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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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エピローグ:『払暁』 ~section2:帰路のバスと、消えない傷跡~

 ベルグラヴィア州立総合病院での事後処理は、思いのほか迅速かつ機械的に進んだ。

 救助ヘリコプターによって山奥の『静寂の館』から搬送された僕たちは、すぐさまこの巨大な医療施設へと収容され、身体的・医学的な検査を徹底的に受けた。全員に致命的な外傷はなく、極度の疲労とストレスに対するケアが中心となった。

 警察の事情聴取に関しても、日本の大使館や学校側の素早い連携、そして何より如月学園の背後にある『如月コンツェルン』の法務部が物理的な防波堤となってくれたおかげで、未成年である僕たちが過度な拘束を受けることは一切なかった。如月さんの姉でありコンツェルンの経理・会計を一手に担う如月翡翠さんが、日本からどのような冷徹な指示を飛ばしたのかは定かではないが、その圧倒的な資本力と組織力によって、僕たちは事件発生からわずか二日後には、予定されていた学校行事としての帰りのフライトに乗る許可を得ることができたのだ。


 退院の手続きを終え、病院の正面玄関を出ると、そこにはベルグラヴィアの冷たく乾燥した風が吹いていた。

 ロータリーには、僕たちを国際空港へと運ぶための、大型のチャーターバスが静かにアイドリング音を立てて停車していた。ミハイルが手配したあの古びてサスペンションのいかれた送迎バスとは違い、学校側が正規の旅行代理店を通じて手配した、乗り心地の良さそうな一般的な観光バスだ。

 運転手に荷物を預け、僕たちは順番にバスのステップを上っていく。


 僕はバスの中ほどにある窓際の席に腰を下ろし、深く息を吐いた。

 やがて全員の搭乗が確認されると、重厚なディーゼルエンジンが唸りを上げ、バスは滑るようにして病院を出発した。目指すは国際空港。そこから、あらかじめ学校側が予約している帰りの直行便に乗って、日本――僕たちの日常がある月見坂市へと帰還するのだ。


 バスがハイウェイに乗り、安定した速度で走り始めると、車内には静かな疲労の空気が漂った。

 誰も大きな声で話そうとはしない。凄惨な夜を乗り越えたという安堵感と、未だに抜けきらない精神的な摩耗が、全員をシートに深く沈み込ませているようだった。


 僕は座席に背中を預け、斜め前の席に座っているクラスメイトたちの姿を、ぼんやりと見つめた。

 如月学園のトップエリートであり、常に自信と輝きに満ちていた彼らの纏う空気は、この数日間で明確に変化していた。

 如月家とも取引のある大財閥の令息であり、誰に対しても爽やかな微笑と嫌味のない完璧な立ち振る舞いを崩さなかった桐生院誠。彼は窓枠に肘を突き、端正な横顔に静かな疲労の色を滲ませながら、ただ黙って流れる異国の景色を見つめている。あの極限状態の密室において、彼の持っていた家柄やエリートとしての余裕は、殺人鬼の純粋な暴力の前では役に立たなかった。その無力感を痛感したはずだが、彼の瞳に絶望はなく、むしろ自分の足元をもう一度見つめ直すような、静かで真摯な光が宿っているように見えた。


 帰国子女で語学に堪能な佐伯陽菜は、隣の席の鳴海亜衣の肩に頭を預け、すーすーと規則的な寝息を立てていた。あれほど天真爛漫だった彼女の心にも、事件のトラウマは確実に刻み込まれたはずだ。だが、今はただ、安心しきった顔で眠りに落ちている。

 いつも強気で活発な鳴海は、佐伯が目を覚まさないように自分の肩をじっと固定し、窓から差し込む朝の光を眩しそうに細めた目で見つめていた。彼女の表情からはかつてのトゲトゲしさが抜け落ち、代わりに、共に死線を潜り抜けた仲間たちに対する柔らかな労わりの色が浮かんでいた。


 そして通路を挟んだ反対側では、五味鉄平が愛用のタブレット端末を膝の上に置き、猛烈な勢いでフリック入力を続けていた。

 彼のタブレット自体は、如月さんの物理的ショートの被害を免れて無傷だった。通信先のサーバーが吹っ飛んだためクラウド上のデータは一部失われたようだが、彼は一切落ち込むことなく、ローカル環境に残された莫大なデータを整理し、独自のアルゴリズムで今回の事象を再構築しているようだった。『オカルトではなく、すべては物理的なデバイスとネットワークの脆弱性が引き起こした事象だ』という絶対的な科学的結論を得た彼の横顔は、以前にも増して生気に満ち溢れていた。


 彼らは皆、傷を負いながらも、すでに前を向いている。

 特権階級の無菌室で育ってきた彼らにとって、あの『静寂の館(サイレントロッジ)』で直面した理不尽な暴力は劇薬だった。だが、彼らはそれをただのトラウマとして終わらせるのではなく、それぞれの『ルーツ』の糧として、確実に咀嚼し始めているのだ。


 僕は、制服のズボンのポケットから、自分の安物のスマートフォンを取り出した。

 スマホの端には、透明なプラスチック製のキーホルダーがぶら下がっている。僕が心の底から推している地下アイドル、『魚魚ラブ』の公式グッズだ。

 彼女たちは地下アイドルとはいえ、きちんとした事務所に所属し、新市街のライブハウスでも精力的に活動しているプロフェッショナルだ。どんなに小さなステージでも決して手を抜かないひたむきなダンスと、観客を笑顔にするための全力のパフォーマンス。その姿に、僕はこれまで何度も生きる活力をもらってきた。

 何度も落としてプラスチックの端が欠けているそのキーホルダーを指先でなぞりながら、僕はスマートフォンの画面をタップした。


 未読のメッセージが、数件溜まっていた。差出人はすべて『父さん』だ。

 事件の詳細はまだ日本のメディアには詳しく報道されておらず、ニュースでは単なる『ベルグラヴィア北部での局地的な暴風雨による孤立』としてしか扱われていないはずだ。


『ニュース見たぞ。そっちの山で土砂崩れがあったらしいが、お前の研修先は大丈夫か?』

『まあ、お前は昔から運だけはいいからな。電波が繋がったら無事だって返信しろ』

『帰りに空港で、安いチョコレートの詰め合わせでいいから買ってこい。仕事場の連中に配るからな。気をつけて帰ってこいよ』


 画面に並ぶ、不器用で、飾り気がなくて、少しだけ心配性の滲む短いテキストの羅列。

 それを読んだ瞬間、僕の口元に自然と温かい笑みがこぼれた。


 もう、ミハイルに抉り出されたあの『旧市街の泥の記憶』が、僕の視界を歪めることはない。

 僕は旧市街で、確かに理不尽な経験をした。だが、僕の世界は泥沼だけで構成されていたわけじゃない。毎日朝早くから作業着を着て必死に働き、僕を育ててくれたこの不器用な父親がいて、僕に笑顔をくれる魚魚ラブの全力のパフォーマンスがあった。

 その泥臭くて温かい日常こそが、僕の本当の『ルーツ』だ。

 如月さんが僕を『助手だ』と物理的に断言し、肯定してくれたおかげで、僕はその当たり前の事実に、はっきりと立ち返ることができたのだ。


「……何を一人で液晶画面を見つめ、にやけておるのじゃ。愚鈍な」


 真隣の席から、氷のように冷たく、そしてどこまでも傲慢な声が鼓膜を叩いた。

 顔を向けると、通路を挟んだ隣の席に座っているインバネスコートを着た小柄な少女――如月瑠璃が、アメジストの瞳で僕を真っ直ぐに見据えていた。

 彼女の細い首には、白い医療用のテープが貼られており、ミハイルに締め上げられた痛々しい鬱血の痕を物理的に保護している。だが、彼女の態度はあの惨劇の夜から何一つ変わっていなかった。


「あ、如月さん……。いえ、父から無事かどうかのメッセージが来ていたので、返信を打とうかと」


「ふん。そのような個人的な情動のやり取りは、日本に帰ってから好きにするがよい。今はそれよりも、お主の『助手』としてのスペックを測る方が先じゃ」


 如月さんはそう言うと、純白の手袋に包まれた手で、膝の上に置いた黒い革の手帳を開いた。

 それは、警察の現場検証の隙を突いて明宮先生がミハイルの懐から物理的に回収し、なぜか如月さんの手元へと渡った『シェリー・バーンの取材手帳』だった。血の飛沫が微かにこびりついたその手帳には、ドリス家とA・Eの血脈に関する、何百年も前から続く因縁のルーツがびっしりと書き込まれているはずだ。


「如月さん。その手帳……警察に証拠品として提出しなくてよかったんですか?」


「証拠品としての物理的質量は、現場の写真とミハイルの自白で十分に事足りる。これは、わしが個人的に鑑定すべき『事象のルーツ』が記された、貴重な情報の塊じゃ。後でコンツェルンの弁護士を通じて、適当な理由をつけてベルグラヴィア警察に送り返してやれば済む話じゃよ」


 如月さんは悪びれる様子もなく、銀のルーペを取り出して、手帳に記された細かな文字の解析を始めた。その徹底したマイペースさと、法的ルールすらも己の知的好奇心のために平然と利用する傲慢さは、本当にブレることがない。


「……如月さん」


「なんじゃ。わしは今、この手帳に記されたドリス家の暗号化された資金の流れを読み解くのに忙しい。無駄な音波を発するな」


「……すみません。でも、改めてお礼を言わせてください」


 僕は、背筋を伸ばし、彼女に向けて真っ直ぐに言葉を放った。


「ありがとうございました。……如月さんが、あの時僕を『助手』だと断言してくれたおかげで、僕は自分を見失わずに済みました」


 それは、僕の心の中にある過去の傷跡を否定せず、しかし現在(いま)の僕を確かな質量として繋ぎ止めてくれた彼女の絶対的な論理に対する、心からの感謝だった。

 僕の言葉を聞いた如月さんは、手帳に向けていたルーペの動きをピタリと止め、ゆっくりと僕の方へと顔を向けた。

 アメジストの瞳が、僕の言葉の質量を物理的に量るように、冷徹に見据える。


 数秒の沈黙。

 やがて、如月さんは手帳をパタンと閉じ、インバネスコートのポケットから、重厚な『銀の懐中時計』を取り出した。

 彼女は純白の手袋の指先で、懐中時計の冷たい金属の表面をスッと撫で、そして、僕に向かって極めて事務的に、そして無機質に言い放った。


「くだらん情動の投影じゃな、サクタロウ。わしはお主の精神を救済するために言葉を発したわけではない。ただ、わしの助手が極限状態のストレスによって過去のノイズに囚われ、物理的な判断能力スペックを低下させることを防ぐための、最も効率的な『事実の提示』を行ったに過ぎぬ」


「事実の、提示」


「いかにも。過去に起きた事象そのものは、現在(いま)の質量を形作るための確固たる『ルーツ』として、正しく鑑定されるべきものじゃ。だが、そこに過剰な情動というノイズを乗せ、己の足を引っ張る実体のない『亡霊』に仕立て上げるなど、愚の骨頂じゃ」


 如月さんは、懐中時計の蓋をカチンと親指で弾き開けた。


「お主は今、わしの助手じゃ。過去の泥に囚われて現在のスペックを落とすような真似は、このわしが許さぬ。……それを忘れるな」


 ――亡霊。

 その言葉を聞いた瞬間、僕はハッとした。


 そうだ。如月さんだって、決して過去と無縁で生きているわけじゃない。

 彼女は、親友だった皐月優奈さんの死の真相という、とてつもなく大きくて重い『過去の事象』を抱え、未だにその真のルーツを探し続けている。

 ミハイルは過去の怨念に囚われ、自分を見失って殺人鬼という亡霊に成り下がった。僕もまた、旧市街の泥という過去に足を引っ張られ、あやうく自分を見失いかけた。

 だが、目の前のこの小柄な少女は違う。親友の死という最も情動を揺さぶられるはずの巨大な過去を背負いながらも、彼女は決してそれに溺れず、立ち止まらない。優奈さんから受け継いだ『情動の視座』と、山内かえでさんから受け継いだ『物理的観察眼』を武器にして、過去をただの悲劇として終わらせず、真実を解き明かすために、今この瞬間も確かな質量を持って前へ進み続けているのだ。

 彼女自身が、誰よりも強く過去に向き合い、過去を『亡霊』ではなく『ルーツ』として物理的に鑑定し続けている。だからこそ、彼女の言葉には、何物にも代えがたい絶対的な説得力があったのだ。


 チクタク、チクタク、チクタク。


 開かれた懐中時計から、規則的で、正確無比な銀の秒針の音が、静かなバスの車内に響き始める。

 それは、如月さんが万物を鑑定する際に、自らの思考の乱れをチューニングするための、絶対的な物理法則のリズムだ。

 その規則正しいカチッ、カチッという音が、僕の心臓の鼓動とゆっくりと同期していくのを感じた。


「……はい。忘れません、如月さん」


 僕が小さく、しかし確かな意志を持って頷くと、如月さんは「ふん」と短く鼻を鳴らし、再びルーペを構えてシェリーの手帳の鑑定へと戻っていった。

 その一切のデレが存在しない、傲慢で冷徹な主の横顔を見つめながら、僕はシートに深く背中を預けた。


 チャーターバスは、ベルグラヴィアの広大な大地を切り裂くように、国際空港へ向けて真っ直ぐにハイウェイを走り続けていく。

 窓の外には、暴風雨の去った澄み切った青空が広がっていた。

 オカルトの介入しない、純粋な物理法則とルーツの解明の物語。

 僕たちは過去の亡霊と決別し、日本へと帰る飛行機に乗るため、確かな質量を持って、前へと進んでいた。



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