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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第5話『迷宮』 ~section3:不可視の射出機と、二つの足跡~

 建設当時のオリジナル見取り図によって、別棟の地下に広がる『隠し通路』と『主幹制御盤(ルーター)の部屋』の物理的座標を完全に特定した僕たちは、見えない殺人鬼を追い詰めるべく、グランバール卿の書斎を後にしようとしていた。


「行くぞ、サクタロウ。別棟の地下……A・Eの血脈が隠れ潜む、主幹制御盤の部屋へ」


「はいっ! ……でも如月さん、ちょっと待ってください」


 駆け出そうとする僕の脳裏に、もう一つの未解決のノイズが引っかかった。


「……なんじゃ」


「ジェームスさんの死体を運んだのが『隠し通路の電動ウインチ』だったのは分かりました。でも……あの『おたまの射出トラップ』はどうやって作動させたんですか?」


 僕は、鏡の廊下での凄惨な光景を思い出しながら言った。


「あの時、暗闇の中で重い音がして、直後に鏡が割れましたよね。もし犯人があんな重い物を弾丸みたいに飛ばすような大掛かりな発射台(カタパルト)を廊下に仕掛けていたなら、現場を検証した如月さんが見逃すはずがないじゃないですか」


僕の疑問に対し、如月さんはインバネスコートのポケットの上から、懐中時計の膨らみを指の腹でトントンと叩いた。


「良い着眼点じゃ、サクタロウ。お主の言う通り、あの何もない廊下に、おたまを弾丸のように射出する巨大な発射機など存在しなかった。……なぜなら、トラップの機械構造はすべて『壁の裏側』にあったからじゃ」


「壁の裏側……?」


「思い出せ。犯人がジェームスを撲殺した凶器は、純銀の『おたま』じゃった。なぜ、ただ殴り殺すだけなら銀の燭台やステッキでもよかったのに、わざわざ厨房からおたまを盗み出したのか?」


 如月さんのアメジストの瞳が、暗がりの中で鋭く光る。


「犯人は、おたまの『真っ直ぐで頑丈な、長い柄(ハンドル)』という物理的形状を必要としていたのじゃ。……鏡の廊下の壁面、ちょうど隠し扉が設置されている部分には、アンティークの木彫り装飾による『細いスリット』があったじゃろう」


「あっ……!」


「犯人はジェームスを殺害し、死体を隠し扉の中に押し込んだ後。そのスリットに、血まみれのおたまを装填したのじゃ」


 如月さんの言葉によって、暗闇の廊下で起きた恐るべき光景が、僕の脳内で完全に再生されていく。


「でも、待ってください如月さん。あの時、鏡に深く突き刺さっていたのは『おたまの柄』の方で、血が滴る丸い部分は手前に突き出ていましたよね? ってことは……」


「左様。スリットに深く差し込まれたのは『柄』ではなく、血まみれの『丸い部分(すくい部)』の方じゃ」


 如月さんは、純白の手袋を嵌めた人差し指で、空中に直線を引くように説明した。


「壁の裏……隠し通路の内部には、あらかじめ数十キロの鉄の重りを吊るした『ストライカー』が仕掛けられておった。おたまの丸い部分は、壁の裏側でそのストライカーの落下衝撃を真っ向から受け止めるための『面』として機能したのじゃ。そして、廊下側に向けて突き出た長い柄は、鏡を貫通するための『矢の先端』となった」


「廊下の『壁そのもの』を巨大な銃身に見立てて、おたまを弾丸として装填した……」


「そうじゃ。だからわしの観察眼をもってしても、初見ではただのアンティーク装飾の隙間にしか見えなかった。トラップの機械部品はすべて壁の裏側にあり、廊下には凶器しか飛び出してこない、完全な不可視の射出トリックじゃよ」


「……いや、でもおかしいですよ!」


 僕は、頭の中でその射出の光景を思い描き、強烈な違和感に気づいて声を上げた。


「ジェームスさんの頭を殴った直後なら、おたまの丸い部分には大量の血がベットリと付着していたはずです。それが弾丸みたいな速度で空中を飛ばされたら……慣性の法則で、壁のスリットから鏡に行き着くまでの間の床や空間に、血が派手に飛び散るはずじゃないですか!?」


 僕の指摘に対し、如月さんはアメジストの瞳を細め、極めて満足げに口角を吊り上げた。


「フフッ……素晴らしいぞ、サクタロウ。お主のポンコツな脳髄も、ようやく物理法則という名の真理に足を踏み入れたようじゃな」


「えっ……」


「お主の言う通り、血に濡れた物体が高速で移動すれば、必ず『キャストオフ・パターン』と呼ばれる血の飛散が生じる。……あの時、ジェームスの死体が消えた鏡の廊下を照らしたわしが、床や壁をルーペで念入りに這いつくばるように観察していたのを覚えておるか?」


 確かにあの時、如月さんは『白色LED懐中電灯』の強烈な光で、血だまりから鏡までの導線を地を這うように調べていた。

 停電時のオレンジ色の非常灯の下では、赤い血痕は暗い木目の床に完全に同化して見えなくなってしまう。だが、正しい色温度の光と彼女のルーペの組み合わせは、一切の痕跡を見逃さなかったのだ。


「あの廊下の空間には、壁のスリットの高さから、鏡の着弾点に向かって……ミクロン単位の微細な血の飛沫が、見事なまでの『一直線』を描いて点在しておったのじゃよ」


「一直線の、血飛沫……!」


「人間が腕を振って凶器を投げたのであれば、血痕は必ず『放物線の弧』を描いて飛び散る。だが、現場に残されていた飛沫血痕のベクトルは、重力による落下を極限まで無視した、機械的でブレのない完全な直線じゃった。……それこそが、おたまが人間の手ではなく、『壁の裏からストライカーによって高速射出された』という何よりの法医学的証明じゃ」


 なんという冷酷で、一切の無駄がないトリックだろうか。

 そして、そのミクロン単位の血の飛沫から、機械による射出という真実を完璧に逆算してみせた如月さんの悪魔的なまでの観察眼に、僕は改めて底知れぬ戦慄を覚えた。


「そして、このトリックの構造が判明したことで、我々が見落としていた『最も恐ろしい事実』が物理的に証明された」


 如月さんは、古い見取り図をバインダーごと小脇に抱え直し、氷のような声で告げた。


「……サクタロウ。あの停電の暗闇の中で、お主が聞いた『音』のタイムラインを秒単位で思い出してみよ」


「音……」


 僕は目を閉じ、あの極限状態の記憶を掘り起こした。

 ジェームスさんの足音。メアリーとシェリーが廊下へ飛び出していく足音。

 そして……僕たちとは反対側、談話室の窓際で鳴った『ギシッ』という重い床の軋み音。


「あの窓際の『ギシッ』っていう音……もしかして」


「左様。あれは、ジェームスを撲殺しておたまを壁に装填し終えた犯人が、しれっと談話室の群れの中へと戻り、安全圏からPLCネットワークの起動スイッチを押した『アリバイ成立のノイズ』じゃ」


「でも、おかしいですよ如月さん!」


 僕は、致命的なタイムラインの矛盾に気づいて声を上げた。


「窓際で音が鳴った『後』に、メアリーさんが廊下で悲鳴を上げたんです! そして、メアリーさんたちが腰を抜かして座り込んだ頭上を、おたまが飛んでいった。……もし犯人がすでに談話室に戻っていたなら、誰が暗闇の隠し扉の隙間からドレスを振り回して、メアリーさんを脅かしたんですか!? 誰が、ジェームスさんの死体を隠し通路のウインチまで運んで、梱包したんですか!?」


 一人では、絶対に物理的に不可能だ。

 談話室でアリバイを作ることと、壁の裏で死体の処理と亡霊の演出を行うこと。

 この二つの作業は、あのわずか数十秒の間に『完全な同時進行』で行われていたのだから。


「ようやく辿り着いたな、サクタロウ」


 如月さんは、美しくも冷酷な笑みを浮かべた。


「その絶対的な矛盾こそが、この館に潜む見えない殺人鬼の真の姿じゃ。……犯人は、一人ではない」


 犯人は、一人ではない。

 その言葉が、凍りついた書斎の空気に重く響き渡った。


「スマートインフラを掌握し、PLCネットワークで遠隔操作を行う『デジタルな設計者』。そして、その指示に従い、暗闇の隠し通路で重い死体を運び、メアリーの前に亡霊として現れた『アナログな実行犯』。……この二つの歯車が完璧に噛み合うことで、この悪魔的な数式は完成していたのじゃ」


「じゃあ……設計者は、あの停電の時、僕たちと一緒に談話室にいた大人たちの中の誰か……」


 僕がごくりと唾を飲み込んで呟くと、如月さんは冷たく頷いた。


「左様。そして、実行犯は……泥と雨水に塗れた手と、巨大なハサミを持ったまま、館の隠し通路を自在に動き回れる人間じゃな」


 僕の脳裏に、あの不気味な花言葉を呟く、庭師のグリエルの姿が鮮明に浮かび上がった。

 先ほど、如月さんは『泥だらけの庭師に精密な電子工作は不可能だ』と断言した。それは真実だ。グリエルは黒幕ではない。だが……黒幕の手足となって物理的な殺害と死体遺棄を行う『狂気の実行犯』としては、これ以上ないほど完璧なピースだった。


「待ってください、如月さん」


 僕はさらに記憶を遡り、もう一つの強烈な空白に思い至った。


「もし他の大人が黒幕で、グリエルさんが実行犯だとしたら……料理長のローレルさんはどこに消えたんですか? 厨房を管理している彼が、純銀のおたまが盗まれたことに気づかないなんてあり得ない。彼がどこかで縛られているか、あるいは彼も……」


「ローレルは殺されてはおらぬよ。そして、おたまは『盗まれた』わけでもない」


 如月さんは、あっさりと僕の最悪の想像を否定した。


「考えても見よ。オカルト的な呪いのステージを演出したい黒幕にとって、無関係な料理長を殺害してしまえば、ただの強盗殺人や内輪揉めに見えてしまい、美学が崩れる。……黒幕は、ローレルから『客がアンティークのおたまを見たがっている』とでも適当な理由をつけて、真正面からそれを借りたのじゃ」


「借りた……? じゃあ、用が済んだら返すって言って、ローレルさんは自分の部屋に戻ったってことですか? でも、それなら尚更、凶器に使われたと知ったらローレルさんが黙ってないはずじゃ……」


「だからこそ、黒幕は彼の口を物理的に封じる必要があった」


如月さんは、書斎の壁に埋め込まれた真鍮の照明スイッチを一瞥した。


「ローレルの部屋は、従業員居住区にある防音扉の個室じゃ。……黒幕は、自らが構築したPLCネットワーク経由で、ローレルの部屋の『スマートロックを強制的に施錠し、システムエラー状態』にしたのじゃよ」


「えっ……!」


「ローレルは今も生きておる。だが、外から完全に電子ロックを封鎖され、分厚い扉の中で助けを呼ぶこともできず、己の部屋の囚人となっておるのじゃ。あの五味と同じようにな」


 あまりにも理知的で、隙のない封じ込め。

 血を流さず、疑いも持たれず、ただインフラをハッキングするだけで屈強な料理長を無力化したのだ。


「行くぞ、サクタロウ。別棟の地下……ルーターが置かれた隠し部屋の主幹制御盤を物理的に破壊し、すべての電子ロックを解放する。狂った庭師と、それを裏で操る真のA・Eの血脈に、完全なチェックメイトをかけに行く」


「はいっ!」


 僕は力強く頷き、如月さんの後に続いて、重厚なマホガニーの扉を押し開けた。


 書斎を出て、再びオレンジ色の非常灯が灯る薄暗い西棟の廊下へと出た時のことだった。


「……む?」


 如月さんが不意に足を止め、前方の暗がりへと鋭い視線を向けた。

 僕も彼女の視線の先を追う。書斎からさらに奥、グランバール卿のプライベートルームや古い倉庫がある立ち入り禁止区画の廊下の角で、微かな光が不自然に揺れているのが見えた。


「誰かいる……?」


 僕が声を潜めると、その光はビクッと震え、慌てて消灯された。

 だが、遅かった。僕の持っている強力なLED懐中電灯の光が、闇に隠れようとしたその人物の姿を容赦なく照らし出したのだ。


「あれは……」


 そこにいたのは、犯人の姿でも、血まみれの庭師でもなかった。

 グレーのスーツを埃で汚し、青ざめた顔で額に脂汗を浮かべている男。

 僕たちの引率教師である、明宮先生だった。


「あ、明宮先生……!? なんで、こんな所にいるんですか!」


 僕は驚きのあまり、思わず大声を上げた。

 明宮先生は、清瀬先生と一緒に談話室の中で生徒たちを守り、安全地帯を死守しているはずだった。それがなぜ、わざわざ危険を冒して、しかも懐中電灯の光を消してコソコソと、こんな立ち入り禁止区画の奥で何かを探しているのか。


「さ、朔くん……に、如月さんも……!」


 明宮先生は、まるで泥棒が警察に見つかったかのように激しく動揺し、持っていた小型のランタンを背中に隠すようにして後ずさった。


「い、いや、これは違うんだ! 私はただ、館内の見回りを……そう、不審な場所がないか、教師として確認しておこうと思って……!」


「……見え透いた嘘を吐くな。お主のその稚拙な情動の揺らぎは、物理法則に対する最大の侮辱じゃ」


 如月さんは、氷点下の声音で明宮先生の言い訳を完全に遮断した。

 彼女は、純白の手袋を嵌めた手で、明宮先生の足元――彼の革靴にこびりついている、ある『物理的な痕跡』を冷徹に指差した。


「お主、自分がどこを歩いてきたのか、その足跡のルーツすら隠しきれておらぬぞ」


 見えない殺人鬼の正体に迫るロジックの最中、突如として現れた引率教師の不審な行動。

 この洋館に隠された『もう一つの歴史のノイズ』が、今、瑠璃の情動の視座によって無慈悲に暴かれようとしていた。



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