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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第6話『根源』 ~section3:剥がれ落ちた仮面と、言語の呪詛(第二の矢)~

 轟音を立てて分厚い窓ガラスを打ち据える嵐の音だけが、不気味なほど鮮明に談話室の中に響いていた。

 万物を鑑定する者――如月瑠璃の冷徹なアメジストの瞳に真っ直ぐに射抜かれた男。このベルグラヴィアツアーの専属現地ガイドであるミハイル・ルストヴァニアは、その大柄な体をビクッと震わせた。

 数秒の、息が詰まるような硬直。やがて彼は、顔面を大げさに歪め、いつものように両手を天に掲げて見せた。


「オ、オー! マイゴッド! お嬢様、突然何を言い出すんデスカ! ジョークにしては、あまりにもブラックすぎマース!」


 ミハイルは額に滲んだ油汗を手の甲で拭いながら、引きつった笑顔を必死に繕って周囲の大人たちへと視線を送った。


「ワタシはただの、しがない現地ガイドデース! 日本から来たエリートのお客様を、安全にご案内するのが仕事であって、ネットワークのハッカーなんて映画みたいなこと、できるわけがないじゃアリマセンカ! ミナサン、このお嬢様は暗闇の恐怖で少し混乱しているようデース!」


 彼は必死に道化の仮面を保ち、両手を振り回して僕たちを『味方』につけようと足掻いていた。

 だが、如月さんはインバネスコートのポケットに両手を入れたまま、微動だにしない。彼女の瞳には、哀れな獲物がもがく姿に対する嘲笑すらなく、ただ純粋な物理的真実だけを無機質に見据えていた。


「ふん。わしはただ、物理的痕跡と質量の移動から導き出された『事象のルーツ』を述べているに過ぎぬ」


 如月さんの静かな、しかし絶対的な声が、ミハイルの言い訳を冷酷に遮った。


「ジェームス殺害のトラップに用いられた『純銀のおたま』。あれはローレルの神聖な厨房から持ち出されたものじゃ。オカルト的な呪いのステージを演出したい黒幕にとって、無関係な料理長を殺害して奪えば、ただの強盗殺人や内輪揉めに見えてしまい、復讐の美学が崩れる。……ゆえに黒幕は、ローレルから真正面からそれを『借りた』と推測しているが、どうじゃ?」


 如月さんの視線を受け、暖炉のそばで腕を組んでいた料理長のローレルさんが、深く重い溜息をついて口を開いた。


「……ええ。ディナーの仕込みが佳境に入っていた夕刻、この男が厨房にやって来ました。『キサラギの生徒が、ドリス家伝来のアンティークの銀食器を見たがっている』と。私は忙しかったため、一番手前にあった特注の純銀のスプーンを、後で必ず返すという約束で彼に預けました。……ですがその後、突然の停電が起き、私は自室に閉じ込められたのです」


「やはりな」と、如月さんが頷く。


「自分が凶器を貸したと知れば、ローレルは必ず黒幕の正体を証言する。だからこそ黒幕は、彼の口を物理的に封じる必要があった。それが、ローレルが自室の分厚い防音扉に閉じ込められた真のルーツじゃよ」


「オー、ノー! 濡れ衣デース! ワタシは本当に……!」


「黙れ。証拠はそれだけではない」


 如月さんは、ミハイルの言葉を絶対零度の声で叩き斬った。


「シェリーの殺害も同様じゃ。メアリーがジェームスの錯覚を見て絶叫し、この談話室に全員が逃げ込んできた時……シェリーはあの混乱に乗じて、金になる特ダネを求めて自らの意志で群れから抜け出した。そしてお主は、その直後に『出入り口とバスの様子を見てくる』というもっともらしい口実で、堂々と外へ出た」


 僕の脳裏に、数時間前の光景が鮮明に蘇る。確かにミハイルは、僕たちを安心させるような人懐っこい笑顔を見せて、たった一人で暴風雨の暗闇の中へと飛び出していった。


「それは生存者の安全を確保するためなどではない。外で待機していた庭師のグリエルと合流し、暗闇の中でシェリーを物理的に殺害し、旧客室へと死体を配置するためじゃ。……そして、最も決定的なのは『遠隔操作のルーツ』じゃよ」


 如月さんは、一歩だけミハイルへと近づいた。


「わしが主幹制御盤を純銀の匙で物理的に焼き切ったことで、館のメインサーバーやシステムログはすべてただの炭素の塊と化した。だが……お主のその安っぽいスーツの胸ポケット。不自然に膨らんでいるその内側に、分厚いスマートフォンが隠されておるな。インフラを掌握し、トラップを起動させた『マスター端末』が」


 その瞬間、ミハイルの能天気な表情から、スッと感情が抜け落ちた。


「俺が回収した大浴場のアクセスルーターの物理的な接続記録は、メインサーバーが死んでも消えません。そして、遠隔操作を行ったそのスマホ自体にも、直接の実行ログがローカルデータとして残っているはずだ」


 五味鉄平が、タブレットを片手に鋭く追及する。愛するデジタルデータを如月さんに焼き尽くされた彼にとって、唯一残された『物理的デバイスという名の証拠』は、殺人鬼を追い詰めるための絶対的な刃だった。


「さあ、ポケットの中身の質量を、ここに提示するのじゃ」


 如月さんの言葉に、ミハイルは無言のまま動かない。言い逃れの余地など、もはやどこにも存在しなかった。だが、万物を鑑定する者は、ただの物的証拠だけで相手を追い詰めるような無粋な真似はしない。彼女は相手の魂の奥底にある『根源』を、物理法則をもって完膚なきまでに暴き出すのだ。


 如月さんはインバネスコートの懐から、鈍い光を放つ『銀のルーペ』を静かに取り出した。

 そして、その純白の手袋に包まれた指先でルーペを掲げ、じっとミハイルの全身を指し示した。


「……わしは、初日に出会った時、すでにお主の『ルーツ』を鑑定済みじゃ」


「……ホワット?」


「あの時、お主が着ていた分厚いウールコート。その表面に施されていた幾何学模様の刺繍と、特有の植物染料……。そして今、お主が今着ているその安っぽい化繊のジャケットの襟元から微かに覗く、裏地の模様……」


 如月さんのアメジストの瞳が、ルーペのレンズ越しにミハイルの奥底を射抜く。


「あれはただの民族衣装のデザインではなく、ベルグラヴィア北部の山岳地帯に古くから伝わる、魔除けと豊穣を祈る古代文字のルーツを汲むものとわしは言ったな。それを裏地にまで密かに纏い、己の血脈の誇りとしている。……お主は、ただのしがない現地ガイドなどではない」


 嵐の音が、一瞬だけ遠のいたような気がした。

 如月瑠璃の冷徹な宣告が、談話室の空気を完全に支配する。


「この館をドリス家に追われた『A・E』の血を引く、北部の真の貴族じゃろう」


 ローレルの証言、タイムラインの完全な矛盾の解明、インフラに介入した物理的端末の存在、そして、身に纏う衣服から暴かれた絶対的な血脈のルーツ。

 すべての退路を論理という名の数式で完璧に塞がれ、もはや道化を演じることすら不可能になった。


 数秒の、息が詰まるような、圧倒的な質量の沈黙。

 やがて――ミハイルの顔から、あの能天気で胡散臭い『エセ外国人ガイド』の滑稽な仮面が、音を立てて完全に崩れ落ちた。


「…………チッ」


 小さく、しかし明確な舌打ち。

 それは、善良な道化の男が絶対に出すはずのない、氷のように冷たく、どす黒い悪意に満ちた音だった。


 ミハイルはゆっくりと首を傾げ、自らの首元を締め付けていた派手な蛍光ピンクのネクタイを、乱暴な手つきで引き剥がし、絨毯の上へと投げ捨てた。安っぽい化繊のスーツを纏っているはずなのに、猫背気味だったその背筋がスッと伸びた瞬間、彼の大柄な体躯が、まるで何百年も続く由緒正しき血脈を誇示するような、恐ろしいほどの威圧感と質量を持って僕たちの前に立ちはだかった。


 顔や手に生々しい擦り傷を作り、泥水に塗れたその姿は変わらない。だが、その碧眼に宿る光は、怯える旅行客を案内するガイドのそれではなく、自らの領土を荒らす者どもを狩り立てる、残酷な捕食者のそれへと完全に変貌していた。


「……You arrogant little brat. Do you think you've won just because you uncovered a few mechanical tricks?(……この傲慢な小娘が。いくつか機械の仕掛けを暴いたくらいで、勝った気でいるのか?)」



 唐突に。

 本当に唐突に、ミハイルの口から、極めて流暢で、どこか貴族的な響きすら帯びた【英語】が紡ぎ出された。

 今まで僕たちに向けていた「〜デース」「〜マシタ」という滑稽なカタコトの日本語ではない。それは、彼が本来持っている真のルーツ――『A・Eの血脈』としての、血を吐くような憎悪と呪詛に満ちた、完璧な母国語の暴発だった。


「Look at this pathetic room. Look at this stolen estate! Grandbar! You filthy thief! Your ancestors stole this land, our legacy, with their blood-stained hands! And now you sit there, acting like a noble, while the true bloodline serves you as a guide and a gardener!?(見ろ、この惨めな部屋を。この盗まれた館を! グランバール! この薄汚い泥棒め! 貴様の先祖は、我々の遺産であるこの土地を、血塗られた手で奪い取ったのだ! そして今、真の血脈である我々を現地ガイドや庭師として顎で使い、貴様は貴族気取りでそこに座っているだと!?)」


 ミハイルは、恐怖に顔を歪めるグランバール卿を真っ直ぐに指差し、怒りに任せて英語で怒鳴り散らした。その声には、何世代にもわたって不当に虐げられ、日陰を歩かされてきた一族の、どす黒い怨念の質量がこれでもかと込められていた。グランバール卿は恐怖に顔を引きつらせ、「ひぃっ」とステッキを落としてエイミー夫人の隣でソファに身を縮めた。


 ミハイルの狂気に満ちた視線が、今度は僕たちキサラギ学園のグループへと向けられる。

 彼は忌々しそうに顔を歪めながら、立て続けに英語の呪詛を吐き捨てようとした。だが、その視線が、常に如月さんの斜め後ろに立ち、彼女を護るように位置取っていた僕の姿を捉えた瞬間――ピタリと、不自然に言葉を止めた。


「……Wait. That boy... he always calls you 'Kisaragi'.(……待てよ。あのボーイ……いつもお前のことを『キサラギ』と呼んでいたな)」



 ミハイルは僕を指差し、嗤うような仕草を見せた。その碧眼が、僕から、インバネスコートを着た小柄な少女へとゆっくりとスライドしていく。


「Your commanding presence... dismantling my system with sheer logic. You're not just a student.Kisaragi Academy... The Kisaragi Konzern... You are the heiress of that empire, aren't you!?(その傲慢な振る舞い……俺のシステムを純粋な論理で解体するその知性。お前、ただの生徒じゃない。如月学園……如月コンツェルン……お前、あの帝国の令嬢そのものじゃないか!?)」


 その言葉を放った瞬間、ミハイルの顔に、歓喜と憎悪が入り混じった悍ましい光が宿った。


 僕には、彼が流暢な英語で何を喚いているのか、その正確な意味は一言も理解できなかった。

 だが、激しい言葉の端々に混じる『キサラギ』や『コンツェルン』といった固有名詞。僕を指差し、僕の呼び方を真似るような嗤い声。そして、如月さんへと向けられた強烈な悪意。

 それらの断片的な情報と身振りだけで、彼が如月さんの『本当の正体』――彼女が如月コンツェルンの令嬢であり、彼が最も憎む巨大な権力の象徴であることに気が付き、最大の標的として定めたのだということだけは、肌が粟立つような本能で察知できた。


「You rich, privileged pigs. You think you rule the world with your money? You look down on the world from your pristine classrooms, oblivious to the mud and blood beneath your feet! You are nothing but hypocrites playing in a safe little sandbox!(この金持ちの、特権階級の豚どもめ。金と権力で、世界を支配しているつもりか? 自分たちの足元にある泥や血に気づきもせず、無菌室の教室から世界を見下ろしているつもりか! お前たちなど、安全な砂場で遊んでいるだけの偽善者に過ぎない!)」


 その流暢で暴力的な英語の呪詛が談話室に響き渡った瞬間、僕は周囲の空気が劇的に変化するのを感じた。


「……っ! みんな、如月さんから奴を遠ざけろ!」


 明宮先生が、滝のような冷や汗を流しながら、如月さんを庇うように大きく腕を広げて前に出た。

 壁際にいた桐生院誠は、あの完璧な微笑を完全に消し去り、青ざめた顔で唇を強く噛み締めている。

 帰国子女であり語学に堪能な佐伯陽菜は、「嘘……如月さんが……」と両手で口を覆い、大粒の涙を浮かべてガタガタと震え出した。

 いつも強気な鳴海亜衣でさえ、「冗談、でしょ……あいつ、如月さんを本気で……」と、絶望に染まった目で這うように後ずさりをしている。五味鉄平も、タブレットを握る手を小刻みに震わせていた。


 彼らは皆、息を呑み、絶望し、目前に現れた『真の殺人鬼』の剥き出しの殺意に戦慄していた。

 なぜなら、如月学園という新市街のトップエリートである彼らや、大人たちは――ミハイルが流暢な英語で吐き捨てているその悍ましい言葉の意味を、正確に、一言一句違わずに『理解』できてしまっていたからだ。


 だが。

 僕だけは、違った。


 僕は、一人だけその場に立ち尽くし、ただ呆然とミハイルの顔を見つめていた。

 彼の口から発せられる英語は、あまりにも流暢で、怒りに満ちていて、スラングや現地の特有の言い回しが複雑に混ざり合っていた。学校の授業で習うような、ゆっくりとした文法通りの綺麗な英語とは全く違う、生の暴力的な音声データ。

 その言葉の意味が、僕には『一言も、全く、理解できなかった』のだ。


 彼がグランバール卿を激しく恨んでいるらしいこと、僕たち如月学園の生徒を憎悪していること、そして如月さんを標的と定めたことは、肌感覚で分かる。だが、彼がどのような血塗られたルーツを語り、どのような具体的な殺意を口にしているのか、その情報が、僕の脳髄には全く変換されずにただのノイズとして通り過ぎていく。


 僕は思わず周囲を見渡した。

 青ざめる桐生院。涙を流す佐伯。震える鳴海。必死に僕たちを庇う明宮先生。彼らは皆、ミハイルの言葉の刃を正確に受け止め、同じ絶望のルーツを恐怖として共有している。

 その絶望の輪の中に、僕だけが入れない。


(……あぁ、そうか)


 その瞬間、僕の心の中に、巨大で、冷たくて、決定的な『壁』が音を立てて崩れ落ちてくるのを感じた。


 如月学園は、新市街のトップエリートが集う学校だ。彼らは幼い頃から高度な教育を受け、当然のように複数の言語を操り、グローバルな視点を持つための英才教育を施されてきた『特権階級』の人間たちだ。

 一方の僕はどうだ。旧市街という庶民の街の、さらに泥に塗れた暴力が支配する最底辺の環境で小中学校時代を過ごし、ただ必死にテストの点数だけをもぎ取って、奇跡的にこの学園に潜り込んだだけの『持たざる凡人』に過ぎない。


 如月さんの下僕兼助手として、僕はなんとか彼らエリートの輪の中に溶け込み、空気を読み、波風を立てないように必死に適応してきたつもりだった。自分も彼らと同じ、如月学園の一員なのだと、心のどこかで錯覚し、安堵していた。

 だが、この命の危機という極限状態において、ミハイルが本性と共に放った『言語』という物理的な壁が、その薄っぺらい錯覚を残酷なまでに打ち砕いた。


 僕と彼らとの間には、教育、環境、ルーツ――決して埋めることのできない、圧倒的な『階層の断絶』が存在している。

 同じ部屋にいて、同じ殺人鬼の脅威に晒されているというのに、僕だけが彼らの感じている恐怖の真髄を理解できない。僕は、新市街のエリートたちの中において、本質的にはただの『異物』であり、完全な『蚊帳の外』に置かれた、哀れで無力な旧市街の庶民でしかなかったのだ。


 足元の高級なペルシャ絨毯が、急に底なしの泥沼のようにドロドロと沈み込んでいくような錯覚に陥る。

 孤立感。圧倒的な疎外感。

 僕は自分の決定的な無知と、隠しきれない旧市街の泥臭いルーツを喉元に突きつけられ、ひどい眩暈と共に呼吸が浅くなっていくのを感じた。


「I will turn this stolen estate into your graveyard! None of you will leave this cursed ground alive!(この盗まれた館を、貴様ら全員の墓場にしてやる! この呪われた土地から、誰一人として生きて帰しはしないぞ!)」


 ミハイルがさらに激しい英語で咆哮し、明宮先生が「これ以上近づくな!」と悲痛な声を上げる。

 飛び交う言葉のすべてが、僕の頭の上を素通りしていく。自分の本当の居場所が、ここにはどこにもないような絶望感。


 その時だった。

 周囲との絶望的な温度差の中で、ただ一人顔面を蒼白にして立ち尽くす僕の異変に、誰よりも早く気づいた者がいた。


 ミハイルだ。


 彼は血走った碧眼をギョロリと動かし、言葉の壁に阻まれて完全に孤立している僕の姿を真っ直ぐに捉えた。

 そして、その口元に、同族を見つけたような、酷く歪んだ、悍ましい笑みを浮かべたのだ。



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