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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第5話『迷宮』 ~section1:石壁の裏の有線網と、隠し部屋~

 吹き荒れる暴風雨の轟音が、別棟の露天風呂から本館へと続く長い渡り廊下を容赦なく叩きつけている。

 僕たちは、五味のタブレット端末と、身代わりのように置かれていた二十キロの悪魔の彫像を脱衣所に残し、再び一階の『談話室』へと全員で帰還した。


 分厚いオーク材のドアが重々しい音を立てて閉まり、桐生院が真鍮の鍵をガチャンと内側から二重にかける。外界の圧倒的な大自然の脅威と、館内を徘徊する姿なき殺人鬼から物理的に隔離されたことで、生存者たちの間に張り詰めていた極限の緊張の糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。


 暖炉の火はすでに薪の形を失い、赤い熾火(おきび)が僅かに周囲を照らしているだけの薄暗い空間。

 その中で、清瀬先生がすぐに生存者の人数と怪我の有無を確認し、明宮先生とともに備え付けの毛布を配り始める。鳴海と佐伯も、エイミー夫人やメアリーに寄り添うようにして長いソファに腰を下ろし、互いの体温で冷え切った体を温め合っていた。


 僕は、薄暗い部屋の中でランタンの光に照らし出される大人たちの顔を、一人ずつ順番に確認していった。

 恐怖に顔を引きつらせるグランバール卿。泥だらけの服で震えるガイドのミハイル。主人の傍に影のように控える執事のサモン。桐生院、清瀬先生、明宮先生、鳴海、佐伯、エイミー夫人、メアリー。そして、如月さん。


 五味は消えた。ジェームスとシェリーは死体として発見された。だから、今この館で生き残っているのは、ここにいるメンバーだけ……。


(……いや、待てよ?)


 僕の思考が、ふと不自然な『空白』に引っかかった。

 僕たちはずっと、見えない殺人鬼の恐怖と、目の前で次々と起きる異常事態への対処に脳の処理能力を奪われ続けていた。だから、あまりにも当たり前の『事実』を、今の今まで完全に忘却してしまっていたのだ。


「……あの、すみません。ちょっと待ってください」


 僕は、毛布を受け取ろうと手を伸ばしかけたまま、乾いた声で静まり返った談話室の空気を切った。


「僕たち……誰か、忘れてませんか?」


「忘れている…ですか?」


 桐生院が、怪訝な顔で振り返る。


「いや、全員いるはずです。消えた五味以外は……」


「違います! 僕たちツアーの参加者じゃなくて、この館の人たちです!」


 僕は、グランバール卿とサモンの方を振り向いた。


「料理長のローレルと……庭師のお爺さん! あの二人は、今どこにいるんですか!?」


 僕の言葉に、談話室の空気が一瞬にして凍りついた。

 生存者たちの顔から、再び血の気がサッと引いていく。


「ローレルとグリエル……!!」


 エイミー夫人が、口元を両手で覆って悲鳴のような声を上げた。


「おいサモン! あの二人はどうした!」


 グランバール卿が、自身の恐怖を誤魔化すように、血走った目で執事のサモンを怒鳴りつけた。


「も、申し訳ございません、旦那様……!」


 常に冷静だったサモンの顔にも、明確な焦燥と恐怖の色が浮かんでいた。


「料理長のローレルは、先ほど旦那様にご報告した通り、自室へ戻ったままです。庭師のグリエルに至っては、夕方から館の戸締まりの点検に出たまま……お恥ずかしながら、停電のパニック以降、私も彼らの安否を完全に確認しそびれておりました……!」


「グリエルだと……?」


 桐生院が、鋭い視線をサモンに向けた。


「その庭師の老人は、この広大な洋館の構造を熟知しているのですか?」


「ええ……グリエル・ショーンは、私がここへ来るずっと前からこの館に仕えている古株です。彼は寡黙で、人間よりも植物を信じているような男ですが……この洋館の庭に隠された『古い仕掛け』や、我々も把握しきれていない『昔の抜け道』を最も熟知しているのは、間違いなく彼です」


「昔の抜け道……!?」


 その言葉に、桐生院の顔色が変わった。


「じゃあ、決まりじゃないですか! そのグリエルという庭師が、隠し通路を使って鍵のかかった部屋をすり抜け、神出鬼没に動き回って連続殺人を犯しているんですよ! ジェームスのおたまの件だって、館の人間なら簡単に持ち出せます!」


(庭師のグリエル……!)


 僕の脳内で、パズルのピースが最悪の形で組み合わさっていく。

 僕と如月さんが、シェリーの悲鳴を聞いて東棟へ向かっていた時、暗い廊下ですれ違ったあの不気味な老人の姿。日焼けした肌に刻まれた深い皺。土の匂いが染み付いた作業服。そして、手には大きな剪定バサミを握りしめていた。

 あの時、彼は焦点の合わない虚ろな目で、僕たちにこう言い残して闇の中へ消えていったのだ。


『……季節外れの「黄色いカーネーション」が咲いたようだ』


『軽蔑と、拒絶。……その忌まわしい種が、冷たい石の床に深く根を下ろした。あのチャラついた若者の血を吸ってな』


『……次は「トリカブト」の根が張るだろう』


『人間嫌いと、死の猛毒。それが、この館の腐りきった土壌を侵食し始めている。お前たちも、美しい花弁の下に隠された毒のルーツに気をつけることだ……』


「き、如月さん! 間違いないですよ!」


 僕は恐怖で声を震わせながら叫んだ。


「あの庭師、ジェームスさんが殺された直後に『チャラついた若者の血を吸ってな』って言ってたんです! 僕たちが遺体を見つけるよりも前に! それに、トリカブトの猛毒とか、不気味な花言葉ばっかり呟いてて……絶対にあいつが犯人です!」


 僕の証言に、談話室は完全なパニックに包まれかけた。

 まだ遺体が発見される前に、若者の死を予言していたかのような言葉。さらに館の隠し通路を熟知しているという事実。オカルトめいた猟奇殺人鬼のプロファイルとしては、あまりにも完璧に条件が揃いすぎていた。


「愚鈍な。たかが不気味な比喩表現一つで、思考を停止させるなサクタロウ」


 最悪のパラノイアが爆発しそうになったその時、如月瑠璃の氷のように冷たい声が、僕の叫びを真っ向から切り捨てた。


「き、如月さん……でも、あいつはジェームスさんの死を……!」


「『血を吸う』などという曖昧な言葉遊びは、物理的な殺害の証明にはならぬ。声帯が震えただけの不確かな情報など、いくらでも後付けの解釈が可能じゃ。それに、彼が真の黒幕であるなら、なぜわざわざ犯行直後に我々の前に姿を現し、自ら進んで疑われるような真似をする必要がある」


 如月さんは、一切の動揺を見せることなく、淡々と論理を展開する。


「彼がどこで何をしているかは知らんが、少なくともこの一連の殺人を計画・実行した真犯人ではありえぬ。……彼が黒幕であるという仮説は、すでに物理的に破綻しておるのじゃよ」


「破綻してるって……どうして言い切れるんですか!?」


「ついて来るのじゃ。わしが今から、この館のインフラのルーツを解体し、真犯人の輪郭を物理的に証明してやる」


 如月さんは、深いネイビーの重厚なインバネスコートの裾を翻し、談話室の重いドアノブへと手をかけた。


「如月さん……! 君たち二人だけで行くというのですか!?」


 桐生院が、ランタンの光を揺らしながら歩み寄ってきた。


「危険すぎます! その狂った庭師が、隠し通路からハサミを持って狙っているかもしれないんですよ!? これ以上、戦力を分散させるべきではない。行くなら僕も同行します!」


「却下じゃ」


 如月さんは、桐生院の申し出を微塵の躊躇もなく切り捨てた。


「お主の論理的思考力と統率力は、極限状態の群れを維持するためにこそ機能する。お主がここを離れれば、この閉鎖空間は再び行方不明者への疑心暗鬼のノイズに支配され、内側から完全に崩壊するじゃろう。お主の役割は、何があってもこの談話室の扉を死守し、内側の秩序を保つことじゃ」


「しかし……!」


「それに、ここから先は物理的な証拠と数式による『対話』の領域じゃ。素人の浅はかな正義感や情動は、わしの演算の邪魔にしかならぬ。……行くぞ、サクタロウ」


 如月さんは有無を言わさぬ王者の威厳でそれだけを告げると、漆黒の編み上げブーツの踵を返し、再び談話室の重いドアノブへと手をかけた。


「あ、はい! 桐生院、清瀬先生、ここはお願いします!」


 僕は慌てて頭を下げ、如月さんの背中を追って廊下へと飛び出した。


 ガチャリ、と背後で談話室の鍵が二重にかけられる音が響き、僕たちは再び、オレンジ色の非常灯だけが不気味に灯る石造りの廊下へと隔離された。

 如月さんの歩みには一切の迷いがなく、その小さな背中からは、万物のルーツを追い求める孤高の執念が立ち上っているように見えた。


**


「……如月さん。さっき、庭師のグリエルが犯人なのは『物理的に破綻してる』って言いましたよね。どういう意味ですか?」


 僕は、彼女の斜め後ろを歩きながら問いかけた。


「あの分厚い防火扉を犯人が『遠隔操作』して落としたのは事実なんですよね? 彼が隠し通路に隠れながら、スマートロックを操作したとは考えられないんですか?」


「サクタロウ、あの庭師とすれ違った時の、彼の『物理的状態』を思い出してみよ」


 如月さんは立ち止まり、振り返ることなく言った。


「あの老人の手には、庭の腐葉土と泥が分厚くこびりついておった。そして、暴風雨の中で作業をしていたのか、彼の着ていた作業服はずぶ濡れじゃったはずじゃ」


「……確かに、泥だらけで濡れてましたけど。それが何か?」


「それが、彼を容疑者から完全に除外する『決定的な物理証拠』なのじゃよ」


 如月さんは廊下の壁に設置された、真鍮製のアンティーク調の照明スイッチの前で足を止めた。


「スマートインフラ=無線の電波、という固定観念を捨てよ。この数百年の歴史を持つ分厚い石壁の洋館において、脆弱な無線の電波など、そもそも最初から実用性を持たぬのじゃ。光をここに集束させよ」


 僕がLED懐中電灯の光をスイッチのカバーに当てると、如月さんは腰のベルトポーチから純銀の『匙』を取り出した。

 彼女は、匙の細い柄の先端を、真鍮カバーを固定している古いマイナスネジの溝にピタリとはめ込んだ。


「き、如月さん!? 館の備品を分解して、どうするつもりですか!」


「ルーツを解体すると言ったじゃろうが。この館の『血管』を直接覗き見るのじゃ」


 彼女が手首のスナップを利かせて器用にネジを回すと、カラン、と乾いた音を立てて真鍮のカバーが石の床に落ちた。


 壁の中にポッカリと開いた暗い穴。

 そこには、年代物の建物の裏側に這い回る、古く酸化した銅線と、埃にまみれた白い陶器製の絶縁碍子(がいし)の配線が剥き出しになっていた。

 しかし、如月さんの純白の手袋を嵌めた指先は、その古い配線の奥に隠されていた『異物』を的確に引きずり出した。


「サクタロウ、ルーペ越しによく観察するのじゃ」


 彼女が『銀のルーペ』をかざした先には、古い布巻きの銅線に割り込むようにして、不自然に真新しい『黒い塩化ビニル被膜のケーブル』と、親指ほどの大きさの小型のモジュール基板が精巧にハンダ付けされている部分があった。

 地下セラーで見つけたジェームスのLEDドレスの配線処理と同じ、極めて理知的で丁寧な電気工作のルーツ。


「なんだこれ……古い電気配線の中に、新しい基板が割り込んでる?」


「ただの基板ではない。これは『PLCアダプタ』を小型化し、壁の内部配線に直接並列接続(バイパス)させたモジュールじゃ」


 如月さんは、その小さな電子部品を冷徹な眼差しで睨みつけた。


「ぴーえるしー……?」


「Power Line Communication……『電力線搬送通信』の略称じゃ。簡単に言えば、館内に張り巡らされた『既存のコンセントや照明の電気配線』を、そのままLANケーブルの代わりとして利用する技術のことじゃよ」


 如月さんは、純白の手袋でその黒いケーブルをなぞりながら、物理学と通信工学のルーツを解き明かし始める。


「このPLCという技術は、電気の波形の上に高周波の通信信号を重畳させてネットワークを構築する。このように配線に直接モジュールを組み込むことで、家中のすべての電気配線がそのままインターネット回線に早変わりするというわけじゃ。分厚い石壁によってWi-Fiの電波が遮断されてしまうこの古い洋館において、館内全域をカバーするインフラを構築するには、この有線ネットワークを利用するしか方法はない」


「電気の線を、そのまま通信ケーブルに……!」


 僕は驚愕の事実を前に息を呑んだ。


「左様。分厚い石壁によってWi-Fiの電波が遮断されてしまうこの古い洋館において、館内全域をカバーするスマートインフラを構築するには、このPLCを利用するしか方法はない。……サクタロウ、あの泥と雨水に塗れた手と、不格好な巨大な剪定バサミで、この数ミリ単位の精密な被膜剥がしとハンダ付けが『物理的』に可能だと思うか?」


 如月さんの言葉に、僕の脳内にあったグリエル犯人説が木端微塵に粉砕された。

 犯人は、魔法や呪いといったオカルトのベールを被りながら、その裏では、現代の通信規格と電気工学を完璧に計算し尽くした、極めて理知的で冷酷な盤面を構築していたのだ。


「つまり、犯人は外部の電波など最初から必要としていなかった。強力な電波妨害を行って我々の外部への通信を絶ちつつ、自分だけは壁の中の銅線を通して、安全な場所から防火扉のロックを解除し、隠しスピーカーから遅延音声を流していたのじゃよ」


「……露天風呂で如月さんが推測していた『有線のローカルネットワーク』の正体は、これだったんですね」


「左様。わしの数式が、物的証拠によって完全に裏付けられた瞬間じゃ。……そして同時に、五味が偶然その尻尾を踏んでしまい、拉致される原因となった『主幹制御盤(ルーター)が置かれた隠し部屋』も、この館の配線のどこかに必ず繋がっておるということじゃな」


「じゃあ、早くその隠し部屋を見つけないと! 五味が殺されちゃうかもしれない!」


 僕は焦燥感に駆られ、足を動かそうとした。


「慌てるな、愚鈍な有機物め。モノのルーツを探るには、まずその『骨格』を知らねばならぬ」

 如月さんの冷たい声が、僕の軽率な行動を制止した。


「我々が向かうべきは、この館の歴史を最も深く内包している場所……グランバール卿の『書斎』じゃ。あそこに行けば、この洋館の建設当時の古い見取り図が必ず存在するはずじゃ。隠し部屋というイレギュラーな空間は、図面という物理的データと照らし合わせることで、初めてその輪郭を現す」


 洋館の骨格を暴き、犯人の心臓部を特定する。

 如月さんはインバネスコートの裾を翻し、迷いなき足取りで、一階の奥、重厚なマホガニーの扉で閉ざされた『書斎』へと向かって歩みを進めた。



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