もうごうごうとうなっていた。
ゴムのサンダルのつま先についにブロアーが触れて、わたしはしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばして両手でブロアーをつかむと、とたんに凄い振動が伝わってきた。それはいつもの竿を伝ってくる振動とは比べものにならない。まるで体全体が揺らされているかと思うほどである。わたしはその振動に負けないようにブロアーを押さえつけた。こいつがわたしを悩ます元凶なのだとありったけの力を込めた。
それから脚の下に振動吸収材を貼るためブロアーを持ち上げた。ブロアーは見かけより重く、しかも底面の脚の裏には砂がいっぱいついていた。おかげで振動吸収剤の接着面をあててもシールが全く効かなかった。わたしは砂を払い、もう一度振動吸収材を押し当ててみた。
そのあと二~三度繰り返して押しつけてみたが貼り付けることはできなかった。結局これ以上時間をかけるのは危険なような気がしてきて諦めた。
豆球だけのわたしの寝室に戻って夫婦の寝室を見ると電灯がついていた。見つかっていないはずだが、心臓はばくばくと打っていた。まだブロアーを掴んだときの振動が手に残って、むずがゆい。このままでは眠れそうにないので、わたしは精神安定剤のデパスを飲んでベッドに横たわった。
六月十五日
【音量「中の上」。隣の夫婦はそろって真っ昼間から犬と遊んでいる。わたしがミシンを踏んでいる間もチョコ、チョコ、と名前を呼ぶ声が聞こえて鬱陶しい。嫁のほうはここ三~四日ほど食材の買い出しに行った気配なし。けれども昼食は十二時に済ませた模様。そんなに買い置きがあるのだろうか】
開けていた窓をわざとバンと閉めてやった。けれど隣の夫婦はそんなことはまったく気づかない。隣からの騒音は、ピンクノイズやホワイトノイズを鳴らしても、遮音シートで封をしてもなくならかった。もはや竿でブロアーを押しつけても音が小さくなることはなく、振動吸収材は砂だらけで貼り付けることができなかった。もう現実的な方法では何をやっても無理なように思えてきた。
こうなったらもう神仏にお祈りするか、お札などを掲げて厄除けをするしかない。あの音を殺気だと考えてみると、風水に殺気を除ける風水八卦鏡というものがある。八卦鏡は通常自分の家によその建物の角が向かってきているときや、道が玄関に向かっているときにその殺気を跳ね返す道具である。だから隣の音を殺気とみなしたら効果があるかも知れない――。そう考えてみると、どうにもならないことには神仏を頼ってきた昔の人の気持ちがよく分かる気がしてきた。
ふいに携帯電話が鳴った。着信画面に「麒麟堂」の文字が表示されていた。
「まひるちゃん、前掛けまだかなあ」
児玉さんにそう言われて気がついた。騒音に気をとられて最近あんまり縫ってなかったのだ。それでも三十枚ぐらいはできあがっていたので、わたしはとりあえずそれを持って麒麟堂に行き、ついでに児玉さんに八卦鏡のことを聞くことにした。
麒麟堂へ行って八卦鏡を扱ってないか聞くと、児玉さんはちょっと考えて、店の隅の箱をガタガタ探し出した。
「あった、これでしょう」
名前のとおり、周囲に八卦が書かれていて真ん中に鏡が付いている八角形の代物である。
「何に使うの?」
「なんでもないんです」
言いながらもわたしがまじまじと眺め回していると、児玉さんは駄菓子屋がおせんべいを入れる紙袋に八卦鏡を入れてわたしに手渡してきた。
「ツケでいいよ。内職代から引いとくから」
児玉さんはそう言って、へへ、息を吐くような笑い方をした。昼食に餃子でも食べたのか、児玉さんの口からはニンニクの臭いがした。
家に帰ったわたしはすぐに南西の庭に回り、ブロアーの音が一番大きく聞こえるところを探した。八卦鏡を持ってうろうろしているうち、どうやらあの音は物干し竿の支柱の辺りが一番聞こえるのが分かってきて、わたしはここに八卦鏡を設置することにした。
しかしよく考えてみると、そもそも音を出している当人が音の苦しみを知らないことには、根本的に「ブーン」は治らないのではないかというところに行き着いた。そう思うと、わたしと同じ苦しみを隣の夫婦にも味わわせてやらねばならないという気持ちが堰を切ったように溢れてきたのだ。つまり、相手に邪気をそのまま跳ね返してやるのだ。
わたしはまず物干し竿の支柱に八卦鏡のフックをくくり付け、それから真ん中の鏡に隣の建物が映るように、斜め下から見上げて入念に角度を調整した。仕上げに決まった角度がぶれないように、ビニールハウス用のテープで裏面からも固定した。
――これであの音はそのまま隣に返っていくだろう。わたしは隣の家を振り返ってほくそ笑んだ。
八卦鏡を設置し終えてリビングでコーヒーを飲んでいるとき、パチンコ帰りの母が上がり込んできて、これお菓子、とレジ袋をテーブルに置いた。
「また行ってたの?」
「うん、今日はずいぶん勝っちゃったんだよ」
母は最初負け込んでいたが、途中から手元がうまい具合に定まってきたと言って笑った。
「そんなに出歩いてばかりだとお父さんに文句言われるんじゃない」
「あの人は何にでも文句がある人なんだよ」
母はそう答えたあと、裁断台の下の遮音シートで猫が爪を研いでいるのを見て、「あれなに?」と聞いた。説明すると長くなりそうなので、「猫の爪研ぎ」と言ってごまかした。それから母にもコーヒーを淹れてやり、母の向かいに腰を掛けた。
「ちょっとアンタ、なんか変な物が物干し竿の支柱にひっついてるよ」
母の目が今度は庭に向けられていた。
「ああ、あれね」
隣からの殺気を跳ね返す風水八卦鏡だと言おうとしたが、するとなぜあれを設置したかというところまで聞かれるだろう。わたしは母がこれ以上興味を持たないように、「なんでもないのよ」と流した。母は詳細な答えを待っていたようで、わたしがたいした反応をしないのがつまらなそうだった。そしてひとくちコーヒーをすすって、また目を外に向けた。
「隣、いい家建てたねえ」
母の声がして、わたしがその言葉に合わせチラッと視線を動かすと、母はさらに話を続けた。
「アタシと幼なじみなんだよね。隣の旦那は。あんまり一緒に遊ばなかったけどね」
そして隣のおじいさんは当時からこの辺の分限者で、地域の世話人のような役割もしていたのだと話した。うちの裏手や横があぜ道だったのを町道にするのにも率先して動き、おかげでうちの敷地は二度に渡って譲らされたらしい。一回目は母が娘の頃で、二回目は嫁に出てからだそうだ。二回目のときはすでにカズゑばあさんはひとり暮らしだったのに、後から見たその土地を譲る承諾書の自署欄には、とてもカズゑばあさんの字とは思えない男らしい字で「奥出カズゑ」と書かれていたそうだ。
「あれはかずゑばあさんの字じゃないよ」
おばあさんの書く字は、もっと柳の枝みたいにふらふらした字だったんだと母は言う。
「それにあのじいさん、うちとの境の槇の木も勝手に切っちゃったし。あっそうそう、氏神さまには町内一多くお布施を納めてたよ。そうすると神社の境内の一番上に大きく名前を掲げてもらえるんだよ。そんなことが嬉しいかねえ」
母の話はその後も延々と続いた。
六月十六日
【音量「超、大。ブロアーはフル稼働か? 尋常ではない音。その横で相変わらず隣の夫婦は犬と遊んでいる。彼らは耳が悪いのか? あの音では犬にも悪影響を及ぼしそうに思える。旦那のほうは少し見ぬ間に一回り太ったようだ。嫁は前から膝が悪そうで歩き方がぎこちかったがさらに悪化したもよう。八卦風水鏡は飾って二日目だがいまのところ効果なし。だいたい何日ぐらいで効いてくるのだろうか】
今日わたしが書いた文は、カレンダーのメモ欄を大幅にはみ出していた。
施した風水は、文献によると四の倍数の日数で効いてくるらしい。わたしはさらに効果を後押しするために、自治会長さんが置いていく氏神さまの札をクリアーファイルに入れて八卦鏡の下へ貼り付けた。
氏神さまには毎年年末に集金にくる千円のお布施を欠かしたことはなかったし、数年前の遷宮の寄付のときも苦しい生活費から一万円を払った。わたしと氏神さまの関係は、児玉さんの言う「ちょっとした顔見知りぐらいにはお金を貸さない」という程度ではないと思う。きっと願いも聞き届けてくれるに違いない。
「あの音を消して下さい、消して下さい、消して下さい」
わたしはお札に向かって手を擦りながら、声にならない声で何度も祈った。途中でああそうだ、住所と名前を言わないと神様は誰の願いわからないんだと思い出し、O町一一九一の一、中原まひる、氏子です、と付け加えた。
三時ごろに児玉さんから電話が入ったので、十枚ばかり仕上がっていた前掛けを持ってでかけて行った。店に入ったとたん児玉さんが、
「まひるちゃん、何か眉間にしわ寄ってるよ。何かに悩んでるの?」
と言った。わたしは慌ててお店のショーケースのガラスに顔を映してみた。たしかに二本の縦じわがくっきりと見て取れる。早いうちに消さないと、とわたしは必死にしわをこすった。
眉間のしわをこすっている向こうには、木彫りの仏像や、翡翠製の象や、真鍮製のドラゴントータスなど小さな置物が行儀よく並んでいた。それらがみなわたしの方を見ているように思える。――まひるちゃん。と今にも声をかけてきそうである。
「できたのはこれだけ?」
児玉さんの少し不満そうな声がした。わたしが眉間のしわをこすりながらうなずくと、児玉さんはまたじっと前掛けに目を凝らし、何かをつまんだ。
「猫の毛が付いてるよ」
言われてわたしは、ははと苦笑いを返した。
わたしがまじめに受け答えしていないのを察知したのか、児玉さんはレジスターの載った机の一番大きい引き出しを開けた。中から一枚のコピー用紙を出し、わたしに手渡してきた。
「これはお地蔵さんについて書かれたものだよ。読んでみると勉強になるよ」
間近に顔を寄せてきた児玉さんは今日は素面のようだった。考えてみたら児玉さんとは長く前掛けのことで関わってきているのに、お地蔵さんの話をするのは初めてだった。要するに児玉さんが急にお地蔵さんのことを持ち出したのは、できあがってくる前掛けが少ないと困る、ということを遠回しに言っているのだと思った。店内に醤油とみりんの混じった甘辛いにおいが充満している。きっと奥さんが好物の煮豆を炊いているせいだ。こんなとき奥さんはなかなか台所から出てこない。その代わりにもしかすると、児玉さんのお地蔵さんへの「愚にもつかない講釈」が出てくるかも知れない。
「まひるちゃん少し持って行く?」
そのとき奥さんの声がして、それに続いて「アンタちょっと持ちに来て」と、児玉さんを呼んだ。
児玉さんが煮豆を取りに台所へ行っている間に、わたしは机の上のコピーの内容をざっと読んでみた。
――道端などに見るお地蔵さまは一見庶民に近いと思われがちだが、実は位の高い神仏で、位は○○の次である。身代わり地蔵というのもあって、その地蔵さまは身代わりになって感謝されることに喜びを感ずる――。
そうなのか、お地蔵さんとはなんて謙虚な神様なんだろう――。ふと、最近思い出したことのなかったカズゑばあさんの、「げっきょー」という声が聞こえた気がして、思わず麒麟堂の店内を見回した。
「はいこれ、まひるちゃん」
児玉さんが青いふたのタッパーを持って戻ってきた。煮豆の味見をしてきたのか口をもぐもぐさせている。わたしはタッパーを受け取りながら聞いてみた。
「児玉さん、地蔵さんってどこで手に入ります?」
「え? 何するの」
「騒音対策のために庭に置くんです」
「聞いたことないなあ。そんなのどうやるの」
「お地蔵さんって身代わりになってくれるんですよねえ。地蔵さんにダンボのような耳を付けて隣からの音を聞かせて、こりゃあひどいと地蔵さんにわかってもらって、それから隣の家の夫婦を戒めてもらうんです」
「そんなことしちゃあバチがあたるよ」
言われてぐっとわたしが言葉に詰まると、児玉さんはさらに続けた。
「それより地蔵さんって、なんだか高そうじゃない。まあ、どうしてもって言うんなら都合つけてきてあげるけど、引き取った以上放ったらかしにはできないよ」
確かに、いったんお地蔵さんを引き取ったなら一生面倒見ていかないといけないだろうとは思う。それもちょっと重荷のような気がしてきて、「考えておきます……」とわたしは言葉を濁した。児玉さんはそんなわたしを見て、「酸っぱい」の顔をした。もう見飽きるほど見た児玉さんの、何とも言えない笑顔だった。
六月十七日
【音量「これまでで最大」昼過ぎ珍しく夫婦で出かけたのを見て、もう一度柵の間に物干し竿を突っ込んでみる。もしかしたら音が小さくなるかもと、期待しつつブロアーを壁に押しつけたが、音量はやはり変わりなし。犬が興味を持ったらしく竿の先をずっと見ていて、ふとした拍子にわたしと目が合った。どうやら犬はわたしを隣人とわかっているようで、吠えなかった。少しはかわいげあるじゃん、と思った】
その日の夜十時半頃、隣の犬が急に吠えたかと思うといきなりわたしの家の呼び鈴が鳴った。猫がハアーッと威嚇している。こんな時間にやって来るものにろくなものがいないとわたしは警戒した。母が忘れてきた合い鍵はまだ見つかっていないのだ。おそるおそる近寄って行ってドアチェーンをかけ半開にして外を伺うと、真っ暗な玄関ポーチに立っていたのは児玉さんだった。
「何ですか、こんな時間に。前掛けなら明日持って行きますけど」
「違うよ。まひるちゃんの欲しがってたものを持ってきたんだよ」
「欲しがってたもの?」
わたしが怪訝そうな顔をすると、児玉さんは腰をちょっとひねるようにして、体の後ろに隠していたものを大事そうに見せた。
「ほらお地蔵さん。重くて疲れたよ。ちょっと上がり端にでも座って、お茶を一杯飲ませてくれると嬉しいんだけど」
児玉さんは家の中をのぞき込んで、「酸っぱい」の顔をしていた。わたしのこころの中で、うちの庭にお地蔵さんがやってきて嬉しいのと、とんでもないものをしょいこんでしまった、という気持ちが入り交じった。玄関の外には児玉さんが、わたしの苦手な脂光した赤茶色い顔で立っている。とたんに襟足がムズムズしてきた。
「お地蔵さんは南西側の庭へ置いて下さい。ありがとうございました」
わたしはそう言ってドアを手前に引いた。隙間から「あっ、でも……」と児玉さんの声が聞こえたが、
「もう夜も遅いので、さようなら」
と重ねて言い、わたしは児玉さんの鼻先でバタンとドアを閉めた。
しばらくのあいだ南西の庭のほうで何かを引きずる音が聞こえ、そのあとガラスをコンコン叩く音が聞こえたが、わたしは家中の鍵を確認して電気を消し、そのまま二階に上がっていった。児玉さんはそのあともしばらく庭に居たようで、しきりに隣の犬が鳴いていた。
六月十八日
【音量「大」。この前買った、猫用循環式給水器を南西の掃き出し近くに置いたら、そのモーター音でブロアーの音は少し紛れている。それにしても隣からは我が世の春を満喫するように犬と遊ぶ笑い声が響いてくる。隣の夫婦の無神経さには八卦鏡もお札も太刀打ちできないのか】
朝っぱらからそんな歓声を聞かされて、「殺気よ返っていけ返っていけ」と念じながら南西の掃き出しを開けると、キンモクセイの木陰に紫の布きれをかぶった腰ほどの高さのものが置かれていた。布をめくるとゆうべの地蔵さんで、しかも隣の敷地のほうを向くように置いてある。地面には車を停める場所からこちらにぐねぐねとしたすじが向かってきていた。おそらく地蔵さんを引きずった痕だろう。そしてそのお地蔵さんを囲むように、地面に文字が描かれてあった。「まひるちゃんへ」と読めなくもない。とたんに昨夜の児玉さんの酸っぱい顔が浮かんだ。
返してしまおうとも思ったが、お地蔵さんを見ていると効き目がありそうな気がしてきて、やはり当初考えていたとおりに、お地蔵さんに耳を付けることにした。ベランダに貼った残りの遮音シートをダンボの耳の形に切って、お地蔵さんの耳のところへ貼り付けた。
お地蔵さんはわたしが顔や頭をこねくり回しても、遮音テープの黒い接着剤が頬に付いても澄ました顔をしていた。鉛入りシートの重い耳を貼り付けても黙っている。麒麟堂で読んだとおり、お地蔵さんはさすがに徳が高いと思った。できあがった耳は左右の大きさが少し違っていたが、我ながらいいできばえだった。
内職の前掛けを一枚拝借してお地蔵さんの首に着けて、頬に付いたテープの粘着剤を拭き取って、花とお菓子をお供えて拝んでいると、いきなり猫がトンボを追いかけて走ってきた。いつの間にか家から脱走していたのである。わたしは猫を捕まえて抱き上げ、改めてお地蔵さんを眺めた。猫は大きな耳が気になるのか手を伸ばしてじゃれようとしていた。
「お願いごとがよーく聞こえるように付けてあげたのよ」
と、わたしは猫に言った。
お地蔵さんの前掛けが風でひらひらなびいていた。遮音テープからはアスファルトのような臭いがしていたが、お地蔵さんは細い目で隣の家を見つめ、大きなその耳でブロアーの音を聞いているようだった。徳の高い神様ならきっと願いはすぐ叶うはずだとわたしはお地蔵さんを見て、そして大きく深呼吸した。
そのときわたしはふと足下を見て驚いた。うちの敷地と隣の敷地の境界の杭が引き抜かれて投げ出されているのである。どうやらあの柵を設置したときに敷地をこちらに押してきたとみえる。そのことをたまたま通りかかった近所のおばさんに言うと、「このせせり」って言うんだよ、と教えてくれた。少しずつ人の敷地へ押し入ってくることをいうのだそうだ。隣が敷地をだんだん人の敷地に押し入らせてくるというのは、この辺では有名な話らしかった。
六月十九日
【音量「中」ぐらいのような気もするし、「大」のような気もする。頭を動かし耳の方向を変えることでも音の聞こえに違いが出るようだ。しかしこれだけ音が大きいということは、八卦鏡も氏神さまのお札もお地蔵さんも効果がないということか】
リードにつないで庭に放した猫を見つけて隣の犬が吠えてきた。驚いた猫が引き返してきて網戸に爪をたててよじ登った。犬の鳴き声が裏山にこだましてあたりに響き渡り、やっと隣の旦那が出てきたのは犬が鳴きだして二十分くらいしてからである。「こらあ、だめだぞう」と犬に注意し、一緒に出てきた嫁が「かわいそうに、怒られちゃったねえ」と犬の頭を撫で、犬にガムを与えた。
しつけがどうなってるのか隣の夫婦の感覚が分からない。いらいらしていたら胃が痛くなってきた。昨夜激辛キムチを食べ過ぎたのが悪かったのだろうと考えたが、気がつくと八卦鏡がこちら向きになっていた。隣の勢いは八卦鏡をも跳ね返すのか? もしかすると胃が痛いのはそのせいか? と不安になってきて、急いで八卦鏡を隣の家を向くように直し、またビニールテープを何重にも貼った。
猫が驚いてよじ登ったおかげで網戸には蚊が入りそうな穴ができてしまった。夕方になって蚊が増える前にと網戸の目を目打ちで一つずつ直し、そのあとお地蔵さんにお菓子と花を供えていると、母の車が庭に飛び込んできた。
母の開口一番は、ここのところパチンコに負け込んでいる、だった。なんでもこのまえ隣のじいさんのことを話してからというもの気もそぞろで、玉を打つ手元が定まらないらしい。そんなことを訴えながら母は手を握ったり開けたりしたが、急に手を止めてお地蔵さんの足下から頭のてっぺんまでを見やった。
「それにしてもアンタ変なものを置いたわねえ、これ何なの」
「お地蔵さんだよ」
「見れば分かるわよ。いったい何のために置いたんだい」
「隣からの騒音と隣の夫婦がこの世からなくなるのを願うためよ」と言いかけたが、そんなことを口にするのもどうかと思い、何も言わずにお地蔵さんに手を合わせた。すると母は、
「神頼みなんて、意味ないよ。先祖も神様も何もかなえてくれないよ。アタシはいつも自分の力のみで生きてるけど、まずまずの人生だよ。結局一番強いのは、生きてる人間の気なんだよ」
と、珍しくまともなことを言った。
昼から前掛けを置きに行った麒麟堂では児玉さんが、レジスターの置かれた机の前に座ったわたしに向かって、仁王立ちして言った。
「ぼくは神様を信じて生きてきて良かったと思ってるよ」
児玉さんはこういう話になると意外とまじめで、いつもの「酸っぱい」の顔をしない。こんなときはまともに向き合っていてもいいか、という気持ちになる。さすがに神仏への気の入れようには脱帽するものがある。
わたしが児玉さんが力説する話を頬杖をついて聞いていると、奥さんが一枚の紙切れを持って台所から出てきた。
「おかしいのよね。うちはお地蔵さんなんて仕入れたはずないのに、石井さんからお地蔵さんの請求がきてるのよ.。アンタ知らない?」
奥さんの言葉を聞いたわたしが児玉さんを見ると、とっさに児玉さんは天井の隅に目をやって、口笛を吹くような顔をした。
「児玉さん?」
声をかけたが児玉さんはわたしの顔を見ずに「まあまあ」とつぶやいて、奥さんの横をすり抜け暖簾をくぐっていった。それからまた暖簾をくぐって出てくると、「こ・ん・げ・つ・ぶ・ん」と内緒話のように言い、内職代が入った茶封筒を「ほら、ほら」と、差し出してきた。
「……ありがとうございます」
わたしは半ば無理矢理お礼を言わされたような感じになった。ほんとうはもう少しお地蔵さんについて聞きたかったが児玉さんがわたしの背中をつつくので、今日のところはそのまま麒麟堂をあとにした。
児玉さんから渡された茶封筒には、一万円札が三枚と小銭が三百八十円分入っていた。いつもの七割ぐらいしかない。なぜこんなに少ないのかと首を傾げ、先月は騒音に気を取られて内職が留守になったうえに、八卦鏡の代金もひかれていたのを思い出した。そして入っているはずがないのに、もう一枚ぐらい一万円札が入っていればと期待をこめて茶封筒を逆さに振ったとき、紙切れがストンとわたしの足下に落ちた。
――お地蔵さんはボクのへそくりで買ったから、安心してね。
そんなことが書かれていて、最後に「こだま」と書き添えられている。だとするとやはりお地蔵さんは児玉さんが石井さんから買ってくれたということか。
南西の庭ではお地蔵さんは隣の家のほうを向いて毅然と立ち、大きな耳であの音を受け止めている。ただ、へそくりをはたいて買ってくれた児玉さんには悪いが、お地蔵さんの効果はまだ出ていない。
わたしはこれまでにピンクノイズを流し、ベランダの飾り格子を遮音シートで塞いだ。竿でブロアーを押し、それでも駄目なのでついには隣の敷地に侵入した。それだけではない。八卦鏡を掲げてそこに氏神さまの札を添え、庭には身代わり地蔵まで置いたのだ。しかし今のところどれもこれといった効果はない。中でも一番効果があると思えた氏神さまが、まるで効果が無い。氏子の願いは叶いやすいと聞いていたのに、いったいわたしのなにが悪いのか……。
理由を追い求めていくうち、母が言っていた隣のじいさんがたくさんお布施をしていた話を思い出し、ああそういうことか――と脱力してしまった。要するに氏神さまは、お布施の少なかった氏子よりお布施の多かった氏子の肩を持ったということになのだ。
隣の家はその後もひっきりなしに「ブーン」と騒音を出している。わたしの神様への願いは、あのブロアーに遮音性のある箱を被せるか、ブロアーの脚に振動吸収材を据えるかの他愛のないことで解決する程度のものなのに、氏神さまは頑として聞き入れてくれない。氏神さまは、お布施をたくさんするお金持ちの願いを聞くことで代わりにわたしの小さい願いをふるい落としたのだ、と思えてきてとても悲しくなった。
わたしはこれ以上氏神さまに頼ってもだめだと思いながらお札をはがし、今度からお布施を集めに来ても絶対に応じないぞと誓った。そしてわたしと氏神さまとの関係はこれで終わったのだと肝に銘じた。
朝から外で何かがカンカンと鳴っているなと思ったら、風に吹かれた八卦鏡が物干しの支柱に当たっている音だった。隣に殺気を返すために設置した八卦鏡に、逆に悩まされたのである。わたしがもうこれ以上の騒音に耐えられるわけもなく、そして効果もないのだから、いっそこれもととうとう八卦鏡もはずすことにした。いいかげん、カレンダーに書き込みをするのすら馬鹿馬鹿しくなってきて、ついに今日は書くのをやめた。
このところのわたしは、日のほとんどを通信販売で買ったノイズキャンセラー機能のついたヘッドホンをつける生活をしていた。これをつけると家事や内職には少々うっとうしさを感じるが、「ブーン」も犬の鳴き声も、隣の嫁の歓声もずいぶん軽減されるのだ。
児玉さんが神様には毎日お祈りをするようにと言っていたが、これといった神様がいないわたしは、パソコンで見つけた「神様の姿」という、燃え立つ火柱のような画像をデスクトップの壁紙にし、それに向かって手を合わすのを日課にしている。
二拝して柏手を打ち、「どうか一日も早く、あの騒音から解放されますように」と、お祈りしていたときだった。いきなり肩をたたかれ、振り返ると母が立っていた。
「なに、声をかけてよ。泥棒みたいじゃない……」
「何度もアンタを呼んだよ。なにやってんのー」
母はヘッドホンをつけてパソコンの画像を拝んでいるわたしを見て、頭がどうかしたのか、というような顔をした。わたしはふくれっ面のままヘッドホンを外してパソコンの横に置いた。耳当てのスポンジが少しはみ出たヘッドホンからは、小さくアンティークオルゴールの金属音が洩れている。母が乳房の間に食い込んだポシェットの紐を直しながら、訝しげにわたしを見下ろしていた。
「隣がうるさいのよ」
わたしはそう言って窓の外へ目をやった。母もつられて隣の家を一瞥したが、
「いったいどんなにうるさいんだい」
と、わたしに向かって居直った。口の右端を上げ、今にも笑い飛ばしてやろうという魂胆がみえた。
わたしは母の手をひいて南西の庭へ連れて行き、地蔵さんの横からブロアーを指さして言った。
「ほら、あれだよ」
母がキンモクセイの葉を手でよけてのぞき込んだ。きゅっと目を細めたとき、ふいにブン――とブロアーが震え、音が増したように感じた。
「ああ、あれかい」
「うん、うるさいの何のってたまらないのよ」
母がもう一度目を凝らし、こうつぶやいた。
「へえ……、隣には村田清掃社が来てるんだねえ」
「なにそれ」
「清掃社には管轄があってね。うちは田川さんでしょう。よそのをくみ取ったりすると大変なことになるんだよ」
母の言うとおり、ブロアーの前面には業者名のシールが貼られていた。青で書かれた文字は少し色あせているものの、はっきり「村田清掃社」と読めるのだ。だとするとあの浄化槽とブロアーを設置したのも「村田清掃社」という業者だろう。これは一度その業者にあのブロアーのことを聞いてみるのが得策だとわたしは思った。
行きつけのパチンコ屋のサービスタイムに合わせて出かけていった母を見送ってから、タウンページを広げると、「村田清掃社」はページの半分くらいを使って広告をしていた。電話口に出るのはどんな人なのかとおそるおそる電話すると、三回のコールのあと、少し年配そうで落ち着いた感じの女の人が出た。
「あの――浄化槽のブロアーというのはずいぶん音がするのですか」
「まあ少々音はしますが、気にならない程度ですよ。そんなに気になりますか?」
「窓を開けると響いてきて、気になって開けっぱなしにできないんです」
するとその女の人は、機械が古くて劣化してるかどこかの部品が外れてるのかも知れないので一度点検しましょうか、とわたしの自宅を聞いてきた。
「――実はそれ、お隣のブロアーなんです。お宅のシールが貼られているから」
「あらじゃあ、そのお宅は当方のお客様なのかしら」
と女の人は言った。そのあとわたしが隣の旦那の名前を告げると、確かにそこは毎年浄化槽の点検に行っているとのことだった。ちょうど今月末がその点検時期だと言うので、わたしはすかさず問いかけた。
「そのとき、ブロアーの状態を見ていただくことはできませんか」
「かしこまりました、作業員に伝えておきます。近いうちに伺いますのでもう少しお待ちくださいね」
その女の人は優しく言った。しかも最後には「この暑い時期に窓も開けられなくて大変でしたね」とねぎらいの言葉をかけてくれたのだった。
電話を切ったわたしは、この騒音対策が今度こそは効き目があるぞと、今までにない手応えを感じた。
月が変わったのに気づかす、六月のカレンダーを二日遅れで破った。隣からは相変わらず犬の鳴き声がし、そうかと思えば夫婦が犬とじゃれ合い歓声をあげている。浄化槽の点検はどうなっているのか、ブロアーの音は相変わらず途切れることなく聞こえてきていた。
あれから何日経ったか正確な日数はわからない。というより、わたしはつとめてさりげなさを装っていたというのが本音だろう。なにしろ神様は、期待を込めて待っているわたしをみつけると、必ずと言っていいほどその幸運を掻っさらっていった。わたしが喜ぶのを嫌う神様をだまし討ちするには、気にかけていない振りを装っているのが一番いいと思ったのである。
しかし日が経つにつれ、同情を見せてくれた村田清掃社の事務員の言葉が、次第に単なるお愛想だったと思えてきた。氏神さまでも無理だったのに、あの事務員がわたしの人生を変られるはずがない。考えてみたら今まであれほどいろいろ試してきたのに、音をおさめる願いを叶えてくれたものは何ひとつなかったのだ。
わたしは洗濯カゴを持ち、「ほらまた、今日も音が聞こえてる……」と、やりきれない気持ちでいつものように南西の掃き出しを開けた。
――おや?
わたしはいっときのあいだ耳を疑っていた。いくら耳を澄ませても、いつもの「ブーン」がまるで聞こえてこないのだ。
わたしは洗濯カゴをその場に投げ出して庭に降り、キンモクセイの葉をかき分けて隣の庭をのぞき込んだ。白いブロアーは相変わらず壁の脇に座っている。見た限りでは新品に取り替えられた気配はない。だがこの静けさは、ほんとうにあれが今までのブロアーとは信じられなかった。もしかするとブロアーの電気コードが抜けているのではと目を凝らしたが、コードは壁のコンセントにしっかり差し込まれていた。そのあと一時間ほど様子を見ていたが、やはり音は聞こえてこなかった。
翌日の朝は、枕元のカーテンが半開きになっていたせいでまぶしくて目が覚めた。わたしの寝室には東西南北のうち三方に窓がある。厳密には少し振れているので、窓の位置は東南、南西、北西の三方向だ。だいたい窓がありすぎなのである。
目覚めてすぐ、隣の家に面した南西の窓を開けて耳を澄ませたが、音は少しも聞こえていなかった。そのあと一階に降りて行き、庭に続く掃き出しを開け同じように耳を澄ませたがここからもブロアーの音は入ってこず、朝露をかぶった草のにおいが入ってきただけだった。キンモクセイも敷地伝いのドクダミも、何もかもが輝いて見える。気分は最高だった。
猫が戸を開けたのをかぎつけて足下にすり寄ってきていた。わたしはよしよしと頭を撫でて首にリードを着けてやった。猫はわたしを見て一回ニャアと鳴いて、音の消えている庭にのそのそと下りていった。
庭に下りた猫が地蔵さんの頭に止まった雀を狙っている。わたしは笑いながら猫に呼びかけていた。
「雀はおまえになんか捕まらないよ」
うちの猫は野良猫のような狩りをほとんど経験したことがないのだ。生後二ヶ月のときに近くのふれあい公園でもらってきて以来、外に出るのはときたまの脱走と、わたしが南西の庭に出してやるときだけなのである。自由に狩りをしたいならわたしを振り切って逃げるか、わたしが死ぬのを待つしかないだろう。そのどちらもできないなら、この猫は首にリードをつけられて庭に出るだけの一生を送るしかない。
わたしは風の入る北西の窓と静かな南西の窓を開けた。それからコーヒーを淹れ、リビングのソファに座った。一口飲んでからカップをテーブルに置き、静かになったんだなあ、と伸びをした。だんだん眠くなってくる。目が覚めた時間が中途半端だったせいだ。気がつくと猫が家に入ってきていて、掃き出しのところでグルーミングをしていた。わたしも二度寝しようと、ソファの肘掛けを枕に仰向けに寝そべった。ベージュの天井に飛蚊症の糸くずが飛んでいる。
――アンタこのままだとひとりっきりになっちゃうよ。
ふいに前に言っていた母の言葉が浮かんだ。もしかするとわたしもあの猫のようにここで一生を終える羽目になるかも知れない。けれどひとりだとこんな時間にひと寝入りをすることもできる。そうだ、ひとりでないと味わえないものもあるではないか。
そのためにもここでの生活は何も苦痛のない快適なものにする必要がある、と思いながら寝付きかけたとき、――ブーン――と音がした気がして飛び起きた。もしやまたあのブロアーが鳴り始めたのかと南西側の窓辺に駆け寄った。
だが音は窓から体を乗り出すと極端に小さくなった。どうやらその音はブロアーのものではないようだったが音が聞こえてきているのは確かである。わたしは床や壁に耳をあてながらあちこち音源を探し回った。結果たどり着いたのは台所の冷蔵庫の前だった。
一息ついて、そのあと前掛けを縫うのにミシンの電源を入れると今度は「ビー」と小さな音がした。ミシンをグラグラ揺らしてみると脚の下に敷いていたまち針が見つかって、それが原因と分かった。わたしは気づかぬうちにこんな当たり前の生活音にさえ過敏になってしまっていたのだ。
夕方、日が長いからと放っておいた洗濯物を取り込み始めたとき母がやってきた。
「ずいぶん茂ったね」
と、母は庭にいるわたしを見つけて近寄ってきた。庭の芝はアンカーを出してどんどん広がり、もう物干し場のあたりを覆い尽くしつつある。実はこの芝は種を蒔いたのが去年なのだ。説明書きには一週間で芽が出ると書いてあったので、わたしは今か今かと毎日水をやったものだ。十日過ぎたころまでは少し遅れているだけだと思っていたが、ひとつき経っても芽は出なかった。そのうち水やりをやめ、三ヶ月目にはたまに地面を見るだけになり、半年経つころには蒔いたことすら忘れて踏み散らかしていた。
なぜかその芝が一年も経った今年の夏前から生えてきた。特に猫が糞をしたあたりがすごい勢いで茂っている。
「音、静かになったんじゃない?」
母はそう言って、一番密集している芝生のところから生えてきているネコジャラシを一本ちぎってにおいをかいだ。そして縁側に四つん這いになって、ガラス越しに猫の前でそのネコジャラシを揺らした。猫はネコジャラシをつかもうとして、ガラスをがしゃがしゃとかきむしる。母がそれを見て、「こんなものに一所懸命になるんだねえ」とクスクス笑い、わたしほうを窺った。
わたしが洗濯物を取り込み、ときどき手を止めてキンモクセイの陰から隣の家を見ていると母はいきなりネコジャラシ庭に放り投げて、縁側にドスンと座った。
「アンタ見てると死んだカズゑばあさんを思い出すよ」
「どうして?」
「雰囲気っていうのかなあ……」
母はなおもわたしの顔をじっと見ている。わたしは掃き出しのガラスに自分の顔を映してみた。どちらかというと母に似た丸顔で、二重で前歯が少し出ていている。おばあさんのほお骨が目立った輪郭や、まぶたがかぶって三角形になった目や、口角が下がりきってへの字なった口元とは、どこをどう見ても似ているとは思えない。
「やだなあ、少しも似てないよ」
わたしが笑うと、いつもつられて笑う母がにこりともせず言った。
「それにカズゑばあさんは、アンタと同じように耳がいいというか、病的なほど過敏でねえ」
そう言えば、おばあさんはわたしがアイスクリームを盗み食いしようとこっそり冷蔵庫を開けたときも、ゴザに広げて干してあるゴマをかき回したときもすぐ物音を聞きつけて、「まひるちゃん、いけないね」とたしなめたものだった。
陽が傾いて隣の家が南西の庭に陰を落としてきていた。季節が進んで最近その陰が内職場の窓にもかかってくる。母がその内職場にチラッと目をやった。
「あの裁断台の後ろあたりに仏壇があっただろう」
「やっぱり・・・・・・。それでなのかあのあたりの床が傾いてるのよ」
おばあさんが仏壇に向かうときは決まって、お供えの「ご飯さん」を持っていた。ふすまの向こうからのぞいているわたしに手招きし、「あとで地獄と極楽の話をするから横にお座っておいで」と言ったものだ。
「その仏壇からしきりに何かが聞こえてくるとかずゑばあさんは言っていたよ。蛇が這ってるようなズーズーという音がするらしくてね。その耳の奥まで忍びこんでくる音に、何十年も苦しんでるんだとか言ってたっけ」
けれどおばあさんの横に座っていてわたしに聞こえてきたのはそんな音ではなく、意味の分からない声だった。いや、ふしがついていたから、声というより歌に近い。
「ううん、おばあさんがげっきょーげっきょーって歌ってたんだよ」
「違うよ。それは歌じゃなくてお経だよ」
「えっ、お経?」
わたしは聞き直した。母の目が三白眼になっている。
「じゃあアンタさあ、かずゑばあさんがその仏壇を燃やしちゃったの、覚えてる?」
言われておぼろげにそんなことがあったのを思い出した。母が言うには、カズゑばあさんは最初のうち、信心が足らないから仏壇から音がするんだと言って一日中念仏を唱えていたらしい。けれどいっこうに効果がないと悟ると、どう運び出したのか仏壇を庭に出し、ついには火を点けて燃やしてしまったというのだ。
「ほら、あのあたりでね」
母がお地蔵さんの立っているあたりをあごで示した。
仏壇を燃やしておばあさんはこれで音から解放されると思ったらしい。けれどその音はまったく変わらず鳴り続けていたのだという。頭が混乱したおばあさんは敷地中を隈無く歩き回り、ついにその音の出どころを突き止めたという。おばあさんはそのときようやく、自分を苦しませたのは仏壇からの音でなく、隣の鯉の池へ井戸水をくみ上げるポンプの音だったということを知ったのだという。
「そのときのかずゑばあさんの顔ったらなかったねえ。そりゃそうよ、よりにもよって勘違いで先祖代々の仏壇を焼いてしまったんだから」
あんなのを聞き間違えるなんて、まあバカな人だよ……と、母はふあ~と大きな欠伸をしながら伸びをして、その反動で脱力したように前屈みになった。そしてわたしの顔を見て、
「うん、アンタやっぱり似てるよ」
とニッと笑った。
――おばあさんとは絶対似ていない。そう言い返そうと思ったが、どういうわけか口が動かなかった。わたしはのど元の言葉をゴクッと飲み下して、物干しハンガーのTシャツを三枚一緒につかんで引きはがした。引っ張ったはずみにバチッと音をたてて洗濯バサミがひとつ飛んでいき、お地蔵さんの足下に落ちた。
飛んだ洗濯バサミを目で追いかけた母が、おや、という顔をしたのはそれと同時だった。
「あれ、あそこに落ちてるの、アンタが引っ付けた地蔵さんの耳じゃないの」
見るとお地蔵さんの右耳が取れて地面に落ちている。そしてもう片方の耳もかろうじてぶら下がっているだけなのだ。
「けど静かになったんだから、そんなものもう取っちゃえば?」
「そうだなあ……」
わたしは隣の家を見上げて目を細めた。象牙色の壁をバックに、また架空の糸くずや灰色の綿毛が目の前を飛んでいる。今ではもう慣れて気にならなくなっているが、空を見たり白っぽいものを背景にすると、こんなに飛んでいたのかとびっくりする。眼科で飛蚊症は治らないものかと聞いたこともあったが、そのとき医者から「それがあなたの目です」と答えられた。
母がわたしのまねをして、目を細めて隣の家を見上げた。そして、
「でも地蔵さんの耳を取ったら、とたんにまた音がぶり返したりしてね」
と、母が真ん中に白い苔の付いた舌をペロッと出した。
するととつぜん、
――ブーン……
どこからともなく音が聞こえてきた。低く震えるようなその音は、ブロアーの音とは少し違う。
「ねえ、おかあさん、何か音がしてるよ」
「音? ああ、あれかい。あれがかずゑばあさんが言ってた井戸水をくみ上げるポンプ音だよ」
母はうなずいて、「隣にまだあの鯉の池があったんだねえ……」とうなるようにつぶやいた。
音のするほうを見ると、確かに隣の家の犬の寝所の真横にポンプが据えられている。普通ならすぐに見つけそうなものだが、わたしはブロアーと犬に紛らわされてそこまで気が回らなかったのだ。半透明のトタンの向こうの白いポンプは、瞬きをするわたしの目にゆらゆら波打って見えていた。
わたしはとっさに抱えていた洗濯物を母に押しつけて急いで家に上がっていった。それからあれから使うことのなかった裁断台の下の遮音テープをつかみ取った。
そのときジーンズのお尻のポケットで携帯電話が鳴った。児玉さんだった。
「あのねえ、まひるちゃん、ちょっといいかなあ」
わたしは携帯電話を耳にあてたまま顔をしかめた。今は児玉さんと話し込んでいる余裕などないのだ。
「なんですか? 前掛けなら明日持っていきますけど」
「いや、そうじゃなくて……」
児玉さんはいったん言葉を止めて、それから遠慮がちに、
「実は前から聞こう聞こうと思ってたんだけど、ぼくの持って行ったお地蔵さん、隣の音を消すのに役に立ってるかなあ」
と言い、そしてもう一度、「役に立ってるといいなあ」と重ねた。その口ぶりにあの「酸っぱい」の顔が浮かんだ。わたしがええ、まあ……と口ごもると、
「あれね、まひるちゃんのためにと思って持って行ったんだけど、役に立ってなかったらうっちゃっておいていいんだよ。うん、いいいい。気にしなくていいからね。役に立たないんだからしかたないもんね」
と児玉さんはひとりで納得して、叱られた子供のようにへへ、と笑い、電話を切った。
そのあとあとわたしは遮音テープを持ってお地蔵さんのところへ行った。もしかすると児玉さんもお地蔵さんも死にものぐるいで音を消して、わたしの願いを叶えてくれようとしているのかも知れない。でもそれがいったいどれほど効いているのだろうか・・・・・・。
――げっきょーげっきょー ほうれんげっきょー……。
どこからかおばあさんの声が聞こえてきて耳を疑った。さらにじゃらじゃらと数珠が擦り合っている音もする。ふとお地蔵さんを見るとお地蔵さんもわたしを見ていて、その小さな黒目をチカっと光らせた。
わたしはお地蔵さんの目に釘付けになった。黒目の中で何かが動いているではないか。お地蔵さんの目玉の中に小さなおばあさんが座っているのだ。おばあさんの目は隣の家からいっときも離さず、顔からぽっぽっと湯気をたてて、口元をしぼった巾着のように突き出して、げっきょーげっきょー、ほうれんげっきょーと唱えていた。そのおばあさんの声は不思議なリズムで何かに共鳴し、だんだん人間の声には聞こえなくなっていった。
わたしは慌てて地面に落ちている耳を拾い、垂れ下がっているお地蔵さんの耳を元の位置に引き上げた。
「だからアンタはばあさんと一緒だって言うんだよ。間違っても隣の家なんかを燃やしたりしないでよ」
わたしの押しつけた洗濯物をたたんでいる母が言った。それにしても母の動作は、たたむと言うよりつくねていると言ったほうがいい。母は昔からそのときの気分が手元に現れるのだ。今もまるで手元が定まっていない。
「また言ってるの。わたしはおばあさんとは似てないって何度も言ってるじゃない」
わたしは母に向かって大声で言い返していた。今は取れた耳を放っておくのが不安なだけなのである。わたしは遮音テープを十センチぐらい切り、お地蔵さんの耳に当てぎゅっと押さえた。押し当てていた手を離したのと同時に母が大きいため息を吐いた。そう、そんなときの母の肩の丸みこそ、念仏を唱えていたおばあさんにそっくりでなのある。
ふいに洗濯物をたたむ手を止め、母がこちらを向いた。
「あれ? 音がしてないよ」
「えっ?」
言われて耳を澄ましたとき、わたしの目の前を糸くずと灰色の綿毛がすーっと下りていくのがわかった。庭は静かで、聞こえているのはキンモクセイが風に揺れている葉音だけである。耳の穴をほじくってからもう一度聞き耳をたてたが、やはり音はしていない。しかし、さっきまでは確かにポンプの音がしていたのである。
「おかしいねえ。さっきは確かに聞こえたんだけどねえ」
と母は首を傾げ、すぐまたつくねるような動作で洗濯物をたたみだした。