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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第6話『根源』 ~section4:こじ開けられた箱と、泥沼の共鳴(第三の矢)~

「……ッ! 危ない、如月さん!」


 僕の喉から、理性を介さない本能的な警告の叫びが迸った。

 言葉の壁による絶望的な疎外感の中で、僕の異質さに気づき、悍ましい同族の笑みを浮かべたミハイル。彼の血走った碧眼が僕からスライドし、インバネスコートを着た如月さんを『最大の標的』として捉え直した瞬間、その巨体が獣のような凄まじいバネで前傾姿勢をとったのが見えたからだ。


 だが、僕が手を伸ばすよりも、周囲の大人たちが動くよりも、ミハイルの肉体が放つ圧倒的な物理的質量と暴力のスピードの方が、はるかに上回っていた。


「Don't move!(動くな!)」


 耳をつんざくような英語の咆哮と共に、大柄なミハイルがペルシャ絨毯を蹴り上げる。ジェームスの頭蓋を純銀のおたまで叩き割った時と同じ、理性を完全に捨て去った純粋な暴力の質量。

 彼は瞬きをする間に如月さんの背後へと回り込むと、丸太のように太い右腕を、彼女の細く白い首に背後から深く、そして容赦なく巻き付けた。さらに左手で如月さんのインバネスコートの襟首を乱暴に掴み上げ、彼女の身体を乱暴に引き寄せて自らの巨大な胸板に押し付け、完全に拘束してしまった。


「ひぃっ……!」


 佐伯陽菜が喉の奥で引きつった悲鳴を上げ、鳴海亜衣が「如月さん……!」と顔面を蒼白にさせる。


「貴様……! 生徒から手を離せ!」


 明宮先生が血相を変え、真鍮の火かき棒を両手で構えて飛びかかろうとした。しかし、ミハイルは如月さんの首を絞め上げている右腕の筋肉をさらに膨張させ、ギリッと骨が軋むような恐ろしい音を立てた。


「If any of you take one more step, I will snap her neck like a twig!(一歩でも動いてみろ、この令嬢の首を小枝のようにへし折るぞ!)」


 ミハイルの口から放たれた英語の意味は、僕には全く分からない。だが、その行動が示す絶対的な殺意と物理的な脅威は、痛いほどに伝わってきた。

 身長一九〇センチを超える、筋骨隆々としたベルグラヴィア人の男。対する如月さんは、身長一四七センチの小柄で華奢な日本の女子高生だ。その体格差と質量の違いは、あまりにも絶望的だった。ミハイルの太い前腕が如月さんの気管と頸動脈を完全にロックしており、彼女のつま先は絨毯から僅かに浮き上がっている。ミハイルがその気になって腕に力を込めれば、たった一秒で彼女の頸椎を物理的に破壊し、命を奪うことができる。その揺るぎない事実が、明宮先生の足を引き剥がせない泥のように床に縫い留め、桐生院誠の端正な顔をかつてないほどの悔しさと無力感に歪ませた。


 絶対的な権力の象徴である如月コンツェルンの令嬢を、自らの命を守るための完全な人質として手に入れたミハイルは、周囲の大人たちやエリート高校生たちの絶望に満ちた顔を見渡し、喉の奥で「クックック」と下劣な笑い声を漏らした。


 刃を突きつけられている当の如月瑠璃本人は、極限の身体的苦痛に晒されていた。

 細い首を太い腕で力任せに締め上げられ、気道を完全に圧迫されている。純白の肌には痛々しい赤みが差し、十分な酸素が脳に供給されないため、彼女の小さな唇は微かにチアノーゼを起こして青ざめ始めていた。「……くっ、ぅ……」と、漏れ出る呼気すらも細く、苦しげだ。

 だが、その極限の酸欠状態にあっても、彼女のアメジストの瞳には、一切のパニックも、命乞いをするような情動的な恐怖も浮かんでいなかった。

 彼女は宙に浮きかけた不安定な姿勢のまま、インバネスコートのポケットの中で銀の懐中時計を静かに握りしめ、冷徹に己の状況の『質量』と『相手の運動エネルギー』を計算しているようだった。無駄に暴れて筋肉を硬直させ、相手の情動を逆撫ですることは、気道の圧迫をさらに早め、物理的に極めて非効率であり、生存確率を下げる愚行であると完全に理解しているのだ。


「……さて」


 ミハイルは如月さんの首を締め上げたまま、再びその碧眼を、愕然と立ち尽くしている僕へと向けた。

 そして、先ほどまで流暢な英語で吐き捨てていた気高い復讐者の顔をふっと消し去り、僕に向かって、わざとあの滑稽で、拙い『エセ外国人ガイド』の口調へと意図的にチューニングを合わせた。


「オー……ソーリー、ボーイ。お前だけ、言葉、ワカラナイね」


 嵐の音だけが響く静まり返った談話室に、場違いなほど明るく、語彙の少ないカタコトの日本語が響き渡った。

 明宮先生や桐生院たちが怪訝な顔で彼を睨みつける中、ミハイルは僕の目だけを真っ直ぐに見据えて、短い単語を繋ぎ合わせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。


「気取った英語、ボーイには必要ないデース。……ミナサン、顔を青くして震えてマース。でも、お前だけ、迷子の子犬みたい。周り、キョロキョロ見てマシタ。……ええ、それでいいんデース。お前、こいつらエリートの豚どもとは、全然違うから」


 拙いからこそ、その言葉は一切の装飾を持たず、僕の心臓の最も柔らかい部分を泥のついたナイフで直接抉るような響きを持っていた。


「な……にを……」


 僕が掠れた声を絞り出すと、ミハイルは如月さんの首を絞めたまま、酷く嬉しそうに嗤った。


「ワタシ、見てマシタよ。昨日、ベルグラヴィアの空港で出迎えて、バスに乗せた時からずっと。……ボーイ、お前はいつもこのキサラギのお嬢様の後ろ。三歩下がって、ペコペコ敬語、使ってマシタね。エリートの輪の中に入る時も、いつも愛想笑い。ワタシのつまらないギャグにも、一人だけ、ヘラヘラ笑って合わせてマシタ。……どうして?」


 ミハイルの言葉が、僕の足元を少しずつ崩していく。


「……怖いからデース。強いヤツ、怒らせないため。波風、立てないため。お前、いつも空気を読んで、自分を『ピエロ』にしてマース」


 指摘された事実に、僕は息を呑んだ。

 そうだ。僕はミハイルの胡散臭い態度にも、如月さんの突飛な行動にも、桐生院のカリスマにも、常に波風を立てないよう、無意識のうちに愛想笑いを浮かべて合わせていた。それが、僕の生存戦略だったからだ。


「この無菌室で育ったエリートども、お前とは『匂い』が違うデース。……ボーイの目は、生まれながらの強者の目じゃない。ワタシには、ワカル」


 ミハイルの拙い日本語は、語彙が少ないがゆえに、純粋な悪意の塊として僕の脳髄に叩き込まれる。


「ボーイ……お前、暴力で、全部壊された、負け犬の目デース。……泥の匂い、シマース」


 ――ドクン。


 心臓が、痛いほど大きく跳ねた。

 足元の高級なペルシャ絨毯が完全に消失し、代わりに真っ黒でひどい悪臭のする泥水が、足首まで浸水してくるような強烈な錯覚に襲われた。


「お前、知ってるハズだ。理不尽な力で、全部奪われること。……冷たい泥水、飲まされること。息を殺して、痛いの終わるの、ただ待つだけの絶望。……知ってるデショウ?」


 やめてくれ。

 その先は、言わないでくれ。


「エリートたち、お前の地獄、知らないデース。親の金で、綺麗に生きてマース。お前のこと、心の底でバカにしてる。ただの便利なピエロ。……ボーイ、ここ、お前の居場所じゃないデース。お前は、泥の側の人間デース」


 ミハイルの悪魔のような囁きが、僕の脳髄を直接揺らした。

 それは、僕が如月学園に入学してから、分厚い鎖で何重にも巻き、記憶の最下層に沈め、絶対に開かないように封印し続けてきた『パンドラの箱』の鍵を、暴力的にこじ開ける言葉だった。


 視界が、ぐにゃりと歪む。

 談話室の暖炉の温もりが急速に遠ざかり、代わりに、ひどく冷たくて、鉄サビとドブ川の悪臭が混ざったような『旧市街の匂い』が、鼻腔を強烈に突き刺した。


『――おい、光太郎。今日はお前の奢りな』


 脳内で、もう何年も聞いていないはずの、粘り気のある下劣な笑い声がリアルに再生された。

 僕が育った旧市街。そこは、月見坂市の華やかな新市街とは完全に切り離された、貧困と暴力が日常の風景として溶け込んだ薄暗い街だった。

 そこの公立小中学校のスクールカーストは、成績や家柄などで決まるような生易しいものではない。純粋な『腕力』と『暴力性』、そして『他者をどれだけ残酷に踏みにじれるか』という、極めて動物的で野蛮な基準だけで支配されていた。


『――金がねぇなら、あそこのドブ川で泳いでみろよ。そしたら許してやんよ』


 フラッシュバック。

 呼吸が荒くなる。酸素が足りない。過呼吸の初期症状だ。膝がガクガクと震え、立っていることすらままならない。

 それは【いじめ】というマイルドな言葉で片付けられるような、学生の戯れではなかった。恐喝、暴行、監禁、万引きの強要。純然たる『犯罪行為』の数々。

 警察や教師という大人の介入すら届かない、閉鎖された旧市街の泥沼の中で、カーストの最底辺に位置づけられた僕は、人間ではなくただの『物』として扱われていた。人間としての尊厳など存在しなかった。理不尽な暴力で顔を殴られ、泥水の中に叩き込まれ、笑い者にされる日々。抵抗すれば、さらに酷い報復が待っている。


 親に言えばいいと、他人は簡単に言うだろう。

 だが、言えるはずがなかった。僕の家は片親で、不器用な父親が毎日朝早くから夜遅くまで、身を粉にして僕を育ててくれていることを知っていたからだ。泥だらけの服を隠し、殴られた青痣を『転んだ』と誤魔化し、父親の前では必死に明るい笑顔を作った。父親の大きな背中に、これ以上の心配と絶望を背負わせることなんて、僕には絶対にできなかった。

 だから僕は、ただ一人で息を潜め、痛みに耐え、彼らの機嫌を取り、殴られながらもヘラヘラと笑う『道化』を演じることでしか、その地獄を生き延びることができなかった。


 僕の小さな、本当にささやかな日常の居場所は、暴力という圧倒的な理不尽によって、完全に泥足で踏みにじられ、奪い尽くされていたのだ。


『――お前は一生、俺たちのサンドバッグなんだよ。底辺のゴミが』


「……はぁっ……あ……っ」


 喉から、ヒューという間抜けな音が漏れる。

 耳鳴りがひどい。視界の端が黒く欠け始めている。


 その泥沼から抜け出すために、僕は死に物狂いで勉強した。暴力の届かない、法と秩序と論理が支配する、光の当たる新市街の学校へ逃げ込むために。

 結果として僕が入学した如月学園は、一部の超エリートだけが集う星華学園のような純粋な特権階級の城ではなく、経営不振になった学校や少子化で閉校になった学校を吸収して巨大化した、玉石混交のマンモス校だった。桐生院や佐伯のような正真正銘の令嬢・令息もいれば、僕のような庶民もごまんといる。

 だが、僕にとっては、そこが唯一の安全な避難所だった。僕はそこで如月さんの助手となり、波風を立てないように立ち回ることで、ようやく『普通の人間』としての居場所を見つけたのだと、そう信じ込んでいた。


 だが、ミハイルの拙い言葉は、その必死に築き上げた僕のアイデンティティを、木端微塵に粉砕した。


「見ろよ、ボーイ。こいつらエリートの怯えた顔」


 ミハイルが、明宮先生や桐生院たちを顎でしゃくった。


「こいつら、お前が旧市街で泥水飲まされて、絶望して、父親にも言えずに一人で泣いてた時……親の金で暖かい部屋、綺麗な服、のうのうと笑ってた。……お前がどれだけ傷ついたか、絶対、ワカラナイ。無意識に、お前を見下してる。お前はただの、哀れな見世物デース」


 ミハイルの言葉が、黒い毒のように僕の血管に回り始める。

 そうだ。僕は、彼らとは違う。

 桐生院誠の持つ圧倒的なカリスマも、佐伯陽菜の天真爛漫さも、鳴海亜衣の強さも、明宮先生の教育者としての余裕も。すべては『理不尽に奪われたことのない人間』だからこそ持てる、無自覚で傲慢な光だ。

 彼らは、英語が理解できずにただ一人ポツンと取り残された僕の姿を見て、心の奥底で嘲笑っていたに違いない。『やっぱりあいつは、育ちの悪い底辺の馬鹿だ』と。


「……違う……僕は……」


 震える声で否定しようとするが、過呼吸で言葉が続かない。


「ワタシたち、同じデース、ボーイ。すべて奪われた側の人間」


 ミハイルの、低く、甘い、呪いのような声が響く。

 彼は如月さんを締め上げているのとは逆の左手をゆっくりと伸ばし、僕に向かって、泥と血に汚れた大きな掌を向けた。


「こんな偽善者の群れ、お前の本当の居場所じゃない。……ボーイ。お前も本当は、こいつらエリートの豚ども、心の底から憎んでるデショウ? 見下してるデショウ? ワタシと同じ、復讐したいデショウ? ……こっちへ来い。ワタシと一緒に、お前を見下してきたヤツら全員に、泥の味、教えてやるデース」


 それは、究極の悪魔の誘惑だった。

 僕の心の中にずっと沈殿していた、自分を虐げた世界に対する『真っ黒な怒り』と『憎悪』。それを、この殺人鬼は完全に肯定してくれている。

 僕の本当の居場所は、如月さんの斜め後ろでも、如月学園の教室でもない。すべてを理不尽に奪われ、復讐という狂気に身を落とした、このミハイル・ルストヴァニアの隣なのではないか。

 この館を火の海にし、傲慢なエリートたちを絶望の底に突き落としてしまえば、僕の心の奥底にこびりついた旧市街の泥の感触は、綺麗に浄化されるのではないか。


 暗い衝動が、理性を完全に飲み込もうとしていた。

 僕は、フラフラと、糸の切れた操り人形のように、ミハイルの伸ばした手の方へと一歩、重い足を踏み出そうとした。

 鳴海さんが「朔! ダメだ!」と叫ぶ声が、冷たい水底から聞こえるように遠く、くぐもって聞こえる。


 僕のルーツは、泥だ。

 泥に塗れた僕は、彼ら光の住人とは決して分かり合えない。僕は――。


「……ッ、げほっ……くだら、ん……」


 その時。

 極太の腕で宙に吊り上げられ、頸動脈と気管を容赦なく潰されている如月瑠璃の口から、掠れた、しかし確かな意志を持った声が漏れた。

 それは普段の凛とした冷徹な声ではない。酸素が足りず、ひび割れ、血の味が混ざったような苦しげな音だった。


「き、如月……さん……?」


 僕は弾かれたように顔を上げた。

 ミハイルの腕の中に拘束されている如月さんは、痛みに顔を歪め、チアノーゼで唇を青くしながらも、その澄み切ったアメジストの瞳だけは、一切の淀みなく僕へと向けられていた。


「……相手の、情動を……揺さぶる、ことでしか……己を、肯定できぬか……」


 喉が潰れかけているにも関わらず、如月さんは言葉を紡ぐことをやめない。一語一語を押し出すたびに、彼女の細い首にミハイルの腕がギリギリと食い込むのが見える。それでも彼女は、論理を放棄しなかった。


「……同族嫌悪、などという……醜い、ノイズを……わしの助手に、投影するな……ッ。底が、浅い……ルーツ、じゃ……」


「You little bitch... shut up!(このクソアマ……黙れ!)」


 ミハイルが激昂し、右腕の筋肉をさらに膨張させて如月さんの首を強烈に締め上げる。如月さんの細い喉から「くぅっ……!」と明確な苦悶の音が漏れ、純白の手袋に包まれた彼女の指先が、微かに痙攣したように空を掻いた。

 しかし、彼女のアメジストの瞳は、微塵も僕から逸れることはなかった。


 彼女の瞳には、過去のトラウマを抉り出されて錯乱しかけている僕に対する『同情』や『可哀想』といった、人間らしい温かな共感は一切存在していなかった。

 あるのはただ、極限の身体的苦痛の中にあっても目前の事象を物理的に鑑定し、そこに存在する絶対的な『事実』だけを抽出しようとする、鑑定士としての狂気的なまでの冷徹な光だけだ。


「……サク、タロウ……よく、聞け……」


 如月さんの声は、もはや囁きに等しかった。だが、その質量は僕の鼓膜の奥へと、何よりも重く突き刺さる。


「お主が、過去に……泥沼で、何を奪われ……泥に塗れたルーツを、持っていようが……わしには……一切、興味がない……ッ」


 ドクン、と。

 ミハイルの悪魔の囁きとは全く違うベクトルで、心臓が大きく跳ねた。


 わしには、一切の興味がない。

 それは、究極の突き放しであり、他者の個人的な感情への完璧な無関心の宣言だった。だが、不思議なことに、その絶対零度の言葉が、僕の脳内に充満していた旧市街のドブ川の匂いを、一瞬にして吹き飛ばしたのだ。


「他者が過去に……どのような地獄を、見たかなど……所詮は、観測不能なノイズ……」


 如月さんは、薄れゆく意識の中で、僕の目から『泥の記憶』が消え去るのを冷徹に見届け、最後の鑑定結果を突きつけるように、血を吐くような強さで言い放った。


「……お主は今、この肉塊のように……過去の質量に、潰され……他者を理不尽に傷つけるような……哀れな数式は……組んで、おらぬはずじゃ……」


 その言葉は、僕の魂に真っ直ぐに突き刺さった。

 そうだ。僕は旧市街で理不尽に奪われ続けた。泥水を飲まされた。孤独だった。

 だが、僕は完全に壊れたわけじゃない。不器用でも必死に働いて育ててくれた父親の温かさがあった。そして、くだらないかもしれないが、僕を笑顔にしてくれた『魚魚ラブ』という地下アイドルの存在があった。僕は加害者(彼ら)と同じように、他者を暴力でねじ伏せ、奪い返すような生き方は選ばなかった。

 過去は泥沼でも、今の僕は、目の前の殺人鬼のように狂ってなどいないのだ。


「……お主は……わしの、助手じゃ……ッ」


 如月さんは、それ以上の同情の言葉を紡ぐことはなかった。ただ、現在の物理的な状況――僕が彼女の助手であるという、揺るぎない事実だけを肯定した。


「過去の泥に、足を取られ……現在の己の質量を、見失うなど……愚の骨頂、じゃ……。過去の亡霊になど……わしの助手を、くれてやる義理は……ない」


 その瞬間、僕の中で完全にパンドラの箱が閉じた。

 過呼吸が嘘のように治まり、視界が恐ろしいほどクリアになる。

 ミハイルが僕に向けていた甘い同族意識は、ただの『自己弁護のための投影』であり、彼が自分自身の醜さを正当化するために僕を利用しようとしていただけなのだ。


 如月瑠璃は、僕の過去に共感しない。同情もしない。

 だからこそ、首を締め上げられ、極限の酸欠状態に陥りながらも叩きつけられた彼女の論理的な言葉は、僕にとって真の『救済』だった。僕を過去の泥の被害者としてではなく、現在(いま)この瞬間に存在する『一人の助手』として、完全に認めてくれたのだから。


「……如月、さん……」


 僕は小さく息を吐き、ミハイルの伸ばした血塗られた手から、明確に視線を外した。

 そして、両足にしっかりと力を込め、背筋を伸ばし、この理不尽な連続殺人鬼を真っ直ぐに睨み据えた。

 もう、怯えはなかった。僕の隣には、僕の居場所には、極限状態でも論理を捨てない、万物を鑑定する絶対的な主がいるのだから。


「What... what is that look in your eyes!?(なんだ……その目は!?)」


 僕の劇的な変化に気づいたミハイルが、苛立ちと焦燥を露わにして叫ぶ。僕の心が完全に彼から離れ、支配から脱却したことを悟ったのだ。


「Damn it! I'll break her neck right now!(クソッ! 今すぐこいつの首をへし折ってやる!)」


 ミハイルが、完全な殺意を持って右腕の筋肉を限界まで膨張させた。

 だが、如月さんは首を絞め上げられながらも、僕の顔を見て、短く「ふん」と微かに鼻を鳴らした。それは、僕が正気を取り戻したことを確認した、明確な合図だった。

 僕が助けに入る必要はない。彼女は初めから、僕が狂気に飲まれないように論理を叩き込んだだけで、自分の身を守る物理的算段など、とっくの昔に完了していたのだ。


「……暴力という、原始的な情動に……頼るか。知性なき、肉塊め……」


 絶対的な窮地において、如月瑠璃の反撃が始まろうとしていた。



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