その勇者の傍らには一匹の黒猫がいた
数ヶ月前のことだ。まだよく覚えている。我らの見知らぬ場所で、物々しい雰囲気を纏わせた一人の女が口にしたことを。
ご主人へ向けた女の言葉は、思わず笑ってしまうようなものだった。国も違う。どころか、世界すら違う。ここは今滅びの危機に直面している。どうかあなたの力で、我々を助けて欲しい――
そんなこと、自分達でどうにかしろというのだ。ご主人のぶらっしんぐの真っ最中だったわたしには、頑張れよと、一言返すだけで終わらせたい話だった。
しかし女が用があるのは人間であるご主人の方。ぶらしを手にしたまま固まるご主人の膝元で、尻尾を使って不満を顕にするわたしに女は驚きを見せながらも……この時はそこが不思議であったが……ずっとご主人を見つめていた。
女を、ひいては異なる世界を取り巻く状況が切迫したものであるのは間違いないのだろう。女の態度に欺きの類いは見られなかった上に、ご主人がそれらの言葉を茶化すこともなかった。
わたしと共に異世界へ招かれたご主人は、それから数日の間、助けを乞うた女の言に悩んでいた。
朝、突き抜けるような青空の下、金属同士が擦れ、ぶつかり合う音が響く。それはこころなし、ただの鉄を打つ音より甲高く、鋭く、そして重たげだった。
飛び跳ねるような金属音がそう聞こえたのは、わたしの気のせいなのかもしれなかった。ぼんやりと耳にしていれば、近所の子供達が遊びで鉄棒に固い何かをぶつけるものと、そう大差ないように思える。
……いや、それは流石に安穏な考えに過ぎるか。断続的に鳴り響くこれは、そんな無邪気なものから発せられてはいないのだから。
一際大きな、まるで鐘を打ち鳴らしたような音が突如、天高くに突き刺さる。重たいそれが地に落ちて、あれだけカン、キン、とやかましかったのが嘘のように、辺りに静寂が帰ってくる。
それを合図に、木の上で文字通り高見の見物をしていたわたしは、するりと地面へ降り立った。
剣戟は終わった。
持っていた剣を取り払われ、無防備となったご主人の喉元には、鋭利な銀色が突き立てられている。すぐ側にある死の危機に、細身の体は硬直している。
「やはりまだ打ち込みが浅いな。怯えもある」面白味のない声音と共に、顎下から剣が退く。無駄のない所作で手の得物は鞘へ滑る。その時の動作は、まだこの程度かと、ご主人に対する呆れが見えた。能面のような顔は、少しの感情も漏れないからか、酷く冷たい。
ご主人の方も感じ取ったのだろう。なんとも言えない表情でありながら、拳は固く握られている。
相手の言葉を待たないまま、その男は緩く纏めた金髪を靡かせて、軽い足取りで去っていく。それなりの時間を動き回っていたにも関わらず、疲労を感じない背中だった。
あれは見目と立ち回りこそ美しい男ではあるが、如何せん人の心情の機微には疎い。自ら剣を取った者と、剣を取らざるを得なかった者との覚悟の差はどれほどだと思うのだろう。もっと言えば、鈍感というより、理解する気がないのだ。ご主人の立場を、敵方の内情を、あるいは万人のあらゆる現状を「そういうものなのだ」と、考える間もなくすっぱり割り切っている。
遠ざかっていく姿から残されたご主人を見る。「うまくいかないなあ」と、小さくぽつりと呟きながら、落としてしまった剣を拾い上げていた。
そんなご主人の足元に、一声上げながら擦り寄る。身を寄せるわたしにご主人はいつものように苦笑を浮かべて抱き上げた。近くなってよく見える顔立ちは、先程の男に比べずっと穏やかだった。
ご主人にも、あの男のような幾分かの冷徹さがあったならば、まだその心は楽なものであったのだろうか。
昼、修行を終えたご主人から離れ数刻。わたしは広い城の中を一人歩いていた。
使用人や近衛兵とすれ違う度、彼らはわたしに道を譲り、恭しく頭を下げる。時に挨拶と並べて「宵闇の精」と語りかけてくる。
彼ら曰く、わたしの姿は伝承にある「宵闇の精」とやらにそっくりなのだそうだ。よくわからないが、この世界の人間にとっては敬意を払うべき存在なのだろう。こちらからしてみれば、わたしと同じ見た目をした者などそこここで見かけたもので、珍しさも何もない。
まあ、どうやら同族はいないようだし、ここへ来てからは何故か腹が空くことがないため、周りにはよりわたしが珍獣に感じられるのだろう。
わたしとしても、空腹の訪れがないのはとても不思議だ。同時に物足りなくも思う。腹を空かせてからの満腹感と、そこから昼寝を決め込む満足感は堪らないものがある。食事を取らないわたしに対するご主人の心配様は、それはそれで面白くはあったが。
丁度通りかかった部屋からご主人の声を聞いた。僅かに空いた扉から廊下に漏れる声は、女特有の高く軟らかなものも混じっている。この声は確か、行動の三回に一回は下手をやらかす不器用な少女のものではなかったか。いつも以上に上擦った声音に、どうやらまた何かやらかしたようだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」「だ、大丈夫だから、あまり動かないでほしいかなっ」二人ともやけに切羽詰まっているのか、声の調子が慌ただしい。
状況が気になったわたしは勢いをつけて立ち上がり、扉を支えに前足から体重をぐっとかける。しかし扉はほんの少し隙間を拡げただけで、わたしが通れる程の幅にはならない。どうやら、何かが引っ掛かっているようだ。
あの小娘、今度は一体何をやらかした。
……仕方がない。人を呼ぶとしよう。ふうと息をついて、来た道を戻る。
そう遠くないところで、わたしは一人の人間と遭遇した。できればあまり出会いたくない男だった。
六十六寸はあろう巨体が、わたしの目にはそれ以上の壁として立ち塞がる。警戒に耳が立ち、戦慄きに毛が逆立つ。いつでも逃げられる体勢のわたしに、大男は構うことなくにっこりと笑っている。
そしてわたしの体に触れようと、大きな手を伸ばしてきた。ひらり、と避ける。
この巨漢め。出会い頭に大声を張り上げなくなったくらいで、わたしが心を許すと思うなよ。
このまま逃げ出したいところだが、如何せんご主人のことがある。力のあるこの男なら役に立ってくれることだろう。通じる言葉がなくとも奴なら、うまく距離を取りながら付かず離れずで行けば、わたしの後をついてくるはずだ。
迫り来る手をひらひらと避けながら、時折諦めて何処ぞへ行こうとするのを一声で呼び止めつつ、無事に開かない扉の前まで戻ってくる。
思惑通りに大男は中の状況に目を向けた。「ん? あれ、お前らなにやってんだ?」と二人に声をかけている。
それに満足したわたしは、そっとその場を後にした。小娘が大騒ぎしていないのだからご主人に怪我はないのだろうし、正直この巨躯の近くにいるのは精神的に疲れる。役目は終わったと、早々とご主人の部屋へ帰っていった。
夜、柔軟さに欠ける寝床の上で寛いでいれば、漸くご主人が戻ってきた。いかにも疲れたという体で、わたしの丸まるべっどへ腰を下ろす。
一息つくご主人の膝元に、わたしはすかさずどっかり座り込む。さあご主人、存分にわたしを撫でるがいい。ふん、と鼻を鳴らしたわたしに、ご主人は乾いた笑いをこぼした。
ほどなくして、ご主人の手がそっとわたしの体を滑る。それはいつもと同じような、暖かくてやさしい愛撫。
ーーその身を一国の王女であると明かした女の話は、要するに自分達の代表として、人の形を取った災厄を討ち取ってきてほしいというものだった。この役目を果たさなければ、我々が元の世界に戻ることはできないという。酷い話だ。元々こちらに退路はなかったのだ。
平和な世界にいたご主人に、剣を取れと言う。敵を殺せと言う。そうしなければ我々は滅んでしまう、あなた方は帰れないと。そんな、随分と身勝手な話を、悩みながらもご主人は一言呟いて承諾した。「彼らがとても困っているから」と、そう口にしたご主人の方が、よほど困ったような顔で笑って。
馬鹿な人だ。理不尽に命をかけろと言われているのに、勘弁してくれと泣くことも、ふざけるなと喚くこともなく、黙々と考え込んで出した答えがそれなのだ。ご主人にはこれっぽっちも、関係のない話なのに。どうして「帰るにはそれしかないから」ではないのだ。あなたの決意を聞いていたのは、わたしだけだったのに。そう言葉にしたって、誰も責めやしないのに。やさしいを通り越していっそ愚かだ。
けれど、わたしにご主人を責める言葉はない。また持っていたもしても、こちらが折れてしまうのだろう。その愚かなまでのやさしさに、かつてのわたしは救われたのだ。今回の「困っているから」には、きっとわたしも含まれている。
喋ることのできないわたしの唯一できることは、ご主人と共にいることだけ。ご主人と違って何の力もなく、周囲の目は鬱陶しい上に、体に異変を起こしたこの世界など滅んでくれて一向に構わないくらい嫌いだが、それでもやがて来るご主人の旅路にわたしも供をするだろう。
拾われた時から変わらずやさしいその手があるのならば、何処へだって。
お粗末。