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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第5話『迷宮』 ~section4:石灰の粉塵と、暴かれた地下の心臓~

 オレンジ色の非常灯が不気味に影を落とす、冷え切った西棟の立ち入り禁止区画。

 グランバール卿のプライベートルームや、古い調度品が乱雑に仕舞われている倉庫が並ぶその廊下の片隅で、僕たちの引率教師である明宮海翔先生は、まるで幽霊にでも出くわしたかのように顔面を蒼白にしていた。


「……見え透いた嘘を吐くな。お主のその稚拙な情動の揺らぎは、物理法則に対する最大の侮辱じゃ」


 如月さんの氷点下の声音が、明宮先生の『生徒を守るために見回りをしていた』という苦しい言い訳を完全に遮断した。


 彼女は、純白の手袋を嵌めた指先で、明宮先生の足元――グレーの高級なスーツの裾と、磨き上げられていたはずの革靴のつま先にこびりついている『白い粉末』のようなものを冷徹に指差した。


「お主、自分がどこを歩いてきたのか、その足跡のルーツすら隠しきれておらぬぞ」


「こ、これは……ただの埃だよ! 停電で足元が暗かったから、壁の古い漆喰か何かに擦れてしまって……」


「ただの埃だと? 愚鈍な」


 如月さんは、一切の躊躇なく明宮先生の足元へと歩み寄り、彼が後ずさるよりも早く、その革靴の先端に付着していた白い粉を指先でスッと拭い取った。

 そして、その粉末を自らの鼻先に近づけ、腰のベルトポーチから取り出した銀のルーペ越しに、分子の構造を暴くように目を細める。


「この粉末の主成分は、炭酸カルシウムと微細な木屑。そして何より、極めて高濃度の『パラジクロロベンゼン』の結晶が混ざり込んでおる」


「ぱらじ……?」


「強力な防虫剤の成分じゃ。……明宮よ。お主の靴とズボンの裾には、長期間にわたって密閉され、大量の防虫剤が撒かれた『劣悪な環境のアンティーク倉庫』の中を、地を這うように探し回った物理的な痕跡が、地層のように重なって堆積しておるのじゃよ」


 如月さんのアメジストの瞳が、暗がりの中で明宮先生の瞳孔を真っ直ぐに射抜いた。


「生存者の安否確認や廊下の見回りであれば、わざわざ埃まみれの密閉倉庫の中まで入り込み、床を這いつくばって衣服を汚す必要などない。……お主は、この洋館で凄惨な連続殺人が起き、大人たちがパニックに陥っているこの極限状態を、己にとっての『絶好のチャンス』だと捉えたのじゃな。皆の目が談話室に集まっている隙に、かねてよりの目的であった『探し物』をするために、この立ち入り禁止区画へと侵入した」


「……っ!」


 明宮先生は絶句し、まるで目に見えない巨大な質量に押し潰されたかのように、その場に崩れ落ちて石の床に膝をついた。

 生徒たちに慕われていた、普段の爽やかで頼りがいのある教育者の顔は完全に剥がれ落ちていた。そこにあるのは、過去の妄執に囚われ、暗闇の中で泥に塗れて這い回っていた、ひどく惨めな一人の男の顔だった。


「……如月さんには敵わないな」


 明宮先生は、両手で顔を覆い、絞り出すような震える声で自白を始めた。


「私は……このベルグラヴィア研修ツアーの引率に、自ら志願したんだ。すべては、グランバール卿がこの館の奥底に隠し持っているはずの『ある一枚の絵画』を見つけ出すためだけに」


「絵画……ですか?」


 僕は驚いて尋ねた。


「ああ。私の祖父は、かつて小さな、だがとても誠実な画廊を営んでいたんだ。しかし二十年前、グランバール卿の父親である先代のドリス家当主によって、祖父が見出した才能ある無名画家の作品を、極めて不当な鑑定額で買い叩かれ……事実上、騙し取られた」


 明宮先生は、ギリッと奥歯を噛み締めた。その拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。


「祖父は、芸術に対する自らの審美眼と誇りを踏みにじられたことを苦に病んで、画廊を畳み、失意の中で亡くなった。……私は、ドリス家が奪っていったその絵画が、この洋館のどこかに『至宝』のフリをして飾られているか、あるいは価値も分からぬまま埃まみれの倉庫に死蔵されているはずだと、ずっと調べていたんだ。……ジェームスくんが殺され、連続殺人が起きた時、私は教師として最低なことを考えたよ。警察が来る前に、この混乱に乗じて倉庫を漁れば、祖父の無念を晴らす証拠が、今度こそ見つけられるかもしれないと……」


 グランバール卿に騙し取られた絵画。

 僕は、先ほど書斎のギャラリーで如月さんが見抜いた『まとまりのないガラクタの山』という言葉を思い出した。ドリス家は、A.Eの一族から館と土地を不当に乗っ取っただけでなく、その空っぽの歴史と強烈な劣等感を埋め合わせるために、明宮先生のお祖父さんのような弱い立場の人々から、長年にわたって美術品を搾取し続けていたのだ。


「どうかしてるよね……。生徒たちが得体の知れない殺人鬼の恐怖に震えているというのに、私は自分の個人的な復讐のために、責任を放棄してこんな埃まみれの場所を漁っていたんだから。……私は、教師失格だ」


 明宮先生は、自嘲するように力なく笑った。


 彼もまた、この洋館の歪んだ歴史に人生を狂わされた被害者の一人だった。生徒を放り出してしまったのは確かに教師として許されることではないが、その動機の根底にある悲痛な思いと、長年抱え込んできた祖父への思いには、同じ人間として同情せずにはいられなかった。


 しかし、如月瑠璃という人間は、他者の悲哀や後悔といった情動の質量に対して、一ミリたりとも『共感』を示すことはない。


「何十年溜め込んだ身内の無念の質量であろうと、わしにはどうでもいいことじゃ。過去の情動など、現在進行形の物理法則の前では一グラムの価値もない」


「き、如月さん……いくらなんでも、言い方が……」


 僕が慌てて止めに入ろうとしたが、如月さんは純白の手袋で僕を静かに制し、膝をつく明宮先生を冷徹に見下ろした。


「だが、お主が泥に塗れて探し求めている『ルーツ』の結末だけは、万物を鑑定する者として、正確な事実を提示してやろう」


 如月さんは、先ほど書斎で手に入れた古い見取り図が挟まれたバインダーを、バサリと明宮先生の目の前に突きつけた。


「お主の復讐など、もはや数式として完全に破綻しておる。……なぜなら、お主が憎むドリス家という存在自体が、明日には社会的に完全に抹殺されることが確定しておるからな」


「ま、抹殺される……? どういう意味だ?」


「この館で起きている一連の猟奇殺人の黒幕は、ドリス家にこの館を乗っ取られた真の所有者『A・E』の末裔じゃ。奴の目的は、この歴史ある洋館を血塗られた事故物件へと貶め、グランバールを完全に破産させて無様に追い出すこと。……夜が明け、警察が介入し、この館に仕掛けられた血生臭いインフラと隠し部屋の存在が暴かれれば、ドリス家の長年の余罪や、不正に掻き集められたすべての美術品のルーツも、必然的に白日の下に晒されることになる」


 明宮先生は、如月さんの口から語られた途方もないスケールの復讐劇に、目を丸くして言葉を失っていた。


「お主が暗闇の倉庫で安い絵画を探し回るまでもなく、グランバール卿はすべてを失う。お主の祖父の無念とやらは、明日の朝には『A・Eの復讐の副産物』として、自動的に晴らされるのじゃよ」


 如月さんは、純白の手袋で明宮先生の乱れたネクタイを軽く突き、立ち上がるように促した。


「お主の『過去への執着』という不要なノイズはこれで消え去ったはずじゃ。……ならば、今お主が果たすべき物理的・社会的な役割は一つしかあるまい」


「私が果たすべき……役割……」


「清瀬主任と共に、談話室という安全地帯の分厚い扉を死守し、怯える未成年たちの物理的生命を朝まで維持することじゃ。それが、お主が『教育者』という肩書きを名乗るための、最低限の存在証明じゃろうが」


 冷酷で、一切の慰めや共感を含まない言葉。

 だが、その徹底した物理的真理の提示は、明宮先生の心を長年縛り付けていた過去の亡霊を完全に祓い去る、劇薬のような『救いの言葉』でもあった。


「……ああ。君の言う通りだ、如月さん」


 明宮先生は、憑き物が落ちたような顔でゆっくりと立ち上がり、ズボンの埃をパンパンと払い落とした。


「私は、過去の絵画ばかりに囚われて、今目の前で生きている生徒たちの命を蔑ろにするところだった。教師として、絶対に間違えてはいけない数式を間違えるところだったよ。……目を覚まさせてくれて、ありがとう」


「感謝など不要じゃ。わしの演算の邪魔になるノイズだったから排除したに過ぎぬ」


 如月さんはインバネスコートの裾を翻し、興味を失ったように背を向けた。


「さっさと談話室に戻るのじゃ。ここから先は、わしとサクタロウだけで『見えない殺人鬼』の心臓を物理的に解体する」


「分かった。……二人とも、どうか気をつけて」


 明宮先生は深く頭を下げると、今度は迷いのない真っ直ぐな足取りで、生徒たちが待つ談話室の方角へと走っていった。


 ――これで、背後のノイズはすべて消え去った。

 残るは、この洋館の地下に巣食う二人の殺人鬼の計画を、根底から粉砕するだけだ。


「行くぞ、サクタロウ。別棟の地下じゃ」


「はいっ!」


 僕たちは足早に西棟を抜け、大浴場や露天風呂へと続く別棟への長い渡り廊下に出た。

 分厚い石壁の向こう側からは、依然として狂ったような暴風雨が洋館を打ち据え、木々をへし折らんばかりの凄まじい轟音が鳴り響いている。だが、それ以上の嵐が、今まさにこの館の内側で吹き荒れようとしていた。


 別棟の入り口を抜け、従業員用のリネン室の脇にある、薄暗いコンクリートの階段を下りる。

 そこは、ボイラー設備や巨大な貯水タンクが置かれた、冷たく湿った空気が漂う地下の機械室エリアだった。壁には太い鋼鉄の配管が血管のように這い回り、機械油とオゾン、そして微かなカビの入り混じった無機質な匂いが鼻を突く。

 アンティークの家具や美しい絨毯で飾られた上の階層とは全く違う、洋館の『内臓』が剥き出しになったような空間だ。


「如月さん……古い見取り図だと、この奥ですよね」


 僕は手元のLED懐中電灯の光を前方に向けた。

 だが、図面上で『隠し部屋』が示されているはずの座標には、ただ苔むした分厚い石造りの壁が立ち塞がっているだけで、扉らしきものは何一つ見当たらなかった。


「行き止まりです。やっぱり、隠し扉なんて……」


「サクタロウ。光を落とし、少し黙っておれ」


 如月さんは、行き止まりの石壁の前で立ち止まると、インバネスコートのポケットから静かに『銀の懐中時計』を取り出した。


 カチリ、と。

 純白の指先が、冷たい金属の蓋を開く。

 チク、タク、チク、タク、チク、タク――。

 内部に組み込まれた精緻な歯車たちが、寸分の狂いもない正確なリズムで時を刻む音が、機械室の微かなモーター音に混じって確かな質量を持って響き始めた。

 一・〇ヘルツ。人間の安静時の心拍リズムと完全に同調する、極めて正確で冷徹な物理的パルス。

 如月さんは目を閉じ、その秒針の音を自らの脳髄へと響かせ、余計な情動や焦燥感という名の『ノイズ』を完全にフィルタリングしていく。

 数秒後、彼女がゆっくりと目を開けた時、そのアメジストの瞳には、世界をただの『数式』と『分子の集合体』としてのみ捉える、絶対的な物理的観察眼が極限まで研ぎ澄まされていた。


「……人間の脆弱な視覚情報だけで、モノの境界線を判断するでない」


 如月さんは、冷たい石壁の前に歩み寄り、純白の手袋でその表面をツーッと撫でた。


「壁の向こう側には、館内のスマートインフラを制御する主幹制御盤や、多数のルーターを常時稼働させるための『冷却ファン』と、それらの膨大な排熱が存在する。……もしここが本当に隠し部屋の入り口であり、内部が密閉空間であれば、必ず物理的な『気圧差』と『温度勾配』が生じているはずじゃ」


 彼女は、壁の前に広がる空間の空気を読むように目を細めた。


「サクタロウ、壁の下部……床と石積みの境目に光を当てよ」


 僕が言われた通りに光を絞って当てると、如月さんはそこに落ちていた微細な埃の動きを凝視した。


「……見よ。埃が、石壁の極小の隙間に向かって、微かに吸い込まれるように動いておる。石積みの隙間を埋めるモルタルが、一箇所だけ不自然に劣化し、内部の気圧差によって空気の流れが発生している証拠じゃ」


 さらに彼女は、銀のルーペを取り出し、その埃が吸い込まれている隙間を極限まで拡大して観察した。


「やはりな。一見すると古い漆喰に見えるが、この長方形の部分の目地(めじ)だけ、近代の『シリコン系シーリング材』に石灰の粉を吹き付けて表面加工を施しただけの偽装じゃ。そして、そのシリコンの裏側を這うようにして、一階から伸びてきた黒いPLCネットワークのケーブルが、壁の奥へと引き込まれておる」


「じゃあ、この石壁そのものが……!」


「左様。ただの隠し扉ではない。壁の奥に仕込まれた油圧式、あるいは釣り合い重り(カウンターウェイト)を用いた巨大な物理ギミックじゃ」


 如月さんは壁から数歩下がり、周囲の配管やバルブの配置を、古い見取り図と照らし合わせた。


「これほど巨大な質量を動かすためには、必ず外部にアナログな『ロック解除機構』が存在する。電子制御では停電時やシステムエラー時に自らが閉じ込められるリスクがあるため、A・Eの血脈は必ず手動の物理的フェイルセーフを残しているはずじゃ」


 彼女の視線が、壁の横に設置された、赤く錆びついた古い水道管のバルブでピタリと止まった。


「……サクタロウ。あのバルブを、時計回りに力一杯回すのじゃ」


「えっ、でもそれ、ただの水道管じゃ……」


「水道管を装った、ダミーのトルク伝達装置じゃよ。いいから回せ」


 僕は懐中電灯を小脇に抱え、冷たく錆びついた鉄の巨大なバルブを両手で力一杯握りしめた。


「ぐっ……うおおおおおっ!!」


 全身の体重をかけ、腕の筋肉が悲鳴を上げるほど時計回りに捻り込む。最初は微動だにしなかったが、やがてギギギギッという重い金属の摩擦音と共に、バルブが回転し始めた。


 その瞬間。

 ゴゴゴゴゴゴゴッ……!! という、地の底から響くような重低音が地下室全体を揺らした。

 僕の目の前で、絶対に動くはずのない分厚い石壁の一部が、境界線のシリコンを引き千切りながら、内側へとゆっくりとスライドしていく。


「開いた……!!」


 壁の向こう側に現れたのは、近代的なLEDの光が不気味に明滅する、異質な空間だった。

 中世の石造りの地下室とは完全に不釣り合いな、巨大な黒いサーバーラック。這い回る無数の有線LANケーブル。そして、主幹制御盤のモニターが放つ青白い光。

 ここが、館のすべてのインフラを掌握し、オカルトの呪いを演出していた殺人鬼の心臓部。


 だが、僕の視線は、そのサイバー空間の床に転がっている『異常な光景』に釘付けになった。


「う……ううっ……!」


 青白い光に照らされた冷たいコンクリートの床。

 そこには、太い結束バンドで手足を厳重に縛られ、口にガムテープを貼られて芋虫のように転がっている人物の姿があった。

 恐怖で涙と鼻水にまみれながら、必死に僕たちに向かって何かを訴えかけようと身を捩っている。


「五味……ッ!」


 間違いない。防火扉の向こう側で電波を探して彷徨い、行方不明になっていた同級生、五味鉄平の姿だった。



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