◇About a Girl
◇About a Girl
あなたたちは小野田公望について知っているであろうか。恐らく大半の人は彼について何も知らないのだろうと勝手ながら想像する。彼は詩人であり小説家であったが、中学高校とで貰ったであろう常用国語便覧のような、必要に迫られない限りにおいては決して紐解かれない類の書物には載っておらず、ゆえに芥川や太宰のような知名度を持ち合わせてはいない。谷崎潤一郎はエロティシズムの極致を描いたがため有名になったが、小野田の才能といえば詩であれ小説であれ平凡という語が似合いすぎていたからには文学的価値の乏しさといったらなく、畢竟、世間的には取るに足らぬかの時代を生きたその他大勢の作家と云うべくほかあらずして、その実はどうであれ文学史という墓標に名を刻むことは出来なかったのである。それが不幸であるか幸いであるかは各々方の判断に委ねることにするけれども、私見を述べさせていただけるならば幸いであったという他ない。小野田ある種の思想家でありアジテーターだった。あるいは近い例を挙げるならば、日本赤軍やオウムといった人間と同じ人種であったからだ。今となっては彼らは歴史の中に埋没して化石となったわけだが、小野田の書いたテクスト全般に関する詳細は人の脳髄と同じくしてつまびらかに開陳されていないがため、今以てかっこうの研究対象である。さて、そんな小野田の人生をここに書いてみることにする。
アジテーターとして有能であった彼は、戦前から戦中にかけて歴史を学んでいくとき、稀にではあるがその名と出くわす機会がある。大本営発表や今や左翼の筆頭として名を連ねるかつての朝日新聞など、戦争へ戦争へと向かわせる力強い言葉の影に小野田は潜んでいる。いわゆる「欲しがりません勝つまでは」に代表されるキャッチコピーを想像すればよい。彼は人々を戦争へかきたてる才能に秀でていた。
小野田について語ろう。今から見れば灰色の時代としか形容しがたい時代の話である。彼の生家は京都にあった。しかし大抵の人が思い描く京都市内ではなく、生まれは京都の北に位置する舞鶴である。舞鶴の冬はどんよりとした雲がたれ込め、気持ちの良い晴れた日などこれまでもこれからも無いことを予感させる、薄霧が漂い、視界にいつも靄のかかった、呼吸すれば肺病を患いそうな悪しき気配で満ちていた。されど当時は軍港として幾分活気があり、その活気と陰気がない交ぜになった混沌の冬に小野田は生を受ける。彼は逆子であった。しかもよりにもよって双子である。絡み合い生まれ落ちた双子はどちらも長く生きられぬと思われ、事実、当時の産婆が語ったことに、双子は泣きもせず、ただじっと何かに耐えるよう小さな手で頭を抱え、それはこれから降りかかりすぐに消えゆく命の無念さであるように思えたという話であった。
双子の片割れは産婆の云うとおり産まれ落ちたと云うにはほど遠い早さでこの世を去った。しかし小野田は生きながらえた。片割れの命が消えゆく様と真逆に呼吸は次第に穏やかとなりて、その男児泣かず、また、きゃきゃと笑ったと伝え聞く。両親は薄気味悪がりこれ以降小野田とは常に少しの距離を取ることになるため、幸福なことに、小野田の人生に関して彼ら二人が現れることはない。
幼少期の小野田は自由闊達な子どもであった。朗らかさを具現化させたような少年である。前述のように街の雰囲気は劣悪ではあっても少年たちには関係がなかった。朝靄の中遠くから聞こえる汽笛の音を聞き、まだ切り開かれる前の山野を走り回っていた。軍港としての仄暗い焔とは真逆である。
小野田は医学者の家系であった。遡ればいくらほどでも下れそうで、医学者はかつて呪い師であり畏怖の対象でもあった。その名残である屋敷は広大で、門扉から玄関まで連なる飛石は幽玄な風格を漂わせている。屋敷には小野田の家族よりも多い女中が寝泊まりをしていた。両親は小野田の世話をもっぱら女中にまかせ、何かにつけて屋敷に戻ることを厭うた。屋敷に帰らぬ両親のことなど小野田にはいっこう関係なかった。親しい友人も幾人かおり、また、姉やのタカコが親の代わりとなった。
かくして一見するとかの時代における平常な家庭に見えたが、小野田の胸中はいかばかりであっただろうか。タカコが後に回顧して語ったことに、少々利発すぎて怖ろしくもありましたが年に不釣り合いなだけで別段おかしなところはなかったように思う、とあるが、果たして彼女の指摘は間違っていたのかは定かではない。しかし小野田が不在がちであった父親の書斎で精神医学系の書物を読み漁っていたとはタカコが書き記している。
産婆の話はさっ引いて考えねばならぬが、タカコの語ったことを勘案すれば不思議な運命に導かれていたとしか思えぬ節が多々ある。小野田の元に守谷という人物が接触を持ったのは彼が二十歳の時であった。家の金に飽かせて詩や小説、果ては論評まで書き綴り私家本を作っていた小野田であったが、それをたまたま見つけ気に入ったと云い舞鶴くんだりまで訪ねてきた男こそ守谷であった。守谷の名はほとんどが散逸してしまった小野田の日記に名を見せるだけであるが、何かを腹の内に隠して迫ってきたのは事実であろう。同好の士を見つけた小野田は守谷の接触を大いに喜び、共に文学談義を長々と夜明け近くまで行っていたというのもまたタカコの手記による。手記中ただ一つある守谷の外見に関する描写は極めて簡潔で、彼は西洋かぶれのためか常に洒落た服を身に纏った好青年であったという。
小野田は守谷の手引きで陸軍関係者と関係を持つことになる。代々医者の家系であったが、医療に携わることなく、どうやらかの時代において珍しかった精神医学者として大本営陸軍部軍政課に出入りしていたようだ。ここで何が行われていたか。それがまさしく文章による人心の改変であった。これを聞いて笑う人もいるだろうと思う。しかしながられっきとした証拠はなくとも731部隊の人体実験を信じる人は多いと思うが、731部隊の端から見れば馬鹿げた人体実験の数々を考えるに、旧日本軍は戦況の好転を題目に様々な実験を行っていたのである。
開音節言語としての日本語には標準語と方言においてさほど区別なく拍を持つ性質が知られる。韻律の五七五七七などが持つ性質について小野田は研究していた。拍と人間の、もっと限定的にあれば、拍と日本人の持つ性質について熱心に研究を進めていた。日本人は五七調や七五調の文章韻律を好む。捨て仮名は前の拍と結びついて一つの拍と考えられる。思想犯に対し一定の韻律を踏んだ文章を聞かせ、後期には文章を実際に口に出させ読ませるという方法が取られたのだが、それらを用いて思想の矯正を試みた。
また思想犯だけではなく大本営の教育部と結びつき教科書に手を加えたとも資料に依れば残っている。国体を作り直すにはとりもなおさず教育から始める方が手っ取り早いのであった。植民地として手に入れた朝鮮半島や樺太等においての教育も小野田は関わっている。短期間の教育で母国語同様に日本語話者に仕立て上げられた技量を見れば旧軍が行った言語改良の凄まじさが見て取れると云えよう。大衆に向けての洗脳も当然ながら行われた。ナチスの行った、人心を掴み一定の方向に誘導するには誰にでも分かることを何十何百何千何万回とも繰り返せばよい、ということをドイツに先駆けて行っていたのである。戦時中よく云われたフレーズの中に「撃ちてしやまむ」とある。これの出典は神武天皇の東征に際した言葉であり、この語感をプロパガンダに利用せよと提案したのは他ならぬ小野田その人であった。
小野田は軍関係外では名だたる文學界に変名で寄稿するなど文芸活動にも精力的であった。ただ文芸誌に韻律を仕込んだかは分からない。当時の韻律を用いたのであるならば、どこかにその成果が現れてもよいはずであることが不気味である。
歴史の影に潜んだ小野田の死は、実に呆気ないものだった。よくある文筆家の自死である。遺書を一通したためたのち、生家の書斎にて首を吊った。発見したのは年老いてなお小野田家に仕えたタカコである。扉を開ける前から死臭をかぎ取れるほど惨めな姿であったという。遺書の中身は屋敷の処分と女中への手配に関してであった。それ以外一切書かれていなかった。
小野田について語った。だがしかし、小野田公望という名の人物は果たして存在していたのだろうかとふと不安になる。調べればきっと簡単に出てくるその名前を、その軌跡を、最初から仕組まれていたもののように感じてならない。どうぞ彼の名を見つけ世に知らしめてやってくれ、そう云っているように聞こえてならないのだ。馬鹿げたことを考えつつ、筆を置くことにする。