◇ここにある嘘
◇ここにある嘘
こんな噂がある。
九条山を上り花山天文台へと至るルートにワンピース姿の女性が立っている。肩までの黒髪に消え入りそうな線の細さ、かなりの間隔で立ち並ぶ街灯は曲がりくねる道に消え、女の姿を鬱蒼たる木々の中に浮かび上がらせるだけである。普通天文台までは車かバイク、少なくとも徒歩で行くことはない。不審に思い車の速度を緩めて追い越し様に顔を覗き込もうとするが影になって見えない。それから何かの用で再び同じ道を通るのだがその度に女がいる。しかも来る度に少しずつ天文台へと街灯の下を一つずつ進んでいる。不気味に思い強いて意識せぬようにしたが最後、後部座席にはその女が座っている。
ある話では女に魅入られたが最後、事故を起こして車は大破、山頂付近に幾度となく手向けられる花は死者への哀悼と怪異を鎮めるためにあるのだという。またある話では女は何をするわけではないが鏡を覗いたとき、ガラスに姿が映ったとき、視界の端に見きれるように立ち現れ、精神を病ませるとも。少なくとも吉兆ではない。
僕の目の前に中学生の女の子がいる。時は梅雨の終わり、場所は男所帯の府立大学下村研究室の隅。申し訳程度にパーテーションを設えた応接スペースだ。紫檀に似せて作られた合成石の低いテーブルを挟んで向かい側、合皮のすり切れたソファに女の子が座っている。
「――というわけでその都市伝説は僕が作って流した物だから、九条山で誰かが殺されたとか過去数年で死亡事故が起きたってことは全くないんだよ。ついでに云うと山頂付近の花も僕が定期的に置いていただけのものだし」
幾分女の子の表情が和らいだ。湿気を多分に含んだ空気の中でそれはひどく弱々しい物に見えた。
「論文を書くために噂を流した、ですか」
女の子は僕の云ったことを反芻する。どんな噂にも出所はちゃんとある。友達の友達。この噂の根本は僕だったわけである。
なぜこのような噂を流したのかといえばひとえに僕が社会形質学の教えを受けていたからに他ならない。つまり、噂がどのように人口に膾炙され広まるか、かつては民俗学の範疇であったが、複層現実が実現してからというもの専ら社会形質学がその大部分を担っている。地域性が高度なネットワーク社会の到来によって失われたことが大きい。
女の子は一応納得したそぶりで、というよりこれ以上は技術的かつ専門的な話になると読んだのか、礼を云って帰っていった。
「お前のせいで罪なき女の子が悲しむなんて。戦犯だな」
そういってパーテーションから顔を出したのは錦戸だった。ひょろりと長い体はたいがいモヤシと形容され、磁器のそれとは違う病的な白さは人を払うに十分な異様である。縮れ毛と日本人にしては高い鼻と色素の薄い茶色の瞳がいっそう拍車をかけている。研究資料やらレポートやら、果ては禁酒と勘亭流の字体で書いてある和紙の下に堂々と置いてある飲みさしのウィスキーやらでごった返している研究室内で錦戸を見た物は、さながら現代に舞い降りた妖怪変化の類と思うに違いない。よれよれのワイシャツと洗いざらして色が抜けたジーンズも、無国籍感が漂い謎の風体にアクセントをつけている。
「うるせえ。学術目的とはいえ九条山の登り口にアートを仕掛けたのは悪いと思ってるよ」
「噂だけじゃなくて仕掛けたのか」
「噂の変容だけなら先人が何人もいるだろ」
すり切れかけたソファに身を横たえながら僕は思い出す。
複層現実とはかつての拡張現実を一歩先に進めたものである。拡張現実においては一世を風靡したスマートフォンなどのデバイスを通して風景を見た場合、そこへ文字やイラストなどをオーバーレイするだけの物だった。説明の音声やその場で類似商品のリストの展開など便利な物ではあったが、次に登場する眼鏡型の『身につける拡張現実』の登場により急速に廃れた。
眼鏡とくれば次はコンタクトレンズ型で、これはガラス体に網状サイトを構築するため物理的な失明の危険性があった。ゆえにクローン技術とヒトゲノムの完全利用が確立された現在にでは視神経に手を加え、神経繊維を利用した一種の処理装置を作り出すことによって、人間は身につけずとも複層現実を手にすることが出来た。視神経に腫瘍のようなこぶを作り、情報をプール。街中といわず人工衛星まで利用した中継局を利用して全世界の計算機をクラスタ状に繋ぎ、休止状態にあるパソコンにバックグラウンドで複層現実の処理を実行させることを義務づけた法案が通った時には既に全ての人間が新たなテクノロジーを享受していた。国が意図して行った政策の中で、近代における一つの到達点であると云う学者もいる。
普及した要因の一つとして、脳に直接手を加えないというふれこみが功を奏したこともある。事実、複層現実を手に入れる手術をすることに切開など必要ない。レーザーを数秒間照射するだけだ。なにせインプラント型のデバイスではなく、生体を利用して一種の腫瘍状の器官を新たに作るだけなのだから。遠い昔は人体とマシンの区別はより厳格な物であったらしいが、神代も何千年と過ぎればテクノロジーは変る物、マシンはよりフレキシブルになるため生体へと近づき、人体はより高速度の処理を実行するためにマシンへと近づいていったのだ。数ヶ月かけて作られる視神経の処理装置は生体電流だけで十分に走る程度のものだ。お手軽といったらない。
ただ、倫理的観点から生体にタッチする技術は複層現実を始めとする純粋な技術側の科学に比べて遅れている。義足や義手はあっても義体の開発にはまだ成功していない。複層現実が先にブレイクスルーを引き起こしてしまったがために後れを取っているという見方もある。実際、個人の思考パターンを模倣してナビゲーションするアプリケーションも作られ始めているからには、体という概念を改めて作り直す必要性が薄らいできたのかもしれない。
「アートっていってもどんな物を仕掛けたんだ?」
「幽霊のクオリア」
僕は九条山の登り口に幽霊のクオリアを仕掛けた。
クオリアと呼んで問題があるなら概念といった方が正しいだろうか。皆が幽霊を思い浮かべたときに脳裏に現れる幽霊はそれぞれ違う。誰かが長い腰ぐらいまである髪を持った女性を想像しても、他の誰かは背中にかかるぐらいの髪を持った女性を想像するかも知れない。男性であることは少なく、男はむしろ怪人の方が圧倒的に多い。
そこにつけ込んだ。アートは極めて受け身的なプログラムだ。いや、まだまだ一般的に解釈されるプログラムとは違うかもしれない。アートは名前の通りアートである。複層現実が視覚を用いて実行されることを利用した騙し絵だ。視覚の処理装置は極めてファジィな物であるから、概念系に影響を及ぼすためにはとりもなおさず視覚情報からでも入力が可能というわけだ。一方ではうさぎに見え、見方を変えれば鴨に見える騙し絵のように、普段は下村研究室の看板に見えても、もう一方ではなぜか黒い人影が踊っているように見える、そんな看板を出した。もちろん市の許可は得ている。黒い人影は不安を煽り幽霊/妖怪/怪異/怪物いずれかを想起させそれぞれの見たクオリアの公約数をはじき出す。グローバルにリンクされた世界で絶大な処理力を下地に全てを計算し尽くす。理系学生が一度は夢見た物の実現である。
複層現実はそれぞれのクオリアを利用している。例えばジュースがあったとして、味を記述することは容易だ。成分を表記し、それを飲んだとき舌がどう認識してどういう電気信号に変換するかは分かる。だが、それぞれがおぼえる味の『感じ』までは分からない。複層現実は説明文を現実の風景にマウントする以外に視神経を利用したことによる副次的な効能を手に入れた。人が何か想像するときぼやっと現実の風景に重なるときがある。車窓を流れるビルの風景を飛び移る忍者、あるいは赤い服を着た配管工。それらのぼんやりとした者達こそがクオリアであるということが、予測的ではなく複層現実の実現により実証的に理解された。外部から入力された情報がこぶにプールされ、それを見ることが複層現実であるが、外部からの入力をせずともぼんやりと何かを想像することで、『見えない物』が理解されうることに着目する者達も現れたのだ。
ジュースの広告を打つ時に視覚情報は邪魔だ。アイドルがジュースをいかに美味しそうに飲んだとして、アイドルが気に入らなければ購買意欲を煽られない。だからジュースという概念だけを記述して、あとはそれぞれの好きに想像させる。概念だけを記述する術は視神経の副次的な効能として知られたからこそ手に入れられた技術であった。
その技術をもって人が普遍的に持つ恐怖の対象としての幽霊を記述した。決して見ず知らずの女の子を怖がらせるためだけに作り出したわけではなかったのだけれど……。
それぞれの認識のずれの妥協点を探し出すこと。それが論文のテーマだった。幽霊という普遍的なテーマの公約数を探し出して、恐怖の根源をさぐれば、あるいは誰もが共有の幻想を持ちうるのではないか、それが知れれば商戦略への足がかり、ひいては恒久平和への展望が開けるのではないか、そういう題目であるはずだった。
「データは揃ってるのかよ」
「あとは統計を取ればお終いだよ」