影の中の約束(触れてはいけない温度)
放課後の空は、冬の色をしていた。
薄い雲が広がり、夕陽はその向こうでぼんやりと滲んでいる。
三浦ゆきは鞄を抱え、校門を出た。
冷たい風が頬を撫で、制服のスカートを揺らす。
あの日――あの人と別れた日から、胸の奥にずっとざわめきが残っていた。
怖い。
でも、それだけじゃない。
あの人の声。
あの人の目。
私にだけ向けられた、あの柔らかい温度。
思い出すたび、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……名前、聞けばよかったな」
ぽつりと呟く。
彼の名前を知らないまま、心だけが先に動いてしまった。
でも、聞けなかった。
怖くて。
そして、どこか申し訳なくて。
そんな自分が、少しだけ情けなかった。
***
商店街に入ると、夕方の匂いが漂っていた。
揚げ物の油の匂い、焼き鳥の煙、どこか懐かしい音楽。
その中に、微かに混ざる“別の気配”があった。
誰かに見られているような、そんな感覚。
でも、振り返っても誰もいない。
「……気のせい、だよね」
そう思いたかった。
けれど、何度も感じるその気配は、気のせいとは思えなかった。
実はそれは、あの人がゆきを守るために配置した舎弟たちの視線だった。
だが、ゆきは知らない。
舎弟たちは、ゆきの姿を見るたびに、ひそひそと囁き合っていた。
「……若頭、なんでこの子なんだよ」
「もっと綺麗な女なんていくらでもいるのに」
「まあ、言えねぇけどな。殺される」
そんな声が、ゆきの耳には届かない距離で交わされていた。
あの人はその不満に気づいていたが、完全に無視していた。
理由はひとつ。
ゆきだけが特別だから。
***
その日の帰り道、ゆきは住宅街の角を曲がったところで足を止めた。
前方に、見覚えのある男子が立っていた。
同じ学校の生徒だが、話したことはない。
いつも数人でつるんでいて、あまり評判はよくない。
そして、噂では――
地元の半グレグループと繋がっているらしい。
ゆきが気づいたことに気づいたのか、男子はにやりと笑った。
「おー、三浦じゃん。ひとり?」
ゆきは反射的に後ずさる。
「……なにか、用?」
「別に?たださぁ」
男子はゆきの全身をじろじろと見て、鼻で笑った。
「お前みたいな地味なやつが、最近なんか調子乗ってね?」
「……え?」
「なんかさ、守られてるって噂?
誰にだよ。そんな価値あんの?」
胸がざわつく。
足が震える。
言葉が出ない。
男子はさらに続けた。
「顔も普通。性格も普通。取り柄もない。
そんなやつが、誰に守られてんの?」
ゆきは唇を噛んだ。
痛い。
でも、それ以上に心が痛かった。
「……そんなの、関係ない」
震える声で言うと、男子はさらに笑った。
「図星かよ。
お前みたいなやつ、誰も気にしねぇよ」
その瞬間だった。
空気が変わった。
肌が粟立つほどの圧。
息が詰まるほどの緊張。
「……今の、もう一回言ってみろ」
その声は、低く、冷たく、氷のようだった。
ゆきは振り返る。
そこに立っていたのは――
あの人だった。
黒いコートを羽織り、風に揺れる髪。
整った顔立ちに、怒りの影が落ちている。
その姿は、恐ろしいほど美しく、そして恐ろしいほど冷たかった。
男子は一瞬で青ざめた。
「な、なんで……あんた……」
あの人はゆきの横に立ち、男子を睨みつける。
その視線だけで、男子は後ずさった。
「二度と、この子に触れるな。
言葉でも、視線でも、近づくことすら許さない」
その声は静かだった。
静かすぎて、逆に恐ろしかった。
男子は震えながら逃げていった。
ゆきはその場に立ち尽くす。
心臓が早鐘のように鳴っている。
あの人はゆきの前に立ち、低く言った。
「……怪我は」
「な、ないです……」
声が震えた。
でも、あの人の顔を見た瞬間、涙がこぼれそうになった。
怖かった。
でも、それ以上に――
彼が来てくれたことが、胸に沁みた。
あの人はゆきの頬に触れそうな距離まで顔を寄せ、静かに言った。
「……遅くなった」
その声は、さっきまでの冷徹さとは別人のように優しかった。
胸が熱くなる。
「……あの、」
ゆきは勇気を振り絞った。
「あなたの……名前、教えてください」
あの人は一瞬だけ目を見開いた。
その表情は、驚きと、どこか戸惑いが混ざっていた。
しばらく沈黙が落ちる。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「……篠原迅」
ゆきはその名前を胸の中で何度も繰り返した。
そして、震える声で言った。
「……じん、さん……」
その瞬間、迅の表情がわずかに崩れた。
誰にも見せたことのない、柔らかい顔。
ゆきは息を呑む。
迅はゆきを見つめたまま、静かに言った。
「……その呼び方、許すのはお前だけだ」
その声は、氷が溶けるように柔らかかった。
ゆきの胸は、熱く、痛いほどに締めつけられた。
怖い。
でも、それ以上に――
この人の優しさが、忘れられなかった。
*****
冬の夕暮れは、街を静かに沈めていく。
川沿いの遊歩道には、冷たい風が吹き抜け、枯れた草がかすかに揺れていた。
その少し離れた場所――
街灯の下に、四人の男が立っていた。
金髪に豹柄ジャケットのカズ。
黒パーカーにピアスをじゃらつかせたユウタ。
スーツ姿で煙草をくゆらせるシンジ。
そして、黒いロングコートにオールバック、無駄に威圧感のあるタケル。
タケルは迅の熱狂的な信奉者だ。
迅の言葉は絶対、迅の判断は完璧、迅の美学は世界の中心――
そんな危ういほどの忠誠心を持っている。
「……なあ、マジでやるの?これ」
カズが寒さに肩をすくめながら言った。
「若頭に言われたんだろ。“三浦ゆきを見張れ”って」
ユウタがポケットに手を突っ込んだまま答える。
「いや、それは分かってるけどさ。
なんで俺らが女子高生の見張りなんだよ。
もっとこう……敵対組織の動きとか、そっちじゃね?」
シンジが煙草をくゆらせながら、低く言った。
「文句言うな。
若頭が動くってことは、それだけ重要ってことだ」
「重要……ねぇ」
カズがぼそっと言う。
その瞬間、タケルが鋭い目で睨んだ。
「おい。
若頭の判断に文句つける気か?」
カズはびくっと肩を跳ねさせた。
「つ、つけてねぇよ……!」
タケルは鼻で笑う。
「若頭が守れと言ったなら、守る。それだけだ。
理由なんて必要ない」
ユウタが小声でカズに囁く。
「ほら出たよ、タケルの若頭教……」
「聞こえてるぞ」
「すみませんでした」
タケルの圧に、ユウタは即座に謝った。
シンジはため息をつき、煙草を消した。
「……まあ、タケルの言うことも一理ある。
若頭があの子を気にしてるのは事実だ」
「それが納得いかねぇんだよ」
タケルが吐き捨てるように言った。
「なんであんな地味な女が、若頭に特別扱いされてんだ」
カズとユウタが同時に固まる。
(言った……!)
タケルは続ける。
「若頭は完璧だ。
女を見る目も完璧であるべきだ。
なのに……なんだあの子は。
華もない、強さもない、ただの女子高生じゃねぇか」
シンジが低く言った。
「タケル。
その口の利き方はやめろ。
若頭が聞いたら殺されるぞ」
「若頭は聞かない。
あの子のことで頭がいっぱいだからな」
タケルの声には、嫉妬と苛立ちが混ざっていた。
そのとき、遠くから制服姿の少女が歩いてくるのが見えた。
三浦ゆき。
カズが目を細める。
「……来たぞ」
ユウタがフードを深くかぶり直す。
「今日も地味だな」
「お前、声でかい」
シンジが低く叱る。
ゆきは四人の存在に気づかず、ゆっくりと歩いていく。
マフラーをぎゅっと握りしめ、寒さに肩をすくめながら。
その姿は、どこか儚くて、守りたくなるような雰囲気をまとっていた。
タケルが鼻を鳴らす。
「……あれのどこがいいんだ。
若頭の隣に立つ器じゃねぇ」
カズが小声で言う。
「でもよ……なんか、普通にいい子そうじゃね?」
「お前は黙ってろ」
タケルの一喝で、カズは口を閉じた。
シンジはゆきの背中を見つめながら、静かに言った。
「若頭は、あの子にだけ優しい。
それが気に入らないやつも多い。
だからこそ、俺らが守る必要がある」
タケルは舌打ちした。
「守る必要なんてねぇよ。
若頭の足を引っ張るだけだ」
ユウタが呆れたように言う。
「お前、嫉妬してんの?」
「してねぇ!」
タケルは即答したが、その声はどこか焦っていた。
四人はゆきの後ろを、距離を保ちながら歩き始めた。
ゆきは気づかない。
ただ、夕暮れの河川敷を歩いているだけ。
だが、舎弟たちは知っている。
この子が泣けば、若頭は壊れる。
この子が傷つけば、若頭は狂う。
だから――
守らなければならない。
たとえ文句を言いながらでも。
***
ゆきは橋の上で立ち止まり、川を見下ろした。
冬の風が髪を揺らし、頬を刺す。
「……じんさん、今なにしてるんだろ」
その声は小さく、風に溶けていった。
タケルが眉をひそめる。
「……じんさん、だと?
若頭をそんな呼び方で……」
カズが慌ててタケルの口を塞ぐ。
「おい!聞こえるって!」
「聞こえていいんだよ。
あの子が若頭を呼び捨てにしてるのが気に入らねぇ」
「呼び捨てじゃねぇよ、“さん”ついてるだろ」
「そういう問題じゃねぇ!」
タケルの声は怒りで震えていた。
シンジが低く言った。
「……静かにしろ。
誰か来る」
ゆきの前方から、派手なコートを着た女性が歩いてきた。
長い髪を巻き、ヒールを鳴らしながら近づいてくる。
ゆきよりずっと綺麗で、強そうで、近寄りがたい雰囲気をまとっていた。
舎弟たちは一瞬で緊張した。
「……誰だ、あれ」
「見たことねぇ女だな」
シンジが目を細める。
「いや……噂で聞いたことがある。
迅さんの仕事を手伝ってる情報屋だ」
タケルの顔が歪む。
「若頭の女か?」
「違う。
若頭が一番嫌うタイプだ」
ゆきは女性に気づき、立ち止まった。
女性はゆきを見て、冷たい笑みを浮かべる。
「あなたが……三浦ゆき?」
舎弟たちは物陰から見守る。
カズが焦った声で言う。
「どうする?止めるか?」
ユウタが首を振る。
「若頭の指示は“見張れ”。
“介入しろ”じゃない」
「でもよ……」
タケルが低く言った。
「……若頭が来る」
その瞬間、空気が変わった。
風が止まり、世界が静まり返る。
ゆきの背後から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
舎弟たちは一斉に姿勢を正した。
「若頭……!」
迅が現れた。
黒いコートが風に揺れ、整った顔立ちに影が落ちている。
その目は、氷のように冷たかった。
タケルは息を呑んだ。
「……若頭……」
その声には、恐怖と崇拝が混ざっていた。
迅はゆきの頬の赤みを見た瞬間、表情を変えた。
怒り。
焦り。
そして、壊れそうなほどの苦しさ。
舎弟たちは息を呑む。
「……若頭、マジで怒ってる」
「やべぇ……」
「誰か止めろよ」
「無理だろ。
あの顔の若頭に近づいたら殺される」
タケルだけは、別の意味で震えていた。
「……若頭が、あの子のために……」
その声は、嫉妬で濁っていた。
***
冬の夕暮れは、空の色をゆっくりと変えていく。
川沿いの遊歩道には、冷たい風が吹き抜け、枯れた葦がかすかに揺れていた。
三浦ゆきは、マフラーをぎゅっと握りしめながら歩いていた。
静かで、広くて、どこか心細い場所。
でも、ここに来れば――
あの人の影を感じられる気がした。
「……じんさん」
名前を呼ぶだけで、胸が熱くなる。
でも同時に、不安もあった。
私はただの女子高生。
じんさんは、危険な世界の人。
「……私なんかが、そばにいていいのかな」
そんなことを考えながら歩いていると、
前方にひとりの女性が立っているのが見えた。
長い髪を巻き、派手なコートを着た大人の女性。
ゆきよりずっと綺麗で、強そうで、近寄りがたい雰囲気をまとっている。
女性はゆきを見つけると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「あなたが……三浦ゆき?」
ゆきは驚いて立ち止まった。
「……はい。あの、どなたですか」
女性は笑った。
けれど、その笑みは冷たかった。
「私はね、迅さんの仕事を手伝ってるの。
情報屋って言えば分かる?」
ゆきは息を呑んだ。
迅さん――
この人は、じんさんの世界の人だ。
女性はゆきを上から下まで見て、鼻で笑った。
「……ほんとに、あなたなのね。
若頭が守ってるって噂の子」
胸がざわつく。
昨日の不良たちと同じ言葉。
でも、この人の声はもっと鋭くて、もっと痛かった。
「あなたみたいな子が、迅さんのそばにいるなんて、信じられない」
ゆきは唇を噛んだ。
「……私だって、信じられません。
でも、じんさんは……」
言いかけて、はっとした。
“じんさん”と呼んでしまった。
女性の表情が一瞬で変わった。
「……じん、さん?」
ゆきは後ずさる。
女性はゆきの腕を掴み、顔を近づけた。
「あなた、迅さんをそんな呼び方で呼んでるの?」
「ち、違……」
「違わないでしょ。
あの人が、そんな呼び方を許すわけないのに」
女性の目は嫉妬と怒りで濁っていた。
「あなたみたいな子が……!」
ぱん、と乾いた音が響いた。
ゆきの頬に、強い痛みが走る。
叩かれた。
ゆきはよろけ、地面に手をついた。
「……っ」
涙が滲む。
痛い。
でも、それ以上に――
心が痛かった。
「迅さんは、私のものよ。
あなたなんかが触れていい人じゃない」
その瞬間だった。
空気が変わった。
風が止まり、世界が静まり返る。
「……誰が、触れていいって?」
低い声が背後から響いた。
ゆきは振り返る。
そこに立っていたのは――
篠原迅だった。
黒いコートが風に揺れ、整った顔立ちに影が落ちている。
その目は、氷のように冷たかった。
女性は青ざめた。
「じ、迅さん……これは……」
迅はゆきの頬の赤みを見た瞬間、表情を変えた。
怒り。
焦り。
そして、壊れそうなほどの苦しさ。
「……誰が、ゆきに触れた」
女性は震えた。
「ち、違うの。
私はただ、あなたを思って……」
「思って?」
迅の声は静かだった。
静かすぎて、逆に恐ろしかった。
「俺の前で、その言葉を使うな」
女性は後ずさる。
そのとき、少し離れた場所で舎弟たちがひそひそと囁いていた。
「……若頭、マジで怒ってる」
「やべぇ……」
「タケル、顔色悪いぞ」
「当たり前だろ……若頭が、あの子のために……」
タケルの声は、嫉妬で濁っていた。
迅は女性に一歩近づいた。
「二度と、ゆきに触れるな。
視線も、言葉も、近づくことすら許さない」
女性は震えながら逃げていった。
ゆきはその場に座り込んだまま、震えていた。
迅はゆきの前に膝をつき、そっと顔を覗き込んだ。
「……痛かったか」
「……じん、さん……」
その声は震えていた。
でも、確かに届いた。
迅は息を呑んだ。
「お前が呼ぶと……名前が、違って聞こえる」
ゆきの目に涙が溜まる。
「私……じんさんが怒るほうが、つらいです……」
迅はゆきの頬にそっと触れた。
その手は驚くほど優しかった。
「……ゆき」
「はい……」
「俺のそばにいる覚悟はあるか」
ゆきは震えながらも、はっきりと答えた。
「……あります。
じんさんの優しさを知ってるから」
迅は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
そして、ゆきをそっと抱き寄せた。
「……もう離さない」
その声は、甘くて、危険で、どうしようもなく優しかった。
ゆきは目を閉じ、その温度を受け止めた。
怖い。
でも、それ以上に――
この人の優しさが、胸に沁みた。




