エピローグ:『払暁』 ~section1:嵐の終わりと、没落の朝~
神聖なる厨房は、主を失ったかのようにひっそりと静まり返っていた。
数時間前まで、ディナーの準備のために極上のスパイスの香りと、巨大なオーブンから発せられる暴力的なまでの熱気が充満していたこの場所は、インフラの完全停止と料理長の不在によって、冷たいステンレスが光る無機質な空間へと変貌している。
だが今、その静寂を破るようにして、停電用の備品であるカセットコンロの青い炎が、シュッシュッと小さな音を立てて燃え上がっていた。
「……まさか、キサラギの生徒がドリス家伝来のアンティークを見たがっているなどという見え透いた嘘で、私から真正面から『純銀のおたま』を借り受け、それを数十キロの鉄の重りを受け止めるための物理的な衝撃材として使うとはな。己の矮小な殺意を満たすために、料理人にとっての命とも言える道具を凶器に貶めるなど……これ以上の冒涜はない」
料理長のローレルさんは、カセットコンロの火力を微調整しながら、重苦しく、そして静かな怒りを孕んだ声でポツリとこぼした。彼の手元では、アンティークの分厚い銅製ケトルに入れられたミネラルウォーターが、シュンシュンと小気味良い音を立てて沸騰し始めている。
僕はその傍らで、戸棚から取り出した純白のボーンチャイナのティーカップとソーサーを、清潔な布巾で一枚ずつ丁寧に拭き上げていた。
「ローレルさんも、怖かったですよね。ディナーが終わって片付けをすべて終え、自室に戻ってベッドで休もうとした瞬間に停電になって、分厚い防音扉の向こう側に完全な監禁状態になったんですから」
「恐怖というよりは、圧倒的な怒りと困惑だったよ。この静寂の館の料理長を自室に軟禁し、厨房を土足で荒らすなど、不敬にもほどがある。……だが、あのキサラギというお嬢さんは、本当に恐ろしいほどの頭脳を持っているな。暗闇の中で起きた不可解な現象を、すべて『質量』と『物理法則』というたった一つの定規だけで測り切り、あの狂気に満ちた巨漢の殺人鬼を、見事なまでに論理で解体してしまった」
ローレルさんは、棚の奥から厳重に密閉された紅茶の茶葉――ベルグラヴィア王室御用達の最高級アールグレイの茶葉が入った純銀のキャニスターを取り出し、僕へと手渡した。
「朔くん。君は、あのお嬢さんの専属の助手なのだろう? 君のタイミングで、君の手で淹れてやりなさい。……この狂気に満ちた長くて血生臭い夜を終わらせてくれた、最高の恩人への一杯だ」
「……はい。ありがとうございます」
僕はキャニスターを受け取り、あらかじめお湯を通しておいた温かいティーポットに、スプーンで正確に量った茶葉を滑らせた。
完全に沸騰した熱湯を少し高い位置から注ぎ込むと、ポットの中で茶葉がジャンピングを起こし、ベルガモットの爽やかで気品のある香りが、厨房の冷たい空気を一瞬にして塗り替えていく。それは、昨夜からずっと僕の鼻腔にこびりついていた、血と泥と土壌細菌の悍ましい匂いを、物理的に中和し、浄化してくれるような極上の香りだった。
砂時計の砂が落ち切るのを待つ数分間、僕は静かに自分の内側に目を向けた。
ミハイルに言葉の刃で抉り出され、パンドラの箱から溢れ出しかけていた『旧市街の泥の記憶』。理不尽な暴力にすべてを奪われ、不器用ながらも必死に育ててくれている父親にすら心配をかけまいと這いつくばって生きてきたあの底辺の絶望感は、不思議なほど綺麗に消え去っていた。
僕を笑顔にしてくれた『魚魚ラブ』という地下アイドルの存在や、父親の大きな背中。そして何より、如月さんが僕に向けた『わしには一切の興味がない』という絶対零度の突き放し。
『お主は今、他者を傷つける数式は組んでおらぬ。わしの助手じゃ』という、現在の物理的事実だけの肯定。あの無機質で冷徹な宣告こそが、僕にとってどれほど強い救いとなったか。彼女は僕を『可哀想な過去の被害者』として同情するのではなく、一人の対等な『助手』として、その存在の質量を正確に計ってくれたのだ。
もう、泥沼に引きずり込まれるような過呼吸や幻覚を見ることはない。僕の居場所は、明確にここにある。
「……極上のタイミングです。行きましょう、ローレルさん」
僕はポットから最後の一滴までをカップに注ぎ切り、銀のトレイに乗せて厨房を後にした。
重厚なオーク材の扉を押し開けて談話室へと戻ると、そこには数十分前とは全く違う景色が広がっていた。
数時間にわたって狂ったように窓を打ち据えていた暴風雨は、いつの間にか完全に息を潜めていた。厚く垂れ込めていた漆黒の雨雲が東の空からゆっくりと裂け、その隙間から、一条の鋭く暴力的なまでの朝の光が差し込んでいたのだ。
ステンドグラスを通して談話室に落ちた色とりどりの光の帯は、ペルシャ絨毯の上でインシュロックによって後ろ手に縛り上げられた巨漢の殺人鬼――ミハイル・ルストヴァニアと、完全に精神を崩壊させて「神の雷が……」とうわ言を繰り返す庭師・グリエルの姿を、一切の容赦なく白日の下へと暴き出している。
「如月さん、お待たせしました。アールグレイです」
僕は、一人で窓際のアンティークチェアに深く腰掛けていた如月さんの元へと歩み寄り、静かにティーカップを差し出した。
彼女の細い首には、ミハイルの丸太のような腕で締め上げられた生々しい赤紫色の鬱血の痕が、痛々しいほどにくっきりと残っている。しかし、彼女のアメジストの瞳には疲労の色すらなく、ただいつも通りの冷徹な光を宿していた。
「……ふむ。抽出のタイミング、温度、そしてベルガモットの香りの立ち上がり。極めて論理的で、完璧な物理状態じゃ」
如月さんは純白の手袋に包まれた指先でカップの取っ手をつまみ、目を細めて一口だけ喉を鳴らした。
「この館に充満していた血生臭い情動のノイズが、ようやく洗い流された気分じゃ」
その時。
ズズズン……、パタパタパタパタ……。
遠くの空から響いていた小さな機械音が、やがて腹の底を直接揺らすような圧倒的な重低音へと変わり、ステンドグラスの嵌まった分厚い窓ガラスをビリビリと震わせ始めた。
「来たぞ……! 救助のヘリだ!」
明宮先生が窓に駆け寄り、空を見上げて叫んだ。
土砂崩れによって完全に寸断された陸の孤島。如月さんが純銀の匙で主幹制御盤を焼き切り、ミハイルのシステムを破壊したことで通信ジャミングが強制的に解除され、外部とのインフラが復旧したのだ。ベルグラヴィア州警察と山岳レスキュー隊の大型ヘリコプターが数機、凄まじい轟音を立ててこの『静寂の館』の広大な庭園へと舞い降りてきた。
バリバリバリというローターの轟音が館全体を包み込み、やがて武装した特殊部隊の警官たちと、オレンジ色の制服を着た救急隊員たちが、重厚なオーク材の扉を乱暴に押し開けて談話室へと雪崩れ込んできた。
「ベルグラヴィア州警察だ! 動くな! 状況は!」
完全武装の警官が、アサルトライフルを構えながら鋭い英語で叫ぶ。だが、彼らが真っ先に目にしたのは、武器を持った凶悪なテロリストでも見えない亡霊でもなく、疲労困憊でソファーにへたり込む大人たちと、震えながら身を寄せ合う日本の高校生たち、そして――ペルシャ絨毯の上で、手首をガチガチに縛り上げられて転がっている大柄な男の姿だった。
「……犯人は、すでに我々が物理的に制圧し、拘束しています」
学年主任の清瀬瑞希先生が、乱れた髪をかき上げながら、流暢な英語で毅然と対応に出た。彼女の足元で、顎の骨を砕かれて気を失いかけているミハイルを一瞥し、警官たちは信じられないといった顔で顔を見合わせた。
「この大男を……民間人の、しかも日本からの旅行客と引率の教師だけで制圧したというのか?」
「ええ。ですが、彼は極めて危険な『A・Eの血脈』を名乗る復讐鬼であり、館のインフラを掌握する高度なハッキング技術を持っています。彼の懐から明宮が回収したマスター端末と、被害者から奪った物理的証拠品――シェリー・バーンの手帳と時計の針は、こちらに確保してあります。……それと、東棟の旧客室と、地下のワインセラーに、それぞれ無惨な遺体が一つずつ。至急、現場の保全と鑑識をお願いします」
清瀬先生と明宮先生が連携し、的確かつ事務的に事態を警察へと引き継いでいく。
すぐさま、複数の大柄な警官がミハイルとグリエルを取り囲み、インシュロックを乱暴に切り裂いて、代わりに分厚い鋼鉄の手錠を背後にガチャリとはめ込んだ。
「Let me go! You ignorant fools! This land belongs to my bloodline!(離せ! この無知な愚か者ども! この土地は俺の血脈のものだ!)」
冷たい金属の感触に意識を覚醒させたミハイルは、手錠をかけられながらも、血走った碧眼を剥き出しにして狂ったように英語で喚き散らした。しかし、重装備の警官数人に圧倒的な物理的質量で押さえ込まれ、絨毯の上を引きずられるようにして談話室から連行されていく。
彼が扉を出る直前に最後に振り返り、ティーカップを持った如月さんに向けて放った怨念に満ちた視線。それは、何百年もの間、泥に塗れて生きてきた一族の、救いようのない絶望のルーツそのものだった。
だが、如月さんはその視線を「くだらん」と一瞥しただけで、一切の情動を動かすことはなかった。
殺人鬼たちが完全に連行された後、今度は救急隊員たちがなだれ込んできて、生存者全員の重症度分類とバイタルチェックを慌ただしく開始した。
「みんなは無事か!? 怪我はないか!」
明宮先生が、血相を変えて僕たちの元へと駆け寄ってくる。
「は、はい……。インシュロックで縛られた手首に鬱血の痕跡はありますが、骨や神経に物理的な損傷は確認できません」
五味鉄平が、ズレた眼鏡を押し上げながら、自分の手首をさすって答えた。彼が小脇に大事そうに抱えている愛用のタブレット端末自体は物理的に無傷だが、如月さんによって通信先のメインサーバーが炭素の塊にされたため、同期していたデータは完全に失われているはずだ。それでも彼は、自らの命を救った『純銀の匙による物理法則のショート』という事実を科学的に受け入れ、奇妙なほど冷静さを保っていた。
「終わった……本当に、終わったのね……」
佐伯陽菜が、救急隊員から保温用のアルミブランケットを肩に掛けられ、ついに張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙をこぼして泣き崩れた。
「バカ、泣くなよ。生きて帰れるんだから……っ」
いつもは強気で男勝りな鳴海亜衣も、声の震えを隠しきれず、佐伯の背中をさすりながら一緒に涙を拭っている。
壁際に座り込んでいた桐生院誠は、毛布に包まりながら、静かに深く息を吐き出していた。如月家とも取引のある大財閥の令息であり、常に誰に対しても爽やかな微笑と嫌味のない完璧な立ち振る舞いを崩さなかった彼でさえ、極限状態での死の恐怖とミハイルの圧倒的な暴力の前では、無力な一人の人間に過ぎなかった。その整った顔立ちには、極度の緊張から解放された静かな疲労の色が浮かんでいた。
一方、大人たちの側は、より凄惨な現実と向き合わされていた。
旅行客のメアリーは、友人であるシェリーの遺体が警察によって正式に確認されたという報告を受け、過呼吸を起こして救急隊員に酸素マスクを当てられながら、ストレッチャーに乗せられて運び出されていった。
「――皆さん、聞いてください」
トリアージが一通り終わった後、警部の階級章をつけた男が談話室の中央に立ち、通訳を交えて僕たちに告げた。
「土砂崩れによる道路の復旧には数日かかります。よって、生存者の皆様は全員、外のヘリコプターで新市街の州立病院へと搬送いたします。……現場検証のため、この館は直ちに封鎖されますので、各自、自室に戻ってパスポートや身の回りの荷物をすべて回収してきてください。時間は十五分です」
荷物の回収。
その言葉を聞いて、僕たちは重い腰を上げた。昨日の夕方にベルグラヴィア空港からこの館に到着し、温泉に入ってディナーを楽しんでいた時、まさかまともに一泊もできずにこんな凄惨な形で荷物をまとめることになるとは、誰一人として想像していなかっただろう。
「如月さん、行きましょう」
僕が声をかけると、如月さんはカップに残っていた最後の一口を飲み干し、静かに立ち上がった。
僕たちは警察官の誘導に従い、薄暗い廊下を歩いて階段を上った。
インフラが破壊されているため、廊下の照明は依然として非常灯しか点いていない。だが、窓から差し込む朝の光が、昨夜の暗闇に潜んでいた『見えない亡霊』の影を完全に追い払ってくれていた。
僕はあてがわれていた自分の客室――完全な個室へと戻った。
部屋の中は、昨夜荷物を解いた時のままだ。僕はベッドの上に広げていた着替えや洗面用具を、持参していた安物のキャリーケースへと無造作に放り込んだ。庶民の僕には分不相応なほど豪奢なベッドや調度品に別れを告げ、パスポートと財布がリュックの奥底にあることを物理的に確認し、ジッパーを乱暴に閉める。
窓から外を見下ろすと、泥だらけになった庭園に、数機のヘリコプターが並んでいるのが見えた。そのプロペラが回る音を聞いているだけで、僕の胃の奥底が重く沈み込むような不快感を覚えた。
僕は基本的に、飛行機などの『空を飛ぶ乗り物』が致命的に苦手だ。地に足が着いていない浮遊感と、何十トンもある巨大な鉄の塊が空力だけで空を飛ぶという物理法則に対する、本能的な不信感がどうしても拭えないからだ。
だが、ヘリコプターに関しては、『巨大なプロペラが空気を直接叩きつけて物理的な揚力を生み出しているのが視覚的に理解できるから、見えない力で飛ぶ飛行機よりはまだマシだ』と、自分に言い聞かせてギリギリ妥協している。とはいえ、いざ乗り込むとなると、やはり膝が微かに震えるのは抑えきれなかった。
部屋を出て廊下を歩くと、隣の部屋から、大きなボストンバッグを肩にひっかけた鳴海が出てくるところだった。「お、朔。準備できたか?」と声をかけられ、僕は小さく頷いた。
さらに少し先の開け放たれたドアの向こうで、如月さんが荷造りをしているのが見えた。
彼女の部屋は、凄惨な一夜を過ごした後だというのに、チリ一つ落ちていないように整頓されていた。彼女はベッドの上に広げた、最高級の雄牛の革――ブルハイドを手縫いで仕上げた重厚な特注の革トランクの中に、自らの商売道具を収めているところだった。
アンティークの万年筆、銀の懐中時計、鈍い光を放つ銀のルーペ、そして純白の手袋の予備。それらをまるで精密機械のパーツを組み立てるかのような正確な手つきで、決められた仕切りの場所へと物理的に収めていく。
「如月さん、荷物の回収は終わりましたか?」
「見れば分かるじゃろう。わしの質量は常に一定じゃ」
如月さんはパチン、と小気味良い音を立ててトランクケースの金具を閉じ、インバネスコートの裾を翻して僕の方へと振り向いた。その歩みには一切の迷いも、この館に対する未練も存在していない。
僕たちが荷物を持って再び一階の談話室へと降りてくると、そこには、この広大な『静寂の館』の現当主であるグランバール卿が、完全に魂の抜け殻となってソファーに深く沈み込んでいた。
「……卿。そろそろヘリへの搭乗が始まります」
執事のサモンが、悲痛な面持ちで荷物を抱えながら声をかける。エイミー夫人も、キャリーケースの横で愛猫のサクラをきつく抱きしめたまま、夫の肩を不安げにさすっていた。
「……終わったのだ。すべてが」
グランバール卿は、焦点の合わない虚ろな目で、泥と血に汚れた豪奢なペルシャ絨毯を見つめて呟いた。
「ドリス家が何百年もかけて築き上げた、この威厳ある館。完璧な静寂と歴史を誇る、我々のルーツ……。それが、よりにもよって『A・Eの血脈』という過去の亡霊によって、見えない悪霊が徘徊する凄惨な連続殺人事件の舞台にされてしまった。……警察が入り、マスコミがこの事件を嗅ぎつければ、この館はまたたく間に『呪われた事故物件』として世界中に報道されるだろう。資産価値などゼロになり、誰もこんな血塗られた館に寄り付かなくなる。……ドリス家の没落だ。我々は、完全に終わったのだ」
彼の言葉には、圧倒的な絶望の質量が込められていた。
ミハイルの真の目的――それは単なる殺人による復讐ではなく、グランバールからこの土地と館の『価値』を物理的かつ社会的に完全に破壊し、手放させることだった。たとえミハイル本人が捕まり、刑務所に入ったとしても、この館に深く刻み込まれた『連続殺人の舞台』という泥に塗れた記憶は、永遠に消え去ることはない。ミハイルの狂った復讐の数式は、ある意味で、最後の最後にその目的を完遂してしまっていたのだ。
「己の権威という虚飾にすがり、本質的な質量を見誤った者の末路じゃな」
ふと、重厚な革トランクを持った如月さんが、冷徹な声で呟いた。
「先祖が奪った土地に胡坐をかき、自らの足元で何百年も燻り続けていた泥のルーツから目を背け続けた結果がこれじゃ。没落はオカルトの呪いなどではない。ただの物理的な因果律の収束に過ぎぬ」
如月さんのアメジストの瞳には、すべてを失った老貴族に対する哀れみや同情の欠片もない。彼女はただ、事象の根源にあるルーツを正確に鑑定し、その揺るぎない事実を数式として処理しているだけだ。
「さあ、サクタロウ。我々も行くぞ。いつまでもこのような血生臭い密室に留まっていては、衣服に不快なゲオスミンの匂いが染み付いてしまうからな」
如月さんは、重厚なオーク材の扉の方へと歩き出した。
「あ……はい、如月さん」
僕はキャリーケースのハンドルを握り、慌てて彼女の斜め後ろ、三歩下がった定位置へと小走りで付き従った。
警察の誘導で館の外へと出ると、暴風雨が過ぎ去った後の、冷たく澄み切った朝の空気が肺を物理的に満たした。
広大な庭園は、無数の倒木と泥水でひどく荒れ果てていた。視線の先には、昨日僕たちがベルグラヴィア空港で出迎えられ、ここまで乗ってきたあの年季の入った古びた普通の送迎バスが、土砂崩れに巻き込まれて半分泥に埋まり、完全にひしゃげた鉄屑と化しているのが見えた。ミハイルの罠にはまり、あんなものに乗って下山しようとしていれば、間違いなく全員が数十トンの土砂の質量の下敷きになって死んでいただろう。
庭の中央に確保された臨時ヘリポートには、巨大なシコルスキー製の救助ヘリコプターが、バリバリと耳をつんざくようなローター音を立てて待機していた。
僕たちは救急隊員の誘導に従い、強烈な吹き下ろしの風に身を屈めながら、順番にヘリのキャビンへと乗り込んでいく。身長一四七センチの如月さんは、その強烈な風圧に少しだけ顔をしかめながらも、僕が差し出した手を無視して自らの足でしっかりとタラップを登り、ブルハイドの特注トランクを抱えたまま座席へと腰を下ろした。
全員がシートベルトで固定され、分厚い防音ヘッドセットを装着した直後。
ヘリコプターは、重力という絶対的な物理法則に逆らうようにして、フワリと宙に浮き上がり、ベルグラヴィアの冷たい空へと急上昇を始めた。
僕の胃が、浮遊感によってヒュッと縮み上がる。僕は恐怖を誤魔化すようにシートベルトを強く握りしめた。
ヘッドセット越しに、パイロットの業務的な交信音声がノイズ混じりに聞こえてくる。
窓の外を見下ろすと、周囲の道路は完全に土砂で寸断され、深い森の中に取り残された『静寂の館』が、まるでミニチュアの模型のように小さくなっていくのが見えた。
ほんの数時間前まで、あの閉鎖された空間の中で、僕たちは見えない亡霊の恐怖に怯え、殺人鬼の狂気に晒され、そして――僕自身は、パンドラの箱をこじ開けられて、己の泥に塗れた過去のルーツに完全に飲み込まれそうになっていた。
もし、あの絶望的な疎外感の中で、如月さんが僕を『助手』として肯定してくれなかったら。
僕は今頃、ミハイルの手を取り、己の情動に負けたただの殺人鬼の共犯者として、あの泥に塗れた絨毯の上で手錠をかけられていたかもしれない。
そう考えると、背筋に氷を当てられたような悪寒が走り、僕は無意識のうちに自分の両手を強く握りしめた。
だが、隣の席を見ると、インバネスコートを着た如月さんは、眼下で小さくなっていく呪われた館になど一切の興味を示すことなく、ただヘッドセットの隙間から銀の懐中時計を取り出し、カチッカチッと静かに秒針の音を確かめていた。
彼女の横顔は、僕が如月学園の入学式の日に初めて出会った時と、何一つ変わらない。どれほど凄惨な事件を解決しようとも、彼女の精神の『質量』は常に一定であり、揺るがないのだ。
やがてヘリコプターは山脈を越え、ベルグラヴィアの新市街地――近代的なビル群が立ち並ぶエリアへと入っていった。
目指すのは、高度な医療設備を備えた州立の大病院だ。僕たちはそこで、身体的な負傷の治療と、極限状態を生き延びたことに対する精神的なケアという、極めて現実的で物理的な医学的処置を受けることになる。
オカルトや亡霊の呪いなど、どこにも存在しない。
あるのはただ、人間の醜い情動が引き起こした物理的な結果と、それを生き延びた肉体が受けるべき科学的な治療だけ。
純然たる物理法則に支配された現実世界への帰還が、ヘリコプターの規則的なローターの振動とともに、僕の身体に深く、そして静かに刻み込まれていった。




