第4話『連鎖』 ~section3:LEDのドレスと、光の物理学~
圧倒的な暴力によって破壊され、人間の骨格構造としての限界を完全に突破してひしゃげたジェームスの右側頭部。そこから漏れ出した血液と脳組織のペーストが、地下ワインセラーの冷たく湿った煉瓦の床に、生々しい赤黒い染みを作っている。
その光景だけで、僕の小市民的な精神は完全に崩壊しかけていた。
ガタガタと激しく震える両手がコントロールを失い、僕が握りしめていたLED懐中電灯の光の円錐が、まるで怯える小動物のように、ジェームスの砕かれた頭部から、彼の首元、そして胴体へと不規則にズレていく。
そして。
鋭い白色の光が彼の胴体を照らし出した瞬間、僕の喉の奥から、先ほどの死体発見時とは全く質の異なる、完全に理解を超えた恐怖による引き攣った呼吸音が漏れた。
「……な、なんだよ……これ……」
僕は、自分の眼球が捉えた映像信号を、脳が正しく処理できずにバグを起こしているのを感じた。
崩れた古い木箱の裏で仰向けに倒れているジェームスの遺体。
ディナーの席で彼が着ていた派手なアロハシャツの上から、あろうことか、全くサイズの合っていない【漆黒のゴシックドレス】が、まるで死装束のように無造作に被せられ、着せられていたのだ。
幾重にも重なった大げさなフリル。過剰なまでに装飾された漆黒のレース。筋肉質で大柄な成人男性の凄惨な死体に、少女趣味の極みのようなゴシックドレスが着せられているという構図は、それだけで背筋が凍るような狂気と異常性を放っていた。
だが、真の異常はそこではなかった。
その血に染まった漆黒のドレスの表面には、まるで不気味な蔦か寄生植物のように、無数の小さな【イルミネーション用の電飾】が、ぐるぐると何重にも巻き付けられていたのだ。
赤、青、緑、白。クリスマスツリーに飾るような、チープで小さな無数のLED電球と、それらを繋ぐ細い銅線のケーブル。それがドレスのフリルやレースの隙間を縫うようにして這い回り、ジェームスの死体を不気味なオブジェへと作り変えていた。
「ひっ……! 悪魔の……呪いの儀式だ……!」
僕は堪えきれず、後ずさりをしながら叫んだ。
「如月さん! これ、ただの殺人じゃないですよ! 狂ってます! 人をこんな無惨に殺した上に、こんな不気味なドレスを着せて、電飾を巻きつけるなんて……カルト教団か、悪魔崇拝者のイカれた儀式だ! きっと、この洋館には何百年も前から恐ろしい呪いが……!」
視覚情報がもたらす圧倒的な『不条理』の前に、僕の論理的思考力は完全にシャットダウンし、最も安易で原始的なオカルトのパラノイアへと逃避しようとしていた。
「……五月蝿いの。サクタロウ、お主のその底の浅い情動のノイズは、わしの演算の邪魔になるだけじゃ。黙ってそこに光を固定しておれ」
如月さんの氷のように冷たい、そして一切の感情の揺らぎを持たない声が、僕のパニックを物理的な平手打ちのように強制終了させた。
彼女は、ジェームスの凄惨な死体と、それに施された狂気的な装飾を前にしても、美しいアメジストの瞳に微塵の恐怖も浮かべていなかった。
深いネイビーの重厚なインバネスコートのケープを微かに揺らし、黒革の編み上げブーツで血だまりの縁ギリギリまで歩み寄る。そして、純白の綿手袋を嵌めた手で、銀のルーペを静かに取り出した。
「悪魔の儀式、じゃと? 愚鈍な。これほどまでに人間臭く、そして物理的な制約に縛られた『チープな工作物』を前にして、よくもまあそんな非科学的な妄言を吐けるものじゃ」
如月さんは、ジェームスの胴体に被せられた漆黒のゴシックドレスの裾を、手袋越しの指先で躊躇なく摘み上げた。
「よく見るがよい、サクタロウ。お主の眼球は、このドレスの表面的な『黒』という色彩と『フリル』という形状しか受信しておらぬ。だが、わしの情動の視座と物理的観察眼は、この物体が構成されている『分子レベルのルーツ』を解体する」
彼女はルーペのレンズをドレスの生地に極限まで近づけ、冷徹な化学の講義を開始した。
「この館にあるような、数百年の歴史を持つ本物のアンティークドレスであれば、その生地はカイコが吐き出した動物性タンパク質からなる純粋なシルク(絹)、あるいは綿花から紡がれた上質なコットンで構成されておるはずじゃ。それらの天然繊維は、顕微鏡レベルで見れば不規則で複雑な鱗片や撚りを持っており、特有の深い光沢と質量を生み出す。……だが、この安っぽい布地はどうじゃ」
如月さんは、摘み上げたドレスの生地を指先で軽く擦り合わせた。シュルッ、という人工的で乾いた摩擦音が地下室に響く。
「繊維の太さがミクロン単位で完全に均一。光の反射角も単調で深みがない。これは石油を原料としたポリエチレンテレフタラート――すなわち、ただの安価なポリエステル繊維じゃ。天然のタンパク質構造など微塵も含まれておらぬ。さらに、このレースの端の処理を見るがよい」
彼女が指し示したドレスの裏側の縫い目には、細い糸が複雑に絡み合った機械的な縫製跡があった。
「三本の糸を用いたオーバーロックミシンによる、典型的なかがり縫いの痕跡。大量生産の工業用ミシンで、一分間に数千針という速度で乱暴に縫い上げられた、極めて現代的で安価な既製品のルーツじゃ。おそらくは、月見坂市の量販店やネット通販で、数千円も出せば買えるような演劇用のコスプレ衣装……。犯人は、これを自らのトランクに忍ばせて、わざわざ外部からこの館へ持ち込んだのじゃよ」
如月さんは、ポリエステル製のドレスをポイとジェームスの胸の上に投げ捨てた。
「数百年を生きる悪魔や亡霊が、わざわざ石油を精製して合成繊維を作り、現代の工業用ロックミシンで縫製された安物のドレスを着せに来るというのか? ……笑止千万。これは、オカルトや呪いという『不可解なベール』を被せることで我々の思考を停止させようとする、極めて人間的で理知的な工作者の浅知恵じゃ」
悪魔の呪いだと思っていた不気味なドレスが、如月さんの手によって『ネット通販で買える安価なポリエステルの塊』へと、一瞬にしてその価値と神秘性を剥ぎ取られ、解体されてしまった。
僕の全身を支配していたオカルト的な恐怖が、急速に色褪せていくのを感じる。
「だが、ドレスだけではない。真に滑稽なのは、このドレスに巻き付けられた『光の装飾』の方じゃ」
如月さんのルーペの矛先が、ドレスに蔦のように絡みついている無数のLEDライトと配線へと向けられた。
「光をもう少し近づけるのじゃ、サクタロウ。この電気回路のルーツを解剖する」
「は、はい」
僕はマフラーの隙間から漏れる白い息を抑えながら、懐中電灯をLEDの配線部分へと近づけた。
「ふむ……直列と並列を組み合わせた、ごく初歩的な直流回路じゃな」
如月さんは、LEDの細い配線を指先でなぞりながら、まるで理科の実験を採点する教師のような冷淡な口調で分析を続ける。
「ここを見るがよい。市販のイルミネーションの長さを調整し、ドレスの形状に合わせるために、犯人は一度導線を物理的に切断し、再接合しておる。この緑色のポリ塩化ビニルの絶縁被膜の剥がし方……ワイヤーストリッパーという専用の工具を用いて、内部の銅線を傷つけずに正確に剥ぎ取った明確な痕跡が残っておる」
彼女の指差す先には、確かに、細い導線同士が銀色の金属で玉のように繋ぎ合わされている部分があった。
「そして、この接合部の銀色の塊。これはハンダ付けの跡じゃ。融点およそ二百二十度の鉛フリー半田を用い、フラックスを焦がしながら、銅線同士を電気的に導通させたルーツ。熱収縮チューブによる絶縁処理の甘さから見て、プロの電気工事士ではないが、義務教育レベルの電気工学の知識と手先の器用さを持った人間の工作じゃな」
如月さんはさらに配線を辿り、ジェームスの脇腹のあたりに隠されるようにして固定されていた、黒いプラスチックの小さな箱を引っ張り出した。
「そしてこれが、この回路の心臓部。単三アルカリ乾電池を三本直列に繋ぎ、約四・五ボルトの電圧を出力するポータブルのバッテリーパックじゃ。オームの法則に従い、各LEDの順方向電圧降下を計算した上で、電流制限抵抗を挟んで発光ダイオードを駆動させておる」
如月さんは、バッテリーパックのスイッチに指をかけ、冷たく笑った。
「悪魔がハンダごてを握り、ホームセンターで買ってきた単三電池で電圧計算をしながらドレスを電飾する姿を想像してみよ、サクタロウ。これほど滑稽で、物理の法則に忠実な『呪い』がどこにある」
彼女の圧倒的な論理的解体作業の前に、僕は完全に言葉を失っていた。
確かに、言われてみればその通りだ。呪いや魔法なら、電池も配線も必要ないはずだ。犯人は、自分の手を動かし、工具を使い、物理的な計算を行って、この不気味なオブジェを『製作』したのだ。それは紛れもない、人間の犯行の証明だった。
「でも……だとしたら、一体なんのためにこんな手の込んだことを?」
僕は、どうしても理解できない疑問を口にした。
「ジェームスさんを殺して、地下室に隠すだけなら、こんなドレスもLEDも必要ないはずです。わざわざこんな不気味なものを作って着せる理由が、どこにあるんですか?」
如月さんはインバネスコートのポケットから懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けて、その文字盤を見つめた。
「すべては、我々生存者の『脆弱な感覚器官』をハッキングするためじゃ」
「感覚器官を……ハッキング?」
「左様。サクタロウ。完全なる暗闇の中で、このLEDの光だけが点滅しながら空宙を移動していたら、人間の眼球はどういうバグを起こすと思う?」
僕は想像してみた。視界を奪われた漆黒の中で、赤や青、白の小さな光が、チカチカと不規則に明滅しながら動く光景を。
「人間の網膜には、光を感知する視細胞が敷き詰められておる。これらの細胞は、光の刺激を受けると『ロドプシン』というタンパク質を分解し、電気信号へと変換して脳に送る。……だが、この化学反応には極めて致命的な『タイムラグ』が存在するのじゃ」
如月さんは銀のルーペを宙で円を描くように振ってみせた。
「強い光の刺激を受けた直後、光源が消滅しても、網膜上では約〇・一秒から〇・二秒の間、その光の像が残り続ける。これを『正の残像現象』と呼ぶ。暗闇でペンライトを振り回すと、光の文字が空中に浮かび上がって見えるのと同じ、眼球の生理的なバグじゃ」
「あっ……!」
僕は、彼女の言わんとしていることに気づき、息を呑んだ。
「点滅するLEDの光の軌跡を強制的に焼き付けられた網膜は、点と点でしかなかった光の残像を脳内で線として繋いでしまう。結果として、暗闇の中ではそれが『実体を持たずに空宙を浮遊し、形を変えながら蠢く発光体』のように錯覚されるのじゃ。……これが、このチープなドレスと電飾が果たした、真の物理的役割じゃよ」
「亡霊の……錯覚……。でも、如月さん」
僕は首を横に振った。
「あの停電が起きて談話室が真っ暗になった時、そんな光はどこにも見えませんでしたよ。誰もこのLEDなんて振り回していなかったはずです」
「当たり前じゃ」
如月さんは、まるで僕の疑問を待っていたかのように即答した。
「これが使われたのは、談話室の中ではない。……暗闇の『廊下』じゃよ。あの時の、メアリーの異常な絶叫を思い出すがよい」
――キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!
僕の脳裏に、真っ暗な談話室の外から響いてきた、あの空気を引き裂くようなメアリーの悲鳴が蘇った。
「メアリーは暗闇にパニックを起こして、廊下へ飛び出した……。そこで、この光るドレスを見たって言うんですか!?」
「左様。ただの暗闇を怖がって出た悲鳴の出力レベルではなかった。彼女は漆黒の廊下で、このLEDドレスが振り回され、空中に浮かび上がる『亡霊』を直接目撃し、恐怖のあまり発狂寸前のパニックに陥ったのじゃ」
如月さんの論理が、あの混乱しきっていた暗闇のタイムラインを、一本の美しい数式として繋ぎ合わせていく。
「待ってください。じゃあ……ジェームスさんは、いつ殺されたんですか? 停電の直前、彼は間違いなく如月さんにウィンクしようとしていました。僕の目の前で生きていたんです!」
「事実じゃな」
如月さんは静かに頷いた。
「ジェームスは停電の瞬間、間違いなくわしの前におった。そして停電後、暗闇の中で『おい、可愛いお嬢ちゃんたち』と軽口を叩き、自らの足で廊下へと出た。……奴が純銀のおたまで頭をカチ割られたのは、その直後じゃ。犯人はジェームスを殺害し、パニックになって廊下へ飛び出してきたメアリーにこのドレスを見せつけて絶叫させ、さらに混乱を加速させた。その後、ジェームスの死体をこの地下セラーまで引きずり込み、用済みになったこのドレスを死体に着せて隠蔽した……というのが、物理的痕跡から導き出される完璧なルーツじゃ」
完璧だ。
あの暗闇の中で起きていた不可解な現象が、すべて物理のベクトルとして鮮明に組み上がっていく。
だが、そうなると、最後に残る最大の『音』の矛盾が牙を剥く。
「じゃあ……あの、重い音と、鏡が砕け散った音はなんだったんですか!? ジェームスさんが殴られた音じゃなかったんですか!?」
「物理法則を無視するな、サクタロウ。人間の頭蓋骨を殴った程度で、分厚いアンティーク鏡があれほど粉々に砕け散り、おたまが突き刺さるわけがなかろう」
如月さんは冷たく言い放った。
「あれは、ジェームスが殴られた音ではない。……犯人が、あらかじめ仕掛けておいた『おたまを鏡に射出する物理的トラップ』が作動した音じゃ」
「トラップ……!?」
「そうじゃ。犯人はジェームスを殺害した後、時間差でそのトラップを作動させた。我々生存者が『今、化け物がジェームスを鏡に叩きつけて殺したのだ』と錯覚し、殺害時刻のタイムラインを誤認するようにな」
殺害と、鏡の破壊のタイムラグ。
すべては、犯人が自身の犯行時間をずらし、アリバイを確保するための罠だったのだ。
「でも、そのトラップを作動させる音をごまかすために、犯人はどうしたんですか? 僕たち、窓際で『ギシッ』ていう変な音を聞きましたよ!」
「簡単なことじゃ。我々の注意を窓際に引きつけるため、この館の壁の裏に密かに仕掛けられたスマートインフラのスピーカーから、ダミーの環境音を流したのじゃよ」
光の残像による、亡霊の視覚的錯覚。
スマートインフラを用いた、聴覚のハッキング。
そして、重力とテコの原理を用いた、鏡破壊のタイムラグ。
すべてが、物理法則と現代テクノロジー、そして人間の生物学的な脆弱性を冷酷に計算し尽くした、完璧な『偽装工作』だったのだ。
「犯人の手口のルーツは完全に見えた。……オカルトのベールを被った、極めて理知的で傲慢な殺人鬼。上等じゃ。物理法則を弄ぶその浅知恵、わしの数式で木端微塵に解体し尽くしてくれるわ」
如月さんはアメジストの瞳をギラリと輝かせ、懐中時計の蓋をパチリと閉じて、反撃の演算を開始しようとした。
――まさに、その瞬間だった。
『キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!』
分厚い石造りのアーチ天井の向こう側。館の上層階、あるいは別棟の露天風呂の方角から、空気を物理的に切り裂くような、女子生徒の悲痛な絶叫が響き渡ったのだ。
佐伯と鳴海の声だ。ただの恐怖ではない。新たな『異常事態』に直面した、魂の底からの悲鳴。
「……ちっ」
如月さんは短く舌打ちをし、深いネイビーのインバネスコートの裾を鋭く翻した。
「役者が一人、舞台のイレギュラーな場所に移動したか、あるいは……強制的に退場させられたようじゃな」
「第三の……事件……!?」
「行くぞ、サクタロウ! ルーツが汚染される前に、現場を制圧する!」
僕たちは、凄惨な死体とチープなLEDドレスが転がる狂気の地下セラーに背を向け、鳴海たちの悲鳴が上がった上層階へと向かって、真っ暗な石階段を全速力で駆け上がり始めたのだった。




