第4話『連鎖』 ~section4:分断の回廊と、悪魔の彫像~
『キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!』
地下ワインセラーの分厚いアーチ型石天井を透過し、さらにその上の床板と絨毯の層をすり抜けて響いてきた、悲痛な女子生徒の絶叫。
それは間違いなく、談話室に隔離したはずの同級生――鳴海と佐伯の声だった。
「行くぞ、サクタロウ! ルーツが汚染される前に、現場を制圧するのじゃ!」
如月さんは、ジェームスの凄惨な死体と、チープな電飾が施されたドレスに一切の未練を残すことなく、漆黒のブーツの踵を返した。
深いネイビーの重厚なインバネスコートのケープが翻り、彼女は一切の躊躇なく、真っ暗な地下階段へと走り出す。
「は、はいっ!」
僕は慌てて彼女の背中を追いかけた。
急勾配で、手すりすら存在しない粗削りな花崗岩の階段。行きはあれほど慎重に下りたというのに、今の僕は恐怖と焦燥感に急き立てられ、二段飛ばしで石の階段を駆け上がっていた。
一体、上で何が起きているというのか。
如月さんの指示で、桐生院と清瀬先生が内側から頑丈に施錠し、完璧な監視体制を敷いていたはずの談話室。あそこは、見えない殺人鬼が徘徊する洋館において、唯一絶対の『安全地帯』としてパッケージングされていたはずだ。
なのに、なぜ鳴海や佐伯の悲鳴が、あんな遠くから――おそらく、館の反対側にある『別棟』の方向から聞こえてきたのか。
ギィィィッ……バンッ!
如月さんが地下セラーの重いオーク扉を勢いよく押し開け、一階の廊下へと飛び出した。
オレンジ色の非常灯だけが不気味に灯る、底冷えする廊下。その非常灯の微かな光の向こう、別棟へと続く長い渡り廊下の途中で、複数のランタンの光が乱舞し、人々の切迫した声が入り乱れているのが見えた。
「五味! そこにいるなら返事をしてくれ!」
「どうか落ち着いてください、皆様! むやみに扉を叩いては危険です!」
そこにいたのは、桐生院誠、清瀬先生、鳴海、佐伯、明宮先生、グランバール卿、エイミー夫人、メアリー、執事のサモン、そして泥だらけのガイドのミハイルといった、談話室に隔離されていたはずの生存者全員だった。
彼らは、本館と別棟を繋ぐ渡り廊下の途中に設置された、分厚い鉄製の『防火扉』の前に群がり、焦燥に駆られていた。
「如月さん……! それに、朔くんも!」
鉄の扉に耳を当てていた桐生院が、弾かれたように振り返った。僕たちの姿を認めた彼の顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かぶ。
「無事だったんですね! 地下はどうでしたか!? 血の跡の先に、ジェームスさんは……」
その問いに、僕の脳裏に、ひしゃげた頭蓋骨と赤黒い脳漿、そして不気味なLEDドレスの映像が鮮明にフラッシュバックした。
「あ、あの……ジェームスさんは……」
僕は喉の奥が引き攣り、言葉を上手く紡ぐことができなかった。
「ジェームスという質量の最終到達点は確認した。すでに生命活動は完全に停止しておる」
如月さんは、まるで今日の天気を告げるかのような冷淡な声でジェームスの死を確定させると、パニックに陥りかける大人たちの情動を無視して、鋭いアメジストの瞳を桐生院へと向けた。
「だが、終わった事象の報告は後じゃ。……お主ら。わしは『何があっても談話室から一歩も出るな』と厳命したはずじゃが」
その氷のように冷たく、圧倒的な質量を持った声に、桐生院はハッとして姿勢を正した。
「申し訳ありません、如月さん。僕もあなたの論理的な指示に従うのが最善だと理解していました。ですが、時間が経つにつれ、エイミー夫人や女子たちが……生理的限界、つまりレストルームへの移動を余儀なくされたのです。人間の生理現象ばかりは、僕の論理でも強制的に抑えつけることは不可能でした」
「……ほう」
「そのため、僕は妥協案として『絶対に誰も一人にしない。全員で固まって、別棟の手前にあるレストルームへ移動し、廊下で互いを監視し合う』という集団移動のルールを設けました。現場のルーツ汚染を最小限に抑えつつ、安全を確保するための、あの状況下における最善の策だったはずです」
桐生院の判断は、極限状態の素人としては極めて理にかなった、満点に近い危機管理だったと言える。
「なるほどな。群れを作ることで捕食者からの防衛力を高める、極めて合理的な判断じゃ」
如月さんは、彼の判断そのものは否定しなかった。だが、その声には冷酷な響きが宿っていた。
「だが、お主らは『捕食者の知能』を決定的に見誤った。……で、その見事な羊の群れから、一匹の愚かな子羊がはぐれたというわけじゃな?」
如月さんの指摘に、桐生院はギリッと唇を噛み締め、目の前の分厚い鉄の防火扉を見つめた。
「この扉です。僕たちが一団となってこの廊下を進んでいた時、突然、何の警告音もなしに、この巨大な鉄の扉が上から落下してきたんです」
「落下、じゃと?」
「はい。幸い誰も挟まれませんでしたが、群れの先頭を歩いていた五味……五味鉄平だけが、この扉の向こう側に取り残されてしまいました」
「五味が……!? じゃあ、あいつ、殺人鬼がいるかもしれない別棟にたった一人で!?」
僕は血の気が引くのを感じた。あの、常にタブレット端末を持ち歩き、データを信奉して理屈ばかりこねていた同級生が、完全に孤立してしまったというのか。
「すぐに扉越しに声をかけました」
桐生院は悔しげな声で続ける。
「『絶対にそこから動くな、今すぐ開けるから!』と。ですが五味は、通信が途絶したことによるデジタルデトックスの禁断症状で、冷静な判断力を失っていました。彼は扉越しに『この先にある露天風呂の開けた場所なら、衛星の電波が拾えるかもしれない! 僕はネットのインフラに繋ぐんだ!』と叫んで……僕たちの制止を振り切り、一人で別棟の奥へと走っていってしまったんです」
「……なんという愚鈍な有機物じゃ。脳の報酬系ネットワークがデジタル信号に完全にハイジャックされておるな。自らの生存本能よりも、情報の受信を優先するとは」
如月さんは心底呆れたようにため息をつき、純白の手袋を嵌めた手で、目の前に立ち塞がる重厚な鉄の防火扉へと触れた。
「その後、露天風呂の方角から、何か重いものが倒れるような鈍い音が聞こえたんです……! それで、私たち、五味くんが襲われたんじゃないかって怖くなって……!」
鳴海が佐伯の手を強く握り締めながら、震える声で状況を補足した。
「なるほど。タイムラインは完全に把握した」
如月さんは、目の前の防火扉の構造を銀のルーペで冷徹に観察し始めた。
「サクタロウ。光をこの扉の枠の最上部、および留め金の機構部分に集束させるのじゃ」
「は、はい!」
僕は指示通り、LED懐中電灯の光を扉の構造部分へと当てた。
「……やはりな。お主ら、この扉がなぜ『落下』したのか、物理的なルーツを考えたことがあるか?」
如月さんは、分厚い鉄の扉をコンコンとノックしながら言った。
「一般的な防火扉や防煙シャッターは、火災報知器の煙センサーや熱センサーと連動し、電磁石のロックが解除されることで、自重で落下する仕組みになっておる。つまり、本来は『火災という物理現象』が発生しなければ作動しないはずのものじゃ」
「じゃ、じゃあ、別棟で火事が起きてるってことですか!?」
「愚鈍な。これだけ隙間風が吹き込んでいるのに、煙の匂いなど一酸化炭素の分子一つすら漂っておらぬわ」
如月さんは、ルーペをベルトポーチに仕舞い、代わりに一本の『銀の匙』を取り出した。
それもまた、おたまやアンティーク鏡と同じく、純銀で設えられた重厚で美しい造形のものだった。
「火災が発生していないにも関わらず、扉が落ちた。そして現在、館の主電源は落ちており、電磁ロックを維持するための電力は断たれているはずじゃ。……それなのに、この扉はお主ら大勢の力でも開かない。これは何を意味するか分かるか、桐生院」
「……っ! まさか、この扉の制御盤にはまだ『電力』が供給されている……!?」
桐生院が、ハッとして顔を上げた。
「左様。館の照明用の全体インフラとは別に、このセキュリティシステムだけを独立して稼働させる『クローズドなローカルネットワーク』と『無停電電源装置』が、この洋館の壁の裏に密かに張り巡らされているということじゃ。……犯人は、そのシステムを遠隔操作して、お主らの群れがここを通るタイミングを狙い、意図的に扉を落下させて五味を分断したのじゃよ」
インフラの遠隔操作。
それは、地下セラーで瑠璃が暴いた『光と音声のトリック』と完全に同じベクトルの、極めて現代的な工作だった。
「オーマイガッ……! デハ、私タチハ、見エナイ殺人鬼ノ檻ノ中ニ閉ジ込メラレテシマッタノデスカ……!?」
ミハイルが泥だらけの頭を抱え、大げさな身振りで怯えていた。
「嘆いている暇はありません! 如月さん、君の論理なら、このロックされた電子扉を開けることができるのですか!?」
桐生院が切迫した声で問い詰める。
「ふん、当然じゃ」
如月さんは、手に持った純銀の匙を、扉と壁のわずかな隙間――電磁ロックのかんぬきが噛み合っている部分へと、躊躇なく滑り込ませた。
「いかに高度な電子制御を用いたスマートロックであろうと、最終的に扉を固定しているのは、金属のラッチと受け座という『物理的なストッパー』に過ぎぬ。そして、いかなる電子錠にも、消防法に基づく『物理的緊急解除』の機構が必ず設けられておる」
如月さんは、匙の柄をしっかりと握りしめ、テコの原理を用いて、絶妙な角度で力を込めた。
「アルキメデスはこう言ったそうじゃ。『我に支点を与えよ、されば地球も動かしてみせよう』とな」
ガチンッ!!
彼女が体重をかけて匙の柄を押し込んだ瞬間、重厚な金属のラッチが強制的に押し戻される、乾いた破断音が響いた。
「開いたぞ。行くのじゃ、サクタロウ!」
如月さんが重い鉄扉を押し開ける。
「僕たちも行きます!」
桐生院と明宮先生も、ランタンを掲げて僕たちの後へと続いた。
扉の向こう側――別棟のエリアは、本館以上に冷え切っていた。
渡り廊下の先にある大浴場と露天風呂のエリアは、自然の景観を楽しむために意図的に外気を取り込む構造になっており、暴風雨の轟音が鼓膜を直接叩きつけてくる。
僕たちは、懐中電灯の光を乱舞させながら、板張りの廊下を駆け抜け、露天風呂へと続く『脱衣所』へと飛び込んだ。
「五味! 五味鉄平! どこにいる!」
明宮先生が大声を張り上げる。
しかし、広々とした脱衣所の中には、五味の姿はどこにもなかった。
外の露天風呂からは、強風に煽られた温泉の湯気が白く立ち込めているだけで、人間の気配は一切感じられない。
「……サクタロウ。光を、あそこの籐(とう)で編まれた脱衣カゴの上に集束させよ」
如月さんの冷静な声が、風の音を切り裂いた。
「え……あ、はい!」
僕が光を向けると、そこには、五味が命よりも大切にし、常に抱え込んでいた最新型のタブレット端末が、ポツンと一つだけ置かれていた。
画面はすでにスリープ状態になっており、真っ暗だ。
「五味のタブレット……! でも、本人がいません!」
桐生院が鋭い視線を周囲に巡らせる。
「まさか、本当に外へ電波を探しに行って、この暴風雨の中で足を滑らせて森に落ちたのか……!?」
明宮先生が窓の外の漆黒の森を見つめ、最悪の事態を口にする。
「愚鈍な。お主らの眼球のピント調節機能は狂っておるのか。タブレットの隣にある『異常な質量』が見えぬとはな」
如月さんは、タブレットが置かれた脱衣カゴのすぐ隣に鎮座している、もう一つの異質なオブジェへと歩み寄り、純白の手袋でそれに触れた。
懐中電灯の光がそれを照らし出した瞬間、僕は息を呑んだ。
それは、本館のどこかの廊下か階段に飾られていたであろう、重厚なブロンズ製の『悪魔の彫像』だった。
山羊の頭に、コウモリのような巨大な翼。筋骨隆々とした胴体に、鋭い鉤爪。いわゆるバフォメットやガーゴイルを模した、見ているだけで生理的な嫌悪感を催すような不吉な造形物。
高さは五十センチほどだが、その重厚な金属の質感から、相当な重量があることは一目でわかった。
「あ、悪魔の彫像……!? なんで、こんな脱衣所に……!」
鳴海が口元を覆い、恐怖で顔を強張らせる。
「もしかして、五味くん……殺人鬼に連れ去られて……身代わりにこれを置かれたの……!?」
佐伯が、恐怖に耐えきれずその場にへたり込んだ。彼女たちの怯えは、オカルトへの逃避ではなく、姿なき殺人鬼の悪意に対する純粋な恐怖だった。
「如月さん。犯人はわざわざこんな重い彫像を、五味のタブレットの横に置いていった。これは、僕たちに対する何らかのメッセージ……あるいは、異常な殺人鬼特有の『見立て』のようなものなのでしょうか?」
桐生院が、エリートとしての論理的思考を必死に保とうとしながら、如月さんに意見を求める。
「いや、そうではない」
如月さんは、桐生院の推測を冷たく切り捨てると、ブロンズ像の表面と、それが置かれている板張りの床の接地面を銀のルーペで精密に鑑定し始めた。
「よく見るのじゃ。この彫像は、犯人の歪んだ美学を誇示するために置かれたわけではない。極めて『物理的必然性』に迫られて、ここへ運搬されただけの金属の塊じゃ」
如月さんはルーペを床の板に向けた。
「サクタロウ、この彫像の材質はブロンズ。主成分は銅と錫の合金であり、その比重はおよそ八・八。体積から計算して、この彫像の質量は優に二十キログラムは超える、極めて重い金属塊じゃ。……それを証明するかのように、この板張りの床を見るがよい」
彼女が指し示した床には、重い硬物を無理やり引きずったような、数本の白い摩擦痕が鮮明に残されていた。
「二十キロもの質量を持つ硬物を運搬すれば、当然、接地面には摩擦係数に応じた物理的な痕跡が刻まれる。この傷のささくれの方向から見て、この彫像は脱衣所の外側……おそらくは露天風呂の方角から、強引にここまで引きずられてきたのじゃ」
「露天風呂の方から、引きずられて……?」
「左様。犯人は、五味をここで拉致した後、わざわざ二十キロもの重い彫像をここまで運び込み、配置したのじゃよ」
「だから、それが狂人の不可解な行動だと言っているんです! なぜ、わざわざそんな重労働をしてまで、こんな不気味な像を置く必要があるんですか!」
桐生院が、理解不能な犯人の行動に苛立ちを露わにする。
「少し考えれば分かるはずじゃ、桐生院。この館のインフラが、すべて電子制御された『スマートインフラ』であることを。そして、この重厚な金属塊が、ただの不気味なオブジェではなく、何らかのセンサーを誤作動させるための『物理的な重り』として使用されたというルーツをな」
「重り……!?」
「そうじゃ。犯人の台本は、ここにきて明確に破綻を来しておる。ジェームスの現場にあった『致命傷となる大量の血液』が、この現場には一滴たりとも存在しないことが、その何よりの物理的証拠じゃ」
如月さんの氷のように澄み切ったアメジストの瞳が、パニックに陥る生存者たちを、そして見えない殺人鬼の工作を、遥か高みから見下ろすように細められた。
「怯える必要はない。……五味は、まだ生きておる」
その絶対的な論理の宣言が、脱衣所に吹き込む暴風雨の轟音を切り裂き、僕たちの鼓膜に真っ直ぐに叩き込まれたのだった。




