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追放された聖女に、討伐済みの竜が借りを返しに来た

掲載日:2026/10/20

「君には、聖女として最も大切なものが欠けている」


王太子オスカー殿下は、私の足元へ一枚の紙を落とした。


婚約解消と、聖女の任を解く通達書。


私は拾い上げる前に、ひとつ尋ねた。


「昨夜、救護院へ運ばれた子どもたちは?」


「今は君の処分について話している」


「その子たちの容体を確認してから、出ていきたいのです」


殿下の隣で、新しい聖女が眉をひそめた。


「そういう態度が、不敬だと言われているのではありませんか?」


なるほど。


これ以上、話しても無駄らしい。


昨夜、私は殿下の晩餐会を欠席した。


川沿いの家が崩れ、怪我人が運ばれてきたからだ。聖女を披露するための席よりも、出血の止まらない子どもを優先した。


それが、私の罪だった。


「承知しました」


私は紙を拾った。


「救護院の引き継ぎ帳は、私の机にあります。薬の残りと、明日以降も治療が必要な方の名前を書いてありますので」


「まだ自分が必要とされているつもりか」


殿下は笑った。


私は答えなかった。


私が必要かどうかは、どうでもいい。


薬と治療を必要としている人がいる。それだけの話なのに。


*


王都を出ると、雨が降っていた。


門を背にして歩き始めたところで、靴底が剥がれた。


「……そこは、もう少し頑張ってほしかった」


王宮から持ち出せたのは、着替えと、古い鞄ひとつ。


履き慣れた靴を選んだのは失敗だったかもしれない。


門の脇へ戻り、濡れた地面にしゃがむ。鞄から包帯を取り出したところで、頭上から低い声が降ってきた。


「それを使うのか」


私は手を止めた。


門番の声ではない。


もっと低くて、胸の奥まで震えるような声だった。


顔を上げる。


城壁より大きな黒い竜が、私を見下ろしていた。


門の上で、警鐘が鳴り始める。


「竜だ!」


「弓兵を呼べ!」


私は包帯を握ったまま、竜を見つめた。


左の翼。


付け根から少し下に、白い傷がある。


「……ヴァル?」


竜の金色の目が、細くなった。


「覚えていたか、リゼ」


六年前。


まだ聖女ではなかった私が、森の奥で矢を抜いた竜だった。


*


ヴァルは、王国の記録では討伐されたことになっている。


領主の狩猟隊に翼を射抜かれ、森へ落ちた黒竜。


帰ってこなかった狩猟隊の代わりに、領主は竜の鱗を数枚持ち帰り、討伐を宣言した。


実際のヴァルは、森の谷底で倒れていた。


薬草を採りに行った私が見つけたとき、翼には矢が三本刺さっていた。


二本は折れていた。


最後の一本は、銀色の鏃が肉の中に残っていた。


私が使えた小さな治癒の術では、傷をふさぐことしかできない。鏃を残したまま治せば、もっと苦しませる。


だから、抜いた。


怖くて泣きながら。


竜も、痛くて怒鳴りながら。


「動かないで!」


『お前が妙なところを引くからだ!』


「初めてなんだから、仕方ないでしょう!」


あれほど怒られながら誰かを助けたのは、後にも先にも、あの一度きりだ。


その竜が今、私の剥がれた靴を見ている。


「六年経っても、相変わらずだな」


「何が?」


「自分の物を直すのは、最後か」


返す言葉がなかった。


*


門の前へ駆けつけた兵たちが、私とヴァルを遠巻きに囲んだ。


槍の先が、雨に濡れている。


私は立ち上がり、両手を見せた。


「攻撃しないでください。この竜は――」


「そいつから離れろ!」


門番隊長に怒鳴られた。


どうやって説明しよう。


知り合いです、と言って信じてもらえる大きさではない。


私が悩んでいる間に、ヴァルは翼を畳んだ。


ゆっくりと首を下げ、兵たちの目の高さに顔を近づける。


「この者を、連れていく」


槍を持つ手が、何本か震えた。


「ど、どこへ」


「我が住処へ」


私は竜を振り返った。


「私、まだ行くとは言っていないけれど」


ヴァルが、不満そうに鼻を鳴らした。


兵たちが一斉に身構える。


「話を合わせろ。迎えの練習をしてきたのだ」


「練習?」


「人間は、迎えがあると安心すると聞いた」


私は、うっかり笑ってしまった。


王宮を出てから、初めてだった。


そのとき。


城壁の向こうで、何かが崩れる音がした。


*


警鐘の鳴り方が変わった。


竜の襲来を知らせる短い鐘ではない。


低い音が、途切れずに続いている。


王都の災害警報だった。


門の内側から兵が走ってくる。


「川が溢れた! 下町へ流れ込んでいる!」


私は門へ向き直った。


昨夜、家が崩れたのも、下町だ。


あの子どもたちは、川から二本目の通りにある救護院へ運ばれている。


「救護院は?」


「まだ避難が済んでいない!」


走り出そうとして、片方の靴が脱げた。


転びかけた私の前へ、黒い爪が一本差し出される。


ヴァルだった。


「お前は、追い出されたのだろう」


「そうよ」


「戻れば、また働かされるぞ」


「そうかもしれない」


爪の向こうから、門の内側を見た。


濁った水が、石畳を伝ってくる。


「でも、救護院の人たちは、私を追い出していないもの」


ヴァルは黙った。


やがて、長い首を低く伏せた。


「乗れ」


「手伝ってくれるの?」


「迎えた相手を、裸足で走らせるわけにはいかぬ」


私は靴を拾い、鞄へ押し込んだ。


それから、黒い背中へよじ登った。


*


空から見ると、水の流れははっきり分かった。


川沿いの堤防が一か所、崩れている。


そこから流れ込んだ水が、低い土地へ集まっていた。


救護院の前には、すでに膝ほどの水がある。


入口で、院長が子どもを抱えていた。


私を見上げ、口を開ける。


その頭上へ竜が下りてきたのだから、無理もない。


「リゼ様……?」


「戻りました! あと、竜は味方です!」


「竜?」


「そこは後で!」


ヴァルが、建物の横へ身を伏せた。


水が押し出される。


私は背中から下り、院長へ駆け寄った。


「立てない人は何人ですか」


「六人。子どもが四人と、大人が二人です。ほかは介助があれば歩けます」


救護院から門の方へ戻れば、途中で川を横切らなければならない。


けれど、裏の坂道を上れば、石造りの倉庫がある。


王宮へ薬を運ぶたびに、通っていた道だった。


「歩ける方は、裏から坂へ。倉庫の鍵は院長先生が持っていますね?」


「ああ」


「門番隊長さん!」


追いついてきた兵へ、私は振り返った。


「裏の坂を見てきてください。水が来ていなければ、歩ける方から誘導を!」


隊長は一度、竜を見た。


それから私を見て、うなずいた。


「分かった!」


ヴァルは六人を、一度に運ぼうとはしなかった。


背中へ担架を乗せ、兵たちが綱で固定する。


私は最初の便に乗り、倉庫前で受け入れの準備をした。


二便目を待つ間、歩いてきた老人の足を診る。


泥水の中で切った傷へ、布を当てた。


治癒の光が、指先に集まる。


聖女の紋章を返しても、私の術はなくならなかった。


三便目が到着したころには、救護院の一階は水に沈んでいた。


院長が、最後の名簿を確認する。


「全員、いる」


その一言を聞いて、私はようやく座り込んだ。


足の裏が痛かった。


裸足で走ったせいで、どこかを切ったらしい。


ヴァルが私を見下ろす。


「足を出せ」


「自分で治せるわ」


「ならば、今、治せ」


私はおとなしく足を出した。


*


昼過ぎ、雨が弱まった。


堤防の補修と、取り残された住民の捜索は、集まった兵と職人たちへ引き継いだ。


倉庫の前へ、王宮の馬車が到着したのは、そのころだった。


オスカー殿下が、泥を避けながら下りてくる。


私の前まで来ると、差し出した手を止めた。


隣に、ヴァルがいたからだ。


「……リゼ。よく戻ってくれた」


私は立ち上がった。


「救護院の方は、全員避難できました。ほかの地区の状況は、隊長へ確認してください」


「そうではない。君の処分を、見直そうと思っている」


殿下は声を落とした。


「竜を従えているとは知らなかった。君の力を、正しく評価できていなかったようだ」


ヴァルの喉が、低く鳴った。


私は黒い首へ、そっと手を当てた。


「従えてはいません」


「だが、君の命令で動いたのだろう?」


「私が困っていたから、助けてくれたんです」


殿下は、私の言葉を聞いている顔ではなかった。


「竜を王都の守護に据えれば、君の聖女復帰にも異論は出ない。婚約についても――」


「お断りします」


自分でも驚くほど、はっきり言えた。


殿下の顔が強張る。


「国を見捨てるのか」


私は、倉庫の入口を見た。


毛布を運ぶ兵がいる。


鍋をかき混ぜる近所の人がいる。


泣いている子を抱く、新しい聖女の姿もあった。白い衣の裾は、泥で汚れていた。


彼女は私の視線に気づき、小さく頭を下げた。


私は同じように返してから、殿下へ向き直った。


「私は今日、この人たちを助けました」


殿下は何も言わなかった。


「王宮へ戻らないことと、人を見捨てることを、一緒にしないでください」


ヴァルが、私の鞄を爪先で寄せてくれた。


私は拾い上げ、肩へ掛ける。


「救護院の引き継ぎは、院長先生に直接お伝えします。その後は、私の行き先を、私に決めさせてください」


*


王宮が発表しようとした「王太子の指揮による竜の救援」は、門番隊長と院長の報告によって書き直された。


私への復職要請も、断ったままだ。


あの日、避難していた人たちは、竜へ誰が最初に乗ったかを知っている。


何より、ヴァルは王太子の使者が来るたびに、こう答えた。


「我は、その者と契約しておらぬ」


その後、私は山麓の村で、小さな治療院を開いた。


ヴァルの住処へ続く道の、ちょうど入口にある村だ。


治療院に選んだ空き家は、屋根の一部が抜けていた。


私が梯子を借りようとすると、ヴァルが屋根を覗き込んだ。


「我が直そう」


「爪で?」


「器用には動かせる」


「昨日、扉を壊したでしょう」


「あれは小さすぎた」


結局、屋根は村の大工さんに頼んだ。


ヴァルには木材を運んでもらった。


今では、治療院の横に、大きな庇がある。


雨の日は、黒い竜がそこで眠る。


最初は怖がっていた子どもたちも、近頃では、鱗の隙間へ落ち葉を挟んで遊ぶようになった。


ある晩、診療を終えて外へ出ると、ヴァルが左の翼を広げていた。


六年前の傷が、白く残っている。


私はその下へ腰を下ろした。


「ねえ。借りを返すために、迎えに来てくれたんでしょう?」


「そうだ」


「もう、十分返してもらったと思うけれど」


ヴァルは答えなかった。


風が吹く。


広げられた翼が、少しだけ低くなった。


「……そうか」


金色の目が、暗い山の方を向く。


「では、明日から我がここにいる理由を、変えねばならぬな」


私は、使わずにしまっていた包帯を鞄から出した。


あの日、剥がれた靴を縛ろうとしたものだ。


今は、村の靴屋さんが作ってくれた、丈夫な靴を履いている。


「理由がないと、いてはいけないの?」


ヴァルが私を見た。


「ここ、雨も避けられるし。朝は焼きたてのパンもあるわ」


「竜をパンで留めるつもりか」


「嫌なら、食べなくてもいいけれど」


「食べぬとは言っておらぬ」


私は笑って、黒い鱗へ背中を預けた。


しばらくして、頭上から声がした。


「リゼ」


「何?」


「明日は、借りを返すためではなく来る」


私は目を閉じた。


「うん。待ってる」


広い翼の下で、夜風は少しも冷たくなかった。


――了

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