追放された聖女に、討伐済みの竜が借りを返しに来た
「君には、聖女として最も大切なものが欠けている」
王太子オスカー殿下は、私の足元へ一枚の紙を落とした。
婚約解消と、聖女の任を解く通達書。
私は拾い上げる前に、ひとつ尋ねた。
「昨夜、救護院へ運ばれた子どもたちは?」
「今は君の処分について話している」
「その子たちの容体を確認してから、出ていきたいのです」
殿下の隣で、新しい聖女が眉をひそめた。
「そういう態度が、不敬だと言われているのではありませんか?」
なるほど。
これ以上、話しても無駄らしい。
昨夜、私は殿下の晩餐会を欠席した。
川沿いの家が崩れ、怪我人が運ばれてきたからだ。聖女を披露するための席よりも、出血の止まらない子どもを優先した。
それが、私の罪だった。
「承知しました」
私は紙を拾った。
「救護院の引き継ぎ帳は、私の机にあります。薬の残りと、明日以降も治療が必要な方の名前を書いてありますので」
「まだ自分が必要とされているつもりか」
殿下は笑った。
私は答えなかった。
私が必要かどうかは、どうでもいい。
薬と治療を必要としている人がいる。それだけの話なのに。
*
王都を出ると、雨が降っていた。
門を背にして歩き始めたところで、靴底が剥がれた。
「……そこは、もう少し頑張ってほしかった」
王宮から持ち出せたのは、着替えと、古い鞄ひとつ。
履き慣れた靴を選んだのは失敗だったかもしれない。
門の脇へ戻り、濡れた地面にしゃがむ。鞄から包帯を取り出したところで、頭上から低い声が降ってきた。
「それを使うのか」
私は手を止めた。
門番の声ではない。
もっと低くて、胸の奥まで震えるような声だった。
顔を上げる。
城壁より大きな黒い竜が、私を見下ろしていた。
門の上で、警鐘が鳴り始める。
「竜だ!」
「弓兵を呼べ!」
私は包帯を握ったまま、竜を見つめた。
左の翼。
付け根から少し下に、白い傷がある。
「……ヴァル?」
竜の金色の目が、細くなった。
「覚えていたか、リゼ」
六年前。
まだ聖女ではなかった私が、森の奥で矢を抜いた竜だった。
*
ヴァルは、王国の記録では討伐されたことになっている。
領主の狩猟隊に翼を射抜かれ、森へ落ちた黒竜。
帰ってこなかった狩猟隊の代わりに、領主は竜の鱗を数枚持ち帰り、討伐を宣言した。
実際のヴァルは、森の谷底で倒れていた。
薬草を採りに行った私が見つけたとき、翼には矢が三本刺さっていた。
二本は折れていた。
最後の一本は、銀色の鏃が肉の中に残っていた。
私が使えた小さな治癒の術では、傷をふさぐことしかできない。鏃を残したまま治せば、もっと苦しませる。
だから、抜いた。
怖くて泣きながら。
竜も、痛くて怒鳴りながら。
「動かないで!」
『お前が妙なところを引くからだ!』
「初めてなんだから、仕方ないでしょう!」
あれほど怒られながら誰かを助けたのは、後にも先にも、あの一度きりだ。
その竜が今、私の剥がれた靴を見ている。
「六年経っても、相変わらずだな」
「何が?」
「自分の物を直すのは、最後か」
返す言葉がなかった。
*
門の前へ駆けつけた兵たちが、私とヴァルを遠巻きに囲んだ。
槍の先が、雨に濡れている。
私は立ち上がり、両手を見せた。
「攻撃しないでください。この竜は――」
「そいつから離れろ!」
門番隊長に怒鳴られた。
どうやって説明しよう。
知り合いです、と言って信じてもらえる大きさではない。
私が悩んでいる間に、ヴァルは翼を畳んだ。
ゆっくりと首を下げ、兵たちの目の高さに顔を近づける。
「この者を、連れていく」
槍を持つ手が、何本か震えた。
「ど、どこへ」
「我が住処へ」
私は竜を振り返った。
「私、まだ行くとは言っていないけれど」
ヴァルが、不満そうに鼻を鳴らした。
兵たちが一斉に身構える。
「話を合わせろ。迎えの練習をしてきたのだ」
「練習?」
「人間は、迎えがあると安心すると聞いた」
私は、うっかり笑ってしまった。
王宮を出てから、初めてだった。
そのとき。
城壁の向こうで、何かが崩れる音がした。
*
警鐘の鳴り方が変わった。
竜の襲来を知らせる短い鐘ではない。
低い音が、途切れずに続いている。
王都の災害警報だった。
門の内側から兵が走ってくる。
「川が溢れた! 下町へ流れ込んでいる!」
私は門へ向き直った。
昨夜、家が崩れたのも、下町だ。
あの子どもたちは、川から二本目の通りにある救護院へ運ばれている。
「救護院は?」
「まだ避難が済んでいない!」
走り出そうとして、片方の靴が脱げた。
転びかけた私の前へ、黒い爪が一本差し出される。
ヴァルだった。
「お前は、追い出されたのだろう」
「そうよ」
「戻れば、また働かされるぞ」
「そうかもしれない」
爪の向こうから、門の内側を見た。
濁った水が、石畳を伝ってくる。
「でも、救護院の人たちは、私を追い出していないもの」
ヴァルは黙った。
やがて、長い首を低く伏せた。
「乗れ」
「手伝ってくれるの?」
「迎えた相手を、裸足で走らせるわけにはいかぬ」
私は靴を拾い、鞄へ押し込んだ。
それから、黒い背中へよじ登った。
*
空から見ると、水の流れははっきり分かった。
川沿いの堤防が一か所、崩れている。
そこから流れ込んだ水が、低い土地へ集まっていた。
救護院の前には、すでに膝ほどの水がある。
入口で、院長が子どもを抱えていた。
私を見上げ、口を開ける。
その頭上へ竜が下りてきたのだから、無理もない。
「リゼ様……?」
「戻りました! あと、竜は味方です!」
「竜?」
「そこは後で!」
ヴァルが、建物の横へ身を伏せた。
水が押し出される。
私は背中から下り、院長へ駆け寄った。
「立てない人は何人ですか」
「六人。子どもが四人と、大人が二人です。ほかは介助があれば歩けます」
救護院から門の方へ戻れば、途中で川を横切らなければならない。
けれど、裏の坂道を上れば、石造りの倉庫がある。
王宮へ薬を運ぶたびに、通っていた道だった。
「歩ける方は、裏から坂へ。倉庫の鍵は院長先生が持っていますね?」
「ああ」
「門番隊長さん!」
追いついてきた兵へ、私は振り返った。
「裏の坂を見てきてください。水が来ていなければ、歩ける方から誘導を!」
隊長は一度、竜を見た。
それから私を見て、うなずいた。
「分かった!」
ヴァルは六人を、一度に運ぼうとはしなかった。
背中へ担架を乗せ、兵たちが綱で固定する。
私は最初の便に乗り、倉庫前で受け入れの準備をした。
二便目を待つ間、歩いてきた老人の足を診る。
泥水の中で切った傷へ、布を当てた。
治癒の光が、指先に集まる。
聖女の紋章を返しても、私の術はなくならなかった。
三便目が到着したころには、救護院の一階は水に沈んでいた。
院長が、最後の名簿を確認する。
「全員、いる」
その一言を聞いて、私はようやく座り込んだ。
足の裏が痛かった。
裸足で走ったせいで、どこかを切ったらしい。
ヴァルが私を見下ろす。
「足を出せ」
「自分で治せるわ」
「ならば、今、治せ」
私はおとなしく足を出した。
*
昼過ぎ、雨が弱まった。
堤防の補修と、取り残された住民の捜索は、集まった兵と職人たちへ引き継いだ。
倉庫の前へ、王宮の馬車が到着したのは、そのころだった。
オスカー殿下が、泥を避けながら下りてくる。
私の前まで来ると、差し出した手を止めた。
隣に、ヴァルがいたからだ。
「……リゼ。よく戻ってくれた」
私は立ち上がった。
「救護院の方は、全員避難できました。ほかの地区の状況は、隊長へ確認してください」
「そうではない。君の処分を、見直そうと思っている」
殿下は声を落とした。
「竜を従えているとは知らなかった。君の力を、正しく評価できていなかったようだ」
ヴァルの喉が、低く鳴った。
私は黒い首へ、そっと手を当てた。
「従えてはいません」
「だが、君の命令で動いたのだろう?」
「私が困っていたから、助けてくれたんです」
殿下は、私の言葉を聞いている顔ではなかった。
「竜を王都の守護に据えれば、君の聖女復帰にも異論は出ない。婚約についても――」
「お断りします」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
殿下の顔が強張る。
「国を見捨てるのか」
私は、倉庫の入口を見た。
毛布を運ぶ兵がいる。
鍋をかき混ぜる近所の人がいる。
泣いている子を抱く、新しい聖女の姿もあった。白い衣の裾は、泥で汚れていた。
彼女は私の視線に気づき、小さく頭を下げた。
私は同じように返してから、殿下へ向き直った。
「私は今日、この人たちを助けました」
殿下は何も言わなかった。
「王宮へ戻らないことと、人を見捨てることを、一緒にしないでください」
ヴァルが、私の鞄を爪先で寄せてくれた。
私は拾い上げ、肩へ掛ける。
「救護院の引き継ぎは、院長先生に直接お伝えします。その後は、私の行き先を、私に決めさせてください」
*
王宮が発表しようとした「王太子の指揮による竜の救援」は、門番隊長と院長の報告によって書き直された。
私への復職要請も、断ったままだ。
あの日、避難していた人たちは、竜へ誰が最初に乗ったかを知っている。
何より、ヴァルは王太子の使者が来るたびに、こう答えた。
「我は、その者と契約しておらぬ」
その後、私は山麓の村で、小さな治療院を開いた。
ヴァルの住処へ続く道の、ちょうど入口にある村だ。
治療院に選んだ空き家は、屋根の一部が抜けていた。
私が梯子を借りようとすると、ヴァルが屋根を覗き込んだ。
「我が直そう」
「爪で?」
「器用には動かせる」
「昨日、扉を壊したでしょう」
「あれは小さすぎた」
結局、屋根は村の大工さんに頼んだ。
ヴァルには木材を運んでもらった。
今では、治療院の横に、大きな庇がある。
雨の日は、黒い竜がそこで眠る。
最初は怖がっていた子どもたちも、近頃では、鱗の隙間へ落ち葉を挟んで遊ぶようになった。
ある晩、診療を終えて外へ出ると、ヴァルが左の翼を広げていた。
六年前の傷が、白く残っている。
私はその下へ腰を下ろした。
「ねえ。借りを返すために、迎えに来てくれたんでしょう?」
「そうだ」
「もう、十分返してもらったと思うけれど」
ヴァルは答えなかった。
風が吹く。
広げられた翼が、少しだけ低くなった。
「……そうか」
金色の目が、暗い山の方を向く。
「では、明日から我がここにいる理由を、変えねばならぬな」
私は、使わずにしまっていた包帯を鞄から出した。
あの日、剥がれた靴を縛ろうとしたものだ。
今は、村の靴屋さんが作ってくれた、丈夫な靴を履いている。
「理由がないと、いてはいけないの?」
ヴァルが私を見た。
「ここ、雨も避けられるし。朝は焼きたてのパンもあるわ」
「竜をパンで留めるつもりか」
「嫌なら、食べなくてもいいけれど」
「食べぬとは言っておらぬ」
私は笑って、黒い鱗へ背中を預けた。
しばらくして、頭上から声がした。
「リゼ」
「何?」
「明日は、借りを返すためではなく来る」
私は目を閉じた。
「うん。待ってる」
広い翼の下で、夜風は少しも冷たくなかった。
――了




