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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第4話『連鎖』 ~section2:地下セラーの死臭と、消えた男の末路~

 非常灯のオレンジ色の光だけが頼りの、冷え切った一階の廊下。

 第一の殺人現場である血塗られた鏡の前を通り過ぎ、さらに奥深く、ドリス家の歴史が眠る『地下ワインセラー』へと続く分厚いオーク材の扉の前に辿り着いた瞬間。僕の前を歩いていた如月さんが、ピタリと足を止めた。


「……待つのじゃ、サクタロウ」


 如月さんは、純白の綿手袋を嵌めた手を、重厚な扉の足元の隙間へとそっとかざした。


「この扉の隙間から漏れ出している大気の温度勾配……尋常ではないな。館の空調システムが完全にダウンしているとはいえ、この扉の向こう側の空間だけは、明確に致死的なレベルの冷気に支配されておる」


「えっ……」


 言われてみれば、確かに足元から、まるで巨大な冷凍庫の底から這い上がってくるような、身を切るような極寒の気流が音もなく流れ出してきているのが分かった。

 僕は思わずブルッと身震いし、両腕で自らの体を強く抱きしめた。僕が今着ているのは、このベルグラヴィアへの海外研修のために、出発前に月見坂市の量販店で父親と慌てて購入した、ディナー用の安物のスーツだ。ポリエステルと粗悪なウールの混紡素材で作られたペラペラの生地は、ただ見た目の体裁を取り繕うためだけのものでしかなく、西洋の古い石造りの洋館に吹き込む暴力的な隙間風に対しては、防寒着としての機能を全く果たしていなかった。

 僕が普段暮らしている旧市街の古い団地も、冬場の隙間風と底冷えは相当なものだ。だから寒さにはそれなりに耐性があると思っていたが……この地下から這い出してくる、数百年分の時間が堆積したような重く湿った石造りの冷気は、団地のそれとは根本的に質が違った。


「サクタロウ。お主の着ているその化学繊維の安価なスーツでは、空気の層を保持できず、地下の冷気による熱伝導と対流に耐えきれぬ。……このまま下へ降りれば、お主は十分以内に重度の低体温症に陥り、わしの下僕としての役割を果たす前に機能停止するじゃろう」


 如月さんは僕の惨めな服装を一瞥すると、極めて論理的な判断を下した。


「わしも、このベルベットのイブニングドレスでは、これからの物理的探索における四肢の可動域に制限がかかる。……地下へ降りる前に、各自の部屋へ戻り、最も防寒性と機動性に優れた衣服へと換装するのじゃ。五分後に、再びこの扉の前に集合せよ」


「へっ? あ、はい! 助かります……!」


 僕は心底安堵の息を漏らした。あのまま地下へ強制連行されていれば、殺人鬼に襲われる前に凍死していたかもしれない。

 僕たちは一旦廊下を引き返し、それぞれ自分に割り当てられた一階の客室へと足を踏み入れた。


**


 分厚い遮光カーテンが完全に閉め切られ、暖炉の火も落ちた底冷えする客室。

 如月瑠璃は、自室の重いマホガニーの扉を施錠すると、非常用のランタンと、窓の隙間から差し込む青白い稲妻の光だけが明滅する鏡台の前に立った。


 彼女の脳内には、殺人鬼がうろつく洋館に対する恐怖といった情動は一切存在しない。あるのはただ、これから向かう絶対零度の地下空間と、そこに潜むであろう血塗られたルーツを解体するための、極めて冷徹で合理的な『環境適応』の演算のみである。


 瑠璃は純白の綿手袋を指先からゆっくりと引き抜き、鏡台のガラス面に音もなく置いた。

 次いで、背中に回した細く長い指先で、ドレスの隠しファスナーに触れる。ジィィッ、という微かな金属音が静寂の部屋に響き、彼女の背骨のラインが露わになる。

 留め具を外すと、漆黒の重厚なベルベット生地が、彼女の華奢な肩から自重によって滑り落ちた。空気を孕み、カサリと音を立てて足元のペルシャ絨毯に崩れ落ちたドレスの中から現れたのは、陶器のように白く、一切の無駄な脂肪を持たない滑らかな肢体だった。


 氷のような洋館の冷気が、露わになった彼女の素肌を遠慮なく舐め上げるが、瑠璃は微かに眉を動かすことすらない。

 背中でクロスした極薄のシルクのキャミソールと、締め付けていたコルセットのホックを無造作に外し、脱ぎ捨てる。稲妻の青白い光に一瞬だけ照らし出されたその裸身は、まだ未成熟な少女の細さを残しながらも、胸の柔らかな膨らみや、腰からヒップにかけての滑らかな曲線には、計算し尽くされた黄金比の彫刻のような、無機質で冷たい艶かしさが宿っていた。

 しかし、その完璧な肉体に熱情を帯びた視線を向ける者はここにはいない。彼女自身もまた、自らの肉体を『至高の思考演算を運搬するための、ただの有機物の器』としか認識していなかった。


 瑠璃はアンティークのトランクを開け、あらかじめ用意していた防寒と機動性のための衣服を手に取る。

 まず、素肌に吸い付くような高密度の防寒用タイツを、白く細い脚へと滑り込ませる。ナイロンと素肌が擦れるシュルッという微かな摩擦音が響く。

 上半身には、体温を逃がさない保温性の高い漆黒のインナーを纏い、その上から、一切の装飾を排した純白のハイネックブラウスに袖を通す。首元の一番上のボタンまで隙間なくきっちりと留め、細く長い首の体温を密閉する。

 続いて、体にタイトにフィットする漆黒のジレを重ねた。フロントのボタンを留め上げることで、胸元から細い腰にかけての女性らしい曲線を、むしろ軍服のように厳格に締め上げる。


 下半身には、厚手のウールで織られた、深いダークグレーのプリーツスカートを身に付ける。膝下まである丈は、歩幅を広げた際の布の摩擦音を最小限に抑えつつ、足元の冷気を完全に遮断する計算された立体裁断だ。

 足元は、繊細なパンプスから、厚いゴム底に深いトレッドパターンが刻まれた、黒革の編み上げブーツへと換装した。細い指先で革の靴紐を限界まで締め上げ、足首の関節を強固に固定する。


 そして最後に、彼女の小柄な身体をすっぽりと包み込む、重厚なインバネスコートを羽織った。深みのあるネイビーの厚手ウール生地の裏地には、微かに深紅のタータンチェックがあしらわれており、彼女の冷酷なまでの美貌をより一層鋭く引き立てていた。

 まるで、十九世紀の英国に実在した冷徹な異端尋問官か、あるいは悪魔祓いを生業とする孤高の貴族のような佇まいである。


 瑠璃は、新しい純白の綿手袋を両手に嵌め、指先の曲げ伸ばしを行って布の抵抗値を確認する。

 腰に巻いた細い革のベルトポーチに、商売道具である銀のルーペ、万年筆、古い革の手帳、そして銀の匙を緻密な配置で収める。銀の懐中時計のゼンマイをカリカリと巻き上げ、耳元でその正確な1.0ヘルツの打撃音を確認すると、彼女は氷のような冷ややかな視線を、鏡の中の自分自身へと向けた。


「……さて。地下に眠る狂った歯車どもを、物理的に解体しに行くとするかの」


 精神の調律を完璧に終えた如月瑠璃は、重厚なコートの裾を翻し、再び闇の廊下へと出撃した。


**


 僕が自室から、ありったけの防寒着――厚手のウールカーディガンと、首周りを覆うマフラー、そして動きやすいスニーカーへと着替えて地下への扉の前に戻ると、数秒遅れて、廊下の暗がりから如月さんが姿を現した。


 彼女の姿を見て、僕は思わず目を丸くした。

 先ほどまでの、ディナーの場を支配するような優雅で豪奢なイブニングドレスから一転。如月さんは、探偵か英国の狩猟者を彷彿とさせる、極めて実用的で重厚なネイビーのインバネスコートと、編み上げの黒革ブーツという出で立ちへと完全に換装していたのだ。

 機能性を極限まで追求し、肌の露出を一切なくしたそのストイックな装いは、彼女の持つ『万物のルーツを解体する鑑定眼』としての冷徹な凄みを、より一層鋭く際立たせていた。


「準備は完了したようじゃな、サクタロウ。お主のその不格好な重ね着を見る限り、熱力学的な防御力だけは最低限クリアしたと見なしてやろう」


 如月さんは僕の丸々としたカーディガン姿を鼻で笑うと、純白の手袋で地下セラーへの重いオーク扉の真鍮の取っ手を掴んだ。


 ギィィィッ……。

 長年の間油を差されていない鉄製蝶番の重い軋み音が、静まり返った廊下に不気味に響き渡る。

 扉が開かれた瞬間、先ほど隙間から感じていた冷気が、明確な質量の壁となって僕たちの全身に叩きつけられた。


「いくぞ」


 如月さんは、全く躊躇うことなく、コートのケープを揺らして暗黒の石階段へと足を踏み入れた。

 僕はポケットから小型のLED懐中電灯を取り出し、カチリとスイッチを入れて、彼女の足元を照らしながら後に続く。


 一段一段の幅が狭く、表面が粗削りな花崗岩で作られた急勾配の階段。手すりはなく、壁は湿った石のままだ。

 コツン、コツン、という如月さんの革ブーツの硬質な靴音と、僕のスニーカーのくぐもった足音だけが、閉鎖された石の空間に不気味に反響する。

 背後のオーク扉が自重でゆっくりと閉まり、ガチャリとラッチが噛み合う音が聞こえた瞬間、僕たちは館の上層階から完全に物理的に隔離された。外の暴風雨の轟音すらも、分厚い石壁と土の層によって完全に遮断され、ここでは自分の心臓の早鐘のような鼓動と、浅い呼吸音だけが、やけに大きく耳元で鳴り響いていた。


「……如月さん。ジェームスさんは、本当にこの下にいるんでしょうか」


 僕は、鼓膜を圧迫するような沈黙と暗闇の質量に耐えきれず、震える声で尋ねた。


「一階の鏡の廊下に残されていた、血の滴下痕(ドリップマーク)の進行ベクトルを思い出してみるがよい。あの楕円形の血痕の尖った先端は、明確にこの地下セラーへの扉を指し示しておった」


 如月さんは振り返ることなく、淡々と僕の愚問を物理の絶対法則で切り捨てる。


「重力という絶対的なベクトルがこの地球上に存在する以上、傷口から大量に出血している物体が移動すれば、必ずその軌跡には血が落下する。人間という質量が重力場を無視して空中を浮遊するなどという非科学的なオカルト現象が起きない限り、失われた有機物の移動先はあの血痕が示す通りじゃ」


 数十段の長い石階段を下りきると、僕たちの靴底は、硬い花崗岩から、わずかに土の匂いがする煉瓦敷きの平坦な床へと着地した。

 僕は懐中電灯の光を前方に向け、水平方向にゆっくりと薙ぎ払った。


「うわぁ……広い……」


 光の円錐が闇を切り裂くたびに、巨大なアーチ状のレンガ造りの天井と、その下を埋め尽くす無数の木製ワインラックが次々と浮かび上がった。奥行きは数十メートルにも及び、優に学校の体育館ほどの容積がある広大な地下空間だ。

 ラックには、分厚い埃を被った古いワインボトルが、まるで墓地に整然と並ぶ無数の墓標のように、数千本、数万本という単位で横たわっている。樽で長期熟成させるための巨大なオーク樽も、部屋の隅にいくつも鎮座していた。

 迷路のように入り組んだワインラックの列は、光の届かない奥の方で深い闇に呑み込まれており、その奥に何が潜んでいるのか、視覚情報だけでは全く判別が不可能だった。


 僕がその圧倒的な空間の質量と歴史の重圧に言葉を失っていると、如月さんがピタリと足を止め、すっと鼻先をわずかに上げた。

 彼女はアメジストの瞳を細め、地下室の冷え切った空気を静かに、しかし深く肺へと吸い込む。


「サクタロウ。お主のその脆弱な嗅覚センサーでも、この大気中に漂う極めて明白な『異物』の存在には気づいておるじゃろう」


 如月さんの氷のように冷たい声が、静寂の空間に響いた。


「異物、ですか……?」


 僕は言われた通り、意識して鼻から冷たい息を吸い込んでみた。

 カビと湿気、コルクの乾いた匂い、そしてワインの芳醇なアルコールと酒石酸(しゅせきさん)の匂い。地下セラーとしてごく当たり前の環境臭だ。

 だが、その支配的な匂いの奥底に、僕の脳の生存本能を直接刺激する、極めて不快で異質な匂いの分子が混ざり込んでいることに、すぐに気がついた。


「うっ……これ、鉄の錆びたような……いや、生臭い血の匂い……。それに、なんというか、古い公衆トイレの奥で嗅ぐような酷い悪臭も混ざってる……」


 僕は顔をしかめ、巻いてきたマフラーで口と鼻を強く覆った。


「その通りじゃ。見事なまでに原始的で生理的な分析じゃな」


 如月さんは、銀のルーペを手の中で軽く弄びながら、冷徹な化学式のルーツを語り始める。


「空気中に漂うこの生臭い鉄の匂いの正体は、赤血球に含まれるヘモグロビンの鉄イオンが、空気中の酸素と結合して酸化鉄へと変化する過程で揮発する、特有の金属臭じゃ。……つまり、この閉鎖空間のどこかに、現在進行形で酸化し続けている『大量の新しい血液』が存在するという明確な化学的証明に他ならぬ」


 大量の新しい血液。

 その言葉が、一階の廊下で見たおたまの突き刺さった鏡と、大理石の床に広がっていた巨大な血だまりの記憶を鮮明にフラッシュバックさせる。


「さらに、お主が不快感を示した便所のような悪臭。……あれは、人間という生物が自らの生命活動を完全に停止させた際、筋肉の弛緩によって括約筋の制御が失われ、腸内に滞留していた排泄物や消化ガスが体外へ放出された結果生じる、硫化水素やアンモニア、インドールといった有機化合物の腐敗臭じゃ。先ほど、東棟の密室でシェリーの死体を前にした際にも、これと全く同じ分子構造の匂いを嗅いだはずじゃぞ」


 如月さんの口から紡がれる、あまりにも理知的で、同時にあまりにも生々しい『死の証明』。

 僕の胃の奥底がヒクッと激しく痙攣し、未消化のディナーの酸味が食道をせり上がってくるのを感じた。


「それって……つまり、この地下室のどこかに……ジェームスさんの……」


「左様。ただ出血して倒れているだけではない。有機物としての機能が完全に停止した状態――すなわち『死体』が、このワインセラーのどこかで、すでに腐敗の準備を始めているということじゃ」


 如月さんは純白の手袋を嵌めた手で、目の前に広がる巨大なワインラックの迷路を指し示した。


「光を、床面から高さ三十センチの範囲に絞って水平に照射するのじゃ。嗅覚が死体の存在を証明したならば、次は視覚を用いて、犯人がその質量を運搬した物理的ルーツをトラッキングする」


「は、はい……!」


 僕は震える手で懐中電灯の角度を下げ、煉瓦敷きの床を這わせるようにして光の円錐を動かした。

 煉瓦の表面には、長年の間誰も足を踏み入れていなかったことを示す、白っぽくきめ細かい埃の層が均一に降り積もっていた。しかし、僕たちが今立っている階段の入り口から、迷路のように入り組んだワインラックの通路の一つに向かって、その埃の層が不自然に乱れている帯状の領域が存在した。


「埃が……帯のように拭き取られています。それに、ところどころに、一階の廊下で見たのと同じ血の跡が……」


「見事な摩擦のルーツじゃな」


 如月さんはその帯状の痕跡にルーペを向け、しゃがみ込んで詳細な鑑定を開始した。


「単なる人間の靴底による圧迫痕ではない。幅およそ五十センチにわたって、層流として均一に堆積していた埃が、強引な物理的干渉によって乱流状態となり、端へ押しやられておる。これは、数十キログラムの重くて柔らかい質量……すなわち意識を失った人間の肉体を、衣類ごと床に擦り付けながら、強引に引きずって移動させた際に生じる摩擦痕じゃ。血の滴下痕がその軌跡と完全に一致していることからも、犯人がジェームスをここへ引きずり込んだことは確定事項じゃな」


 如月さんは立ち上がり、その引きずり痕が続いているワインラックの間の狭い通路へと、迷いなく歩みを進めた。

 僕は光を途切れさせないように必死についていく。通路の両側には、天井まで届く木製の巨大なワインラックがそびえ立ち、無数の黒いガラスボトルがこちらを無言で監視しているようで、強烈な閉所恐怖症の圧迫感を感じた。


 数十メートルほど通路を進んだところで、如月さんが不意にピタリと足を止め、左側のワインラックの中段あたりへと鋭い視線を向けた。


「……サクタロウ。光をこのボトルの並びへ当ててみるがよい」


「え? は、はい」


 僕が指示された段に光を当てると、そこには同じラベルの貼られた埃まみれの古いワインボトルが、寝かせた状態でズラリと一列に並んでいた。


「何か、おかしいところがあるんですか?」


 僕の目には、ただ古いワインが並んでいるようにしか見えなかった。


「愚鈍な。すべての物体は、外部からの物理的エネルギーを受けない限り、静止状態を保つという慣性の法則を思い出せ。お主の眼球は、ただ光の反射を受信しているだけで、事象のルーツを全く解体できておらぬ」


 如月さんは、純白の手袋の指先で、ずらりと並んだボトルの中の、向かって右から三番目のボトルを指し示した。


「この段に並んでいるボトルは、すべてボルドー型の形状で、ラックの木枠に対して同じ深さで収納されている。長年の埃の堆積状況も均一じゃ。……しかし、この三番目のボトルだけを見るがよい」


 ルーペ越しにそのボトルを指し示す彼女の指摘に従い、目を凝らしてよく見てみる。


「あ……! ほんの少しだけ……奥に引っ込んでいる?」


「左様。他のボトルに比べて、およそ三ミリメートルほど、木枠の奥へと押し込まれている。そして、このボトルの肩の部分に積もっていた埃の層が、わずかに乱れ、手袋か布越しに擦れたような微小な拭き取り痕が残っておるじゃろう」


 如月さんは冷徹な声で、その三ミリのズレが意味する物理的真実を暴き出す。


「この地下室には地震の形跡はない。となれば、この質量一キログラム強のボトルを三ミリ押し込んだエネルギーの出所は一つしかない。……犯人が、ジェームスの重い肉体を引きずってこの狭い通路を通る際、バランスを崩すか、あるいは持ち手を持ち替えるために、無意識にこのワインラックに手をつき、ボトルを押し込んでしまったのじゃ」


「たった三ミリのズレで、そんなことまで分かるんですか……」


「物理法則は絶対に嘘をつかぬ。このボトルの質量とおよそ三十度の収納角度、そして木材とガラスの静止摩擦係数から逆算すれば、このボトルを三ミリ押し込むために必要な力のベクトルと運動エネルギーは容易に導き出せる。犯人は相当な疲労を抱えており、重い質量をコントロールしきれずに壁側に寄りかかっていたというルーツが、この三ミリのズレに雄弁に記録されているのじゃよ」


 如月さんは、一切の情動を交えない機械的な精密さで、犯人の残した見えない行動の軌跡を、まるでそこにホログラムの映像が投影されているかのように再構築していく。

 彼女の恐るべき『物理的観察眼』の前では、どんなに暗闇に紛れようと、どんなに巧妙に死体を隠蔽しようと、物質に干渉したという事実そのものを消し去ることは不可能なのだ。


「引きずり痕は、まだ奥へと続いておる。急ぐぞ、サクタロウ。命のルーツが途絶えた最終到達点へな」


 如月さんは再び歩き出し、僕はその後を追った。

 血液の酸化した鉄の匂いと、排泄物の入り混じった強烈な死臭が、奥へ進むにつれてどんどん濃度を増していく。僕の胃袋は限界に近い悲鳴を上げていたが、立ち止まることは許されなかった。


 やがて、迷路のようなワインラックの列が途切れ、セラーの最奥部と思われる突き当たりの石壁に到達した。

 そこは、ワインラックではなく、出荷用の古い木箱がうず高く積まれた荷物置き場のようなスペースだった。

 引きずり痕と、点々と続いていた血のドリップ・マークは、無造作に積み上げられ、一部が崩れ落ちた木箱の山の裏側へと続いて、そこで完全に途切れていた。


「……ここじゃな」


 如月さんは、崩れた木箱の山の手前で立ち止まった。

 空気の動きが完全に停止したこの最奥部では、死臭が物理的な壁のように濃密に立ち込めており、僕はマフラー越しでも呼吸をすることすら困難になっていた。

 この木箱の裏に、何があるのか。いや、何があるかは分かっている。分かっているからこそ、人間の本能が、そこへ光を当てることを強烈に拒絶していた。


「サクタロウ。光を、あの崩れた木箱の隙間の向こう側へ、最大光量で照射するのじゃ」


 如月さんの絶対的な命令が下る。


「……っ、はい……!」


 僕はガクガクと震える両手で懐中電灯をしっかりと握りしめ、目を半分閉じかけながら、木箱の裏側の暗がりへと、鋭い光の円錐を叩きつけた。

 強烈なLEDの光が、深い闇を暴力的に吹き飛ばす。

 そして。

 僕の眼球は、そこに横たわっていた『それ』の姿を、網膜に強制的に焼き付けられた。


「ヒィッ……!! あ、あああぁぁぁ……っ!!」


 僕の喉から、声にならない引き攣った悲鳴が漏れた。膝から力が抜け、危うく懐中電灯を落としそうになる。

 崩れた木箱の裏側の、冷たい煉瓦の床の上。

 そこに、行方不明になっていたチャラ男の旅行客、ジェームスが倒れていた。


 いや、『倒れていた』という生ぬるい表現ではない。彼は、完全に、そして無惨に『破壊』されていた。

 ディナーの席で彼が着ていた派手なシャツとジャケットは、胸のあたりから上が、まるでバケツで赤いペンキを被ったかのように、どす黒く変色した血液で完全に染まり上がっていた。

 彼は仰向けの状態で、両手足は人形のようにだらりと放り出されている。

 だが、僕の精神を最も深く抉り取ったのは、彼の『頭部』だった。


 懐中電灯の光に照らし出された彼の頭部は、もはや人間の形状を保っていなかった。

 右側の側頭部から後頭部にかけての頭蓋骨が、何らかの極めて重く硬い鈍器によって、物理的な限界を超えて陥没し、ひしゃげている。頭皮は無惨に裂け、血液と脳漿(のうしょう)が混ざり合った赤黒いペースト状の物質が、煉瓦の床へとべったりとこびりついている。

 見開かれたままの双眸は、シェリーの時と同じように焦点の合わないガラス玉と化し、永遠に訪れない明日の光を虚空に見つめ続けていた。


「ジェームス……さん……。嘘だろ、こんなの……!」


 僕は壁に手をつき、胃液を堪えるために必死に口を塞いだ。全身の震えがコントロールできず、歯の根がガチガチと音を立てて鳴り続ける。

 ゲームや映画の綺麗な死体じゃない。これは、圧倒的な暴力の質量によって頭蓋骨という骨格構造を破壊され、生命活動を強制的に停止させられた、生々しい有機物の残骸なのだ。


 そんな凄惨な地獄絵図を前にしても、如月瑠璃という人間は、ただ一人、一切の情動を動かされることなく、純白の手袋を嵌めた手で静かにルーペを構えた。


「見事なまでの物理的破壊じゃ」


 彼女は、ジェームスの陥没した頭部を、まるで博物館の展示物を観察するかのような冷徹な視線で見下ろし、淡々と死因のルーツを解剖していく。


「右側頭部への、極めて質量の大きい鈍器による直接打撃。頭蓋骨の陥没具合と、周囲への放射状の骨折線の走り方から計算して、相当な運動エネルギーが一点に集中して叩き込まれたことは明白じゃ。……一階の鏡の廊下に突き刺さっていた、あの純銀製の重厚な『おたま』。あれをフルスイングで脳天に叩き込めば、これと全く同じ物理的破壊のルーツを人体に刻み込むことができる」


 如月さんは、死体に対する哀れみや恐怖など微塵も感じさせない声で断言した。


「間違いなく、これが第一の殺人現場の『結果』じゃ。ジェームスはあの鏡の廊下で、おたまで頭をカチ割られて殺害され……その後、犯人によってこの地下セラーの奥底まで引きずり込まれ、物理的に隠蔽された。これが、この肉体が辿った質量のタイムラインじゃな」


 僕は、彼女のあまりにも冷徹な解体作業を前に、恐怖で言葉を発することもできなかった。

 ただ、懐中電灯を持つ手を震わせながら、見えない殺人鬼の圧倒的な暴力と殺意の前に、自分の無力さと絶望を噛み締めることしかできなかった。


 だが、この凄惨な死体発見の恐怖は、これから僕たちが直面する『真の狂気』の、ほんの入り口に過ぎなかったのだ。

 ジェームスの無惨な死体を照らし出していた僕の懐中電灯の光が、少しだけ下へ、彼の胴体の部分へとズレた瞬間。

 僕は、死の恐怖を上回るほどの、全く理解不能な『異質な物理的矛盾』を目撃し、再び息を呑むことになるのだった。



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