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◆変容と融和

◆変容と融和


 あなたは幸運にも特定の定義された座標に存在している。

 誰かと同時に同一の空間に存在したり虚数空間に入り込んでなどいない。その証左にあなたは誰かに認識されるし、意図的に無視されなければあなたの存在する座標は誰にも侵略されることはない。神、空にしろしめす。なべて世はこともなし。随分と結構なことだ。

 ここで一つ幽霊の話をしよう。あるいは呪いの話を。あなたはそれを聞いて眉をひそめるかも知れない。いや、ひそめるはずだ。何しろこの小説のタイトルは選評であるからして定めしあなたはメタフィクショナルな文章を期待していたはずだからである。なのに選評の部分はたかだか二千数百字しかなく、それもただ一人の選考委員の戯言を書き綴った、そういう体裁である。何人もの選考委員の思考を分けて書くではなし、きっと一つめのパラグラフは作者の思想を如実に反映した物であると断じられてもおかしくはない。よしんばそうでなかったとして、あなたはタイトルから想像されるような内容ではなかったがために肩すかしを食らい、怒り、あるいは呆れ果ててこのパラグラフ以降を読むことはないだろう。それが賢明である。

 さて、長々と前置きをすることには一定の意味がある。本題である幽霊の話を本当に始めよう。あなたに最後の警告として、この文章は安っぽい怪談話と同じく読む人の前に怪異として現れる、ということを事後承諾で悪くはあるが伝えておきたい。読み進むも止めるのも読者の自由だ。あなたという読者は書かれたテクストに関して読む/読まないという単純な二択を持つ神だからだ。

 大学の利点はいくつかあるが、その最たる物は図書館を自由に利用できるところにある。図書館という開かれたスペースより、もっと限定した言い方をするならば、電子化された論文アーカイブにアクセスする権限を無条件で享受できるということだ。あなたがもし研究者や論文を書いたことがあるならば容易に理解してくれると思う。そうでないならば、自分の好きな本をいつでも自由にタイム・ラグ無しで取り出せる場所があると考えていただければ幸いだ。

 自分の名前で検索したことはあるだろうか。戯れに名前を打ち込むと同姓同名の赤の他人や微妙に字の違う他人、あるいは正真正銘の自分に行き当たる。府立大学で非常勤講師を務める傍ら自分の研究を進め、論文を書いていたため、ネットでなくとも論文アーカイブに自分の名前を打ち込めばそれこそいくらでも出てくる。その時も同じで大学図書館内のパソコンからアーカイブの検索をしていた。社会形質学という極めて世間の狭い研究を行っているため、過去に己の書いた論文が必要になったからだ。

『先端テクノロジィと人口膾炙による平衡分布』。全く以て無味乾燥なタイトルの論文が目当てだった。内容についてはここではとかく語るまい。タイトル通りその筋の分かる人間だけをニヤリとさせる、その類の自己満足的な論文だ。あなたはいつ幽霊の話が出てくるのだろうとそろそろ痺れを切らしているところだろう。だがこういった一定の手順を踏むこと、プロトコル通りに物事を進めるということは、社会形質学にとってはとりわけ重要なことで、ご容赦願いたい。

 問題は件の論文の中身であった。アーカイブはネットで見られる類の物ではない。一般に存在する電子アーカイブとは違い、大学独自の閉じた中に貯蔵される論文だったのだ。スタンドアローンで運用されるため、外部からのアクセスは困難。図書館内にある所定のパソコンによってのみアクセスできる。パソコンの使用にはIDカードによるチェックを介す必要があり、不審な点があればたちどころに分かる。そして端末からはもちろん論文に手を加えるという操作は一切できない。そういう仕組みが構築されているのだ。

 その論文に書いた覚えのない文章が混じっていた。四項にわたり延々と一つの言葉が世に与える影響について論じている。それは今まさに資料をあたり、書こうと思っていた文章だった。頭の中で考えるだけで文章に草稿としても起こしていない物である。あなたは当事者でないから、きっと思い違いであろうと考えるに違いない。けれどもそうではない。そうではないことは明白なのだった。

 それは今から五ヶ月前、三月の出来事だ。あなたもお分かりであろうあの痛ましい災害についての記述がその論文にはあった。その論文を書いたのは四年前で、絶対に書け得ない物である。四年前の三月に何か災害が起こったのか、図書館に保存されていた、時代遅れにも紙媒体の状態の新聞で裏は取ろうとした。四年前の三月には災害など起こっていなかった。

 これはおかしい。そう感じたが、誰に話すかが問題だった。責任者の所在を明かすことはなるほど簡単だが、明かしたところでどうなる? 端から見れば冗談みたいな学問を研究しているため、それが証拠に社会学の教授連中にはよく酒の肴に挙げられる学問であるが、己の論文が改ざんされたと大声で吹聴して回るのは何だか気が引けたのであった。あなたは分かってくれるだろうか?

 悶々とした気持ちを抱え、論文も進まぬまま、いつも通り二回生の講義を担当していたある日、事件は起こった。戯れに論文が改ざんされていたことを学生に話した。するとどうだろう、大半の学生は変な話もあるものだ、センセイの研究を改ざんする物好きもいるものだと口々に云った物だが、講義が終わってからの質問を受け付ける時間に、一人の学生がこちらへやって来た。彼はセンセイの論文を読みましたが、と前置きをした。センセイの論文を読みましたが、皆が三月の痛ましい災害を覚えていないことにとても驚きました。そう云った。あなたがこの立場に立ったとき、狐につままれたような気持ちになるだろう。現にその時思った物だ。そんな馬鹿な話はないだろう、と。

 あなたにも先ほど述べた通り大学の論文アーカイブは誰にでも閲覧が可能だ。この学生がマイナな論文を読んでいたことへの驚きはさておき、彼だけが三月の災害に関する記憶を持っているということはおかしな話だ。そう云うと彼はしきりに首を捻り、友人もあの災害のことを覚えていないんです、この前の災害のことは覚えているのに。そう云うのである。これはもしや件の話を聞いた彼が即興で作ったどっきりなのではないかと勘ぐったので、この話はここで有耶無耶にしてしまった。今思えばここでもっと原因を追及していればと思わなくもないが、過ぎたことをくどくどと云うのはあまりに後ろ向きすぎる。それに歴史のIFは無粋である。起こったことと、起こったことにされたこと。それらだけが重要なのだ。

 次の事件は社会形質学者の研究発表会が南国はインドネシアのマファリ島で起こる。マファリ島はジャカルタのあるジャワ島から南へ少し行ったところで、あなたがなぜ社会形質学者がそこで研究発表をしたのかと問うても、社会形質学者であるからだといったいささかトートロジーな答えしか返せない。ともあれマファリの美しい自然に囲まれながら益体のない発表を行った。

 そこで件の改ざんされた論文についての話をどういった訳か話すことになった。一番若かったから一つ座興となる話をしなければならなかったからかもしれない。ともあれその話をすると、驚いたことに場の半数以上の人間が四年前の三月に起こった災害を知っていたのである。のみならず改ざんされた箇所など四年前の災害が実際に起こっていたため無かったなどという始末である。残りの知らないと答えた人間さえもそういえばあったなあと云い出すから始末に負えない。こうなると本当に災害が起こった気になってさえくる。改ざんされたことを記録として残していなければ危うく災害が起こったことを共通の認識として理解してしまうところだった。

 知らない/あったなあと述べた人間は社会形質学者の中でもどちらかというと文化人類学に近く、対して災害があったと断言する人間は真の意味で社会形質学者であった。つまり断言する側は研究分野が似通っていた、ということになる。あなたもここまでくると分かっただろう。今、周りは災害が起こったという共通認識の上に立っている。だからこのような文章を書き記したわけだ。紙媒体に記録したり、PCではデータが消える恐れがあるから信用がおけない。

 あなたはあなたの記憶にある出来事が本当に正しく、現実に起こったことと云えるのか? もし誰かと些細なことでも認識の食い違いが起こったならば気をつけた方がいい。その齟齬は生きる上で問題視するに足りないほど小さなものだ。それはあなたの生きる上での根本を変えない。だが知らない間に修正が繰り返されているとしたら。

 フランス革命が起きたのはいつ? 昨日の天気は晴れだった? あなたの従兄弟は今何歳? 父親の誕生日はいつ? 今、この文章を読んでいるのは誰?


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