表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/19

第6話『根源』 ~section5:物理的救済と、崩れ落ちる巨漢~

 自らの言葉による洗脳(コントロール)から完全に脱却し、一切の怯えを捨てて真っ直ぐに自分を睨み据える僕の姿に、彼は明確な敗北感と屈辱を味わったのだろう。彼の右腕の巨大な上腕二頭筋と前腕の筋肉が、分厚い化繊のスーツを内側から破らんばかりに異常なまでに膨張し、如月さんの細い首をへし折るための、致死的な運動エネルギーを生み出そうとした。


 僕のすぐ横で、明宮先生が「やめろ!」と喉が裂けるような悲痛な声を上げながら、両手で握りしめた真鍮の火かき棒を振り上げ、一歩踏み出す。だが、間に合わない。ミハイルの圧倒的な腕力と、如月さんの華奢な頸椎の強度の間にある絶望的な質量の差を考えれば、コンマ数秒後には、取り返しのつかない物理的破壊が完了してしまう。


 だが、その絶対的な死の窮地にあっても、如月瑠璃の思考は極限まで冷え切っていた。

 彼女は気道を圧迫され、脳への血流を制限されるという激しい苦痛の中にありながらも、インバネスコートの右ポケットの中に密かに忍ばせていた自らの手に、静かに、そして一切の狂いのない確かな力を込めた。


 彼女が握りしめていたのは、いつもの銀の懐中時計ではない。

 常に持ち歩いている、真鍮の削り出しで作られた極めて重厚なボディを持つ『アンティークの万年筆』だ。


 彼女は事前に、僕がミハイルの情動的な言葉に飲み込まれないように論理を叩き込みつつ、自らのポケットの暗がりの中で万年筆のキャップを外し、鋭利なイリジウムのペン先を剥き出しにしていた。そして、ミハイルの腕の角度、筋肉の収縮具合、さらには彼の意識が僕の『変化』に向いたその一瞬の隙を、一切の妥協なく計算し尽くしていたのだ。


「……圧力とは、力が加わる面積に反比例する。ただの、物理法則じゃ」


 掠れた、しかし絶対的な確信に満ちた呟きと共に。

 如月さんの右手が、ポケットの中から電光石火の速さで飛び出した。純白の手袋に包まれた彼女の小さな手には、鈍い光を放つ重厚な万年筆が、まるで鋭い短剣の逆手持ちのようにして硬く握りしめられている。


 ミハイルが如月さんの首を折ろうと筋肉を極限まで収縮させた、まさにその瞬間。

 彼女は自らの全体重と、腰の回転から生み出されるすべての運動エネルギーを、万年筆の先端である『イリジウムのペン先』へと完全に集中させ、自分を背後から締め上げているミハイルの右腕――その前腕部にある橈骨神経溝(とうこつしんけいこう)という急所に向けて、一切の躊躇なく、全力で叩き込んだ。


「ギャアアアアッ!?」


 鼓膜を(つんざ)くような、言葉にならない純粋な苦痛の悲鳴が談話室に響き渡った。

 真鍮の重みと鋭利なペン先による、極小面積への一点集中攻撃。それは単なる表面的な痛みではない。神経の束を直接物理的に破壊しにかかるような強烈な圧力が、ミハイルの太い腕の神経伝達を完全にバグらせたのだ。

 いかに巨大な筋肉の鎧を纏っていようと、人体の構造に基づく神経の反射には逆らえない。ミハイルの右腕は高圧電流を流されたように激しく痙攣し、如月さんの首を締め上げていた強固な拘束が、反射的にダラリと解かれた。


「げほっ、こほっ……ッ」


 拘束から抜け出した如月さんは、床に崩れ落ちそうになりながらも、なんとか体勢を立て直して大きく咳き込んだ。酸素が一気に肺へと流れ込み、チアノーゼを起こして青ざめていた彼女の唇に急速に赤みが戻っていく。


「如月さん!」


 僕が駆け寄ろうとしたその時、強烈な神経の痛みに顔を歪めながらも即座に体勢を立て直したミハイルが、無傷な左手で如月さんの細い腕を再び乱暴に掴もうと手を伸ばした。


「このネズミめ……! ぶっ殺してやる!」


 激痛によって英語の呪詛すら忘れ、生々しい日本語の怒声と共に、理性を完全に失った大男の掌が如月さんに迫る。

 しかし、その暴走を、大人の確固たる『質量』が物理的に阻んだ。


「――生徒に触れるな! この外道が!」


 鋭い怒声と共に、横から凄まじい勢いで飛び込んできた明宮先生が、両手で固く握りしめた重い真鍮製の火かき棒を、ミハイルの膝の関節に向けてフルスイングで叩き込んだ。

 ゴキッ、という鈍く嫌な音が響く。

 教育者としての矜持と、生徒たちを恐怖のどん底に陥れた殺人鬼への純粋な怒りが乗った重い一撃。一本足でバランスを崩していたミハイルの巨体は、その物理的衝撃を支えきれずに「ガァッ!?」と野獣のような呻き声を上げ、無様に体勢を大きく崩した。


 だが、A・Eの血脈の怨念に何百年も憑りつかれた男の執念は凄まじかった。彼は膝を砕かれながらも倒れまいと血塗れで踏みとどまり、太い丸太のような腕を振り回して明宮先生を薙ぎ払おうとした。


 その、ミハイルの意識が完全に明宮先生へと向いた一瞬の死角。

 床を滑るような、一切の無駄がない極めて静かな足運びで、一人の女性がミハイルの懐へと深く入り込んだ。

 学年主任の、清瀬瑞希先生だった。


「清瀬先生!?」


 僕が驚きの声を上げるのと同時だった。

 普段は穏やかで生徒想いの彼女の顔から、一切の感情が消え去っていた。彼女は腰を深く落とし、大地に根を張ったような完璧な前屈立ちの姿勢をとる。それは、長年の鍛錬によって身体の隅々にまで染み込んだ、空手道有段者としての極めて合理的な『武のルーツ』の体現だった。


「……翡翠から『瑠璃をよろしく』って、直々に頼まれているからね。うちの大事な生徒たちに、これ以上指一本触れさせないわ」


 氷のように冷たい宣告と共に。

 清瀬先生は、膝を砕かれて前傾姿勢になり、頭部が下がったミハイルの無防備な下顎骨に向け、全身のバネと腰の回転から生み出された『掌底(しょうてい)』を、完璧なタイミングと角度で突き上げた。


「ごっ……ぁ……!」


 ドゴォッ、という骨と肉がぶつかり合う凄まじい破裂音。

 脳を直接揺らされたミハイルの巨体は、白目を剥き、糸の切れた巨大な操り人形のように重力に従って崩れ落ち、ペルシャ絨毯の上にドスーンと途方もない地響きを立てて沈没した。明宮先生の崩しと、清瀬主任の完璧な一撃。大人たちの見事な連携による、完全な物理的制圧だった。


「今だ! 完全に押さえろ!」


 明宮先生の叫びに呼応し、壁際で息を潜めていた大柄な料理長のローレルさんが突進してきた。「私の神聖な厨房と銀食器を、人殺しの道具に汚した罪は重いぞ……!」という重苦しい怒りの声と共に、彼の太い腕が気絶しかけているミハイルの首根っこを背後から強烈に押さえつける。

 さらに、今まで恐怖で震えていた執事のサモンまでもが「卿に、これ以上の無礼は許さん!」と飛びかかり、ミハイルの太い両腕を必死に床へと押さえ込んだ。


「五味! インシュロックだ! さっきの庭師を縛ったのと同じように、こいつの腕を後ろ手に固定しろ!」


「は、はいっ! 物理的拘束、ただちに実行します!」


 明宮先生の的確な指示を受け、五味鉄平がポケットから予備の太い結束バンドを取り出し、ローレルさんとサモンが押さえつけているミハイルの手首を、親の仇をとるような手つきでガチガチに縛り上げていく。


 すぐ隣では、狂信的な庭師のグリエルが、主であるミハイルがねじ伏せられた姿を見て「おお……神の雷が……主が……」と完全に精神を崩壊させ、床に這いつくばってブツブツと祈りの言葉を唱え始めている。

 連続殺人鬼とその狂信的な手足が、完全に物理的に無力化された瞬間だった。


「……はぁっ、はぁっ……」


 僕は、その光景を前に、大きく肩で息をした。

 終わったのだ。暗闇の恐怖も、亡霊の呪いも、そして僕の心を泥沼に引きずり込もうとした悪魔の誘惑も、すべてが。


「……まったく。わしの万年筆のペン先が、このような醜悪な肉塊の油で汚れてしまったではないか」


 静かな、だが絶対的な支配力を持った声が、荒い息遣いと怒号が交錯する談話室の空気を一変させた。

 振り返ると、そこには乱れた息を完全に整え、純白の手袋の指先でインバネスコートの襟元の皺を丁寧に直している如月瑠璃の姿があった。

 彼女の細い首には、先ほどミハイルに力任せに締め上げられた生々しい赤紫色の鬱血の痕が、帯状に残っている。並の人間であれば、恐怖で泣き崩れるか、足の震えが止まらなくなっていてもおかしくない状態だ。

 だが、彼女のアメジストの瞳には、一切の恐怖も、自分を殺そうとした相手への怒りすらも存在していなかった。彼女はただ、床に組み伏せられ、インシュロックで後ろ手に縛り上げられているミハイルを見下ろし、極めて事務的な、鑑定の最終結果を述べるだけの冷徹な顔をしていた。


「ミハイル・ルストヴァニア。お主の構築した復讐の数式は、初めから致命的なバグを抱えておったのじゃ」


 如月さんは、血塗られた万年筆のペン先を純白の手袋で躊躇なく拭い去りながら、静かに歩み寄る。


「You know nothing! This land belongs to my bloodline! Grandbar's ancestors stole our time, our pride!(お前は何も分かっていない! この土地は俺の血脈のものだ! グランバールの先祖が、我々の時間と誇りを盗んだのだ!)」

 意識を取り戻しかけたミハイルが、床に顔を押し付けられたまま、なおも英語で怨念のルーツを激しく吐き出す。しかし如月さんは、その血を吐くような情動の叫びを、氷のように冷たく、極めて流暢で完璧な英語で真っ向から一蹴した。


「You claim this stolen land is your birthright, but a bloodline obsessed only with the ghosts of the past has no future. You mask your petty, murderous intent with grand tales of a lost legacy, yet you rely entirely on modern digital infrastructure to execute your cowardly traps. You are no noble avenger. You are nothing more than a slave to your own ugly emotions, hopelessly bound by an equation that was broken from the very start. Time will never stop just because you stole the hands of a clock.(この奪われた土地が己の正当な権利だと主張しておるが、過去の亡霊にのみ執着する血脈に、未来などない。失われた遺産という大言壮語で己の矮小な殺意を隠蔽しながら、その実、卑劣な罠を実行するために現代のデジタルインフラに完全に依存しておるではないか。お主は気高い復讐者などではない。己の醜い情動の奴隷に過ぎず、初めから完全に破綻した数式に絶望的に縛り付けられているだけじゃ。時計の針を盗み出したところで、物理的な時間は決して止まったりはせぬのじゃよ)」


 凛とした、しかし絶対的な冷たさと論理の質量を持つ如月さんの流暢な英語が談話室に響き渡った瞬間、ミハイルは自らのアイデンティティを完全に粉砕され、雷に打たれたように息を呑んだ。


「お主は『先祖の復讐』という美しい大義名分を掲げながら、他者の命を奪うことの優越感に酔いしれていたに過ぎぬ。情動に振り回され、サクタロウに同族嫌悪を投影して自己弁護を図った時点で、お主の論理は完全に崩壊しておったのじゃ」


「………黙れ……黙れぇッ!!」


「オカルトの亡霊を演じたお主自身が、過去という名の亡霊に憑りつかれた、最も哀れで滑稽な道化であったというだけの話じゃ。……さあ、鑑定は終わりじゃ。隠し持っている『質量』を、ここに提示してもらおうか」


 如月さんは、床に這いつくばるミハイルの胸元――泥に汚れた化繊のジャケットの内ポケットを、銀のルーペの柄でツンツンと小突いた。


「ローレルを自室に閉じ込めるために使った『純銀のおたま』は、ジェームス殺害の凶器として現場に放置した。だが、お主にはまだ回収しきれていない質量があるはずじゃ。……明宮よ。この男の懐を探るのじゃ。シェリーを殺害した際に奪い去った『取材手帳』と、旧客室の密室から持ち去った『柱時計の針と心臓部』が、そこにあるはずじゃよ」


 ミハイルは歯軋りをして身をよじり抵抗しようとしたが、明宮先生が「動くな!」と背中を強く膝で押さえつけ、躊躇なく彼の手の届かない内ポケットへと手を突っ込んだ。

 そして、そこから物理的に引きずり出されたのは……まさに如月さんの言う通りの証拠品だった。

 血の飛沫が微かにこびりついた、シェリー・バーンの小さな黒い革の手帳。そして、アンティークの柱時計から乱暴に引き抜かれた、精巧な真鍮製の歯車の心臓部と、二本の歪んだ針。


 すべての謎と、見えない亡霊の正体が、純然たる『物理的質量』を伴う証拠として、白日の下に晒されたのだ。


「嘘でしょう……。本当に、ガイドの彼が、シェリーを……」


 旅行客のメアリーが、その血塗られた手帳を見て両手で口を覆い、その場に崩れ落ちて声を上げて泣き崩れた。エイミー夫人が無言で彼女の背中をさする。


 すべての真実が確定し、完全な安全が担保されたその瞬間。

 極限の恐怖から解放された如月学園の生徒たちと大人たちが、せきを切ったように如月さんの元へと駆け寄ってきた。


「如月さんっ……! 本当に、本当に無事でよかった……っ!」


 佐伯陽菜が、大粒の涙をこぼしながら如月さんの手をとろうとして、寸前で思いとどまり、その場でへたり込んだ。


「本当に無茶苦茶しやがって……! あのまま首を折られてたら、どうするつもりだったんだよ! ……でも、あんたがいなかったら、私たち全員、確実に殺されてた……。ありがとう、如月さん。本当に、ありがとう……っ!」


 いつも強気な鳴海亜衣も、声の震えを隠しきれずに深く頭を下げた。

 壁際から歩み寄ってきた桐生院誠は、毛布を肩に掛けたまま、かつての傲慢さを完全に捨て去った真摯な顔つきで如月さんを見つめた。


「如月さん。君の圧倒的な知性と精神力には、心から敬意を表するよ。君がいなければ、僕たちはただ恐怖に怯え、この殺人鬼の掌の上で死を待つだけだった。……命を救ってくれて、本当に感謝する」


 明宮先生も、清瀬主任も、五味鉄平でさえもが、如月瑠璃という一人の少女がもたらした『物理的な救済』に対し、心からの安堵と感謝の眼差しを向けていた。

 彼女がオカルトを否定し、論理の刃で殺人鬼を解体してくれなければ、僕たちは間違いなく全滅していたのだから。


 だが、当の如月さんは、周囲からの嵐のような感謝と称賛の言葉を浴びても、その瞳に一切の感慨を浮かべることはなかった。

 彼女は純白の手袋で自らの前髪をスッと払い、極めてドライに、そして冷淡に言い放った。


「勘違いするな。わしはお主らのような凡人を救うために、正義の味方を気取ったわけではない。ただ己の知的好奇心を満たし、目前に転がっていた不可解な事象の『ルーツ』を物理的に鑑定し、計算式を解いただけのことじゃ。……お主らが命拾いをしたのは、その鑑定作業における、ただの副産物に過ぎぬ」


 それは、どこまでも傲慢で、他者の感情に一切寄り添わない、如月瑠璃の不変のスタンスだった。

 だが、今の僕たちには、その冷たすぎる宣告が、不思議なほど心地よく響いた。彼女は絶対にブレない。その揺るぎない質量こそが、泥に塗れた僕のルーツを肯定し、救い出してくれた絶対的な光なのだから。


「如月さん……首、本当に大丈夫ですか。ひどい痕になってます」


 僕が斜め後ろの定位置から心配して声をかけると、如月さんは僕を一瞥し、そして短く「愚鈍」と吐き捨てた。


「この程度の物理的圧迫、数式を組み立てる間のわずかなノイズに過ぎぬ。お主こそ、己の質量をしっかりと保っておけ。助手が過去の泥に足を取られていては、鑑定の邪魔になるからな」


「……はい。すみません、如月さん」


 僕は、心の底からの安堵を込めて、深く頭を下げた。


 ズズズン……。

 その時、雷鳴とは違う、地鳴りのような重い音が、分厚い窓ガラスの向こう側から響いてきた。

 皆が一斉に顔を上げ、防音ガラスの窓の外へと視線を向ける。


 数時間にわたって狂ったように窓を打ち据えていた暴風雨が、いつの間にか完全に止んでいた。

 厚く垂れ込めていた漆黒の雨雲が東の空からゆっくりと裂け、その隙間から、一条の鋭い光が差し込んでくる。ステンドグラスを通して談話室に落ちた色とりどりの光の帯は、ペルシャ絨毯の上で縛り上げられ、絶望に顔を歪めているミハイルとグリエルの姿を容赦なく照らし出していた。

 見えない亡霊が支配していた暗黒の密室は、物理的な太陽の光によって、完全にその機能を停止したのだ。


「……長かった、夜が明けるのね……」


 佐伯陽菜が、窓の外の光を見て小さく息を吐き出した。

 生き残った大人たちも、脱力したように座り込み、その温かい光をただ静かに見つめていた。


「サクタロウ」


 夜明けの光が差し込む中、如月さんが僕を呼んだ。

 彼女は、血塗られた事件の終結や、朝日の到来といった情動的なカタルシスには一切の興味を示さず、ただ極めて日常的な、いつも通りのトーンで命令を下した。


「この鬱陶しい大人たちが騒ぎ立てる前に、温かい紅茶を一杯淹れるのじゃ。お主の極上のタイミングで淹れたアールグレイで、この館の血生臭いルーツの鑑定を、物理的に洗い流すとしよう」


 僕が「はい」と頷くよりも早く、横から重苦しい声が割って入った。


「……お嬢さんの言う通りだ。こんな血生臭い空気は、温かい紅茶で洗い流すべきだな」


 料理長のローレルさんだった。彼はミハイルを押さえつけていた太い腕の汗を拭い、僕に向かって力強く頷いた。


「朔くんと言ったか。私の神聖な厨房を使いたまえ。極上の茶葉と、停電でも使える予備の火元を出そう。……手伝うよ」


「ありがとうございます、ローレルさん」


 僕は、その不器用な料理長の優しさに感謝し、如月さんの斜め後ろから厨房へと向けて足を踏み出した。


 かくして、ベルグラヴィアの山奥に聳え立つ『静寂の館(サイレントロッジ)』で起きた、不可解な見えない亡霊による連続殺人事件は――万物を鑑定する一人の少女の、絶対的な物理法則の数式によって、完全に白日の下へと解体されたのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ