第6話『根源』 ~section1:反転する密室と、調律の秒針~
鼻腔を鋭く突き刺すオゾンと、高熱で無惨に焦げたプラスチックのひどい悪臭が、冷たい石造りの地下通路にいつまでも重く漂っていた。
莫大な電圧による強引な短絡によって、この洋館のインフラ心臓部――主幹制御盤と巨大な無停電電源装置は、完全にその機能を停止した。純銀の匙という、極めてアナログで美しく、そして暴力的な導体を用いた物理的破壊。その最も原始的でありながら最も確実な手段によって、見えない殺人鬼が何年もかけて張り巡らせていたであろうデジタルの神経網は完全に焼き切られ、跡形もなく断ち切られたのだ。
「……信じられない。あんな物理的で暴力的な手法で、論理的に構築されたネットワーク網を大元から一瞬で無力化するなんて……」
僕の隣を重い足取りで歩く五味鉄平は、大浴場の脱衣所で回収した自身のタブレット端末を両手で我が子のように大事そうに抱え込みながら、未だに目の前で起きた破壊劇が信じられないといった様子で、うわ言のようにブツブツと呟いていた。
彼の顔色は地下の冷気と恐怖でまだ青白く、インシュロックで強引に縛り上げられていた両手首には、痛々しい鬱血の痕が赤黒く帯状に残っている。しかし、絶え間なく己の不運とデータの喪失について理屈をこね回すその口調からは、科学部としての彼本来の面倒くさいプライドが少しずつ、だが確実に生還を果たしたのだという実感が窺えた。
「でも、事実として五味は助かったし、犯人がどこかの安全圏に隠れてやっていた遠隔操作もすべて封じられた。如月さんの『物理法則』の完全な勝ちだよ」
僕がタブレットの画面にひっそりと復活した『4G』の電波マークを見つめながらそう言うと、前方を迷いなく歩いていた如月さんは足を止めることなく、インバネスコートの裾を翻しながら冷たく鼻で笑った。
「勝ち負けなどという主観的で曖昧なノイズで事象を語るな、サクタロウ。わしはただ、電磁ロックにおけるフェイルセーフという絶対的な物理構造を利用し、正しいエネルギーの変換を行ったに過ぎぬ。……行くぞ。システムが沈黙し、通信ジャミングが解除された今、この館の密室構造は完全に反転したのじゃ」
僕たちは地下の機械室エリアから、ひんやりとした薄暗いコンクリートの階段を上り、再び一階の西棟へと戻ってきた。
先ほどまで暗闇の中で見えない恐怖に怯えながら歩いていた廊下も、インフラが死んだ今となっては、ただの古い洋館の通路に過ぎない。非常用の独立したバッテリーランプだけが、オレンジ色の心細い光を点々と落とし、僕たちの影を長く引き伸ばしている。
分厚い防音ガラスが嵌められた窓の向こう側では、依然として狂ったような暴風雨が荒れ狂っていた。樹齢数百年はあろうかという太い木々が風に煽られて大きく揺れ、凄まじい轟音を立てて洋館の分厚い外壁を打ち据えている。土砂崩れによって外界へと続く唯一の山道が完全に分断され、ここが物理的な『陸の孤島』となっていることに変わりはない。
だが、先ほどまで僕の胸の奥底にどす黒く巣食っていた、得体の知れない『呪い』や『見えない亡霊』に対する絶望的なまでの恐怖は、完全に消え去っていた。
恐怖の正体は、オカルトでも亡霊でもない。血塗られた歴史に縋り、スマートインフラという現代の利器を悪用して物理的な殺人を行っていた、極めて現実的で矮小な人間の悪意に過ぎない。そのルーツを、前を歩く小柄な少女――如月瑠璃が完全に暴き出し、そして物理的に牙をへし折ったのだ。人間が相手であり、それが物理法則の範疇にある現象であるならば、如月瑠璃の持つ『物理的鑑定眼』と『情動の視座』の前では、もはや無力に等しい。
僕たちは歩みを速め、立ち入り禁止区画を抜け、大浴場や厨房へと続く通路を通り過ぎる。やがて、生存者たちが籠城している中央棟の『談話室』へと辿り着いた。
周囲の静寂を拒絶するように閉ざされた、重厚なオーク材の扉。その前に立ち、僕は深呼吸をしてから、大きく三回ノックをした。
「朔です! 開けてください!」
僕が声を張り上げると、扉の向こう側で「朔くんだわ!」という微かなざわめきが上がり、ガチャガチャと慌ただしく物理的な内鍵と防犯用の真鍮チェーンが外される重い音が響いた。
「朔くん! 如月さん! それに五味くんまで……!」
重い扉を内側から引き開けて出迎えてくれたのは、青ざめた顔に安堵の涙をいっぱいに浮かべた清瀬瑞希先生だった。彼女は泥と埃まみれになった五味の姿を見るなり、崩れ落ちるようにして彼の大柄な肩を強く抱きしめた。
「ああ、よかった……! ずっと連絡が取れないから、暗闇の中でどうなってしまったのかと……本当に、本当によかった……っ!」
「ちょ、清瀬先生……! 苦しいです、気道が圧迫されてまた低酸素状態に……」
五味は顔を真っ赤にして理屈っぽく抗議したが、その表情はどこか照れくさそうで、教師の温もりに心底ホッとしているようにも見えた。
「朔くん、如月さん……よく無事で戻ってきてくれたね。五味くんも、生きていて本当によかった」
清瀬先生の横から顔を出したのは、グレーの高級なスーツを泥と埃で無惨に汚した明宮海翔先生だった。その手には、護身用として暖炉から持ち出したであろう、重い真鍮製の火かき棒がしっかりと握りしめられている。
先ほど、西棟の立ち入り禁止区画で過去の絵画への妄執に囚われ、惨めで虚ろな表情を浮かべて床を這い回っていた男の姿は、そこには微塵も残っていない。今の彼の顔には、自らの愚かな過ちを清算し、生徒たちの物理的生命を何に代えても朝まで守り抜くという、教育者としての確固たる意志と責任感だけが宿っていた。如月さんの言葉によって、彼は自らの『ルーツ』を正しく取り戻したのだ。
僕たちが談話室の中へと足を踏み入れると、部屋の空気は数十分前に出て行った時とは明確に変わっていた。
部屋の中央にある巨大な石造りの暖炉では、薪がパチパチと音を立てて燃え続けている。しかし、連続殺人と見えない殺人鬼の恐怖によって精神と肉体の疲労が限界を迎えているクラスメイトたちは、互いの体温を確かめ合うように身を寄せ合い、革張りのソファや分厚いペルシャ絨毯の上にへたり込んでいた。
「ちょっと朔! 調査に行ったきり全然戻ってこないから、マジで心配したんだからね! 怪我とかないんでしょうね!?」
真っ先に声をかけてきたのは、陸上部でショートカットの鳴海亜衣だった。彼女はいつものように腕を組んで強がってはいたが、その瞳は恐怖と安堵で泣き腫らしたように赤かった。
「すみません、鳴海さん。でも、如月さんのおかげで安全は確保できたから」
「如月さん、おかえりなさい。お化けさん、見つかった……?」
隣に座っていた佐伯が、恐怖で小刻みに震えながらも、彼女特有のふんわりとした天然のフィルターを通した言葉で尋ねてきた。
「無論じゃ。そのような非科学的な存在など、最初からいなかったという『物理的真実』をな」
如月さんは足を止めることなく、冷徹な事実だけを端的に返した。
一方、壁際では桐生院が彫刻のような美しい微笑を口元に張り付けたまま目を閉じていたが、如月さんの声を聞くと微かに片目を開け、安堵したように小さく息をつくのが見えた。
「……戻ったか、極東の小さき賢者よ。館の忌まわしい封鎖が解け、外部との通信が復旧したのは、君の力によるものだな」
暖炉の正面に置かれた最も上等な一人掛けのソファから、重々しく、しかしどこか疲労の滲む声が響いた。
この洋館の所有者であるグランバール卿だ。以前の傲慢で高圧的な態度は影を潜め、ステッキを両手で握りしめたまま、如月さんの知性を確かに認めるような眼差しを向けている。通信が復旧し、警察の介入が約束された今、彼もようやく当主としての落ち着きを少しだけ取り戻したようだ。
彼の隣で青ざめた顔をして寄り添っているのは、グランバール卿の妻であるエイミーだ。彼女は愛猫のサクラを腕の中にきつく抱きしめ、豪奢なドレスを纏ってはいるものの、その表情には隠しきれない疲労と恐怖が張り付いていた。腕の中のサクラも主人の不安を感じ取っているのか、小さく身を丸めて大人しくしている。
そして部屋の隅。暖炉の火の気から少し離れた場所で膝を抱えているのは、殺されたシェリーと一緒に旅行客としてこの館を訪れていたメアリー・ノアだ。
最初に見せた『人見知りで大人しい友人』という被っていた猫は、極限状態の恐怖の中で完全に剥がれ落ちていた。親友のシェリーが金目のネタに釣られて姿を消し、無惨な死体となって発見されたというのに、今の彼女の顔にあるのは哀悼ではなく、ただ己の保身と、自分だけは助かりたいという醜い恐怖だけだ。彼女はすっかり汚れてしまった自分の服を掻き抱きながら、虚ろな目で宙を睨みつけていた。
そんな混沌とした空気の中、暖炉のそばの暗がりから、ゆっくりと立ち上がる大柄な影があった。
「……おや。無事に戻られたのですね。それに、私の料理の真髄を理解してくださった、そこのお嬢様も」
プロの矜持を感じさせる真っ白なコックコート。グランバール卿に雇われ、この広大な洋館の厨房を一身に預かっている料理長のローレルさんだった。
彼は雇い主であるグランバール卿や他の客人たちには一瞥もくれず、ただあのディナーで自らの血の滲むようなソースの調合を完璧に言い当てた如月さんの顔だけを、絶対的な理解者としてしっかりと見据えていた。
「ご無事でよかったです。ローレルさん」
僕が声をかけると、ローレルさんは太い腕を組んだまま、重々しく一度だけ頷いた。
「……ええ。停電の後、自室の防音扉の電子ロックが完全に沈黙し、閉じ込められておりました。ですが先ほど、突然ロックが解除されましてね」
ローレルさんは事実だけを短く述べ、静かに頭を下げた。
やはり、すべては如月瑠璃が物理法則から辿ったルーツの通りだった。主幹制御盤を物理的に焼き切ったことで、建築基準法に基づくフェイルセーフが作動し、彼の部屋の電磁ロックが強制的に解錠されたのだ。館内のすべての電子錠が、これでただの鉄の扉へと還った。殺人鬼はもう、誰もインフラの力で閉じ込めることはできない。
「オー! イエス! ミナサン本当にご無事で何よりデース! そのメガネのボーイも、無事に見つかってスーパーハッピーですね!」
その時、生存者の群れの中から、大仰な身振り手振りを交えながら一人の男が足早に歩み出てきた。
このベルグラヴィアツアーの専属現地ガイドである、ミハイルだった。
彼はディナーの時に着替えていた安っぽい化繊のスーツ姿で、首元には派手な蛍光ピンクのネクタイを締めている。だが、その服にはひどい泥汚れがこびりついており、露出した顔や手には無数の生々しい擦り傷ができていた。彼が『出入り口とバスの様子を見てくる』と言って外の暴風雨の中へ一人で飛び出し、そして戻ってきた時の、あの痛々しい状態のままだ。
「ボーイたちから連絡が来て、スマホの電波が復活したと知った時は、本当に安心シマシタよ! いやー、停電が終わってまさに『メイアン』が分かれましたネ! 明るくなっただけに! ハッハッハ!」
ミハイルは僕の肩にポンと手を置きながら、絶望的に面白くないお決まりのジョークを交え、いつものエセ外国人ガイドのような胡散臭い声色で高らかに笑った。
鳴海が呆れたように「うわ、出たよ極寒ギャグ。マジで今の状況でそれ言う?」とツッコミを入れるが、ミハイルは気にした様子もない。
ひどく傷だらけで痛々しい姿なのに、わざとらしいほどに能天気な態度。きっと、見えない殺人鬼の恐怖という極限状態にある生徒たちをこれ以上不安にさせまいと、無理をしてでも明るく振る舞ってくれているのだろう。自分の身の危険を顧みず外の様子を確認しに行き、戻ってきてからも場を和ませようとするそのプロ意識と優しさには、素直に頭が下がる思いだった。
僕が「ミハイルさんも、怪我をしているのに無事でよかったです。本当にありがとうございます」と、心からの労いと感謝の言葉をかけようとした、その時だった。
「小芝居は終わりじゃ。醜悪な情動のノイズをこれ以上撒き散らすな」
絶対零度の声が、談話室に漂い始めた安堵の空気を、一瞬にして凍りつかせた。
如月さんは、ミハイルの能天気な笑顔を完全に無視して部屋の中央へと進み出ると、そのまま踵を返し、僕たちが今入ってきた重厚なオーク材の扉の前にピタリと立った。
そして、純白の手袋を嵌めた両手を背手に回し、自らの背中で分厚い扉を完全に物理的に封鎖したのだ。誰も外へは逃がさないという、明確な意思表示。
「き、如月さん……? どうしたの?」
突然の異様な行動に清瀬先生が戸惑ったように声をかけるが、如月さんはそれに答えない。
彼女はインバネスコートのポケットから、静かな動作で『銀の懐中時計』を取り出した。
カチリ、と。
純白の指先が、冷たい金属の蓋を開く。
チク、タク、チク、タク、チク、タク――。
静まり返った談話室の中に、内部に組み込まれた精緻な歯車たちが、寸分の狂いもなく正確なリズムで時を刻む音が響き渡り始めた。
一・〇ヘルツ。人間の安静時の心拍リズムと完全に同調する、極めて正確で冷徹な物理的パルス。
如月さんが自らを調律し、事象を鑑定する儀式。
如月さんは静かに目を閉じ、その秒針の音を深く響かせた。
恐怖に震えるメアリーの荒い吐息。グランバール卿の重い息遣い。ローレルさんの寡黙な困惑。明宮先生と清瀬先生の張り詰めた緊張。大怪我を負いながらも道化を演じる現地ガイドの不自然なほどの明るさ。五味のタブレットから発せられる微かな電子音。そして、この群れの中に確かに潜んでいるはずの、悪意と焦燥に満ちた心拍の乱れ。
現在進行形のパニックや恐怖といった、鑑定の邪魔になる人間関係の生々しい『ノイズ』を、彼女は懐中時計の極めて論理的な機械音によって、自らの知覚から完全に切り離していく。
現場に残された物理的痕跡と、そこに刻まれた『情動の視座』だけを純粋に抽出し、起こった事象の『真のルーツ』を静かに辿り直すための、神聖なまでの思考の調律。
数十秒の静寂。
誰もが言葉を発することすらできず、ただその異様な光景を息を呑んで見つめていた。暖炉の薪が爆ぜる音と、外の嵐の音すらも遠く感じられるほどの沈黙が部屋を支配する。
やがて、調律を完全に終えた如月さんが、ゆっくりと目を開いた。
そのアメジストの瞳には、一切の安易な共感も、情動への迎合も存在していなかった。
あるのはただ、大人たちの薄っぺらい嘘や偽装工作のルーツを『物理的鑑定眼』で徹底的に紐解き、真実を白日の下に晒すという、万物を鑑定する者としての揺るぎない眼差しだけだった。
誰が犯人であろうと、この鑑定の果てに行き着く先がどうなろうと、それは彼女にとってルーツを辿った際に転がり落ちるただの『副産物』に過ぎない。
「これより、万物を鑑定する者として、このふざけたオカルトの『物理的真実』を提示する」
如月さんの凛とした声が、逃げ場のない密室となった談話室の隅々にまで反響した。
彼女は探偵として推理を披露するのではない。ただ純粋に、血塗られたモノのルーツを辿るための、圧倒的な鑑定を開始したのだ。




