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第10巻:如月令嬢は『銀のおたまが凍る洋館を温めない』(下)  作者: アリス・リゼル


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第5話『迷宮』 ~section5:フェイルセーフと、崩れ落ちるデジタルの城~

 分厚い石壁が重々しい摩擦音を立ててスライドした先――そこは、中世ヨーロッパの意匠を凝らした洋館の地下とは完全に不釣り合いな、無機質でサイバーな空間だった。

 広さは十畳ほどだろうか。壁際に鎮座する巨大な黒いサーバーラックからは、幾筋もの太い有線LANケーブルや電源コードが這い出し、床を這う黒蛇の群れのように複雑に絡み合っている。密閉された空間内で機器の熱暴走を防ぐための巨大な冷却ファンが、ブォンブォンと耳障りな低い唸り声を上げ、ラックにマウントされたルーターやスイッチングハブのインジケーターランプが、暗闇の中で青や緑の不気味な光をせわしなく明滅させていた。

 オゾンの刺激臭と、熱を持ったシリコンと埃の匂いが、むせ返るように鼻を突く。


 そして、その冷たいコンクリートの床の上に、僕たちのクラスメイトである五味鉄平が転がっていた。


「五味ッ!」


 僕は思わず叫び、LED懐中電灯を床に放り出すようにして、泥と埃にまみれた五味の元へ駆け寄った。

 最悪の想像が脳裏をよぎったが、彼は生きていた。後ろ手に太い工業用の結束バンドで手首をきつく縛られ、足首も同様に固定されている。口には灰色の分厚いダクトテープが何重にも貼られ、声帯から発せられる悲鳴やSOSを完全に封じ込められていた。


「んーっ! んんーっ!!」


 懐中電灯の光の中で僕と如月さんの姿を認めた五味は、顔を真っ赤にして何事か叫ぼうと、芋虫のように激しく身を捩った。


「いま外すから、ちょっと我慢しろよ!」


 僕はコートのポケットから、旅行の荷造り用に持参していた小型の十徳ナイフを取り出した。五味の手首と足首に深く食い込んでいる結束バンドは、人間の力では到底引きちぎれない強度を持っている。僕は彼の皮膚を傷つけないよう、結束バンドの隙間に慎重にナイフの刃を滑り込ませ、力を込めた。

 パチン、パチンと硬いプラスチックが弾け飛ぶ音が、冷却ファンの唸り音に混じって地下室に響く。最後に、口を塞いでいた粘着力の強いダクトテープをゆっくりと剥がしてやると、五味は堰を切ったようにむせ帰り、大きく息を吸い込んだ。


「ぷはっ……! げほっ、ごほっ……! ぜえっ、はあっ……! た、助かった、朔……。あやうく低酸素状態と極度のストレスで、俺の優秀な脳細胞が深刻なダメージを受けるところだったぞ……」


 五味は、拘束から解放された両手首をさすりながら、土と埃で汚れた顔のまま、中指でズレた眼鏡をクイッと押し上げた。顔色は青白く、手首には内出血の痛々しい痕がくっきりと残っているが、なんとか科学部としてのプライドを保ち、理屈をこねて平静を装おうとしているのが分かった。だが、その声はまだ微かに震えている。


「よかった、怪我はないみたいだな……。五味、一体何があったんだ? あの後、お前はタブレットを持って別棟の奥へ行ったはずだよな?」


「……ああ。俺のタブレットのパケットアナライザが、別棟の方向から異常な電波干渉……強力なジャミングのノイズを検知したんだ。インフラのシステムエラーかと思って、発生源を『論理的』に追って、一階の大浴場の脱衣所まで行った」


 五味は、暗い地下室の床を見つめながら、己の不覚を呪うように忌々しそうに顔を歪めた。


「脱衣所の壁の裏から、異常に強いシグナルが出てるのが分かって……。あのアンティーク調の壁の隙間から、ルーターのランプみたいな青い光が漏れてるのが見えたんだ。……で、横のダミーのバルブを回して、壁の向こうのこの空間に入ろうとした。そしたら、壁を調べようとした背後からいきなり後頭部を、何か硬い質量で殴られて……気がついたら、ここで芋虫みたいに縛られてた」


「犯人の顔は見たか? 誰に殴られたか分かるか!?」


「顔を見る物理的猶予なんてなかったよ……。だが……」


 五味は、理屈では説明できない純粋な暴力の恐怖を思い出したように、僅かに声のトーンを落とし、ブルッと身震いをした。


「殴られて意識を失う直前、背後からひどく非科学的な異臭がしたんだ。あんな清掃の行き届いた脱衣所には絶対に存在しないはずの……『泥と、雨の匂い』だ。それも、ひどく土の腐ったような生臭い……。俺の嗅覚データが正常なら、あれは間違いなく土壌細菌が発する匂いだった」


 僕と如月さんは、無言で視線を交わした。

 泥と、雨の匂い。

 それは、暗闇の隠し通路でジェームスさんの重い死体を地下まで運び、脱衣所で五味を背後から襲撃した『アナログな実行犯』のルーツを決定づける、何よりの物理的証拠だった。


「ゲオスミンじゃな。雨上がりの土の匂いの元となる、放線菌が生成する有機化合物じゃ」


 如月さんは、強がっている五味を一瞥すると、心底軽蔑したように冷たい鼻で笑った。


「視覚という脆弱なデジタルデータに頼りすぎた結果がこれじゃ。画面上のパケット数値ばかりを追い、己の足で稼いだ物理的観察眼を持たぬから、背後に迫る質量の脅威に気づけぬ。……お主のその不格好なデジタルへの執着が、結果的に我々をこの『心臓部』へと導く最短の道標となったことだけは、評価してやらんこともないがな」


「なっ……! 言わせておけば……っ!」


 五味は悔しそうに顔を歪めたが、実際に拘束され、命の危険に晒されていた負い目があるため、それ以上如月さんに強く言い返すことはできなかった。


「時代遅れのアナログ女に助けられるとは不本意の極みだが……今回だけは、俺のデータの敗北を認めてやる……」


 彼はそう言って、ブツブツと負け惜しみを呟きながら、僕の後ろへとそそくさと身を隠した。


「さて、サクタロウ。情動のノイズに構っている暇はないぞ。我々がここへ来た真の目的を果たす時じゃ」


 如月さんは五味を完全に無視し、部屋の壁面を埋め尽くしている巨大な黒いサーバーラックへと歩み寄った。


「これが、A・Eの血脈がドリス家への復讐のために構築した、悪魔の数式の根源……。館中のインフラを掌握し、数百年の歴史を血で汚した『デジタルの城』じゃ」


 彼女は、ラックの前面で明滅する無数のLEDランプや、複雑にルーティングされたイーサネットケーブルの束を、まるで価値のない贋作を鑑定するような冷酷な眼差しで睨みつけた。


「如月さん……ここにある機械を操作すれば、自室に閉じ込められている料理長のローレルさんを助け出せるんですよね?」


 僕は、ラックの中央に組み込まれたコンソール画面と、無骨なキーボードを見つめながら言った。


「でも、絶対にパスワードか、生体認証みたいな強固なロックがかかってるはずです。如月さん、ハッキングとかパスワードの解除ってできますか……?」


 僕の問いに、如月さんはアメジストの瞳を細め、心底呆れたように長いため息をついた。


「愚鈍な。わしがそのような『画面の中の矮小な数字遊び』をすると思うか? 犯人が構築したデジタルガジェットの土俵にわざわざ立ってやる義理など、一ミリたりとも存在せぬ」


「えっ……じゃあ、どうやってローレルさんの部屋のスマートロックを開けるんですか!? 扉をぶち破るには、道具も時間も足りませんよ!」


「サクタロウ、お主は電子錠というシステムが、どのような『物理的構造』で成り立っているかを知らぬようじゃな」


 如月さんは、サーバーラックの裏側に回り込み、極太の電源ケーブルの束を純白の手袋でツーッとなぞった。


「この館に導入されているような強固な電磁ロック(電磁石錠)は、ドア枠に設置された強力な電磁石と、扉側の金属板が吸着することで施錠を維持しておる。つまり、鍵をかけているのは金属の物理的な噛み合わせではなく、『常に供給され続けている電力』なのじゃよ」


「電力が、鍵……」


「左様。では、もし火災や地震などの非常事態が発生し、館のメイン電源が完全に喪失した場合、その扉はどうなると思う? パスワードはおろか、システムそのものが沈黙した場合じゃ」


「あっ……!」


 僕は、如月さんの言わんとしていることに気づいた。


「電気が切れたら、扉が開かなくなって、中にいる人が火事から逃げられなくなりますよね!?」


「その通りじゃ。ゆえに、世界中のあらゆる建築基準法や消防法において、電磁ロックには必ず『フェイルセーフ』の機構を組み込むことが絶対条件として義務付けられておる」


 如月さんの純白の指先が、サーバーラックの最下段に設置されていた、ひときわ巨大で重厚な黒い箱――『無停電電源装置(UPS)』の筐体を的確に叩いた。


「フェイルセーフ……つまり、『システムが異常・停止した際には、必ず安全な側へと移行する』という物理的な絶対法則じゃ。……電磁ロックは、電力供給が完全に絶たれた瞬間、磁力を失い、すべての扉が自動的に『解錠状態』になるように設計されておるのじゃよ。どれほど強固な暗号化アルゴリズムを組もうが、電力がゼロになれば扉はただの鉄板へと還る」


 パスワードのハッキングなど必要ない。

 画面上のプログラムなどという、仮想のルーツを解読するまどろっこしい真似はしない。

 如月瑠璃の選択は、常に『物理法則の最深部』を直接破壊するという、圧倒的で冷酷なものだった。


「犯人は、自らが故意に停電を起こした際にもこのシステムを維持し、自在にロックを操るため、分厚い石壁の奥にこのUPSを隠し、そこから別系統で館のスマートインフラに電力を供給し続けておったのじゃ」


 如月さんは、腰のベルトポーチから銀のルーペを取り出し、UPSの背面に接続されている極太の電源ケーブルと、制御用のリレー回路の接合部を冷徹に観察した。


「つまり……この部屋のネットワーク機器と、このUPSの電力を『物理的』に完全に遮断し、回路をショートさせて破壊すれば……」


「館中のスマートロックの電力が落ちて、ローレルさんの部屋の扉も、フェイルセーフで自動的に開くってことですね!」


「その通りじゃ。デジタルの城を落とすには、その『物理的な心臓』を直接物理的に叩き潰すのが最も速く、そして美しい」


 如月さんはインバネスコートのポケットから、あの『純銀の匙』を取り出した。旧校舎の図書室で、優雅に紅茶をかき混ぜるために使っていたあの美しい匙を。


「お、おい如月! まさかそのスプーンを……嘘だろ!? やめろ!」


 如月さんの意図に気づいた五味が、血相を変えて悲鳴を上げた。


「お前、何バカなことしようとしてんだ! そんな分厚い回路を強引にショートさせたら、館内のインフラ制御ログも、犯人が残したアクセス履歴のデジタルデータも全部飛んで消えちまうんだぞ! 証拠のデータが……っ!」


「サクタロウ、五味を連れて少し下がっておれ。火花が散るぞ」


「話を聞けよこの物理馬鹿ぁぁぁっ!! 電子機器に対する敬意ってもんがないのかよ!」


 五味のデータ保護を懇願する悲鳴を一切の躊躇なく無視し、如月さんは迷いなき動作でUPSの背面カバーを強引に引き剥がした。

 剥き出しになったのは、致死量の高電圧が流れる分厚い銅の導体(バスバー)と、複雑なリレー回路の基板。少しでも触れれば感電死は免れない、エネルギーの奔流。

 彼女は、ゴム底の編み上げブーツでしっかりとコンクリートの床を踏みしめ、純白の綿手袋越しに純銀の匙を逆手に握りしめた。


「A・Eの血脈よ。お主の何百年という復讐の情動も、このちっぽけな電子の海も……すべてここで、完全なゼロに還るのじゃ」


 ガキンッ!!!


 如月さんが、純銀の匙の柄を、プラス極とマイナス極の分厚い端子の間に容赦なく叩き込んだ。


 バチバチバチィィィッ!!!


 凄まじい閃光と、鼓膜を(つんざ)くような破裂音が地下の機械室に響き渡った。

 純銀という極めて優秀な電気伝導体によって強引に引き起こされた『完全な短絡(ショート)』。ジュールの法則を超えた莫大な電流が匙を伝って暴走し、ブレーカーや保護回路が作動するよりも早く、UPSの内部基板と主幹制御盤のマザーボードを物理的に完全に焼き切ったのだ。


 もうもうと白煙が上がり、鼻を刺すようなオゾンと焦げたプラスチックの匂いが地下室に充満する。

 そして――。


 ヒュゥゥゥン……という、冷却ファンが回転を停止する断末魔のような音と共に。

 サーバーラックを彩っていた無数の青や緑のLEDランプが、一斉に光を失い、地下室は完全な沈黙と薄暗闇に包まれた。


「……終わったな」


 如月さんは、先端が黒く焦げた純銀の匙を静かに引き抜き、熱を冷ますように空中で一振りした。


 見えない殺人鬼が、この館を支配するために構築したデジタルの城。

 それが今、如月瑠璃の圧倒的な物理法則の前に、無惨に崩れ去った瞬間だった。


「ああっ……俺の愛するデータたちが……ログが……MACアドレスが……」


 五味が、焦げ臭い煙の中で絶望したように頭を抱えてしゃがみ込んだ。


「お前のタブレットなら、大浴場の脱衣所のカゴの中に落ちてたぞ。悪魔の彫像と一緒に」


「はあ!? なんで俺の神聖な情報端末が、あんな趣味の悪いオカルト彫像と一緒に……っ!」


 その時だった。

 僕のズボンのポケットに入っていたスマートフォンが、ブブッ、ブブッと短い振動を連続で始めた。


「えっ? 電波が……」


 慌ててスマホを取り出すと、ずっと圏外だった画面のアンテナマークが三本綺麗に立ち上がり、未受信だったニュースアプリなどの通知が一斉に鳴り始めたのだ。


「館内の強力なWi-Fiと妨害電波が、大元の電源ごと完全に死んだから、外の微弱なキャリア電波を再び拾い始めたんだ!」


「当然じゃ。これで犯人は二度と遠隔操作で扉の鍵を操ることも、隠しスピーカーから遅延音声を流すこともできぬ」


 如月さんは、アメジストの瞳を暗闇の通路の奥へと向けた。


「フェイルセーフが正常に作動したなら、今頃、自室に閉じ込められていたローレルの分厚い扉も自動的に解錠されておるはずじゃ。彼も事態を把握し、じきに安全な談話室へと合流するじゃろう」


 僕はすぐさま、メッセージアプリを開いて清瀬先生に『五味を救出しました。犯人の通信設備も破壊しました』と送信した。

 十秒ほどして、すぐに既読がつき、『よかった! こちらもたった今、スマホの電波が復活しました。生徒たちは全員無事です』と返信が来た。


「如月さん、清瀬先生と連絡が取れました! 向こうは無事です」


「……ふん。他愛もない」


 如月さんは、黒く焦げた匙をベルトポーチに仕舞い、インバネスコートの裾を翻して僕と五味を真っ直ぐに見据えた。


「これで、館のインフラによる『呪いのステージ』は完全に崩壊した。オカルトのベールを剥ぎ取られた殺人鬼どもは、己の構築したシステムが破壊されたことに気づき、激しく狼狽しておるはずじゃ」


それは、見えない恐怖に怯え続けてきた僕たちが、ついに殺人鬼の喉元に物理的な刃を突き立てた瞬間だった。


「さあ、総仕上げじゃ。……血塗られた歴史に縋る哀れな復讐者たちを、物理法則の白日の下に引きずり出してやる」



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