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「ヨブ記」~サタンが地上に降りた話

作者: 麦畑あきつ

 ある日のこと、天上で神がいつものように神の子達と歌ったり踊ったりして過ごしていると、もう何千年も行方の知れなかったサタンがひょっこり姿を現した。

 どんな風の吹き回しかといぶかるほかの神の子達には、まるで目もくれず、サタンはつかつかと神の前に進み出た。

「ご無沙汰致して大変申し訳ありません」

「本当に久しぶりだね。サタン」

神はにこにこして懐かしそうにサタンに答えた。

「実はしばらく地上を巡り歩いておりました」

「ほう。地上を。それで、地上の様子はどうだったね」

「はい。それはもう素晴らしゅうございました。あなたのお作りになった生き物たちは、本当にどれも美しく珍しく、見ていてまず飽きるということがございません。それでつい時の経つのを忘れた次第でございます。但し」と勿体つけたようにサタンは言葉を切った。

「あの人間というものだけはどうにも頂けませんが」

これを聞いてそれまで何やら額を寄せ合ってひそひそ話をしていた神の子たちは、一斉に聞き耳を立てた。その様子にニヤリとしてサタンは言葉を続けた。

「ご存知かもしれませんが奴らは互いに殺しあってばかりいるのです。まあ。それはむしろ歓迎すべきことで少しもかまわないのですが。許せないのは自分たちの争いにあなたが手を貸していると勝手に思い込んでいることです。その上死んだらここへ、何を血迷ったか、ここへ来られると思っている。それどころか地獄ゲヘナとか何とかいうものを勝手にこしらえて自分たちがいたぶり殺した相手がそこへ落ちて永遠の業火ごうかに焼かれ、苦しめられると信じているのです。しかも誰の差し金か」

サタンはそこで振り返り目をそらすものはないかと神の子たち一人一人の顔をすばやくうかがい始めた。

「この私が、あろうことか、この私が、そこの主人だというのだ」

けれど神の子たちは皆一様にそれは初耳だ。お気の毒にといった顔でサタンを見返すばかりだった。サタンの名を知るものがほかにいない以上、このうちの誰かが、あるいは全員が心の内で舌を出しているのは明らかだが、そんな素振りはおくびにも出さない。そこでサタンは舌打ちしてまた神に向かって言葉を続けた。

「まあ。遅かれ早かれ、互に殺し合っていなくなるのは目に見えていますが。正直あんなものを作ったあなたの気が知れません」

サタンは神の顔色が曇るのもかまわず言葉を継いだ。

「いっそ滅ぼされてはいかがでしょう。地上の景観を損なう以外何の役にも立たないあんな連中など、存在する価値がまるでない。なんなら私が行って滅ぼして参りますが」

「サタンよ。お前はヨブを知っているかね」と神は気を取り直したようにこれにこたえた。

「あのウヅのヨブですか」

「そうだ」

「はい。存知ております」

「ああした者がいる限り。私は人間を滅ぼそうとは思わない」

「お言葉ですが。ヨブの何がお気に召して、そのようなことを仰るのか、皆目見当もつきません」

「私はヨブが好きなのだ」

「好き?」

サタンは不思議な生き物でも見るように神の顔をまじまじと見つめた。

「それは向こうが嫌ってもですか」

そしてそう尋ねた。

「ヨブは誰も嫌いはしない」

「それはどうでしょう。確かにエデンの東に並ぶもののない富を持つ男が、それがあなたの恩恵だと信じていたとすれば、あなたを嫌うわけはないでしょう。そして人間という奴は恵まれていればいるほど大抵そう思い上がっているものですから。でもそのすべてをあなたに奪われたら、それでもあなたを嫌わないと言い切れるでしょうか。嫌わぬどころか。憎み呪うのではないではないですか」

「ヨブに限ってそれはない」

「ほう。ではどうでしょう。神よ。ここは一つ論より証拠です。私が行って、ヨブを散々な目に遭わせ、いやいや不幸のどん底に叩き落として、あなたを心から呪わせてみせましょう。それならあなたも納得がいくはずです」

こたえや如何にと神の子たちは固唾かたずを呑んだ。すると神はあっさりと「いいだろう。サタンよ。やってみるがいい。もしヨブが私を呪ったら、人間は皆滅ぼすこととしよう」とそうこたえたのである。

 これは面白いことになったと神の子達は互いに顔を見合わせた。


 そのサタンという男がいつからこのウヅの街に住み着いていたのか、ヨブには定かに思い出せなかった。元老院議員になるぐらいだから、五年や十年のことではないはずなのに、昨日まではいなかったような気がする。そもそもサタンとは地獄ゲヘナの主人の名ではないか。おかしいとどうして誰も思わないのだろう。しかもそのサタンが元老院に提出した馬鹿げた動議が満場一致で可決されたとあっては、いよいよヨブは不審をつのらせずにいられなかった。

「お三人とも、何をあんなに嬉しそうになさっていらしたの」

ヨブの妻は不意に訪ねて来たエリパズ、ビルダデ、ゾパルの老友三人が、あわただしく帰った後で何やら考え込んでいる様子の夫に向かって、そう問いかけた。

「祭がどうのこうのと仰っていらしたけど」

「ああ、祭で、妙なもよおしをやることに決まったそうなのだ」

「それをわざわざ知らせにいらしたの」

「そうだ」

「よほど楽しみなもよおしなのね」

「その年で一番不幸になった者に、それが如何なる悪行のむくいなのか、広場で人々に向かって懺悔ざんげさせようというのだ」

「まあ」ヨブの妻は目を輝かせた。「それはすごく面白そうね」

ヨブは長年連れ添った妻までが喜ぶのを見て、また考え込んでしまった。どうしたものだろう。じきに皆頭を冷やして、この馬鹿げたもよおしを取り止めるだろうか。


 するとそこへ、急を知らせるしもべがあわてふためいて駆け込んで来たのだった。なんとあろうことか、その数はエデンの東に比べるものもないと言われたヨブの羊、駱駝らくだ驢馬ろば牡牛おうし牝牛めうしが疫病でみな死に果てているというのだ。

けれど、仰天している妻に向って、ヨブはただこう言ったに過ぎなかった。

「神が与え神が奪う。全能の神に祝福のありますように」

 すると更にそこへ慌てふためいてしもべがまた一人駆け込んで来たのだった。今度はなんと突然天より火が下ってヨブの十人の子や百人の孫のすべてを焼き殺してしまったというのだ。

「私たちが何をしたというの」

初め我が耳を疑いそれを容易に信じなかったヨブの妻はやがて正気を失ったようにわめきはじめた。

「私たちがどんな悪いことをしたというのだ。私たちはただ正しくあったに過ぎない。何一つ間違ったことなんかしていない。掟を守り。悪に遠ざかり。何より神を恐れ、神を敬った。だからこんな目にあわされる覚えは何もない。その私たちに神は報いるにこの仕打ちを以ってするのか」

「ひとがよい行いをするのはよい報いを受けるためではない」ヨブは努めて声音こわねを和らげ、そう妻に語りかけた。「既に受けたよい報いにお返しをするためだ」

「どんな報いを受けたというのですか」

「人々がこの世界に生まれてくれたこと。私たちの許へ生まれてくれたことだ」

「ええ。子どもたちは、孫たちは私たちの許へ生まれてくれました。だのにそれを殺された。何も悪いことをしていないのに殺されたのだ」

「生まれてくれたことの喜びがそれで損なわれたわけではないではないか。彼らの価値の何がそれで損なわれたというのだ」

妻はこれを聞いてただ狂乱して泣き喚いた。ヨブもそれ以上は何も言わなかった。


 だが何としたことだろう。翌朝目覚めてみるとヨブは一晩で己が恐ろしい病に犯されてしまったと知ったのである。体中が象の肌ようにただれてしかも気が狂いそうなくらいかゆい。幸いしもべたちなら夕べのうちに皆逃げ出していたので、あとは妻に気づかれぬようにヨブはそっと寝床を抜け出した。ならばこのまま行方を晦まそうと思ったのだ。だが忽ち妻の絶叫があたりにとどろいた。そこでヨブは妻にやさしくこう語りかけた。

「さすがにこうなってはもう、お前とここで暮らすことはかなわない。やまいをうつすわけにはいかないからね。けれど、お前はまだまだ若くて元気なのだから、めげずに楽しくやっていってほしい」

「おお。この上まだ生きようというのか。神を呪って死ぬがいい」

だが妻はそう言い捨てるとそのままどこかへ去って帰らなかった。


 ヨブはその日から何人なんぴととも知れぬ容貌と成り果てたのを幸いに誰にも素性を知られることなく物乞いをしながら街外れのゴミ捨て場を住処すみかとなして暮らし始めた。そして時折街で友人とすれちがっても決して己から声をかけたりはしなかった。挨拶に窮するような目には会わせたくなかったのだ。

 ところがやがて秋が来て明日はいよいよ収穫の祭となるに及んで、ヨブのもとを一人の男が訪ねて来たのだった。

 誰あろう。サタンである。

久闊きゅうかつじょしてのち、サタンの来意を知ってヨブは呵呵大笑かかたいしょうした。明日広場で懺悔をしろというのだ。かかる災いが如何なる悪行の報いなのかと。

「丁寧に頼んでいるうちに承知するんですな。手荒な真似はしたくない」

どんなに脅してもすかしてもヨブが承知する素振りを見せなかったのでサタンはなにやらあたりに合図を送った。するとわらわらと捕方が物陰から姿を現した。

「こんな老いぼれ一人に大仰おおぎょうなことだ」

ヨブは苦笑しながらうながされるまま彼らに従った。


翌日広場は大勢のひとで埋め尽くされていた。

「ヨブはとっくに死んだって、聞いたぞ」

「俺はこの目で天から火が降るのを、確かに見たんだ」

「あれほどの天罰が下るなんて、一体どれほどの悪事をしたのか想像もできない」

そんな会話があちこちで交わされる中、やがて日が中天に射しかかる頃、鐘が打ち鳴らされて人々の喧騒がにわかに静まり、このもよおしのために特別に広場にしつらえられた舞台にサタンがその姿を現した。色鮮やかな衣装を身に纏い女のように化粧までしている。聴衆の間にさざなみのような失笑が広がった。それを意に介す様子もなくサタンは口を開いた。

「皆さん。本日はお集まり下さいまして誠に有難うございます。このもよおしたずさわったものたち皆になり代わりまして厚く御礼申し上げます。さて本日のこのもよおしは本年で最も忌まわしく天罰をこうむった者に、それが如何なる悪行の報いなのかここで懺悔ざんげさせようというものです。神が如何に正しく人に報いるか、我らは改めてそれを目の当たりにして、わが身をただよすがとなそうというのです。私はかつてかかるもよおしがなされたことのあるを寡聞にして知りません。ですから私がかかる動議を議会に提出するに当たっては、あるいは一笑に付されはしないかと気をんだものでした。ところが議会は満場一致でこの催の実行に賛同下さり、今またこんなにも大勢の皆さんが集まって下さっている。しくも本年は稀に見る豊作であったとは皆さんもご存知の通りです。これはこの催を神が嘉された証でなくて何でしょう。正しくあろうとして正しくあった我らに神は報いるに常に倍する実りを以てなされたのです。では悪しき者にはどう報いるのか、早速先ずはその男ヨブをよく知る人々に登場願って証言を得たいと思います。ではご紹介しましょう。エリパズ、ビルダデ、ゾパルの三氏です」

拍手と歓声とが沸き起こってエリパズ、ビルダデ、ゾパルの三人は共に手を振ってそれに応えながら、舞台に現れた。

「早速ですがエリパズさん。ヨブの悪行について何かご存知なら聞かせて下さい」

「それなのですが。実を申しますと、私には心当たりがないのです。ヨブは働き者で神を敬い妻子を心から慈しみ信義に篤く、いつでも親身になって他人の面倒を見る男でした。このウヅの街の寡婦や孤児でヨブの世話にならなかったものなど恐らく一人もいないはずです。だからこそこの私も六十年余りの長きに渡って、親交を深めてきたのです」

「なるほど。わかりました。エリパズさん」サタンはエリパズに礼を言うと今度はビルダデに向かって尋ねた。

「ではビルダデさん。ヨブはどうしてあれほどの富を手に入れたのでしょう」

「それは神の加護の賜物としか言いようがありません。私はヨブが貧しい羊飼いだった頃からよく知っていますが、羊であれ牝牛であれ、どんなに疫病が猛威を振るった時でも不思議とヨブのものだけはその災厄を免れるのでした。ですから人々は争ってヨブの騾馬らば牡牛おうしを欲しがりました。それが何よりヨブを富ませたのです。神の加護というほかはありませんでした」

「本当にそれだけですか」

「ええ。それだけです。彼が働いた悪事のことなど私は何も知りませんし、見当もつきません。だからこそ私たちは、エリパズさん、ゾパルさんを始め、ウヅの大勢の人々がヨブの友人であったのです」

「では、ゾパルさん。あなたはどうですか。どんな小さなことでも結構です。何かヨブの悪事を思い出してください」

「申し訳ないが、それが本当に何もないんです」

これを聞いて残念そうにサタンは答えた。

「そうですか。あるいは親友のお三方ならばと思ったのですが、判りました。どうも有り難う御座いました」

再び拍手に送られて三人は舞台を降りて行った。するとサタンは深刻な面持で観衆にこう語りかけた。

「実は皆さん。何としたことでしょう。ヨブの奴は、懺悔を拒んでおるのです。あれほどの天罰を身に受けながら、その罪の何たるかを明かそうとはしないのです。でもだからといって私たちは諦めてよいのでしょうか。私は諦めるべきではないと思います。ですから皆さん。どうか今から私にヨブを説得させてください」

観衆に否も応もなかった。忽ち大歓声が起こってそれを承認した。それをサタンが嬉しそうに大仰な仕草で静めるとついにヨブの登場となった。

正視に耐え得ない、ヨブの有様に観衆は一様に顔をしかめ低くうなった。すすり泣くものも一人二人ではない。

「ヨブよ、見て欲しい」とサタンはヨブに語りかけた。「このよき人々の様を。彼らは何もあなたを笑おうと、ましてとがめようとここにこうしてつどったのではない。ただあなたのために、神に許しを乞おうと、ならばとりなそうとあつまった人々なのだ。だからどうか懺悔して欲しい。このよき人々のために」

答えや如何にと観衆は固唾を飲んで見守ったが、ヨブは微動だにせずたたずんだままだった。やがてれた観衆がざわめき始めた頃、ヨブはようやく口を開いた。

「皆さん。実はあえて私が今日ここへ参りましたのはこの場を借りまして、ご挨拶もなく姿を隠しましたことのお詫びと、いつも快く日々の糧をお恵みくださいます方々にお礼を述べるよい機会となるかとも思ったからです。本当に勝手をして申し訳ありませんでした。そして本当に有難うございます。私にできることなど何もありませんが、皆さんの身の安からんことをいつも神に願っております」これを聞いて聴衆は一斉にため息を漏らした。ヨブはその様子を見て暫く黙ったあと再び口を開いた。

「それでも敢えて申し上げることがございますとすれば、皆さん。私は天罰など蒙っておりませんし、何ら災いにも見舞われていないのです。確かに子や孫を一度に失い。長年苦楽をともにした妻も去りました。無論私とてそれを悲しまなかったわけではありません。身内のものや友を失って、ああもしてやればよかったこうもしてやればよかったと悔いにさいなまれるのは誰しも覚えのあるところですが、私とて皆さんと同じ心を持った人間として打ちひしがれずにはおられませんでした。夢なら覚めてほしいと願わずにはいられませんでした。しかしながら私は打ち沈んだ我が心にまたこうも言わずにはいられなかったのです。老いも病も死も私たちの価値を損なうことはできない。だからこの世に災いというものはないのだと」ヨブはまたそこで口をつぐむとしばらく黙っていたが、やがて意を決したようにこう語りだした。「皆さん。神はどういうお方でしょう。その思い描く姿はひと様々で一概いちがいにこうと言い切れるものではないと私も承知しております。けれど私には物心ついたころからただ一つ心に叶う神の姿があるのです。それは赤ん坊を胸に抱いて神の子達と歌い踊る神の姿でした」

これを聞いて聴衆はざわめいた。ヨブは声を励まし言葉を継いだ。

「皆さんどうか聞いてください。それはこんな情景です。どうしたわけか私は春の野にいるのです。色とりどりの花の咲きそろい、真っ青な空には雲雀ひばりがたくさん揚がっていて競い合うさえずりの声がまるで降るようで、そしてまたどうしたわけか私はそこで神の子たちに混じって歌い踊っているのです。すると神は何を思ったか手ずから赤ん坊を私に授けてくれます。そしてその赤ん坊が他でもない私自身なのだと教えてくれるのです。生まれたばかりの私自身なのだと。なぜそんなことをなさるのかと私は神に尋ねました。すると神はこう仰いました。私が生まれたことが嬉しくてならなくて、その喜びを私と分かち合いたいからだと。私は生まれたばかりの私を胸に抱いて喜びで胸が一杯になりました。少なくとも私は神からそうして授けられたものと我が身をとらえて今日まで生きてきました。思えば不思議な光景で、だから今まで人に語ったことはただの一度もありませんでした。けれど私にとって神はそうしたお方なのです。

だから私にとって私が生まれたことの喜びこそが私の価値のすべてであり、同様にまた人々の、あなた方の価値のすべてなのです。そして私はこの価値を損なうことのできるものは何もないとそう思って生きてきました」

「いやはや呆れたよ。ヨブ」と大仰な身振りでサタンが口をさしはさんだ。「神があなたに赤ん坊を授けただなんて、しかもそれが自分自身だなんて全く言っている意味がわからない。まして言うに事欠いて生まれたことが人の価値のすべてだなんて言語道断だ。ヨブよ。人の価値はね。その行いで決まるのだよ。何をなしまたなさないか、それが人の価値のすべてなのだ。そんなことは三歳の子供だって知っていることだ。さしずめあなたは天罰をこうむってそれが不満でならなくて、そんな負け惜しみを言っているのだろう。正直に懺悔したらいいじゃないか。一体どんな悪事を働いたらそんな目に会うのか。それともあなたは生まれてこの方如何なる悪事も自分は働かなかったと本気で思っているのかね。さあ。人助けだと思って、一罰百戒ということもあるのだから、どうか私たちのためにそうしてほしい」

ヨブはふたたびこれにこたえた。

「この身に被ったことが災いではないというのは、皆さんの目から見たら、とても信じられないことだとはわかっています。自分自身望んで得たいと思わないことはやはり災いと呼ぶべきだということも。そしてこれらすべてのことが、子や孫が死んだことが、私が病を被ったことが、神のなさったことだと私は素直に認めましょう。でもだからなんだ。私はかつて神に子や孫の平安を祈ったけれど、叶わなかったからいって恨んだりはしない。幸いを願ったけれど、災いを与えられたからといって、怒りはしない。なぜならみなさん。何を与えられ何を奪われようと。この世界をお作りくださったこと。だから私たちは生まれてこられたこと。そして何よりその生まれたことの喜びに満たされたことに、私は報いきれないほどの感謝で満たされているからです。たとえ神が私たちをさいなしいたげようと、どんなに辛くとも苦しくとも、わたしはすべてを受け入れ、いささかも動じることはありません。なぜなら、何度でも申します、その恩に報いきれないほどの感謝で心が満たされているからです。たとえ神がどんなに理不尽でどれほど残忍であろうと、私はただ神に感謝するほかはないのです。いや敢えて申します。神が私をどう思うかなどとはかかわりなく、どうあつかうかなどと拘りなく、私は自らの意思で神を愛します。この世界を愛します。運命を愛します。あなた方を愛します。なぜなら私は既に充分に与えられているからです。この世界に生まれた喜びを。皆さんが生まれてくれた喜びを。そして神であれ誰であれこの喜びを損なうことはできません」

「皆さん」と大きなため息を一つついて、サタンは静まり返った観衆に語りかけた。「申し訳ございません。力及ばず私はヨブを説得できませんでした。ヨブは申します。己は神を愛していると私たちが生まれたことはこの上ない神の喜びだと。従って如何なる天罰も私たちに下すことはないと。ではなぜ天下の富を独り占めしたかのようなあのおびただしい数のヨブの家畜は、たった一日で死に絶えたのでしょう。なぜヨブの子や孫たちは、天より下った火で焼かれたのでしょう。そして御覧くださいこの姿を、これほどの苦しみをなぜ彼はその身に受けているのでしょう。私はけちな人間で、心は欲にまみれ生まれてこの方、このヨブがかつてしていたような人に施しをしたことすらありません。ご承知のように商人ですので、正直濡れ手で粟のぼろ儲けをしたこともございますが、大抵は目先の利益に目眩まされて、気がつけば大損をしているようなつまらない人間です。けれど生まれてこの方この私は、神が正しき者を恵み、悪しき者を罰することに疑いを抱いたことはありません。だのに皆さん。皆さんは今それを疑っていらっしゃる。ヨブの言葉に心を動かされて、このヨブの姿を見てなお、それを疑っている」

「ヨブに死を」

とその時観衆のうちより声が上がった。

「そうだ。ヨブに死を」

とすぐさまそれに誰かが応じた。すると期せずしてそれはヨブの死を求める観衆の大合唱となったのである。やがて興奮した若者たちが舞台に躍り上がるや、ヨブを舞台から突き落とした。そして待ち構えていた観衆は口々にののしり喚きながらたちまちヨブを踏み殺した。

 一度は自分でヨブを踏みつけようと押し合いへし合いの大騒ぎをしている人々を、サタンは、黙ってしばらく嬉しそうに眺めていた。

 がやがてひょいと宙に舞い上がるや、それに気付いて驚き騒ぐ人々を尻目に、そのまま天上に飛び去った。


「神よ。御覧になっておられましたか」

サタンはまた神の子たちを無視して神の前に歩み寄ると、へらへらと半笑いでそう語りかけた。

「いやはや。ヨブの奴は、あれほどの目に遭ってとうとう最後まであなたを呪うことをしませんでした。流石にあなたの見込んだだけのことはある。いや感服しました。やはりあなたには敵わない。ただヨブがあなたを呪わなかったのは、本当のあなたを知らなかったからに過ぎません。あそこであなたは出てくるべきでした。あなたが手ずから赤ん坊のヨブをヨブに授けたなどという戯言を聞き流すべきじゃなかった。なんで俺がそんなことをしなけりゃならないと、ガツンと言ってやるべきでした。結局ヨブが呪わなかったのはあなたじゃなかったわけです。ないがしろに。ないがしろにするといってこれに勝るものがありましょうか。畢竟ヨブはとことんあなたを馬鹿にしていたのだ。少なくともまるで必要としなかったわけです」

これに神は穏やかに答えた。

「赤ん坊の生まれたことがこの私のこの上ない喜びだとヨブは言ったね」

「ええ、そうです。神よ。それどころかあなたが何をしようと奴の価値を損なえないとまで言ったのだ。あなたは無力だというのです。よもやそれがお望みではありますまい」

「いいや。私はそれがうれしいのだ」

「いやはや。これは困った方だ。馬鹿にされて喜んでいるならつける薬がない。まあ。いいでしょう。けれどそのヨブも、もういないのですし、残りはヨブを殺すような奴ばかり。やつらの望みときたら、あなたが、己の人殺しと泥棒とを、正当化してくれることのほかはないのだから。その上死んだら、あろうことか、ここへ来られると思っている。それどころか己が殺した人間のためには地獄ゲヘナなんてものまでこしらえて、しかもこの私を、ええい。その話はこの際どうでもいい。とにかくヨブならそこへ墜ちたと、御覧なさい。奴らは大威張りだ。どうです。やはり滅ぼされては。何ならお手をわずらわせるまでもなく、私が再び行って滅ぼして参りますが」

「ヨブの言うとおり、私にあるのは彼らの生まれたことの喜びのほかはない」ときっぱりと神は答えた。

「いやはや。これは本当に困ったお方だ。では、こうしましょう。何もあなたの手を煩わせて天より火を下すまでもない。この舌先三寸のみで、奴らをそそのかし、互いに殺し合わせて、仕舞には誰もいなくなるように仕向けて御覧に入れます。どうかやらせてください」

サタンはいたずら小僧のような目を神に向けながら言葉を継いだ。

「面白い賭だとは思いませんか」

すると神もいたずら小僧のように目を輝かせてこれに答えた。

「よしじゃあ。勝負だ。私も地上へ行くとしよう」

思いもよらぬ神の言葉に一瞬言葉を詰まらせながらサタンは答えた。

「あ、有難うございます。ははは。こいつは面白くなった。では早速その鼻を明かしてさし上げましょう」

とそういうとサタンは地上へ再び舞い下りて行った。


 以来、神は地上に子どもが生まれると必ず神の子たちと舞い降りては、やさしく胸に抱きながら歌ったり踊ったりするようになった。もちろん人々は誰でも一緒にその喜びを分かち合うことが許されていた。だから皆さんもご承知のように、私たちは決して殺し合ったりすることがないのである。


 ところでサタンの行方は今も杳として知れない。






「ヨブ記」は旧約聖書中の1書です。興味がわいた方はウィキペディアの「ヨブ記」の項目がよくまとまっているので、まずはそこから目を通すことをお勧めします。「なぜ正しいものは不幸になるのか?」神の教えを守って生きることで、今日なお不幸?に見舞われ続けているユダヤ人たちの、この切実な問いに対する答えが書かれているのがこの「ヨブ記」だとされています。でも実際に読んでみると???な感じです。でもそこがいいんですね。その混沌の中にわが身を投げ入れることで、オコがましくもこんな小説が書けたりするわけです。

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